――いた。
特別教室がある棟へとつながる渡り廊下。
いつも通り、ガタいと顔の良い連中が集まっている。
その中でチョータは壁に寄りかかって立っていた。短かった髪が伸びて、ワックスで固めずに自然に流している。
痩せた? あれからあまり家に帰ってないみたいだとヨーコさんから聞いた。
店に来たら何か食べさせてあげるからとヨーコさんはいつもチョータに言っていた。でもそうはしなかったんだろうな。
迷惑を掛けたくないから。
右腕には作業用アームカバーみたいなのをつけてる。
そうだよな。あれからもう一ヶ月。あの日に描いた人魚はとっくに泡のように消え去っている。
「チョータ」
「……オータ」
チョータが俺を見て両目を見開く。髪を切って、眼鏡をはずした俺に驚いて。
朝から周りの視線を浴びてきた。
ここでも、チョータのダチたちが「お? 誰?」「初めて見る顔」「チョータってトモヒロのこと?」とか言ってる。でもそんなのもう気にならない。
チョータがいつまでもウジウジしてんなら、俺からそれをぶち壊してやる。
「座れよ」
「オータ」
「いいから」
手を取り、下に引く。
あたりをちょっと見て「ここじゃ」と言いかけたのをねじ伏せる。
「もういいだろ」
「え?」
「お前が悪いんじゃねえってこと」
無理矢理座らせて、アームカバーを引っぺがす。そしてチョータの肌を見て、驚きに目を見開いた。
そこには前はなかったはずの赤い痕が一つ、増えていた。
隣にいた奴が「まじか」と呟くのが聞こえた。
咄嗟に隠そうとするチョータの手を捕まえ、地面にトートバッグの中身をばらまく。
いつも通りの油性ペンと、いくつかのボディペイント用マーカーだ。
「それ」
「動くな」
手をがっしり掴み、腕を足で挟んで固定する。
何が始まるんだと、チョータのダチ以外にも周囲を行きかう生徒たちが足を止めた。
「オータ」
「お前、一人になるなよ。俺を巻きこめ」
「……怪我、させたのに?」
「お前じゃねえだろ。あの屑だ」
まずは使い慣れたペンで縁取りを描いていく。
今日、何を描くかは決めていた。
一つ増えてしまった痕はどうにでもなる。
他の痕ももう十年以上絶って薄くなっているものもある。誰にでもある、やんちゃな子供の頃の傷跡と同じ。気にし過ぎなんだよ、チョータ。
ペンを素早く動かして、次にボディペイント用マーカーで色を散らしていく。
ざわざわと「あいつが描いてたの?」「誰? 一年?」とか声がする。
チョータの指先が逃げるように動いて、俺はぐっと力を込めた。
今は雑音なんて気にしていられない。手を動かすスピードは変わらない。
「チョータ、俺、母さんと話した。絵のこととか、コンプレックスのこととか」
ちらりとチョータを見てまた視線を下げる。
休み時間は残り少ない。夏休み中に練習してきた絵を描くには、十分はかかる。使い慣れないボディペイントマーカーを動かし、チョータの日焼けした腕に色を乗せていく。
敵を射貫く爬虫類の目、輝く鱗と、鋭い鍵爪、そして握りしめられた星。
赤く、燃えるように光り輝くたった一つの一等星。
「……オータ」
「俺は、チョータと離れるのは嫌だ。絶対に」
絡めた指先に力を込める。
分かれよ、バカ。
あの日から、ゾウの腹の中で出会った日からずっと一緒にいた。
学校が違っても、学年が違っても、ずっと。
俺たちはそうやってこれからもいくんだと思っていた。
でもお前の親は屑で、俺の親はマトモだった。
その違いがお前を遠ざけるのなら、俺はお前を追いかけるよ。
今ならば母さんはきっと理解してくれるだろうし。
ズッと洟を啜る音がした。
はらはらとチョータの日に焼けた頬を涙が伝う。
「ばーか。泣き虫」
「泣いてねえ」
左手の甲で両目を乱暴に拭う。でも目は潤んだまま。
チョータの突然の涙に周囲が騒めいている。
「ほら、できたぞ」
きゅっとチョータの手を強く握って離す。
ばらまいたペンを適当にトートバッグに詰め込んで立ち上がる。
いつもは上にあるチョータの頭を乱暴にかき回す。ワックスをつけていない髪は意外とさらさらだった。
「お前が逃げても、俺は関りに行くからな。覚悟しとけ」
そう言ってトートバッグの中から紙の束を引っ張り出す。
夏休みの間中、調べまくった奨学金や親のいない子供への支援制度だ。
きっとチョータの役に立つ。
「チョータ、来年の四月には十八だろ。成人したらあの屑から解放されるんだから、早めに準備しとけよだ」
ニヤリと笑う。
チョータは俺を眩しそうに見上げた。
まだ少し顔が赤い。その顔を見ていると鼻の奥がツンとして、俺は体の向きを変えた。
周囲にいた生徒がおずおずと道を開ける。んだよ、猛獣じゃねえぞ。
好奇の視線を浴びながら渡り廊下から建物の中に入る。
チョータのダチが「すげえな、腕!」とでかい声で叫ぶのが後ろから聞こえた。
