帰り道は、無言だった。
夏休み中のバイトの話も、金がどれだけ溜まったかとかもなく。
「それじゃ」
公園の前で、いつものように立ち止まる。
見上げると、街灯の明かりが透けてツンツンなチョータの髪の先がイソギンチャクの先っぽみたいに淡く光る。
つい手を伸ばして高い位置にあるチョータの頭を撫でた。
俺の突然の行動に、チョータの鋭い目が大きくなる。
「……なに?」
「なんとなく」
「なんだよ、それ」
ふはっと顔をくしゃくしゃにしてチョータが笑う。
そう、それでいい。少しは肩の力を抜いて過ごせばいい。
そんな俺たちの耳に、ザッと足音が届いた。
顔を上げ、チョータの大きな体越しに音が聞こえた方へ向ける。
「……チョータ、スマホだせ」
小さな声で言って、相手がまだこちらに気付く前に体の影でチョータからスマホを受け取る。
「オータ、行け」
「でも」
「明日、朝、スマホ取りにくるから。ここで」
「分かった」
頷いて体の向きを変える。
こっちが動いたからか相手が顔を上げ、チョータを見つけて、ぐにゃりと口元を歪めたのが見えた。
「おー、でかいゴミがいると思ったら、トモくんじゃねえか」
ねちっこい男の声が聞こえた。
「行け」
男と似たようなチョータの声。だけど根本的な音が違う。
奥にある信念とか、誠実さとか、そういうものが。
踵を返して公園の中に駆け込む。
「あれー、オトモダチ、いいのぉ?」
背中に声がかかった。でも振り向かない、立ち止まらない。
そうしないとチョータに迷惑がかかる。俺がいることで、チョータが逃げられなくなる。
ザザッと公園の反対側の出口を飛び出し、角を曲がる。
壁にはりついて十、数える。
噴き出た汗が背中を流れ落ちて不快だ。
「……九、十」
握りしめたチョータのスマホをトートバッグの中に入れる。
代わりに自分のスマホを取り出して、ヨーコさんのLINEトーク画面を開く。
前回ヨーコさんが「ナス持ってきな」というメッセージと妖怪ババアのスタンプが出てきて、こんな時なのになぜか頬が緩んだ。
フリックで素早く「公園にあいつが来た」と送る。
助けが欲しいわけじゃない。あいつを刺激するのは良くないから。でも何かがあった時に俺たちの状況を知っている人がいて欲しい。ただ、それだけ。
ゆっくりと息を吐いて、公園の外側を回る。
もうあの二人は家に戻ったんだろうか。家の外から様子を伺って、もしチョータが暴力を振るわれているようだったら警察を呼ぶ。あいつがいなくなっているんだったら、外から声をかけてみる。
自分がすべきことを決めてゆっくり、気配を殺して歩く。
ダラダラと落ちる汗が鬱陶しい。
「なー、金くれよ、金」
「ない」
「あんだろ? いっしょーけんめ一頑張ってるらしいじゃねえか、バイト。いじらしいねぇ。俺が美味いもん出す店、連れてってやるよ。ガキがいけねえようなとこによ」
「行かない」
チョータの肩に右腕を掛け、もたれるようにして歩く男。屑の極み。
左手には火がついたままのタバコ。
チョータが、タバコが嫌いな原因。
「あーあー、詰まんねえの」
タバコを吸って、煙をチョータの顔にかける屑。
チョータが顔を伏せた。必死でむせるのを我慢してるんだ。前にむせたらそれがむかつくってボコられたから。
でもむせもせず、反応を全く見せないチョータに屑は逆にイラついたらしい。チッと舌打ちしてチョータの右腕を覗き込む。
嫌な予感。そこに並ぶ赤い痕が目に浮かぶ。
「格好いい腕しちゃって。なぁ……もっと格好よくしてやろか?」
ぞくりと暑いのに背筋が震えた。汗が一気に冷える。
チョータ、逃げろ。そんなヤツに構うな。
チョータ、何やってる? だめだ。お前はもう弱くないんだ。
口に咥えたタバコを、奴が指の間に挟む。
チョータの肩から腕を外して、奴がにやりと笑う。
汚らしい歯が、暗闇の中で歪に光る。
ゆっくりとタバコがチョータの腕に近づいて行く。
駄目だ。駄目だ――!
「やめろ!」
声と同時、地面を蹴って走り出す。
体重を乗せ、背は高いのにスッカスカな奴の胴体に飛びついた。ぽろりと落ちたタバコが転がっていく。
素早く起き上がって、タバコを足でもみ消す。
「チョータ、逃げろ!」
呆然と地面を見下ろすチョータに向かって叫ぶ。
びくりと体を震わせるだけで固まったままのチョータ。
その腕を捕まえて逃げようとした瞬間、俺の足が強い力で掴まれた。
「うっわ!」
「っざっけんな、クソガキ!」
顔面を咄嗟にかばう。
半袖からむき出しの肌がアスファルトに削られた。
続けてドゴッと鈍い音。
遅れて、衝撃がお腹に奔る。
蹴られたんだと理解したのは、屑が再び足を振り上げるのが見えたから。
ガツンッという音が耳横でした。キイーンと耳鳴りが響く。
「う、あぁ」
痛い。うめき声をあげて頭に触れた次の瞬間には、足を踏みつけられる。
暴力の振るい方に慣れている。頭、体、足――それぞれ傷む場所をかばおうとするたびに、別の場所が標的になった。
「ぐっ、う!」
吹っ飛ばされた先、コンクリブロックに体が叩きつけられる。
「は、軽い軽い。お子ちゃまだなぁ」
チョータに似た声がせせら笑う。
見上げれば、街灯の中に浮かび上がるチョータに似た長身。
チョータに似た目が俺を見下ろして、あざけるように歪む。
屑がまた足を浮かせた。来るだろう衝撃から自分を守るために体を丸める。
直後――
「んなぁにやってんだよ、あんたぁ!」
元気なヨーコさんの声が響いた。
バタバタと明らかに七十近いヨーコさん以外の足音が聞こえる。頼りになりそうな客を引き連れて来たんだろう。
チッと舌打ちが上から降ってくる。
ほっと力を抜いた瞬間、どんっと体が跳ねた。
「しゃーねーな。じゃあな、チビちゃん」
体が地面に落ちる。その衝撃で屑の声ははっきり聞き取れなかった。
ヨーコさんの怒鳴り声と、数人が屑を追う足音。その中にチョータの声はない。
どこか切ったのか、だらだらと目に血が流れ込んでくる。
ゲホゲホと咳き込んで、上を見上げる。
ぼんやりと霞む街灯の中、あの屑に似たシルエットが浮かぶ。
「ちょーた」
ゆらりと大きな体が揺れた。
あー、血が邪魔だな。そんなことを考えながら、もう一度「ちょーた」と名前を呼んで、手を伸ばす。
大きな体が光の中から抜け出して、どさっと俺の横に膝をついた。
「ちょーた、ぶじ?」
はっと息を飲む音。ふるふると子供のように首を振るチョータ。
「おーた、ごめん」
揺れる目も、がっしりした体も、低い声も。あの屑に限りなく近いのに、違う。
チョータだ。全て、チョータだ。あの屑じゃない。
俺の手を握るチョータの手が震えている。
「ばーか」
馬鹿だな。お前が謝ることじゃねえよ。あの屑が全部悪いんだから。
「あんた、酷いことになって……救急車呼んだからね。すぐ来るから」
「ん」
救急車って大げさだな。ああ、母さんになんて言い訳しよう。
ちょっと戸惑いつつヨーコさんを見ると、「あんたの母親には連絡しとくから」と言われた。
いつのまに繋がってたんだろう。疑問に思うけど、今は口を開くのも面倒だ。
お腹も痛いし、口の中がじゃりじゃりするし。頭も痛い。
でも唯一、チョータが握っている手が熱くて、いつまでも地面に転がっていたかった。
そんなわがままは救急車の到着と共に終了となってしまった。
バタンッと救急車の扉が閉まる時、赤いランプの中に佇むチョータの顔は良く見えなかった。
それだけが、どうしても気になった。
