赤、黄色、白、青――色とりどりの花が咲いている花畑で鎧姿の騎士に抱き着く。その感触は固く、冷たい。
「王女殿下――」
「そんな他人行儀に呼ばないで。名前で呼んで」
「エスメラルダ様。私は貴女には相応しくない」
「そんなことはありません! 私には貴方しかいないのです!」
頬に温かいものが伝う。この人から身も心も離れたくない。そんな感情までもが芽生える。
「貴女は明日には隣国の王太子妃だ。私には、もう……」
「ここから逃げましょう? まだ時間はありますから」
「どうやって? 行く当ては?」
「それは……」
逃げる方法も行く当ても思いつかず、小さく首を振る。
騎士は微笑み、私の瞼に唇を落とす。
「貴女に出会えた。私はそれだけで十分だ。貴女は隣国へ行く。私はこの地で果てよう。それもまた運命」
運命なんてこの世に存在しない。そんなものがあるのなら、こんなに残酷なものか。愛する者同士が結ばれない運命なんて、私は認めない。
それをこの人は認めるのだろうか。心の奥にあった悲しみは静かに絶望へと変わっていく。
「それなら、私は命を賭してこの世界を呪いましょう。貴方のいない人生なんて必要ない」
「エスメラルダ様――」
「それが嫌なら、今、この場で私を殺しなさい」
もしもの時のために、王家秘蔵の魔導書を読んでおいてよかった。心にどす黒いものが流れ、私を闇に沈める。広げた両手には魔法陣が浮かび上がり、大地に根付く草花が枯れていく。
「エスメラルダ!」
* * *
はっと瞼を開ける。私はエスメラルダなんかではない。ただのオフィーリア――そう、昨日までは。
十八の誕生日に、左手の甲に謎の魔法陣が現れたのだ。その瞬間、誕生日パーティに集った町の人たちは私にひれ伏した。何度、洗っても擦っても魔法陣は取れはしない。私がそうであるはずがないのに。呪われた聖女だなんて。
この世界には伝承がある。『印を持つ者は悪を滅ぼす』と。それと同時に、『悪を滅ぼせば、己の身も滅ぼす』と。
皆の誤解を解くために手を翳すと、手の平からつむじ風が舞った。そんなはずがないと涙を流すと、足元から水が溢れ出した。それが根拠となり、私は聖女だと完全に祭り上げられてしまったのだ。
もう、この町にはいられない。朝日が昇る前に逃げるように荷物をまとめ、朝食も摂らずに部屋から飛び出した。
皆、寝静まっているだろう。凛とした空気が肌を刺し、上り始めた太陽に目を細める。
「オフィーリア!」
不意にかけられた声に、肩を震わせた。こんなに朝早くに誰が。と、考えるまでもない。私の幼馴染である、ノエルとリックスだ。ノエルはいつもと変わらずクールな顔で、茶髪を掻き上げる。リックスは呑気に腕を組み、にこっと笑った。その焦げ茶の長髪を風が靡かせる。
「二人とも、どうしてここに?」
「オフィーリアを監視してたんだ」
「町を出てくのかなってノエルと話してたら、やっぱりね」
私の考えは二人には筒抜けらしい。
「お母さんはいいのか? もう思い残すこともないのか?」
ノエルの言葉にぐっと口を結ぶ。母は私が聖女になってしまえば、一緒にいても落ち着かないだろう。昨日はずっと涙を流していたのだ。思い残すことだって、ありはするけれど――それよりも不都合なことの方が多い。私を放っておいてくれる人なんて、誰もいなくなってしまったのだから。
町に馴染む小麦畑や牛たちの牧場を一望すると、そっと目を伏せる。
「私、この町にはいられない」
「だよな」
リックスは分かっていたよと言わんばかりに大きく頷く。その横で、ノエルは小さく息を吐き出した。
「俺たち、オフィーリアの護衛隊になろうと思ってさ」
リックスは白い歯を見せると、私に手を差し出した。それも取らず、私は小さく首を傾げる。
「護衛隊? 何それ」
「オフィーリアの旅に意地でもついていく」
二人は私が気味悪くはないのだろうか。特別視もしていないのだろうか。
私が目を瞬かせていると、リックスは大きく笑った。
「ちょっ……静かに」
私は眉間にしわを寄せ、ノエルも口をへの字に曲げる。リックスは「ごめんごめん」と舌を出した。
「とにかく……オフィーリアが何て言おうと、俺たちは一緒に行くから」
一向に手を取らない私が不服だったのか、リックスは無理やり左手を握り締めた。その手は不気味な魔法陣が浮かんでいるというのに。
気がついた時には、リックスの横で草が火を伴って燻っていた。顔から血の気が一気に引いていく。
「駄目……!」
思わず叫ぶと、どこからか小さな滝のような水が降り注いだ。一気に鎮火し、ほっと胸を撫で下ろす。
「私といたら、どれだけ危険か分かるでしょ? 諦めて帰って――」
「絶対に帰らない」
それまでは聞き役に徹していたノエルが声を張った。二人の決意はもう揺るがないのだろう。
「……いつでも私を見捨てていいから」
それだけを呟くと、二人に、町に背を向ける。もう、誰が起きてきても遅くはない時間になっているだろう。一刻も早く町を去りたい。
「見捨てないよな」
「うん、絶対に」
小さく呟く二人の声が背後から聞こえた。
馬車に乗る勇気も持てず、町の名を掲げる看板の下をくぐる。リックスは私の手からトランクを奪い取った。
「……リックス! 何するの?」
「荷物なんて重たいだけだろ? 俺が持つよ」
いつの間にかノエルとリックスは私の隣に並んでおり、ノエルはうーんと両腕を伸ばす。
「こうやって、三人で旅行するのなんて初めてだよな」
ノエルのアイスブルーの瞳には、明るい未来が見えているのだろうか。私には見えなくなってしまったものだ。
「旅行じゃ……ないんだから」
私にとっては立派な逃亡だ。土道を踏み締める自分のつま先を見てみる。私の沈む心なんて、二人にはどこ吹く風のようだ。
「運がよければ野兎に会えるかもな」
ノエルとリックスはいつもの調子を崩すことはない。リックスなんて、緑の瞳を輝かせている。

「王女殿下――」
「そんな他人行儀に呼ばないで。名前で呼んで」
「エスメラルダ様。私は貴女には相応しくない」
「そんなことはありません! 私には貴方しかいないのです!」
頬に温かいものが伝う。この人から身も心も離れたくない。そんな感情までもが芽生える。
「貴女は明日には隣国の王太子妃だ。私には、もう……」
「ここから逃げましょう? まだ時間はありますから」
「どうやって? 行く当ては?」
「それは……」
逃げる方法も行く当ても思いつかず、小さく首を振る。
騎士は微笑み、私の瞼に唇を落とす。
「貴女に出会えた。私はそれだけで十分だ。貴女は隣国へ行く。私はこの地で果てよう。それもまた運命」
運命なんてこの世に存在しない。そんなものがあるのなら、こんなに残酷なものか。愛する者同士が結ばれない運命なんて、私は認めない。
それをこの人は認めるのだろうか。心の奥にあった悲しみは静かに絶望へと変わっていく。
「それなら、私は命を賭してこの世界を呪いましょう。貴方のいない人生なんて必要ない」
「エスメラルダ様――」
「それが嫌なら、今、この場で私を殺しなさい」
もしもの時のために、王家秘蔵の魔導書を読んでおいてよかった。心にどす黒いものが流れ、私を闇に沈める。広げた両手には魔法陣が浮かび上がり、大地に根付く草花が枯れていく。
「エスメラルダ!」
* * *
はっと瞼を開ける。私はエスメラルダなんかではない。ただのオフィーリア――そう、昨日までは。
十八の誕生日に、左手の甲に謎の魔法陣が現れたのだ。その瞬間、誕生日パーティに集った町の人たちは私にひれ伏した。何度、洗っても擦っても魔法陣は取れはしない。私がそうであるはずがないのに。呪われた聖女だなんて。
この世界には伝承がある。『印を持つ者は悪を滅ぼす』と。それと同時に、『悪を滅ぼせば、己の身も滅ぼす』と。
皆の誤解を解くために手を翳すと、手の平からつむじ風が舞った。そんなはずがないと涙を流すと、足元から水が溢れ出した。それが根拠となり、私は聖女だと完全に祭り上げられてしまったのだ。
もう、この町にはいられない。朝日が昇る前に逃げるように荷物をまとめ、朝食も摂らずに部屋から飛び出した。
皆、寝静まっているだろう。凛とした空気が肌を刺し、上り始めた太陽に目を細める。
「オフィーリア!」
不意にかけられた声に、肩を震わせた。こんなに朝早くに誰が。と、考えるまでもない。私の幼馴染である、ノエルとリックスだ。ノエルはいつもと変わらずクールな顔で、茶髪を掻き上げる。リックスは呑気に腕を組み、にこっと笑った。その焦げ茶の長髪を風が靡かせる。
「二人とも、どうしてここに?」
「オフィーリアを監視してたんだ」
「町を出てくのかなってノエルと話してたら、やっぱりね」
私の考えは二人には筒抜けらしい。
「お母さんはいいのか? もう思い残すこともないのか?」
ノエルの言葉にぐっと口を結ぶ。母は私が聖女になってしまえば、一緒にいても落ち着かないだろう。昨日はずっと涙を流していたのだ。思い残すことだって、ありはするけれど――それよりも不都合なことの方が多い。私を放っておいてくれる人なんて、誰もいなくなってしまったのだから。
町に馴染む小麦畑や牛たちの牧場を一望すると、そっと目を伏せる。
「私、この町にはいられない」
「だよな」
リックスは分かっていたよと言わんばかりに大きく頷く。その横で、ノエルは小さく息を吐き出した。
「俺たち、オフィーリアの護衛隊になろうと思ってさ」
リックスは白い歯を見せると、私に手を差し出した。それも取らず、私は小さく首を傾げる。
「護衛隊? 何それ」
「オフィーリアの旅に意地でもついていく」
二人は私が気味悪くはないのだろうか。特別視もしていないのだろうか。
私が目を瞬かせていると、リックスは大きく笑った。
「ちょっ……静かに」
私は眉間にしわを寄せ、ノエルも口をへの字に曲げる。リックスは「ごめんごめん」と舌を出した。
「とにかく……オフィーリアが何て言おうと、俺たちは一緒に行くから」
一向に手を取らない私が不服だったのか、リックスは無理やり左手を握り締めた。その手は不気味な魔法陣が浮かんでいるというのに。
気がついた時には、リックスの横で草が火を伴って燻っていた。顔から血の気が一気に引いていく。
「駄目……!」
思わず叫ぶと、どこからか小さな滝のような水が降り注いだ。一気に鎮火し、ほっと胸を撫で下ろす。
「私といたら、どれだけ危険か分かるでしょ? 諦めて帰って――」
「絶対に帰らない」
それまでは聞き役に徹していたノエルが声を張った。二人の決意はもう揺るがないのだろう。
「……いつでも私を見捨てていいから」
それだけを呟くと、二人に、町に背を向ける。もう、誰が起きてきても遅くはない時間になっているだろう。一刻も早く町を去りたい。
「見捨てないよな」
「うん、絶対に」
小さく呟く二人の声が背後から聞こえた。
馬車に乗る勇気も持てず、町の名を掲げる看板の下をくぐる。リックスは私の手からトランクを奪い取った。
「……リックス! 何するの?」
「荷物なんて重たいだけだろ? 俺が持つよ」
いつの間にかノエルとリックスは私の隣に並んでおり、ノエルはうーんと両腕を伸ばす。
「こうやって、三人で旅行するのなんて初めてだよな」
ノエルのアイスブルーの瞳には、明るい未来が見えているのだろうか。私には見えなくなってしまったものだ。
「旅行じゃ……ないんだから」
私にとっては立派な逃亡だ。土道を踏み締める自分のつま先を見てみる。私の沈む心なんて、二人にはどこ吹く風のようだ。
「運がよければ野兎に会えるかもな」
ノエルとリックスはいつもの調子を崩すことはない。リックスなんて、緑の瞳を輝かせている。

