その日の授業はずっと上の空だった。先生の解説を聞きながら頭の中は業後のことでいっぱいだった。柊夜くんは恋人ごっこに興味ないみたいだし、おれがきちんと要求しないと。愛瀬がしたいならいいって言ってくれたもんな。……おれも別に、したいこととか無いんだけど。今朝家に誘った時は性行為くらい求めてみようと無邪気に遊び感覚でいたが、帰る時刻が迫るにつれ、手を繋ぐのさえ不快なのに無理だろと現実的に考えるようになった。朝のおれは行為を言葉や概念としてぼんやり捉えていて、実際にすることとして考えていなかったのだ。大問題だ。
柊夜くんは頼んだらやってくれるのかな。ヒーローがおれをどこまで許してくれるのか知りたい気持ちと、不幸を生むからやめなさいという理性が戦っている。柊夜くんがもしも断らなかったら、お互い性欲もないのにすることになってしまう。
チャイムが鳴って六時間目の授業が終わった。あとはホームルームをして帰るだけだ。どうしよう。
「おじゃまします」
柊夜くんが家に来てしまった。リビングに招き入れる。さっき手を洗ったばかりなのに、おれは手に変な汗をかいていた。というか、柊夜くんはおれに性欲がないのを知らないんだということに今になって気付く。尽く自分を客観視できていなかった。付き合ったばかりなのにわざとらしくそういう雰囲気を出して家に誘って、きっと柊夜くんからおれは貞操観念の緩いやつだと思われている。急に恥ずかしくなってきた。柊夜くんのおれへの印象が大幅ダウンしていたはずだ。付き合った途端に性欲をぶつけてくる同級生って最悪じゃないか?
「親はいないんでリラックスしてくださいね」
内なる動揺を取り繕って、おれは柊夜くんに話しかける。
「何時ぐらいに帰ってくるんだ?」
「ずっと帰りませんよ」
まずい、漫画とかでよく見る「今日親いないんだ」じゃんこれ。
「大丈夫なのか?」
柊夜くんはおれを見て心配そうな顔をしていた。
「え、な、何がですか」
「家に一人って、親の帰りが遅いんだと思ってた。ずっと帰らないっていうのは……」
彼はどうもおれの家庭環境を気にしているらしい。実は今まで一度も、この家が抜け殻になったことを柊夜くんに話したことはなかった。他人の家族事情なんて興味ないだろうし。
「もー、深刻そうにしないでください! おれは平気っすから」
「そっか。変に踏み込んでごめん」
おれが笑い飛ばしても柊夜くんの表情はまだ複雑そうだった。別に親なんかどうでもいいのにな。どうせおれを可哀想な人間だとでも思うんだろう。くだらない。
「飲み物用意するんで待っててください」
柊夜くんをダイニングチェアに座らせ、自分はキッチンに行って二つのコップに水を注ぐ。それを持って戻ってテーブルに置いた。
「ありがとう」
柊夜くんがこういう時にお礼を言うところも好きだ。
「オレは今日、何をしたらいい?」
いきなり単刀直入に尋ねられてびっくりする。展開が早い。
「なんかカップルがしそうなこと……」
お前ふざけてるのか。自分から誘ったくせに、あやふやな言葉で相手に委ねやがって。柊夜くんにはそういう願望ないんだから自分が積極的に頼まないとどうしようもないだろ。ふと付き合うことについて検索した時を思い出した。
「キスとか」
おれはその場に立ったまま答える。性行為よりはましだろう。どちらにせよ願望のない柊夜くんを害することにはなっているのだが。
「……。」
柊夜くんは黙ってしまった。心臓がドキドキする。自己犠牲のヒーローでもキスまで来ると難しいか。おれは自分のお願いが許されなくても、許されてキスすることになっても、どちらでも傷つくことができる。だけど柊夜くんも損なわれるぶん、後者の方が嬉しい。
一体どうなるんだろうとワクワクしながら目の前の柊夜くんを観察し続けた。
「オレ、経験ないんだけどさ」
柊夜くんが切り出す。
「愛瀬はしたいの?」
黒いきれいな瞳がおれを見つめている。おれの汚い部分が照らされて明るみになっているような気分だった。
「は、はい」
勿論嘘だ。けど、柊夜くんにされる行為で気持ち悪くなることは気持ちいいから。嘘じゃないかも。柊夜くんが欲を向けてこないことを知っているおかげで、おれは安心して傷つくことを求められる。歪んでいる。おれはこの状況を愉しんでいた。
「へえ」
柊夜くんは緩慢な所作で立ち上がった。思わず後ずさる。自分の心臓の音が耳元で聞こえる。柊夜くんが近づいてきて向かい合った。相手の顔がすぐそこにある。怖い。擦りむいた皮膚がヒリヒリするような感覚。迫ってくる自らの生と高揚感。
柊夜くんが唇をおれの唇に重ねてきた。口の先だけ。他人の肉体がある、と思った。柊夜くんの唇は皮がめくれかけている所がある。おれの指先みたいな、わざとのやつではなくて自然にめくれたんだろう。解像度の高い他者の生におれの身体は耐えきれない。おれの内側で虫が蠢いた。生温い。ゆっくりと死んでいる。柊夜くんの行いによって最悪な気分になれるのが嬉しい。嫌悪感の刺激が心地いい。相手が柊夜くんだから。情報たちが脳を急速に駆け巡る。おれが気持ち悪さにじっくり浸るような暇もなく、すぐに唇は離れてしまった。二秒も経たないくらいだ。
「もう終わりっすか」
「え、えっと」
柊夜くんは困り顔でおれを見上げている。可愛い。苛々した。いいなあ、穢れを知らなさそうで。おれの中身とは丸きり違うきれいな人。今までそうやって生きてこれて、よかったね。
「好きですよ、柊夜くん」
おれは彼の左耳に口を寄せて囁いた。それからにっこりと笑顔を貼り付けて対面する。
「したくもないことを、おれのためにしてくれてありがとうございます」
「愛瀬?」
「このままだと、いつか壊れちゃいますよ」
けれどきっと本当は、おれなんかに壊されたりしないだろう。あんたはそういう人なんだ。おれが加害性を持って挑んでいることも気付いていない。善人で、手を繋ぐのもキスをするのも本当におれが行為そのものを望んでいると思っている。
「オレは別に無理してない」
柊夜くんはそっと、おれの髪を撫でた。柔らかな手つき。丁寧に慈しんでいる。その優しさがグロテスクで、おれの頭でチカチカと鋭い光が点滅した。刺されている。
「愛瀬の頼みを聞くのが好きだから」
柊夜くんが頭を撫でるのはやめて、おれを見つめる。傲慢だ。自分の正義に酔っている。柊夜くんはそう生きる自分自身を愛しているんだ。たった一人の人間にどれだけの力があると思っているのか。彼の尊大な精神を踏みつけたい。それは柊夜くんに勝ちたいのではなく、負けたいからだった。彼は踏みつけられても必ず立ち上がると信じているから。その強く気高い生命の輝きを鑑賞させてほしい。おれの願いはずっとそういうものだ。
「おれの頼みですか」
ねばりつくように呟き、おれは柊夜くんを見下ろした。彼の両の瞳に視線を注ぐ。あんたが見る世界はさぞかしきれいなんでしょう。すぐ傍に潜む悪意すら認識していないんですから。
「おれはね、付き合っている人と身体接触をしたって本当は嬉しくないんですよ。柊夜くんが彼氏になってから、手を繋ぐのを嫌に感じるようになりました。キスだって吐き気がします」
柊夜くんは自らの今までの奉仕が水の泡にされたら、一体どういう反応をするんだろう。高圧的に微笑んだ表情を作りながら、うっとりした。おれは柊夜くんを愛している。
おれから目を離さずに柊夜くんは瞬きを繰り返す。彼は口を開きかけたまま微妙な顔になっていた。黒い瞳が揺れている。おれの優越感がくすぐられた。
「愛瀬の考えてることが分からない」
しばしの静寂の後、やっと柊夜くんはそう言った。
柊夜くんは頼んだらやってくれるのかな。ヒーローがおれをどこまで許してくれるのか知りたい気持ちと、不幸を生むからやめなさいという理性が戦っている。柊夜くんがもしも断らなかったら、お互い性欲もないのにすることになってしまう。
チャイムが鳴って六時間目の授業が終わった。あとはホームルームをして帰るだけだ。どうしよう。
「おじゃまします」
柊夜くんが家に来てしまった。リビングに招き入れる。さっき手を洗ったばかりなのに、おれは手に変な汗をかいていた。というか、柊夜くんはおれに性欲がないのを知らないんだということに今になって気付く。尽く自分を客観視できていなかった。付き合ったばかりなのにわざとらしくそういう雰囲気を出して家に誘って、きっと柊夜くんからおれは貞操観念の緩いやつだと思われている。急に恥ずかしくなってきた。柊夜くんのおれへの印象が大幅ダウンしていたはずだ。付き合った途端に性欲をぶつけてくる同級生って最悪じゃないか?
「親はいないんでリラックスしてくださいね」
内なる動揺を取り繕って、おれは柊夜くんに話しかける。
「何時ぐらいに帰ってくるんだ?」
「ずっと帰りませんよ」
まずい、漫画とかでよく見る「今日親いないんだ」じゃんこれ。
「大丈夫なのか?」
柊夜くんはおれを見て心配そうな顔をしていた。
「え、な、何がですか」
「家に一人って、親の帰りが遅いんだと思ってた。ずっと帰らないっていうのは……」
彼はどうもおれの家庭環境を気にしているらしい。実は今まで一度も、この家が抜け殻になったことを柊夜くんに話したことはなかった。他人の家族事情なんて興味ないだろうし。
「もー、深刻そうにしないでください! おれは平気っすから」
「そっか。変に踏み込んでごめん」
おれが笑い飛ばしても柊夜くんの表情はまだ複雑そうだった。別に親なんかどうでもいいのにな。どうせおれを可哀想な人間だとでも思うんだろう。くだらない。
「飲み物用意するんで待っててください」
柊夜くんをダイニングチェアに座らせ、自分はキッチンに行って二つのコップに水を注ぐ。それを持って戻ってテーブルに置いた。
「ありがとう」
柊夜くんがこういう時にお礼を言うところも好きだ。
「オレは今日、何をしたらいい?」
いきなり単刀直入に尋ねられてびっくりする。展開が早い。
「なんかカップルがしそうなこと……」
お前ふざけてるのか。自分から誘ったくせに、あやふやな言葉で相手に委ねやがって。柊夜くんにはそういう願望ないんだから自分が積極的に頼まないとどうしようもないだろ。ふと付き合うことについて検索した時を思い出した。
「キスとか」
おれはその場に立ったまま答える。性行為よりはましだろう。どちらにせよ願望のない柊夜くんを害することにはなっているのだが。
「……。」
柊夜くんは黙ってしまった。心臓がドキドキする。自己犠牲のヒーローでもキスまで来ると難しいか。おれは自分のお願いが許されなくても、許されてキスすることになっても、どちらでも傷つくことができる。だけど柊夜くんも損なわれるぶん、後者の方が嬉しい。
一体どうなるんだろうとワクワクしながら目の前の柊夜くんを観察し続けた。
「オレ、経験ないんだけどさ」
柊夜くんが切り出す。
「愛瀬はしたいの?」
黒いきれいな瞳がおれを見つめている。おれの汚い部分が照らされて明るみになっているような気分だった。
「は、はい」
勿論嘘だ。けど、柊夜くんにされる行為で気持ち悪くなることは気持ちいいから。嘘じゃないかも。柊夜くんが欲を向けてこないことを知っているおかげで、おれは安心して傷つくことを求められる。歪んでいる。おれはこの状況を愉しんでいた。
「へえ」
柊夜くんは緩慢な所作で立ち上がった。思わず後ずさる。自分の心臓の音が耳元で聞こえる。柊夜くんが近づいてきて向かい合った。相手の顔がすぐそこにある。怖い。擦りむいた皮膚がヒリヒリするような感覚。迫ってくる自らの生と高揚感。
柊夜くんが唇をおれの唇に重ねてきた。口の先だけ。他人の肉体がある、と思った。柊夜くんの唇は皮がめくれかけている所がある。おれの指先みたいな、わざとのやつではなくて自然にめくれたんだろう。解像度の高い他者の生におれの身体は耐えきれない。おれの内側で虫が蠢いた。生温い。ゆっくりと死んでいる。柊夜くんの行いによって最悪な気分になれるのが嬉しい。嫌悪感の刺激が心地いい。相手が柊夜くんだから。情報たちが脳を急速に駆け巡る。おれが気持ち悪さにじっくり浸るような暇もなく、すぐに唇は離れてしまった。二秒も経たないくらいだ。
「もう終わりっすか」
「え、えっと」
柊夜くんは困り顔でおれを見上げている。可愛い。苛々した。いいなあ、穢れを知らなさそうで。おれの中身とは丸きり違うきれいな人。今までそうやって生きてこれて、よかったね。
「好きですよ、柊夜くん」
おれは彼の左耳に口を寄せて囁いた。それからにっこりと笑顔を貼り付けて対面する。
「したくもないことを、おれのためにしてくれてありがとうございます」
「愛瀬?」
「このままだと、いつか壊れちゃいますよ」
けれどきっと本当は、おれなんかに壊されたりしないだろう。あんたはそういう人なんだ。おれが加害性を持って挑んでいることも気付いていない。善人で、手を繋ぐのもキスをするのも本当におれが行為そのものを望んでいると思っている。
「オレは別に無理してない」
柊夜くんはそっと、おれの髪を撫でた。柔らかな手つき。丁寧に慈しんでいる。その優しさがグロテスクで、おれの頭でチカチカと鋭い光が点滅した。刺されている。
「愛瀬の頼みを聞くのが好きだから」
柊夜くんが頭を撫でるのはやめて、おれを見つめる。傲慢だ。自分の正義に酔っている。柊夜くんはそう生きる自分自身を愛しているんだ。たった一人の人間にどれだけの力があると思っているのか。彼の尊大な精神を踏みつけたい。それは柊夜くんに勝ちたいのではなく、負けたいからだった。彼は踏みつけられても必ず立ち上がると信じているから。その強く気高い生命の輝きを鑑賞させてほしい。おれの願いはずっとそういうものだ。
「おれの頼みですか」
ねばりつくように呟き、おれは柊夜くんを見下ろした。彼の両の瞳に視線を注ぐ。あんたが見る世界はさぞかしきれいなんでしょう。すぐ傍に潜む悪意すら認識していないんですから。
「おれはね、付き合っている人と身体接触をしたって本当は嬉しくないんですよ。柊夜くんが彼氏になってから、手を繋ぐのを嫌に感じるようになりました。キスだって吐き気がします」
柊夜くんは自らの今までの奉仕が水の泡にされたら、一体どういう反応をするんだろう。高圧的に微笑んだ表情を作りながら、うっとりした。おれは柊夜くんを愛している。
おれから目を離さずに柊夜くんは瞬きを繰り返す。彼は口を開きかけたまま微妙な顔になっていた。黒い瞳が揺れている。おれの優越感がくすぐられた。
「愛瀬の考えてることが分からない」
しばしの静寂の後、やっと柊夜くんはそう言った。
