誰もいない家。玄関のドアの鍵を掛ける。静かな空間にガチャという音がいやに響いた。
おれは十歳の誕生日に家出した。おまじないから逃げるために。魔法使いの間で、あるおまじないを十歳になる誕生日の正午に行う伝統がある。それは痛くて怖いことだって魔法使いは皆知っている。誰もがおまじないの詳細な内容をぼかすので、どうせ碌なものじゃないだろう。一生の傷になるらしい。やらない子供もいるが、おれの両親は古い人間で、そのような慣習に対して厳格だった。
その傷によって明確に人間ではなくなる。当時のおれはなんとなく、そう感じた。おまじないをする際に与えられる直接的な痛みよりも、柊夜くんと同じでない永遠の証ができるのが嫌だった。
誕生日の朝、まだ両親の寝ている時間に家を出た。家出なんて初めてで、自分はとんでもない罪を犯しているんじゃないかと怯えていた。十二月の末に、上着一枚で外に飛び出したせいで寒い。荷物を持っていないし施設はどこも開いていないから取り敢えず公園まで歩いた。
公園のベンチに座りながら、今日はそういえばクリスマスだなと思った。おれの家にはクリスマスがない。誕生日とクリスマスが重なっているが、そのどちらも祝ったことがなかった。せめて冬休みじゃなかったら給食の時間に牛乳を乾杯するのに。おれの誕生日は昔から他の日と変わらないような日だ。この十歳の誕生日が初めて特別な意味を持っていた。最悪だよな。
世界に絶望したおれはベンチに寝転がった。汚れるからと普段ならこんなことはしないだろう。今はそういうことがもうどうでもよかった。
遠くでおれの名前を呼ぶ声がする。温かい。大好きな声だ。
「陽!」
目を覚ますと柊夜くんがいた。ということはおれはベンチでそのまま寝ていたんだ。濁りのない黒い瞳がおれをじっと見つめている。神様だ、と思った。最悪なときに現れてくれた。すごい。柊夜くんは神様なんだ。高揚して暑いのか寒いのか分からなくなる。
「なんでこんなとこにいるんだ。風邪ひくぞ」
柊夜くんにぽんぽんと肩を叩かれ、おれは身体を起こした。
「家出したんです」
息が白かった。耳が冷たい。はらはら軽い雪も降っている。
「家出!?」
おれの言葉を繰り返す柊夜くんのリアクションが面白くて、思わず笑った。
「柊夜くんこそ何してたんすか?」
「母さんに予約したケーキ取りに行くの頼まれて。ケーキ屋まで行く途中にここ通って、陽がいたからさ」
柊夜くんは家族とクリスマスを過ごすんだ。羨ましいな。
「子供が一人で公園で寝るなんて危ない。誘拐されるぞ」
「帰りたくはないので〜」
じゃあ、と柊夜くんはおれの手を握った。とくんと心臓が揺れる。
「オレの家行こう。外は寒いし。それに今日はクリスマスなのに、こんなの寂しいだろ」
柊夜くんは「まずケーキ屋寄るからな」とおれの手を引いて歩いた。おれって寂しいのか。柊夜くんは可哀想な人間を救済しているんだ。高尚できれいな人だ。
「突然お邪魔して、柊夜くんがご両親に叱られませんか?」
「そんな訳ないだろ。平気」
おれと手を繋ぎながら、柊夜くんが少し前を真っ直ぐにさっさと歩いていってしまうのが格好良かった。
柊夜くんの家では、驚かれつつも歓迎された。「柊夜のお友達?」「いつも仲良くしてくれてありがとね」と笑顔を向けられて、自分が柊夜くんの父親と母親公認の存在になったような気分を味わう。
初対面の大人に緊張しているおれを気遣って、柊夜くんは自分の部屋におれを入れてくれた。夢みたいだ。おれは親から外出自体を制限されていたから、まさか柊夜くんの家に招かれる日が来るなんて思ってなかった。間違いなく最高の誕生日。
おれが思いつきで「今日、実は誕生日なんすよねー」と告げると、柊夜くんはびっくりしていた。それで「おめでとう」を貰って、とびきり嬉しかった。その日で人生の幕を閉じてしまってもいいくらい。
やっぱり柊夜くんは、おれの特別。おれの産まれた日を唯一祝ってくれた人。おれの生を柊夜くんだけが赦してくれた。自分からそれを乞うたことだけは少し申し訳なかったが。嬉しいものは嬉しい。
「誕生日って知ってれば何か用意できたのに」
おめでとうの後、そうやって不満げになる柊夜くんが好きだった。
あの頃のおれは素直で、「ならハグしてください」とお願いした。ちゃんと覚えてる。柊夜くんの部屋で、他に誰もいない中で抱きしめられる状況にドキドキした。なぜか悪いことみたいだった。これでいいのか? って柊夜くんは不思議そうにしてたし、たぶんおれだけが妙な感情になっている。おれって気持ち悪い。
その後も部屋では二人で対戦ゲームをしたりして遊んだけれど、十二時過ぎに柊夜くんのお母さんからお昼ご飯を食べていかないか勧められたタイミングで、その誘いを断って帰った。
帰宅すると、おれの家は抜け殻になっていた。父親も母親もいない。夜になっても、次の日になっても誰もいない。見限られたんだ。おまじないを拒否したから。
両親は家出したおれを探して連れ戻したりしなかった。そうなるっておれは心のどこかで知っていた。だって公園で寝たりなんて、本気で逃げるつもりならやらないはずだ。誰も追いかけてこないって分かっていた。両親はおれに強要することはあっても期待はしない。だから、おまじないをさせることと、おれを探しに行く労力を天秤にかけたら当然そうなる。惨めだった。
それから今に至るまでおれの親は全く家にいない。お金や生きていくために必要なもの、諸々の手続きなどは面倒を見られているが、逆にそれだけだ。親と顔を合わすようなことがない。しかし、今のこの孤独な暮らしは、親に殴られたり怒鳴られたりしていた幼少期の生活に比べれば遥かにましだった。だけど、おれは満たされない。今この瞬間と、これまでの積み重ねの分。おれの親は毎日おれに機嫌を取らせていた。おれは彼らのケアをしていた。子供のような人たちだった。おれは健全な家庭で子供が享受するはずのものが足りないまま大きくなった。愛に飢えている自覚があった。おれはどろどろに溶けた怪物だ。
おれは十歳の誕生日に家出した。おまじないから逃げるために。魔法使いの間で、あるおまじないを十歳になる誕生日の正午に行う伝統がある。それは痛くて怖いことだって魔法使いは皆知っている。誰もがおまじないの詳細な内容をぼかすので、どうせ碌なものじゃないだろう。一生の傷になるらしい。やらない子供もいるが、おれの両親は古い人間で、そのような慣習に対して厳格だった。
その傷によって明確に人間ではなくなる。当時のおれはなんとなく、そう感じた。おまじないをする際に与えられる直接的な痛みよりも、柊夜くんと同じでない永遠の証ができるのが嫌だった。
誕生日の朝、まだ両親の寝ている時間に家を出た。家出なんて初めてで、自分はとんでもない罪を犯しているんじゃないかと怯えていた。十二月の末に、上着一枚で外に飛び出したせいで寒い。荷物を持っていないし施設はどこも開いていないから取り敢えず公園まで歩いた。
公園のベンチに座りながら、今日はそういえばクリスマスだなと思った。おれの家にはクリスマスがない。誕生日とクリスマスが重なっているが、そのどちらも祝ったことがなかった。せめて冬休みじゃなかったら給食の時間に牛乳を乾杯するのに。おれの誕生日は昔から他の日と変わらないような日だ。この十歳の誕生日が初めて特別な意味を持っていた。最悪だよな。
世界に絶望したおれはベンチに寝転がった。汚れるからと普段ならこんなことはしないだろう。今はそういうことがもうどうでもよかった。
遠くでおれの名前を呼ぶ声がする。温かい。大好きな声だ。
「陽!」
目を覚ますと柊夜くんがいた。ということはおれはベンチでそのまま寝ていたんだ。濁りのない黒い瞳がおれをじっと見つめている。神様だ、と思った。最悪なときに現れてくれた。すごい。柊夜くんは神様なんだ。高揚して暑いのか寒いのか分からなくなる。
「なんでこんなとこにいるんだ。風邪ひくぞ」
柊夜くんにぽんぽんと肩を叩かれ、おれは身体を起こした。
「家出したんです」
息が白かった。耳が冷たい。はらはら軽い雪も降っている。
「家出!?」
おれの言葉を繰り返す柊夜くんのリアクションが面白くて、思わず笑った。
「柊夜くんこそ何してたんすか?」
「母さんに予約したケーキ取りに行くの頼まれて。ケーキ屋まで行く途中にここ通って、陽がいたからさ」
柊夜くんは家族とクリスマスを過ごすんだ。羨ましいな。
「子供が一人で公園で寝るなんて危ない。誘拐されるぞ」
「帰りたくはないので〜」
じゃあ、と柊夜くんはおれの手を握った。とくんと心臓が揺れる。
「オレの家行こう。外は寒いし。それに今日はクリスマスなのに、こんなの寂しいだろ」
柊夜くんは「まずケーキ屋寄るからな」とおれの手を引いて歩いた。おれって寂しいのか。柊夜くんは可哀想な人間を救済しているんだ。高尚できれいな人だ。
「突然お邪魔して、柊夜くんがご両親に叱られませんか?」
「そんな訳ないだろ。平気」
おれと手を繋ぎながら、柊夜くんが少し前を真っ直ぐにさっさと歩いていってしまうのが格好良かった。
柊夜くんの家では、驚かれつつも歓迎された。「柊夜のお友達?」「いつも仲良くしてくれてありがとね」と笑顔を向けられて、自分が柊夜くんの父親と母親公認の存在になったような気分を味わう。
初対面の大人に緊張しているおれを気遣って、柊夜くんは自分の部屋におれを入れてくれた。夢みたいだ。おれは親から外出自体を制限されていたから、まさか柊夜くんの家に招かれる日が来るなんて思ってなかった。間違いなく最高の誕生日。
おれが思いつきで「今日、実は誕生日なんすよねー」と告げると、柊夜くんはびっくりしていた。それで「おめでとう」を貰って、とびきり嬉しかった。その日で人生の幕を閉じてしまってもいいくらい。
やっぱり柊夜くんは、おれの特別。おれの産まれた日を唯一祝ってくれた人。おれの生を柊夜くんだけが赦してくれた。自分からそれを乞うたことだけは少し申し訳なかったが。嬉しいものは嬉しい。
「誕生日って知ってれば何か用意できたのに」
おめでとうの後、そうやって不満げになる柊夜くんが好きだった。
あの頃のおれは素直で、「ならハグしてください」とお願いした。ちゃんと覚えてる。柊夜くんの部屋で、他に誰もいない中で抱きしめられる状況にドキドキした。なぜか悪いことみたいだった。これでいいのか? って柊夜くんは不思議そうにしてたし、たぶんおれだけが妙な感情になっている。おれって気持ち悪い。
その後も部屋では二人で対戦ゲームをしたりして遊んだけれど、十二時過ぎに柊夜くんのお母さんからお昼ご飯を食べていかないか勧められたタイミングで、その誘いを断って帰った。
帰宅すると、おれの家は抜け殻になっていた。父親も母親もいない。夜になっても、次の日になっても誰もいない。見限られたんだ。おまじないを拒否したから。
両親は家出したおれを探して連れ戻したりしなかった。そうなるっておれは心のどこかで知っていた。だって公園で寝たりなんて、本気で逃げるつもりならやらないはずだ。誰も追いかけてこないって分かっていた。両親はおれに強要することはあっても期待はしない。だから、おまじないをさせることと、おれを探しに行く労力を天秤にかけたら当然そうなる。惨めだった。
それから今に至るまでおれの親は全く家にいない。お金や生きていくために必要なもの、諸々の手続きなどは面倒を見られているが、逆にそれだけだ。親と顔を合わすようなことがない。しかし、今のこの孤独な暮らしは、親に殴られたり怒鳴られたりしていた幼少期の生活に比べれば遥かにましだった。だけど、おれは満たされない。今この瞬間と、これまでの積み重ねの分。おれの親は毎日おれに機嫌を取らせていた。おれは彼らのケアをしていた。子供のような人たちだった。おれは健全な家庭で子供が享受するはずのものが足りないまま大きくなった。愛に飢えている自覚があった。おれはどろどろに溶けた怪物だ。
