あまりの驚きにベッドから飛び起きる。寝ぼけ頭が一瞬で覚めた。スマホを見ながら何度も目を擦って通知を凝視した。通知の数が尋常じゃない。ケタ数が普段より多い。バグってるのか? アプリが壊れたのか?
「ちょっと待って、なんでこんなことになってんの?」
コメント数も桁外れだった。スクロールしてもしても、コメントが湧いてくる。
『え、待って、この写真めっちゃ好き』
『オシャレすぎるし、このコーディネート雨に晒すセンスやばい』
そんな書き込みだらけで、俺は目を疑った。これは本当に自分のアカウントだろうか。名前はhiasaになっている。そう、昨日変えた。間違いなく自分のアカウントだ。見るとフォロワー数も急激に増えていた。
「え、こっわ!」
俺は半笑いでそうぼやいて目を擦った。どう見ても五千を超えている。うわー。と思いながら自分の投稿を遡ると、それにもリアクションが増えていた。
特に、ナギに撮ってもらった写真に多くの〝いいね〟がついている。DMもたくさん来ていた。いくつか開いてみる。
『突然ごめんなさい! 傘の写真の雰囲気が本当に好きです』
そんなメッセージが多くを占めていたが、今全部は見切れない。
すごい、すごい。一気に注目の的だ。ナギはこれ見てくれてるかな。
そう思いながら支度を済ませて学校に向かった。教室に入ると、友達が俺を見るなりスマホから顔を上げ、駆け寄ってきた。
「お前、この投稿ヤバくない?」
「だろ? だろ!? もう通知が止まらないんだよ。マジでビビってる」
俺はそう言いながらスマホを取り出して見せた。みんなが興味津々という顔で覗き込んでくる。
「通知やばくね? エグいわー」
「そーなんだよ。コメントとDMがやばくて追えてない」
「うわー、むっかつくわー。有名人は違うね」
わざと嫌味を言われて小突かれたけど、悪い気はしなかった。朝から盛り上がっていると、ラインが鳴った。
見るとナギからだった。俺は「ちょっとライン来たから」と自分の席に座って内容を確認した。
『今日の昼、学食これる?』
嬉しい。昼の誘いなんて久しぶりだ。俺は爆速で『いける』と返すとすぐに既読がついて
『わかった』と返事が来た。
用件は言ってなかったけど、SNSを見て驚いてラインをくれたのかもしれない。俺はナギからの連絡があったことが単純に嬉しくて、昼が待ち遠しくて仕方なかった。
俺の通っている高校とナギの大学は、同じ敷地内にある。エスカレーター式の学校で、俺がここを受験した理由なんて今更言わなくてもいいだろ。それこそナギの部屋に入り浸って死ぬ気で勉強したんだ。
学食は学年関係なく利用できるから、いつも賑わっていた。安くて多くてウマいから人気なんだ。さすがに映えないし、こんなとこで撮ったら即身バレしそうだから普段なら撮らないけど、今日の俺は馬鹿みたいに浮かれていた。角席にいたナギを見つけ、駆け寄る。
「ナギ!」
「危ないから走らないで」
ナギはそう言いながら手をあげて、俺に座るよう促した。
教室を出たときもそうだけど、絶え間なく視線を感じる気がする。昼だからザワついてるってだけじゃない。バズったせいで、みんなが俺を見ているような気がした。俺はスマホを差し出す。
「ねぇ! 投稿見てくれた? すごいんだよ。それにナギが撮ってくれた写真、ぜんぶ〝いいね〟が増えてるんだ。また撮ってよ!」
俺はそう言って笑いかけた。でもナギはスマホを受け取らず、どこか神妙な面持ちで俺に差し戻した。
「……、なんだ。俺の初大バズりを喜んでくれたと思ったのに」
俺は口を尖らせて昼飯のうどんを啜った。ナギはテーブルの上で両手を組んだまま黙っている。昼は買ってないのかな。そう思ってると、ナギが静かに口を開いた。
「僕、もうヒナの写真は撮らない」
「なんで!?」
思わぬ返事に、俺は飯どころじゃなくなった。箸を置いて身を乗り出す。ナギは続けた。
「ヒナの投稿、見たよ。コメントもいいねも、見た」
「え、本当? すごいだろ。びっくりした。こんなに反応もらえるなんて」
俺は疑問を隅に置いて、ナギが投稿を見てくれたことを喜んだ。だからこそナギに写真を撮ってもらいたかったのに、なんで「もう撮らない」なんて言うんだろう。
「それなんだけど、気になるコメントがあって。ヒナ、大丈夫なのか?」
「え、何が?」俺は目を丸くして言った。
「急にこんなに注目されて。最初は、ヒナが楽しくやってるならいいかなって思ってたけど、こんなの見たらちょっと心配で」
ナギから想定外の言葉を聞かされて、俺は笑った。心配だなんて、大袈裟な。そんな態度が顔に出たのか、ナギが俺のスマホを睨んだ。思わず肩を縮こませてしまった。ナギは怒っているのか? なんで? どうして? 俺は言葉を探した。
「……俺、注目されるの好きだし。ナギも見ててくれて嬉しいし……。大丈夫だって。顔とか学校は完全にバレないようにしているし。そんな変なコメントだってないし」
言いながらコメントをスクロールし、俺は目を見張った。同じアカウントが連続で書き込みをしている。
『これ誰が撮ったの?』
『彼女いるの?』
『初期からファンです』
『この別荘みたいなの、自宅じゃないよね?笑』
『匂わせ写真ですか?』
『顔ぜんぶ見たいな』
どれもアカウント名はTUBASAだった。
長野での投稿にもコメントをくれたけど、こんな立て続けなのは初めてだ。俺はプロフィールを確認した。写真の投稿は一件もなく、性別も年齢もわからない。
身体を固まらせる俺を見て、ナギが「これなんだけど……」と自分のスマホを見せてきた。コメント欄のスクリーンショットだった。今見た以外にもコメントがあったようで、その内容に血の気が引いた。
『ヒナくんって、S高校のゾイちゃんの友達?顔出して映ってない?同一人物だよね?会いに行っていい?笑 写真とってあげるよ』
俺はゾっとしてスマホから顔を上げ、学食内を見まわした。どこかにTUBASAって人がいたらと思うと急に恐ろしくなった。まさか同じ高校の人のアカウントから特定されかけるなんて。S高ってのはつまり、東雲のことだ。顔が青ざめていくのが自分でもわかった。
「こんなコメント見て、心配しないほうが無理だから」
ナギはスマホを仕舞って言った。俺は反論できなかった。ナギは俺にでなく、この人に対して怒っているのだ。
「このTUBASAって人、こんなにコメント連投してるならDMとか来てるんじゃないの? そっちは大丈夫?」
「あ」
俺は声を漏らして、DM欄をクリックした。ナギが画面を覗き込んでくる。
『ヒナくん、コメント見てくれた? 急にバズって嬉しいけど悲しい。俺だけがヒナくん見てると思ったのに。あの写真誰が撮ったの? 俺の方が写真うまいから、今度撮らせてよ。もっとバズらせてあげるし、今度二人きりで会わない? いい話だと思うけどな』
俺はぞっとしてスマホを落としそうになった。手が震えていた。
え、何この人。めっちゃ怖いんだけど。
冗談でそう言えたら良かったけど、本当に怖かった。食堂の賑わいが、一気に遠ざかる。オシャレしてコーディネートをアップして、ちょっと人気が出ればいいと思ってた。ナギが見てくれたらいいと思ってた。こんな怖い気持ちになるなんて思ってもみなかった。食欲が一気に失せて、昼飯が喉を通らなくなった。
「ナギ、どうしよう。俺、……」
言葉が続かなかった。ナギは俺の頭を撫でて言った。
「その人がどこまで本気かわからないけど、純粋にヒナを応援したいっていうよりかは、ちょっと一方的って感じがするよね」
俺はこくりと頷いた。俺は別に、この見知らぬ人に写真なんて撮ってほしくない。もちろん二人でなんて会いたくもない。
「ヒナは、そのアカウント続けたいの?」
ナギが聞いた。俺は「わからない」と言った。SNSの活動は好きだ。実際楽しいし、オシャレな人とも繋がれる。『コーディネート参考にしてます』なんてコメントが来たときは本当に嬉しい。浮かれてる場合じゃないけど、ナギだって見てくれてる。でも、この手の反応は想定外だ。
「でも、少し、投稿は休もうかな」
アカウントを削除する、と言わなかった俺に、ナギは少しだけ落胆したような顔をしてみせた。「そうか」と言って溜息をつく。
「ヒナが頑張って投稿してたの知ってたから、消して、なんて簡単に言えないけど……」
ナギはそう言って黙ってしまった。楽しいはずのナギとの昼が、まるでお通夜だ。
「とにかくさ、一人で出歩かないで。この人がどこまで本気かわからないけど、本当だったら冗談じゃすまないから」
「うん」
「日中は、なるべく友達と過ごすこと」
「うん」
「今日は、一緒に帰ろう。送っていくから」
「え、でも……。友達と帰ればいいし」
ナギは首を横に振った。
「いや、おれが送ってく。講義の関係で少し待たせちゃうかもしれないけど」
「そしたら図書館で待ってる。人もいるからたぶん平気。課題も出てるし」
「わかった」
ナギはそう言って、まずは俺を高校の校舎まで送ってくれた。
高校側にはめったに姿を現さない大学生の登場に、女子たちが湧いた。黒髪褐色で背の高いナギは、一瞬で注目の的になった。
「ヒナっち、この人誰?」
さっそく女子が詰め寄ってくる。俺は「隣に住んでる馴染みの……」まで言いかけて、なんと言うべきか迷った。「馴染みのお兄ちゃん」にはしたくない。でも仲は良くても付き合ってるわけではない。かといって「片思いしてる」なんて言えない。
結局俺はナギの事を「お兄ちゃん友達」と言って紹介した。すると、女子たちがさっそくナギと俺にカメラを向けた。俺はとっさにナギを隠した。
「勝手に撮らないでよ」
俺は冗談交じりに牽制した。「俺のイケメンが世に放たれたら、それこそ大バズりしちゃうから」と言って写真を消すようお願いした。ナギも「僕、写真って恥ずかしいから、ごめんね」とやんわり声をかけ、女子に笑顔を向けた。
ナギの笑顔が他の人たちに向けられるのは本当に本当に嫌だったけど、写真を撮らせないためだ。ナギのフォルムを、しかとその目に焼き付けるがいい。
ナギはお礼を言うと、俺に目配せをしながら大学校舎に戻っていった。すると女子は、俺とツーショットを撮り出した。「イケメン取り逃したから話題の傘男をゲットー★」なんて言って、あっという間にSNSにアップした。
まずい、と思った。
顔出しついでに制服着た状態でSNSに上がったら、特定されてしまうかもしれない。
「消して」と言う前に、女子はチャイムと共に校舎に走って戻ってしまった。
もっとまずいことに、この後は移動教室だ。さっきの女子とは教室が違う。すぐに消してもらうことができない。
俺は少し怖くなった。もしTUBASAって人がさっきの写真を見たら……。
そして、いやいや、そんな大袈裟な。と頭を振った。
俺はただの高校生で、芸能人でもなんでもない。ただオシャレに興味があるってだけ。そんな人を、誰が本気で特定しにくる? そんな暇な奴いないって……。
そう思い込みながら五十分を過ごし、移動教室から戻った女子に事情を説明して、なんとか写真を消してもらったけど、既にその投稿にはリアクションが残っていた。
まさかTUBASAって人が見てるわけないよな。だって怒られるかもしれないけど、この子のアカウント、そこまで目立ってるわけじゃないし。そんな考えを巡らせて、大丈夫と思い込もうとしていたけど、俺は自分のアカウントを開くのが怖くてたまらなかった。
早くナギに会いたい。俺は放課後を人がまばらな図書館で過ごしながら、ナギの講義が終わるのを待った。学内にあるこの図書館は、受付で学生証を見せてゲートを通る仕組みになっているから、外部の人間が入るのは難しい。
だから安全なはずなのに、やろうと思った課題を広げてみても全然集中できなかった。
結局、ペンでノートをコツコツノックしながら時計ばかり気にしてしまう。ナギの講義が終わるまで、あと少し。
すると、俺が座っている席の正面の椅子を、誰かが引いた。こんなに空いてるのに、なんでわざわざ正面に? 疑問が不安に切り替わったと同時に男と目が合い、俺は一瞬、息を止めた。
男は、嬉しそうに目を細めて笑っている。どこか馴れ馴れしい表情に、俺の背筋が凍り付いた。掴んでいたペンを落とす。こつん、と音がして、俺はようやく息を吸った。
俺の驚いた顔を見て、男はニヤニヤしながら「ねぇねぇ、俺のこと、わかる?」と聞いてきた。
俺は反応ができなかった。こいつ、どうやって入って来た? いや、どうやって特定した? 何も言葉を発せない俺を見て、男は照れくさそうにニヤけて小声で言った。
「実はさ、ヒナくんのさ、投稿ずっと見ててさ。あ、俺、TUBASAってアカウント名なの、わかる? オシャレな子だなって。気づいたら目で追ってたからさ。気になっちゃって。こいつはいつか化けるぞって思ったらやっぱりバズったから、俺の目に狂いはなかったっていうか。そしたら別の子のアカウントに顔がアップされてたから、学校調べちゃった。東雲っぽかったから、東雲の制服着てる子のアカウントを片っ端からフォローしてね。そしたらびっくり。ヒナくん、ホントに東雲だったんだね。この辺で張っててよかったよ。俺、探偵になれると思わない? 学校中歩き回って見つけて、俺が、びっくりしちゃった。ちょうどさ、受付の人が離席してたから、あのゲート乗り越えてきちゃったよ。案外簡単だね。だって本当に会えるなんて、運命じゃない? そうだよね」
男が興奮しながらそう言って手を伸ばしてきたから、俺は逃げるように身を引いた。教科書やノートがバサバサと床に落ちる音が、静かな館内に響いた。一度、視線が集まる。
男は咄嗟に被っていたキャップを押さえて顔を隠した。よく見たら手ぶらで来ているし、服装も全然学生らしくない。いかにも怪しい。なんで皆、不思議に思わない? 男は人差し指を自分の口に添えて「しーっ」と楽しそうに声を潜めた。
「そう警戒しないで。だいじょうぶ、こわくないから」
「……通報しますよ」
俺が震えた声でそう言うと、男は肩を震わせて笑った。
「怖がってる顔もかわいい。ねぇ、写真撮らせてよ。俺、いいカメラ持ってるから、もっとバズらせてあげるよ。いい話だと思わない? ねぇ、どこか二人きりになれる場所に行こうよ。いいでしょ? せっかく会えたんだしさ」
男はにこやかにそう言いながら、ぐいっと身を乗り出してきた。その手にはスマホが握られている。俺は驚いて立ち上がり、荷物を置いたまま図書館を飛び出した。怖くて声が出なかった。「通報して!」って叫びたかったのに声が詰まって、走ることしか出来なかった。身体が動いただけでもマシだったかもしれない。
すると「待ってよー!」と言いながら男が追いかけてくる。
誰か、何かおかしいと気づいてくれ。そう祈ることしか出来ず、俺は階段を駆け降り、大学の校舎へ急いだ。俺が本気で逃げてることを悟ったのか、男も全速力で追いかけてくる。走りながら振り返る。「写真とらせてよー」と声をあげてヘラヘラ笑っていた。
「やだ、やだやだ、絶対やだ!」
俺はそうぼやきながら走り続けた。大学の校舎に駈け込んで来た制服姿の俺を、大学生のみんなが不思議そうな顔で見ていた。
そりゃそうだ。高校生がこっちの学舎に何の用事だって感じだし、こんなに血相変えて走ってくるなんてただ事じゃない。徐々に異変に気づいた学生たちの中に、俺はナギの姿を探した。
いない、いない、いない! なんでいない? もう講義が終わる頃じゃないの?
立ち止まった俺の肩が、乱暴に掴まれる。驚いて振り返ると、ニヤニヤした顔の男が立っていた。
「あんまりオオゴトにしないでよー。写真とってあげるって言ってるだけじゃん?」
「離せよ……」
振り解こうとしたけど、男の力は想像以上に強くて、ビクともしない。俺はとうとう半泣きで「ナギ」と名前を呼んだ。
その瞬間、男の身体が吹っ飛んでいた。
驚いた学生たちが声をあげている。見ると、男はフロアに倒れて尻もちをついていた。顔を隠していたキャップが飛んで行って、顔があらわになる。少なくとも学生には見えなかった。男は何が起きたのか理解できないまま眉間に皺を寄せて困惑していたが、急にキっと俺の方を睨んだ。怖くて後ずさりすると、身体が支えられる。
見上げると、そこにはナギがいた。俺は泣きそうになった。ナギは俺の肩に手を回し、顔を覗き込みながら「大丈夫か」と言った。俺はこくりと頷いて、今度こそナギに抱きついた。ナギは俺の頭を撫でて「遅くなってごめん」と言うと、俺を自分の後ろに隠すようにして、鋭い視線を男に向けた。
「あんたもしかして、しつこいコメントしてた奴?」
すると男は、ありったけの不満を顔面に貼り付けて、腕を振り回して反論してくる。
「なんだよ、誰でもいいだろ! おまえこそなんだよ。メガネのくせに。ヒナくんのなんなんだよ。いきなり殴ってくるなんて、訴えてやる」
「やってみろ。そのまえに警備に突き出してやる。誰か!」
ナギが声を張った。普段見ることのない堂々とした姿と振舞いに、俺はナギの後ろで驚くことしかできなかった。
「誰か! 警備の人を呼んでください! お願いします。不法侵入者がいます」
周囲がざわつきだした。最初は、ただのいざこざか、ケンカだと思われていたのかもしれない。みんな遠巻きにこちらを眺めているだけだった。しかし徐々に異変に気づき、警備、警備呼んで!と声をあげてくれた。
すると、座り込んだままの男は、まるで駄々をこねるようにフロアで足をジタバタさせた。
「なんでだよ! ヒナくん、俺なにか悪いことした? 写真とってあげるだけじゃん! なんでだよ。こんなに好きなのに!」
悪びれることもなく喚く男を前に、俺は再び恐怖した。
するとナギがゆっくりゆっくり男に歩み寄った。膝をついて、男を覗き込むように顔を近づけた。
「……あんた、これ以上おれのヒナを怖がらせないでほしい。好きだからって理由で何でも許されるなら、嫌がってる相手に何をしてもいいことになる。そんなのおれが許さない。二度とヒナに近づくな。わかったか」
ナギはそう忠告して立ち上がり、男に背を向けた。すると駆けつけた警備が男を囲み、再び喚く男を野次馬が取り囲むと、男の姿は見えなくなった。
ナギは、半泣きで呆然としている俺の目元を指先で拭って笑いかけた。涙を抑えきれなくなった俺の肩を抱きながら学舎を出て、近くのベンチに腰かけた。そして俺が泣き止むまでずっと俺の背中を擦った。
ナギの手を掴むと、少し震えていた。ナギは困ったように笑みを浮かべて、「どうしよう。僕、生まれて初めて人を張り倒しちゃった。捕まっちゃうかな」と言った。ナギも怖かったんだと思うと、俺は自分の不甲斐なさに更に涙を零した。
俺たちはこの後、警備室に通され、大急ぎでやって来た両親と警察に事情を話した。俺は親の顔をきちんと見ることができなかった。いつも陽気な父さんは腕を組んで黙って話を聞いていたし、母さんは泣きそうな顔をしていた。ナギは図書館から俺の荷物を回収して戻ると、ずっと俺の両親に謝っていた。ナギは何も悪くないのに。
泣き腫らした俺の顔を見て、ナギは優しく笑ってくれた。俺はあの男との関係を聞かれ、SNSでフォローされてる以外の接点はなく、全くの他人だと伝えた。そして男には、二度と俺に近づかないように警告をしたと報告された。
俺のためとはいえ、咄嗟に男を殴ってしまったナギも聴取を受けたが、正当防衛と見なされて注意だけで済んだ。俺はほっとして、また泣いてしまった。
家に帰る頃にはヘトヘトで、俺は疲れた顔のまま風呂に入り、リビングでぼうっとしながら過ごした。
昨日から今日にかけて、何が起きたのかわからなくなっていた。
父さんがやってきて、「寝ないのか?」と聞いた。「寝る。あと、迷惑かけてごめんなさい」と言うと、父さんは「またゆっくりな」と言って、いそいそと寝室に戻っていった。

