■ (蒼也サイド視点)
「蒼也!!」
玲生の声が聞こえる。
振り返れなかった。
荷物を掴み、自転車を駐輪場に置いたまま、逃げるように学校を後にした。
部活がある。
だが、それどころではなかった。
右手に、さっき玲生の手首をつかんだ感触が、まだ残っている気がしていた。
(怖がらせた)
――どうすればよかったのか分からない。
人との距離が分からないのは、子供の頃からだった。
輪の中に入れず、いつも遠くから見ていた。
一人でボールを蹴って遊んだ。
身体が大きくなるにつれ、速く走れるようになった。
ボールを自由に扱えるようになっていった。
「才川は俺たちを見下している」
負けた試合の後、チームメイトが話しているのを聞いた。
俺がパスを出さずに、全部一人で行こうとしたから。
(そんなつもりないのに)
気持ちを言葉にできず殻にこもっていた俺の前に、ある日突然、玲生がやってきた。
「初めまして! 放送部の貝谷です。注目のエースだと聞いて、才川くんの取材に来ました!」
初めて会った玲生は笑顔で、楽しそうだった。
(なにがそんなに楽しいんだろう。ずっと笑ってる)
帰ってからも、玲生に聞かれたことが頭から離れなかった。
――サッカーを始めたきっかけは?
――楽しいときは?
紙に書き出せば答えられるかもしれない。
足元で、ベルが前脚をかけてきた。
「ベル、うまく答えられなかった」
玲生は、最後まで笑っていた。
だが、最初より元気がなくなっていくのがわかった。
翌日、放送部の部室まで行ったが、扉の前でしばらく立っていた。
何を言って渡せばいいのか考えていなかった。
ノートに書いた紙を渡すと、玲生の顔が、ぱっと輝くように明るくなった。
こんなに喜んでもらえるなんて思わなかったので、戸惑った。
玲生にカラオケに連れて行ってもらった夜。
ベッドに座り、玲生から届いた画像を開く。
白い歯を見せて大きな口を開けて笑う玲生。
二重まぶたの大きな目が、面白いものを見つけるたびにピカッと光る。
笑う前には目尻が下がって、驚くと丸くなる。
ベルがベッドへ上がってきた。
「ベル、今日、カラオケに行った」
ベルに、二人の画像を映したスマホを見せる。
ベルは伸びをするように前脚を伸ばし、スマホの端を踏んだ。
玲生の笑顔が、スマホの画面いっぱいに広がった。
まるで自分の今の心の中みたいに。
軽やかで朗らかで、いつも楽しそうな、眩しく輝く玲生。
試合中、玲生の声が聞こえるだけで、背中を押す風が吹いているように身体が軽くなったこと。
週に二回のお昼の放送も玲生の声。食べるのを止めて、放送に集中していること。
それなのに。
――バスケ部の一年、名前は知っている。1組の諸橋。
諸橋と話す玲生を見たとき。
人に対して感じたことのないどす黒い気持ちが湧き上がってきた。
話せるようになりたいなんて思わなければよかった。
思いを言葉にする練習なんてしなければよかった。
玲生のおかげで、気持ちを見つけ、言葉にできるようになった。
このつらさにも言葉という輪郭が与えられ、どういう気持ちなのかがわかる。
――後悔だ。
『蒼也といるのは楽しいよ。これからも毎日会って喋りたい』
そう、玲生が言ってくれたときは嬉しかった。
けれど、同時に気づいてしまった。
それだけでは足りないと思っていることに。
――玲生の特別になりたい。
誰にでも向ける笑顔ではなく、俺だけを見て笑ってほしい。
手をつなぎたい。抱きしめたい。
玲生にも同じ気持ちでいてほしい。
――そんなことを望んだから。
玲生は、俺が自分の気持ちを表す言葉を探す間、いつも待ってくれていた。
それなのに、俺は玲生の返事を待てなかった。
自分のものにしたくて、玲生の手首を掴んだ。
玲生の顔に、今まで見たことのない感情がうっすら浮かんでいた。
――恐怖だった。
その表情が、頭から離れない。
思いを言葉にすることを教えてくれた、一番大切な相手を怖がらせた。
こんなふうに傷つけてしまうのなら、もう玲生には近づかない方がいいのかもしれない。
