それからしばらくしてチョータは退院した。
様々な手続きを終えて、児童相談所の職員と一緒にアパートに戻って来たチョータを玄関先で出迎える。
「おう、お帰りぃ」
「え? オータ?」
呆然と俺と隣にいる母さんを順番に見るチョータ。人んちだけど、とっとと入れと促す。
「……今日、学校じゃなかったっけ?」
「ん? あー、オフィシャルに休みをもらった」
指先を母親に向けると、「人を指ささない」と注意された。ええ、ごもっとも。
自分の家に二週間ぶりに戻って来たチョータは、中に入って驚きに足を止める。
そこは俺とヨーコさんでちょっとずつ片付けて綺麗にしたおかげで、見事にあの屑の痕跡が消えた部屋が広がっていた。
「……一応、あいつの私物はヨーコさんがお店の倉庫で保管しておくってさ。んで、新しいテーブルは常連客が持ってきたやつ」
元々置いてあったちゃぶ台は、たぶんあの屑が壊したんだろう。足がぽっきり折れていた。いったいあの不安定なちゃぶ台でどうやって飯を食ってんたんだよ、チョータ。
代わりに置かれたテーブルの上には、退院祝いの食事が並んでいる。
昨日のうちにヨーコさんに託されたスナック・ヨーコの看板メニューのおばんざいたちと、俺と母さんが仕上げた揚げ物やパスタ、ピザなどのカロリー爆弾。あとは冷蔵庫にケーキも忍ばせてある。
「さ、主役が部屋に戻って来たんだから、食おうぜ」
ぱんっと肩を叩くと、チョータがうっと詰まった。なんだ? 感動か?
「こら、旺太。朝大君は怪我したばっかりでしょう」
「あ、そうだった」
ちょっとテンションを上げ過ぎてた。
「いや、大丈夫、です」
ちょっと涙目で応えるチョータ。おう、母さんがいるからちょっと緊張してるのかな。
母さんもそれを感じ取ったのか、ふっと笑って「私は食べ物を運ぶのを手伝っただけだから」と言って玄関へと歩き出した。
「帰るの?」
「うん。その方がゆっくり話せるでしょ?」
「いや、ほぼ毎日見舞い行ってたからそんなに話すこともないし、食べ物いっぱいだし」
「残り者は冷蔵庫に入れておけば朝大君の明日のご飯になるでしょ。それにお母さん、お邪魔虫になるつもりはないわ」
「え……は!?」
俺が驚いている間に三和土に下りて、靴を履いてさっさと扉をあける母さん。
どういう意味か聞き返す暇もない。っていうか、聞き返したらよくないような気もする。
「あ、あの、ありがとうございます! それから、旺太君を巻き込んですみませんでした」
チョータが勢いよく頭を下げる。腹、痛いだろうに。そんなことしなくてもいいのに。
母さんが扉から手を放し、俺の隣で頭を下げたままのチョータの肩を優しく叩いた。
「朝大君が悪いわけじゃないから。それに、巻き込んだって言うか、きっと旺太のことだから、自分で飛び込んで行ったんでしょう。気にしないで」
その言葉にチョータはおずおずと頭を上げる。母さんはちらっと俺を見て微笑んだ。
「私が全然家にいられない間、旺太のことを守ってくれてありがとう。この子、無自覚だから大変だったでしょう?」
「あー、まぁ、大丈夫です」
「え? なに? 何のこと?」
「こんな感じだから。これからもよろしくね」
「はい」
母さんはチョータの肩をもう一度ぽんっと叩いてから、再び扉へと手を伸ばし「ゆっくり楽しんで。じゃ」と言って帰って行った。
いったい何の話だったんだろう?
横に立つチョータを見上げる。靴履いてないとなんかさらにでかく感じる。
「何のこと?」
「あー……オータはヨーコさんと知り合った時のこと覚えてる?」
突然何の話だろう。玄関から離れてテーブルの料理を一つ一つ嬉しそうにのぞき込みながら、チョータがチラリと俺を見る。
「公園にヨーコさんが突然来たのは何となく記憶にある」
たぶん、俺たちが出会って一年くらいしたころ。チョータはもう中学生で、俺はまだ小学生。なかなか来ないチョータを待つ日が多かった。
「まぁ、そうだよな」
そう言てチョータはクッションの上に腰を下ろし、「おお、柔らかい」と言った。「それは夜職の姉ちゃんからの贈り物」と俺が言うとちょっと微妙な顔になる。
箸を手にしたチョータにちょっと待てと止めて、冷蔵庫からジンジャーエールとお茶を持ってくる。
「乾杯だろ、乾杯」
「んな大げさな」
「いいから」
無理矢理グラスを持たせて、そこに勢いよくジンジャーエールを注ぐ。爽やかな音と弾ける泡。古いクーラーしかない安アパートにいると、最高の飲み物だ。
「おっし。んじゃ、チョータの退院を祝って、乾杯!」
「乾杯」
チョータはジンジャーエールを一気に飲み干し、小さくゲップして晴れやかに笑う。
「うま?」
「うま」
俺が追加のジンジャーエールを注いでいる間に、チョータはどれから食べるか散々迷って、ヨーコさんのおばんざいの中から高野豆腐の煮つけを取る。
退院して最初がそれか。まぁ、いいけど。俺は箸を一直線にフライドポテトの山に突っ込んで取り皿に流し込む。
「で? 話の続きは?」
「あー、まぁ、さ。小さい頃のオータはクソ可愛かったんだってこと」
「は?」
フライドポテトを一本、口に咥えたまま首を傾げる。
チョータはスマホをいじって俺の顔の前に突き出した。
そこに映っているのは、小学校六年の頃、ヨーコさんのところであった納涼イベントの時の俺だ。
金魚すくいゲームではしゃいで、顔が赤くなって、目がキラキラして……まぁ、ぶっちゃけ可愛いらしい。以前ほどではないけれど、長めに伸びた髪のせいでボーイッシュな女の子に見えなくもない。
「夕方から夜の公園に一人置いておくには危なくて。実際、何回か変なおっさんに声かけられただろ?」
「んー? そうだっけ」
記憶にない。そんな俺にチョータは呆れたようにため息を吐いた。
「ヨーコさんが声をかけてきた時もさ・・・・・・オータにしつこく触ろうとしてきたジジイがいて、ヨーコさんが追い払ってくれたんだよ。夜まで公園にいるのは危ないってヨーコさんに叱られたの、本当に覚えてねえ?」
「……あったような、気もする」
いつの間にかヨーコさんのところが俺たちの遊び場に変わった。あれはそれがきっかけだったのか。
ぼんやりとしか覚えていない。
自分の顔がコンプレックスだったし、それが原因で変な奴を引き寄せるならなおさら母さんには言えなくて。だから自分の記憶の奥底にしまって、忘れたんだろう。
俺がますます顔を隠すようになったのも、たぶんそのあたりだ。
「俺も陰ながら注意はしてたけどガキには限界があるし。俺の家には呼べねえしな。つまり、オーママさんはオータのことが大事だってことだ」
「おい、無理矢理話を終わらせるなよ」
話が繋がってねえだろ。
そうか。母親がヨーコさんと繋がったのもそのころなのか。
ずいぶん前から俺のことを気にはしてた。でも出さない。不器用すぎて笑える。
今、気づいていなければ、ずっと気づかないままでいたかもしれない。
チョータがスマホをテーブルに置くのを見て、ふと気がつく。
「おい、なんでそんな昔の写真持ってんだよ。俺も持ってねえぞ」
「ヨーコさんにもらった。めっちゃ可愛いオータ」
「やめろ。お前が今度は変態爺になるぞ」
「大丈夫。オータだけだから」
「なっ」
馬鹿なこと、言うんじゃねえ。
そう言おうとして、ポテトのカスが喉に引っかかって盛大にむせる。
チョータが差し出した麦茶を奪って、勢いよく飲み干す。
俺だけって……俺だけ、ならいいのか?
え? でも俺だけ? それって、そういう意味? いや、え?
混乱する俺をよそに、チョータはニカリとやや日焼けが薄くなった頬を上げて笑い、唐揚げにかぶりつく。小さく「うめっ」と呟いた。
おう、昨日からニンニクとショウガで漬け込んで、朝一度揚げて、ここに来る前にもう一回揚げた最高に手が込んだ唐揚げだ。
味わって食え。
「ケーキもあるからな」
「お、マジ? チーズケーキ?」
「と、ショートケーキとチョコとムース」
「うっわ。贅沢すぎん? 俺、定期的に入院するかな」
「おう。次にそれやったらパイ投げのパイを顔面に塗り込んでやる」
「……やめときます」
しょんっと眉を下げるチョータに大笑いする。
あー、もう、いいか。とりあえず今日はチョータの退院祝いだ。他のことはまた話そう。
俺も、チョータに伝えたいことがいっぱいあるから。
