歪と信仰

「付き合ったことで、触れ合う義務が生まれたと思ってたのか? だとしたらそれは間違ってる。愛瀬こそ、したくないなら無理するべきじゃ____」
「あはは、おれはそんな健気じゃないっすよ」
 乾いた笑い声が出た。柊夜くんは善のフィルター越しに世界を、他者を捉えている。羨ましい。子供みたいなのはどっちだろうね。おれと違って汚れてない。美しい人だ。
 おれの行動の理由を説明してやろうとして、言葉に詰まった。馬鹿正直に気持ち悪くなるのが楽しかったなんて教える必要ないだろう。柊夜くんにダメージを与えたいにしても、自分の歪な部分をそこまで曝け出す気はない。
「柊夜くんはどこまで許してくれるかなって試したんです」
 理由のうち伝えても比較的問題がなさそうな要素を漂白して伝える。おれの心情を適切にそのまま切り取った言葉かは不確かだが、人間は誰しも常にコミュニケーションにおいて何かが削ぎ落された状態の自己の表現を交わすしかない。おれはその不完全さが好きだ。不完全でも投げ出さないのがきれいだから。そうやって柊夜くんがいつもおれの話を聞いてくれるのが好きだから。
 誰かがおれの話を聞いてくれるのは、おれの人生で当たり前でなかった。家族はおれの話や感情を無視していた。日々の繰り返しから対話が不可能であると知らしめられていたから家出をした。
 柊夜くんは特別なんだ。柊夜くん以外にも話しかけられることはあるが、おれを内側に入れてくれるのは柊夜くんだけだ。真におれの話を聞いているのは柊夜くんしかいない。
「愛を試すみたいな?」
「いえ、柊夜くんの善意への関心です。他人のためにこの人はどこまでできるんだろうって」
 柊夜くんは眉をひそめた。不審が読み取れる。
「よく分からない」
 静かに噛み締めるように言って、俯き加減になった柊夜くんは緩く左右に首を振る。
「じゃあ、告白もオレを試すためだったってことかよ」
 困っているみたいで、柊夜くんの声は弱々しかった。
「違いますよ~。まあ、純粋に付き合いたかったわけでもないっすけど。ちゃんと本気でした」
 弱っている柊夜くんの姿に、おれはにこにこしてしまう。だって、害されても負けない柊夜くんの煌めきを浴びたいんだから。何をされても傷つかないような人間だったら意味がない。今のこの柊夜くんは、これからの最高に格好良い柊夜くんを楽しむうえで欠かせない重要な前段階なんだ。
「どういうことだ」
 本当に全く理解できていなさそうな柊夜くんがおれを見上げる。可愛い。おれは彼の片頬に自分の右手を添えた。
「柊夜くんが誰かに取られるのが嫌だったんです。だって、柊夜くんは交際相手がいるのに他の人と関係を持つような人じゃないでしょ。だからおれが付き合っとけば安心じゃないっすか」
「なんだそれ……」
 柊夜くんの反応がいちいち嬉しい。おれの胸の中で何かがぱちぱちと弾けている。
「柊夜くんこそ、どうしておれと付き合ってるんですか?」
 頬に添えた手の親指と人差し指の腹を使って、柊夜くんの頬を痛まないような強さで挟む。
「やめろ」
 手を払われたので、おれは大人しく腕を下ろした。柊夜くんが拒んでくれたのが嬉しかった。たまらなくて、くらくらする。
「告白してきた時、愛瀬が泣きそうだったから。オレは断れなかった。それはたぶん、愛ではあると思ってる」
 舐めてるのか? お前は自分の良心が痛むのに耐えきれなかっただけのことを、愛だと宣っている。ふざけるな。お前は善人でいる自分が好きなだけだろ。愛とか言ってそれを違えるなよ。おれはちゃんと、善人でいようとする柊夜くんのことが好きだ。柊夜くんは今のままでいい。勝手に安っぽい結論を導き出さないでほしい。愛してるのは自分自身のくせに、おれを愛してるだなんて馬鹿みたいなことを言うな。
「愛瀬もそうだろ? 誰かに取られないようにって、それは……オレのことを好きってことだろ」
「あは。はい」
 こういう所が、イライラする。そうだ、柊夜くんの言う通りだ。おれは柊夜くんを愛してる。だけどそういう感情をなんてことないように顔色一つ動かさず認めているのが、癪に障る。素直に愛だと認めてしまえるのは彼が穏やかな世界で生きているからだ。その眩しいくらいに健康な正の方向性を信じる精神は、歪んでいるおれに痛みを与える。彼はおれの首に手をかけることなくおれの首を絞めている。おれは息苦しい。それは本当は、おれが勝手に自分の手で窒息しているだけだ。いつもそうだ。柊夜くんといて苦しくなるのは柊夜くんのせいじゃない。おれのせいだ。ずっと分かっている。分かっていながら苛立っている。
「好きだから、別れるつもりありませんよ。柊夜くんがどうかは知りませんけど」
「愛瀬が別れるって言わない限り、オレも今のままでいる」
 この人はなんなんだろう。おれからしたら、柊夜くんこそ何を考えているか理解できない。
「ねえ、もう一回キスしてください」
「えっ」
 苛立ちを手放したかった。おれは疲れていた。刺激で、もう脳内をそれだけにして楽になりたい。不快と快で全部を誤魔化したい。
「さっき、嬉しくないって言ってただろ」
 柊夜くんは後ずさった。表情が明らかに困惑している。面白い。
「気分なんです」
 おれが薄っぺらい笑顔を見せると柊夜くんは唸った。
「嫌なことをわざわざやりたいような気分か?」
 柊夜くんが鋭い眼差しでおれを見据えている。台詞がちょっと意地悪だ。そこを指摘されるの面倒だなあ。柊夜くんによってもたらされる不快が気持ちいいなんて、本人からしたら気持ち悪すぎるだろうし。それにどうせ聞いても分かんないだろ、おれの歪な愉しみなんて。そういうことを分からなさそうな、きれいな柊夜くんが好きだよ。
「なんでもいいでしょ、柊夜くんだって自分はしたくもないのにしてるんだから。同じじゃないっすか」
「はあ」
 柊夜くんがため息をつく。参っている仕草にドキッとした。格好良い。
「じゃあ愛瀬からしろよ。愛瀬が嫌かどうかとか、オレには難しいし」
 一応キス自体は許してくれるらしい。柊夜くんは落ち着かなさそうに首を掻いた。
「どこまでなら大丈夫ですか?」
「え!?」
 動揺して大きな声を出す柊夜くんを見て、おれは愉快な気分になった。正直もうキスする必要ないかもしれない。せっかくだから、するけど。
「愛瀬のしたいようにしていい」
 ぼそぼそ呟いている。おれはその柊夜くんの両肩に手を置いた。柊夜くんが短く息を吸う。可愛い。おれの手で彼の身体をぷちっと潰したいなんて思いながら、彼が何か言葉を発する前に頬に軽くキスした。「え」と柊夜くんの間抜けな声がすぐ傍で聞こえる。おえ、やっぱ最悪だ。キスし終わった後に残る、肌の柔らかくて生温い感触の余韻が気持ち悪い。……あ。今回のは、なんか嫌なだけで気持ち良くならなかったな。ああ、そっか。おれが一方的にキスしただけだからだ。柊夜くんが何かしてくれないと意味ない。それに気付いた。つまんない。
「愛瀬?」
 不満が顔に出ていたのだろう。柊夜くんが不思議そうに首を傾げる。おれは笑った。
「やっぱり今度は、柊夜くんからしてください」
 正面から柊夜くんの首に腕をまわす。恋人みたいなハグだ。かなりきつい。けど勢いで相手を吞み込めば思い通りキスしてくれるだろうという計算があった。
「愛瀬、顔色悪いぞ」
 柊夜くんは顔を上に向けて心配そうな眼差しを寄越してくる。優しさが苦しい。おれは最低なのに。
「頼まれても、そんな様子じゃ無理だ」
「どうして」
「結局のところ、嫌なことには変わらないんだろ。それなのにオレに頼むのは、愛瀬の中では理屈が通っていたとしてもオレには分からないから不安だ」
 揺れる柊夜くんの黒い瞳に清浄な光を見た。ごめんね。
「おれは、ちゃんと好きでしたよ。柊夜くんにキスしてもらうの」
「言ってることが正反対じゃないか。……愛瀬、教えてほしい。オレには理解できないとしても、理由があるなら納得して安心できるから。どうして嫌なのにそんなことを言うのか、オレに教えて」
 柊夜くんは責め立てたりせず、どこまでも穏やかに落ち着いていた。優しい空気の振動がおれの鼓膜を撫でた。柊夜くんの柔らかな光に当てられている。おれは胸の奥がつんとして、自分の罪を彼に打ち明けてしまいたくなった。キスだけじゃなくて他にも色々。柊夜くんに絡めていた腕を解いて手を下ろし、右手で柊夜くんの制服の袖を掴む。
「おれの部屋で話したいです」
「うん」
 柊夜くんが頷いた。