夜明け前の井戸水は、手が凍りそうなほど冷たい。
帝都の朝晩は、近頃すっかり冷え込むようになってしまった。光莉のいる九十九家の広大な屋敷を囲む木々も少しずつ色づき始めて、今が盛りとばかりに甘い香りを漂わせている。
もっとも、光莉にとっては、春も夏も秋も冬も大して変わりはしないが。暑かろうが寒かろうが、夜が明けるより先に起き出して、屋敷中の雑用をこなさなければならないことに違いはない。
「……っ」
水を張ったたらいに手を差し入れると、鋭い痛みが走った。
手の全体が赤くなっている。昨日、〝厄受け〟でできた傷だ。光莉は傷の治りが早いとはいえ、一日で治るわけではない。
光莉はしばらくその指を見つめていたが、痛みに耐え、再び水の中に手を沈めた。
休む間もなく働いているうちに、淡い日差しが差し込んで、廊下の板に柔らかな光を落とし始めた。
光莉は雑巾がけした廊下の仕上がりをざっと確かめ、ほっと息をついた。
これで、ようやく朝の仕事が一段落した。
あとは台所へ戻って昼餉の支度を手伝えば、少しだけ休憩をもらえるかもしれない。
そう思い、使い終わった雑巾を手桶に入れた――その時だった。
「あらあ、光莉さん。こんなところにいたのね」
振り返ると、廊下の向こうから女中の集団が歩いてくるところだった。
集団の中心にいるのは、翠という女中である。
光莉と同じくこの九十九家に仕える人間で、年の頃は十六。女中にしては随分と華やかな装いであるが、彼女がそれを咎められることはない。
翠は九十九家の長男である宗一郎に気に入られており、屋敷の中でも特別な扱いを受けているからだ。
「……おはようございます。翠さん」
光莉が頭を下げると、翠は返事もせずに廊下を見渡した。
「やっと終わったの?」
「はい。こちらの廊下は、全て拭き終わりました」
「ふうん……」
翠は光莉の横を通り過ぎると、磨き上げられた床板を眺めながらゆっくりと歩き始めた。そして、何か思いついたように足を止める。
「あら、ここ、汚れているじゃない」
「えっ?」
光莉が慌てて近寄ると、翠は足元を指さした。
しかし、そこには汚れらしいものなど見当たらない。朝から何度も雑巾を往復させ、木目の隙間まで丁寧に拭いたのだから、当然だった。
「……どちらでしょうか」
「ここよ、ここ。目が悪いの?」
光莉は翠に指さされたところを確かめようと、光莉は床に両手をつき、顔を近づけた。
そのとき。
「……っ!」
突然、後頭部に強い衝撃が走った。顔を床に押しつけられる。鼻先が硬い床板にぶつかった。
「あらあ、ごめんなさい。そこに頭があるなんて思わなかったわ」
頭上から、翠の楽しそうな声が降ってきた。
どうやら翠は、光莉の後頭部を足で踏みつけているらしい。足袋越しに伝わってくる重みが、ぐいぐいと頭を押さえつけ、身じろぎすることさえままならない。
「翠さん……っ痛い、です……」
「何よ、大げさね。あんた、怪我なんてすぐ治るし、これくらいで死んだりしないんでしょう?」
翠はそう言うと、さらに足に力を込めた。逃れようと両手を突っ張っても、頭を押さえつけられているせいで、うまく身体を起こすことができない。
「皆さん、見て。床に這いつくばって、まるで犬みたい」
「きゃはは、下品~」
「いっそ、そのまま廊下を舐めて綺麗にしたらどうかしら。雑巾を使うよりよっぽど早いんじゃない?」
翠の後ろに控えていた女中たちが、一斉に笑い声を上げた。
光莉はぎゅっと目を閉じた。涙が滲みそうになる。痛みもさることながら、人前でこんな仕打ちを受けていることが、何よりも恥ずかしかった。
「……お願いします。足を、退けてください……」
「嫌よ。だって、まだ汚れを見つけられていないでしょう?」
翠は愉快そうに笑った。
「ちゃんと見つけるまで、顔を上げちゃ駄目よ」
光莉は何も言い返せなかった。早くこの時間が過ぎ去ってくれることを願いながら、冷たい床板に頬を押しつけられたまま、じっと耐えるしかなかった。
そのうち、翠は飽きたように足を離した。
光莉はようやく顔を上げることができた。
「ほんと、あんたって便利よねえ。何を言われても逆らわないし、いくら働かせても文句一つ言わないんだもの。それに、どうせ疲れたって死にはしないんでしょう? 羨ましいわ。あたしなんて、少し働いただけで身体が痛くなっちゃうのに」
そう言いながら、翠はわざとらしく自分の肩を揉んでみせる。
「ねえ、光莉。あんた、今年でいくつになったんだっけ?」
「……二十八です」
「まあ! あたしより年上なの?」
翠は大げさに目を見開いた。
「でも、どう見たって小娘よね。十年も同じ顔だなんて、本当に気味が悪いわ。さすが、化け物を身に宿した混じり物ね」
「……」
「何よ、その顔。本当のことじゃない」
翠は鼻で笑うと、光莉の前にしゃがみ込んだ。
「可哀想よねえ。あたしたちはいずれ嫁いで、子供を産んで、幸せな家庭を築けるけれど、あんたは一生その姿のままでしょう? どこの殿方が、そんな気味の悪い女を妻に迎えたいと思うのかしら」
結婚や家庭という言葉は、今の光莉にとって、あまりにも遠いものだ。
かつては光莉も、いつか誰かと夫婦になり、子供を育てる日が来るのだろうと漠然と思っていた。けれど、十八歳から少しも姿が変わらなくなってしまった今、そんな未来を思い描くことすら難しくなっていた。
「そうそう。私の部屋の掃除もお願いね。昨日、宗一郎様からいただいたお着物があるの。汚したら承知しないから、丁寧に扱ってちょうだい」
「……はい」
「それから、あたしの洗濯物も。今日は午後からお出かけする予定があるから、それまでに終わらせておいて」
「あの、翠さん。午後は奥方様から、客間の掃除をするようにと……」
「だから何?」
翠の声が、すっと低くなった。
光莉は慌てて口を閉ざす。
「まさか、あたしの頼みを断るつもり?」
「い、いえ。ただ、奥方様のお言いつけもありますので、少しお時間をいただければと……」
「ふうん。そう」
翠はしばらく光莉を見下ろしていたが、ふっと意地の悪い笑みを浮かべた。
「だったら、宗一郎様にお願いしてみようかしら。光莉があたしの言うことを聞いてくれないんです~って」
「……っ」
その名を聞き、寒気がした。
九十九家の長男である宗一郎は、この屋敷の中で最も厳しい人物である。彼は翠のことを溺愛しているので、翠の告げ口なら聞くだろう。そして、光莉が翠に歯向かったとなれば、光莉に手を上げる。
宗一郎の存在が、光莉が翠に逆らえない理由になっていた。
「……分かりました。お部屋のお掃除も、お洗濯も、私がいたします」
「ふん。最初からそう言えばいいのよ」
翠は勝ち誇ったように微笑んだ。
そして、わざとらしく手桶に手をかけて、それをひっくり返した。ばしゃっと、中に残っていた水が、床いっぱいに広がる。
せっかく磨き上げた廊下が、みるみるうちに水浸しになっていった。
「あら、ごめんなさい。当たっちゃったみたい。でも、ちょうどよかったじゃない。もう一度、綺麗に拭けるんだから」
光莉は、呆然と濡れた床を見つめた。
朝から何時間もかけて磨き上げた廊下。最初から全て、やり直しだ。
「……はい」
光莉は小さく頷き、雑巾を絞り直した。
小夜は光莉の反応に飽きたのか、鼻歌交じりに廊下を歩き去っていった。
女中たちの群れの足音が聞こえなくなってから、光莉はようやく深い溜息を吐いた。
最近は、嫌がらせがますます酷くなっているような気がする。
──私がこんな、気味の悪い身体だからいけないのだ。
今は、とにかく仕事を終わらせなければ。
光莉は濡れた床に雑巾を押し当て、もう一度、端から丁寧に拭き始めた。
光莉は不老不死である。
きっかけは、幼い頃に暮らしていた村に祀られていた、魔物に憑かれたことだった。
魔物は、この世に満ちる邪気が凝り固まり、意思を持つようになった存在である。
人の恨みや憎しみ、死者の無念、あるいは長い年月を経た土地の穢れなどを糧として生まれ、人々の暮らしに災いをもたらす。姿形はさまざまで、獣のようなものもいれば、人に化けるもの、目には見えず、病や不幸をもたらすものもいる。中には、人々から神として崇められ、祠に祀られているものもある。
その魔物を倒すのが、退魔師だ。
退魔師は古くから続く術者の一族で、特別な術を用いて魔物を祓い、呪いを解くことを生業としている。魔物の被害が絶えないこの国では、退魔師は人々の暮らしに欠かせない存在であり、強大な魔物を祓う力を持つ家系は、国からも特別扱いを受けている。
九十九家も、そうした退魔の名門の一つである。
光莉に取り憑いた魔物は村にいるどの退魔師にも祓えなかった。
魔物に憑かれた光莉は、半分が魔物で、半分が人間という状態である。だからか、それ以降、どんな怪我をしても治るようになってしまった。
村の者が光莉を心配し、強力な退魔師の家系である九十九家を呼んでくれた。九十九家の退魔師たちは、光莉を九十九家で引き取ると言い始めた。
当初、光莉は九十九家を信じていた。
光莉の身に宿る憑き物を落とすために、本格的に術を施すため、九十九家に引き取るのだと。そのうち、故郷の村に帰してくれるだろうと。
けれど、九十九家が光莉を引き取った本当の理由は他にあった。
退魔師は魔物を祓う際、時にその邪気を浴び、呪いを受けることがある。呪いは黒い痣となって身体に残り、数日間にわたって激しい痛みをもたらす。重いものになると、命に関わることもある。
九十九家の人々は、その呪いを光莉に肩代わりさせようと考えたらしい。
魔物に取り憑かれた光莉は、普通の人間よりもはるかに傷の治りが早い。退魔師たちが受けた呪いを光莉の身体へ移せば、彼らは早期に回復し、再び任務に赴くことができる。光莉がどれほど苦しもうとも、いずれ身体は元に戻るのだから、九十九家にとっては何の不都合もなかった。
そうして光莉は、退魔師たちの呪いを引き受ける〝厄受けの乙女〟となった。
屋敷に来たばかりの頃は、いずれ憑き物を祓ってもらえるものと信じていた。けれど、何年経ってもその日は訪れず、そのまま十年もの月日が流れた。
今ではもう、九十九家の誰も、光莉の憑き物を祓おうとはしていない。
むしろ、光莉がこの身体でなくなれば困るのだろう。
みんな、光莉のことを都合の良い厄受けだと思っている。
いや――昔、たった一人だけ、例外がいた。
光莉は、ふと懐かしい少年の顔を思い浮かべた。
あれは、光莉が九十九家に引き取られて、まだ間もない頃のことだ。
春の終わり、庭のつつじが色鮮やかな花を咲かせていた。
光莉は人目を避けるように、屋敷の裏手にある縁側に腰を下ろしていた。
その日の朝、退魔師が持ち帰った呪いを引き受けたばかりだった。呪いを移された右腕は、肘から指先にかけて赤黒く腫れ上がり、ところどころ皮膚が爛れている。
しばらくすれば治るのだから、誰も手当てなどしてくれなかった。
光莉は傷ついた右腕を膝の上に載せ、左手でおにぎりを持ち上げた。昼餉の時間をとうに過ぎていたため、台所に残っていた冷や飯を握ってもらったのだ。具も海苔もない、塩をまぶしただけの小さなおにぎりだったが、朝から何も口にしていなかった光莉にとっては、ありがたい食事だった。
けれど、ひと口かじったところで、腕に鋭い痛みが走った。
「痛……っ」
膝の上で右腕を抱え込む。爛れた皮膚の下で、何かが蠢いているような気がした。呪いが身体に馴染むまで、こうした痛みが何度も襲ってくるのだという。
光莉はしばらくじっと耐えていたが、しばらくして痛みが和らぐと、再びおにぎりを口に運んだ。
泣いても、どうにもならない。
それなら、せめてお腹を満たしておこうと思ったのだ。
「何してるの」
不意に声をかけられ、光莉はびくりと肩を震わせた。
振り返ると、縁側の端に小さな男の子が立っていた。年は十歳ほどだろうか。上等な着物をきちんと着こなし、艶やかな黒髪を整えている。幼さの残る顔立ちに、どこか気品が漂っていた。
――九十九家本家の次男である、九十九仁都だ。


