登校し、勧誘活動も終えてから教室に入る。疲れた。肉体疲労というよりは精神疲労だ。柊夜くんからチラシを受け取る人が羨ましくなってしまうし、誰も柊夜くんから貰わないでほしくて、おれはチラシの束を抱えて棒立ちしながらずっと柊夜くんの方をちらちら気にしていた。といっても、そんなおれの心配をよそに柊夜くんが用意したチラシは結局ほぼ減らなかった。上出来だ。
「勿体ないな、これ」
柊夜くんはおれの席のところへ来ると、手元にある一枚のチラシを指で弾いてため息をついた。
「凝ってますよね〜、マジカルバターのイラスト付きで」
おれは柊夜くんの手元を覗き込む。昨日勧誘していた時からその柊夜くんが描いたイラストには注目していた。なかなか上手い絵。マジカルバターは女児向け魔法少女アニメの主人公だ。柊夜くんは中学生の頃からこのアニメのオタクをしている。金髪の大きなツインテールに、ピンクの可愛い衣装を着たマジカルバター。明るく真っ直ぐで頑張り屋さんな女の子。柊夜くんの好みのタイプなんだろうか。なんて思いつつ、そういうイジりをしたことは一度もない。肯定されたら嫌だから。キャラクターに嫉妬しているのが我ながら恥ずかしい話だった。
「愛瀬もハッピー☆マジカルバター見ろよ」
「気が向いたら」
「絶対見ないやつだろ」
実はおれも毎週の放送をチェックしているけど、それは言わない。柊夜くんがマジカルバターを好きなら当然おれも興味が湧くに決まってるじゃん。中学の時に柊夜くんがあのアニメにハマり始めてからずっとおれも視聴を続けていた。だけど、柊夜くんを夢中にさせているマジカルバターはおれにとっては敵みたいなもので、マジカルバターファンの柊夜くんが欲するようなトークをおれはしてあげられないから、最初から興味ないふりをしておいたほうが楽だ。もしも下手にハッピー☆マジカルバター語りをしたら、おれは性格が悪いから「あんな女のどこが良いんすかねー」などと口を滑らせかねない。そうなったら確実に柊夜くんには嫌われる。
「愛瀬はなんであの部活入ったんだ?」
ふいに柊夜くんがおれを見上げた。ドキッとする。
「去年も言いませんでしたっけ〜、なんとなく楽しそうだなってだけっすよ」
柊夜くんと同じ部活がいいなんて、この年齢なら自立しろよと呆れられそうだから理由を誤魔化す。真面目な柊夜くんは自分の意思を持っている人間の方が好きだろうし。
「急に思い出したんだ、愛瀬ってそういえば魔法とか嫌いだったよなって。マジカルバターに興味ないのもそういうことだよな」
「え?」
「小学生の頃、劇団の人が来て魔法使いの劇を体育館で見せてもらっただろ。その日の帰りに、愛瀬が魔法は嫌いだって言ってたのが記憶にあって」
よく覚えてるなあと思った。なんてことない会話に分類されるようなものなのに。柊夜くんがおれの話を覚えてるのは思いがけず嬉しいことだった。
「あの頃は……」
親が厳しかったから。おれが優秀な魔法使いになるようにとハードな課題が毎日与えられていた。できなかったら叱責されて、暴力を振るわれたり、ご飯を食べさせてもらえなかったり。それで魔法が憎くなった。今はもう親と縁が切れて自由の身なので以前と同等の憎しみはない。いちいち魔法について考えたりもしない。あんな部活に入りながら、先輩がする魔法の話は聞き流して柊夜くんだけを見ていた。
なんて、正直に告白できるわけがない。おれに魔女の血が流れていると告白しても相手には嘘にしか聞こえないだろう。何よりおれがそれを秘密にしたい。せっかく柊夜くんと同じ普通の人間になったんだから。魔法さえ使わなければ、おれもただの人間だ。
「あれから何年経ったと思ってるんです〜? もう高校生なんだし昔と変わってる所があってもおかしくないでしょ」
「それもそうだな」
おれの雑な解答を聞いて柊夜くんは納得したように頷いた。そうだ、それこそ柊夜くんは変わっちゃったよね。自覚あるか分かんないけどさ。
おれは柊夜くんを見つめながら複雑な気持ちになった。
小学生の頃の柊夜くんは、おれのことを「陽」って名前で呼んでくれていた。一人でいるおれに積極的に話しかけてくれて事あるごとに助けてくれた。
当時のおれは今と同じように人見知りで友達がいなかった。その上、今とは違って周りより背が小さくて常に何かに怯えていた。誰かの笑い声が怖い。大きな音が怖い。遊びで、じゃれ合いのようなものだとしても友達同士で無邪気に暴力を交わすのが怖い。両親がおれ抜きで談笑している光景、親の怒鳴り声と物に当たる音、おれに振り上げられる拳。それらと重なってしまうから怖い。
男子小学生の群れに入るのはおれにとっては難しくて、皆もそんなおれに構おうとはしなかった。孤独で心細くて自分一人だけ異星に迷い込んだみたいだった。
それでも柊夜くんだけはおれの名前を呼んでくれた。おれに話しかけて、おれの存在を認識しているという信号を日々送ってくれた。それが嬉しかった。
遠足の班決めで余っているおれに笑顔で声をかけてくれたこと。クラス対抗で行う大縄八の字跳び大会の練習中に連続跳びができなくて責められるおれの味方になってくれたこと。家でちゃんとご飯が食べられないせいで空腹がひどくて給食をおかわりしたいけど恥ずかしい時にかわりに盛ってきてくれたこと。
柊夜くんのしてくれたことは全部覚えている。おれの真っ暗な人生で、そういう思い出だけがきらきらしている。
柊夜くんはヒーローだ。それだけは昔も今も変わらない。でも、月日が経って変わってしまった部分があって、それが寂しい。
中学生になってから柊夜くんはおれを「愛瀬」と呼ぶようになった。距離をぐんと離された気がした。でもおれは、嫌な違和感を拭えないまま何も気にしてないふうを装っていた。中学生になるのは、そういうものだろうって。今は苗字呼びにも慣れた。名前で呼んでくれたほうがありがたいけど強要するもんじゃない。問題なのは柊夜くんの方で心境の変化が起こったことであり、呼び方が元通りになるよう意見したって結局は無意味だ。
愛瀬呼びに変わりたての頃は、おれも彼を羽柴くんって呼んでやろうかと思っていた。でも実行しなかった。どうせ柊夜くんにとっては名前の呼び方なんてどうでもいいことだから反撃にならない。意地でやり返しても惨めなだけだ。それに、おれまで呼び方を変えたら更に距離が広がる気がして怖かった。
呼び方だけじゃない。中学高校と進むにつれて、柊夜くんはおれを露骨に甘やかすことをしなくなった。小学生の頃の柊夜くんは度を越した世話焼きでおれが頼む前に何でもやってくれたのに。最近はお願いしても「自分でやりなさい」と返ってくる。つまらない。
「昔の愛瀬は純粋っていうか、可愛かったよな」
目の前にいる柊夜くんのしみじみした声。ピキンと何かが割れる。タイミングが最悪だった。
もしかして、おれの性格が変わったから柊夜くんも変わった? 違う、柊夜くんが先に変わったから自分もちゃんと適切な距離感で接しようと考えるようになって、重くならないようにエネルギーの出力を工夫するようになっただけだ。それが柊夜くんにはおれの純粋さを失ったように見えるというなら、そうなんだろう。
「昔の愛瀬は」って何。今は。頭がぐるぐるする。
「今も純粋で可愛いでしょ〜」
自分の中に渦巻くマイナス感情を押さえつけて、分かりやすくふざけたふりで笑顔を作る。
「そういうキャラじゃないだろ」
ばっさり切り捨てられた。なんなんだ。ちょっとチクッとする。
おれは「あはは」と笑った。我ながら嘘くさくて空虚な笑い声だった。
「勿体ないな、これ」
柊夜くんはおれの席のところへ来ると、手元にある一枚のチラシを指で弾いてため息をついた。
「凝ってますよね〜、マジカルバターのイラスト付きで」
おれは柊夜くんの手元を覗き込む。昨日勧誘していた時からその柊夜くんが描いたイラストには注目していた。なかなか上手い絵。マジカルバターは女児向け魔法少女アニメの主人公だ。柊夜くんは中学生の頃からこのアニメのオタクをしている。金髪の大きなツインテールに、ピンクの可愛い衣装を着たマジカルバター。明るく真っ直ぐで頑張り屋さんな女の子。柊夜くんの好みのタイプなんだろうか。なんて思いつつ、そういうイジりをしたことは一度もない。肯定されたら嫌だから。キャラクターに嫉妬しているのが我ながら恥ずかしい話だった。
「愛瀬もハッピー☆マジカルバター見ろよ」
「気が向いたら」
「絶対見ないやつだろ」
実はおれも毎週の放送をチェックしているけど、それは言わない。柊夜くんがマジカルバターを好きなら当然おれも興味が湧くに決まってるじゃん。中学の時に柊夜くんがあのアニメにハマり始めてからずっとおれも視聴を続けていた。だけど、柊夜くんを夢中にさせているマジカルバターはおれにとっては敵みたいなもので、マジカルバターファンの柊夜くんが欲するようなトークをおれはしてあげられないから、最初から興味ないふりをしておいたほうが楽だ。もしも下手にハッピー☆マジカルバター語りをしたら、おれは性格が悪いから「あんな女のどこが良いんすかねー」などと口を滑らせかねない。そうなったら確実に柊夜くんには嫌われる。
「愛瀬はなんであの部活入ったんだ?」
ふいに柊夜くんがおれを見上げた。ドキッとする。
「去年も言いませんでしたっけ〜、なんとなく楽しそうだなってだけっすよ」
柊夜くんと同じ部活がいいなんて、この年齢なら自立しろよと呆れられそうだから理由を誤魔化す。真面目な柊夜くんは自分の意思を持っている人間の方が好きだろうし。
「急に思い出したんだ、愛瀬ってそういえば魔法とか嫌いだったよなって。マジカルバターに興味ないのもそういうことだよな」
「え?」
「小学生の頃、劇団の人が来て魔法使いの劇を体育館で見せてもらっただろ。その日の帰りに、愛瀬が魔法は嫌いだって言ってたのが記憶にあって」
よく覚えてるなあと思った。なんてことない会話に分類されるようなものなのに。柊夜くんがおれの話を覚えてるのは思いがけず嬉しいことだった。
「あの頃は……」
親が厳しかったから。おれが優秀な魔法使いになるようにとハードな課題が毎日与えられていた。できなかったら叱責されて、暴力を振るわれたり、ご飯を食べさせてもらえなかったり。それで魔法が憎くなった。今はもう親と縁が切れて自由の身なので以前と同等の憎しみはない。いちいち魔法について考えたりもしない。あんな部活に入りながら、先輩がする魔法の話は聞き流して柊夜くんだけを見ていた。
なんて、正直に告白できるわけがない。おれに魔女の血が流れていると告白しても相手には嘘にしか聞こえないだろう。何よりおれがそれを秘密にしたい。せっかく柊夜くんと同じ普通の人間になったんだから。魔法さえ使わなければ、おれもただの人間だ。
「あれから何年経ったと思ってるんです〜? もう高校生なんだし昔と変わってる所があってもおかしくないでしょ」
「それもそうだな」
おれの雑な解答を聞いて柊夜くんは納得したように頷いた。そうだ、それこそ柊夜くんは変わっちゃったよね。自覚あるか分かんないけどさ。
おれは柊夜くんを見つめながら複雑な気持ちになった。
小学生の頃の柊夜くんは、おれのことを「陽」って名前で呼んでくれていた。一人でいるおれに積極的に話しかけてくれて事あるごとに助けてくれた。
当時のおれは今と同じように人見知りで友達がいなかった。その上、今とは違って周りより背が小さくて常に何かに怯えていた。誰かの笑い声が怖い。大きな音が怖い。遊びで、じゃれ合いのようなものだとしても友達同士で無邪気に暴力を交わすのが怖い。両親がおれ抜きで談笑している光景、親の怒鳴り声と物に当たる音、おれに振り上げられる拳。それらと重なってしまうから怖い。
男子小学生の群れに入るのはおれにとっては難しくて、皆もそんなおれに構おうとはしなかった。孤独で心細くて自分一人だけ異星に迷い込んだみたいだった。
それでも柊夜くんだけはおれの名前を呼んでくれた。おれに話しかけて、おれの存在を認識しているという信号を日々送ってくれた。それが嬉しかった。
遠足の班決めで余っているおれに笑顔で声をかけてくれたこと。クラス対抗で行う大縄八の字跳び大会の練習中に連続跳びができなくて責められるおれの味方になってくれたこと。家でちゃんとご飯が食べられないせいで空腹がひどくて給食をおかわりしたいけど恥ずかしい時にかわりに盛ってきてくれたこと。
柊夜くんのしてくれたことは全部覚えている。おれの真っ暗な人生で、そういう思い出だけがきらきらしている。
柊夜くんはヒーローだ。それだけは昔も今も変わらない。でも、月日が経って変わってしまった部分があって、それが寂しい。
中学生になってから柊夜くんはおれを「愛瀬」と呼ぶようになった。距離をぐんと離された気がした。でもおれは、嫌な違和感を拭えないまま何も気にしてないふうを装っていた。中学生になるのは、そういうものだろうって。今は苗字呼びにも慣れた。名前で呼んでくれたほうがありがたいけど強要するもんじゃない。問題なのは柊夜くんの方で心境の変化が起こったことであり、呼び方が元通りになるよう意見したって結局は無意味だ。
愛瀬呼びに変わりたての頃は、おれも彼を羽柴くんって呼んでやろうかと思っていた。でも実行しなかった。どうせ柊夜くんにとっては名前の呼び方なんてどうでもいいことだから反撃にならない。意地でやり返しても惨めなだけだ。それに、おれまで呼び方を変えたら更に距離が広がる気がして怖かった。
呼び方だけじゃない。中学高校と進むにつれて、柊夜くんはおれを露骨に甘やかすことをしなくなった。小学生の頃の柊夜くんは度を越した世話焼きでおれが頼む前に何でもやってくれたのに。最近はお願いしても「自分でやりなさい」と返ってくる。つまらない。
「昔の愛瀬は純粋っていうか、可愛かったよな」
目の前にいる柊夜くんのしみじみした声。ピキンと何かが割れる。タイミングが最悪だった。
もしかして、おれの性格が変わったから柊夜くんも変わった? 違う、柊夜くんが先に変わったから自分もちゃんと適切な距離感で接しようと考えるようになって、重くならないようにエネルギーの出力を工夫するようになっただけだ。それが柊夜くんにはおれの純粋さを失ったように見えるというなら、そうなんだろう。
「昔の愛瀬は」って何。今は。頭がぐるぐるする。
「今も純粋で可愛いでしょ〜」
自分の中に渦巻くマイナス感情を押さえつけて、分かりやすくふざけたふりで笑顔を作る。
「そういうキャラじゃないだろ」
ばっさり切り捨てられた。なんなんだ。ちょっとチクッとする。
おれは「あはは」と笑った。我ながら嘘くさくて空虚な笑い声だった。
