石畳の道を進む。
両脇に並ぶ家々は、どれも古い。
だが、朽ちてはいなかった。
壁も屋根も手入れが行き届いていて、庭先には花が植えられている家すらある。
人が住んでいるのは間違いない。
なのに――誰も出てこない。
窓の障子が、時折ほんの数センチだけ動く。
そのたびに、視線が増える。
俺は前を向いたまま歩いた。
それでも、視界の端に映るものまでは避けられない。
その時だった。
「およめさん?」
道の脇から、小さな声がした。
思わず視線を向ける。
五歳か六歳くらいの女の子が、家の垣根から顔を出していた。
好奇心いっぱいの目で、俺たちを――正確には、橘を見上げている。
「え?」
橘が思わず立ち止まった。
「およめさんじゃないの?」
女の子はそう言って、こてんと首を傾げる。
「まちからひとがくるのは、およめさんかおむこさんだけって、おばあちゃんがいってた」
「……そう、なんだ」
橘が困ったように微笑む。
その反応に気を良くしたのか、女の子は垣根から身を乗り出した。
「ねえねえ、おねえちゃんはどこからきたの?」
「学園から――」
「橘」
烏廻さんが低く呼んだ。
橘が口を閉じる。
だが、女の子はもう止まらなかった。
「がくえん? じゃあ、サラおねえちゃんとおなじ?」
その名前に、俺は思わず振り返った。
「サラを知ってるのか」
「しってるよ! サラおねえちゃん、まえにあそんでくれたもん!」
女の子は嬉しそうに声を弾ませた。
「でもね、こんどはもうあそべないんだって」
「……どういう意味だ?」
「えっとね、おかあさんが――」
その瞬間だった。
家の中から手が伸びてきて、女の子の腕を掴んだ。
「ミナ」
低い、女の声だった。
「あ、おかあさん。あのね、このひとたち――」
「中に入りなさい」
その声には、有無を言わせない硬さがあった。
女の子は不満そうに口を尖らせたが、結局引きずられるように家の中へ消えていく。
最後に一度だけ、こちらを振り返った。
その顔には、まだ何かを言いたそうな色が残っていた。
母親らしき女が、こちらを見た。
目が合う。
その表情には――怒りも敵意もなかった。
ただ、ひどく疲れた顔をしていた。
女は無言で頭を下げると、障子を閉めた。
それきり、物音一つしなくなった。
「……桐宮君」
橘が、俺のすぐ後ろで小さく囁いた。
「分かってる」
俺も小声で返す。
――もうあそべないんだって。
あの子は、そう言った。
誰が、そう教えたんだ。
なぜ、そう教える必要があった。
この場所は、おかしい。
人がいるのに、生活の音がしない。
あの子以外、誰も出てこない。
まるで、全員が息を潜めているような――。
いや。
違うのかもしれない。
もしかしたら、これがこの場所では普通なのか。
その考えの方が、よほど気味が悪かった。
歩きながら、俺は周囲を観察する。
どの家も、造りがほとんど同じだ。
大きさも、屋根の形もよく似ている。
まるで、同じ設計図を基に建てられたようだった。
道は緩やかに登っている。
斜面に沿って、家々が段々に並んでいた。
十分ほど歩いた頃、前方に人影が見えた。
道の真ん中に、一人の男が立っている。
三十代くらいだろうか。作務衣のような濃い色の服を着ていた。
烏廻さんが足を止める。
俺たちもそれに続いた。
「星雲魔術師学園の方でございますね」
男が頭を下げた。
その動作は丁寧で、口調も穏やかだった。
「ええ。担任の烏廻です」
「お待ちしておりました。ご案内いたします」
男はそう言うと、身を翻して歩き出した。
名乗りもしない。
こちらの名前を確認することもしなかった。
最初から、俺たちが誰なのか分かっているようだった。
「……あの」
橘が声をかける。
「なんでしょうか」
「サラちゃん……サラ・クロイツさんは、いらっしゃいますか」
男は歩みを止めずに答えた。
「サラ様のことは、当主より直接お話がございます」
「でも――」
「橘」
烏廻さんが短く制した。
橘が口をつぐむ。
男は、何も聞こえなかったかのように歩き続けた。
――サラ様。
その呼び方が、耳に残った。
俺たちが普段呼んでいる『サラ』とは、まるで違う響きだ。
少なくとも、この場所ではサラは『様』を付けて呼ばれる立場にいるらしい。
あの、いつも騒がしくて、みんなの輪の中心で笑っていたあいつが。
やがて、道の突き当たりに大きな建物が見えてきた。
他の家々とは明らかに規模が違う。
平屋だが横に長く、黒い瓦屋根が重々しく伸びている。
周囲には低い塀が巡らされ、正面には両開きの門があった。
門の前には、二人の男が立っていた。
どちらも同じような服装で、俺たちを見ても表情を変えない。
「こちらでございます」
案内の男が門をくぐる。
門番の二人が、無言で頭を下げた。
敷地内は広い庭になっていた。
砂利が敷き詰められ、隅には松が数本植えられている。
手入れは行き届いているが、色彩がない。
花も、飾りも、何もなかった。
里の家々には花が植えられていたのに、ここには一輪もない。
その対比が、妙に引っかかった。
建物の正面まで来ると、男は縁側の前で足を止めた。
「お履物はそのままで結構です。こちらへ」
案内されたのは、庭に面した広間だった。
二十畳はありそうな畳敷きの部屋だ。
だが、家具らしい家具はない。
床の間に掛け軸が一つ。
中央には座布団が三枚。
その正面には、一枚だけ別の座布団が置かれている。
最初から、俺たちを迎える準備がされていた。
「こちらでお待ちください」
男はそう言って、襖を閉めた。
足音が遠ざかっていく。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……烏廻さん」
やがて、俺は小声で呼びかけた。
「なんだ」
「あの案内の人、俺たちが誰か確認しませんでしたよね」
「ああ」
「座布団も、最初から三枚です」
「そうだな」
烏廻さんは庭の方を見たまま答える。
「向こうは、俺たちが三人で来ることを知っていた」
「連絡したんですか?」
「人数までは伝えていない」
俺は息を呑んだ。
「じゃあ、どうして」
「さあな」
烏廻さんは短く答える。
だが、その横顔には僅かな緊張があった。
この人でも、この状況を測りかねているらしい。
「……あの、烏廻先生」
橘が口を開いた。
「なんだ」
「さっきの女の子、サラちゃんと遊んだことがあるって言ってましたよね」
「ああ」
「ということは、サラちゃんは前にもここへ帰ってきたことがあるんですよね」
「少なくとも、あの子の話が本当ならな」
「……なのに」
橘は膝の上で手を握りしめた。
「もう遊べない、って」
「その話は後だ」
烏廻さんが遮る。
「今は、聞かれてると思って話せ」
橘が、はっとしたように口を閉じた。
俺も思わず周囲を見回す。
襖の向こうに、人の気配はない。
だが、この家の造りなら、隣の部屋にいれば会話は筒抜けだろう。
「二人とも」
烏廻さんが、こちらを見ずに言った。
「これから会うのは、クロイツの当主だ」
「……はい」
「話すのは俺だ。お前らは黙って聞いていろ」
「でも――」
「桐宮」
烏廻さんの声が、僅かに鋭くなった。
「今日の目的は何だ」
「……サラに会うことです」
「違う」
「え?」
「今日の目的は、無事に三人で帰ることだ」
烏廻さんは、そこで初めてこちらを見た。
「その上で、会えるなら会う。話が聞けるなら聞く。だが、優先順位を間違えるな」
「……」
「分かったか」
「……はい」
俺は頷いた。
納得したわけじゃない。
だが、この人の言うことは正しい。
庭の方から、鹿威しの音が一つ鳴った。
その音が、やけに大きく響く。
それ以外の音は、何も聞こえない。
鳥の声も、風の音も。
――やっぱり、静かすぎる。
どれくらい待っただろう。
十分か、二十分か。
時計を見る気にもなれなかった。
その時だった。
廊下から、足音が聞こえてきた。
一人分。
ゆっくりとした、落ち着いた歩調。
襖の前で、その足音が止まる。
「失礼いたします」
女の声だった。
襖が、静かに開く。
そこに立っていたのは――一人の女性だった。
年の頃は四十前後だろうか。
濃紺の着物をきっちりと着こなし、髪を後ろで結い上げている。
姿勢は真っ直ぐで、隙がない。
そして。
その髪は、淡い桃色だった。
サラと同じ色の。
「……あ」
橘が、小さく声を漏らした。
女性は静かに部屋へ入ると、正面の座布団の前で膝をついた。
そして、深く一礼する。
「遠路はるばる、ようこそおいでくださいました」
その所作は、完璧だった。
「クロイツ家当主、エルフリーデ・クロイツと申します」
顔を上げた女性を見て、俺は息を呑んだ。
淡い桃色の髪。
目元や顔立ちにも、どこかサラの面影がある。
だが。
サラのような明るさは、その表情にはなかった。
「サラの、母でございます」
その一言に、部屋の空気が変わった気がした。
俺は拳を握りしめる。
――お母さんとは会わない方がいいよ。
サラが橘に言ったという言葉が、頭の中で反響していた。
両脇に並ぶ家々は、どれも古い。
だが、朽ちてはいなかった。
壁も屋根も手入れが行き届いていて、庭先には花が植えられている家すらある。
人が住んでいるのは間違いない。
なのに――誰も出てこない。
窓の障子が、時折ほんの数センチだけ動く。
そのたびに、視線が増える。
俺は前を向いたまま歩いた。
それでも、視界の端に映るものまでは避けられない。
その時だった。
「およめさん?」
道の脇から、小さな声がした。
思わず視線を向ける。
五歳か六歳くらいの女の子が、家の垣根から顔を出していた。
好奇心いっぱいの目で、俺たちを――正確には、橘を見上げている。
「え?」
橘が思わず立ち止まった。
「およめさんじゃないの?」
女の子はそう言って、こてんと首を傾げる。
「まちからひとがくるのは、およめさんかおむこさんだけって、おばあちゃんがいってた」
「……そう、なんだ」
橘が困ったように微笑む。
その反応に気を良くしたのか、女の子は垣根から身を乗り出した。
「ねえねえ、おねえちゃんはどこからきたの?」
「学園から――」
「橘」
烏廻さんが低く呼んだ。
橘が口を閉じる。
だが、女の子はもう止まらなかった。
「がくえん? じゃあ、サラおねえちゃんとおなじ?」
その名前に、俺は思わず振り返った。
「サラを知ってるのか」
「しってるよ! サラおねえちゃん、まえにあそんでくれたもん!」
女の子は嬉しそうに声を弾ませた。
「でもね、こんどはもうあそべないんだって」
「……どういう意味だ?」
「えっとね、おかあさんが――」
その瞬間だった。
家の中から手が伸びてきて、女の子の腕を掴んだ。
「ミナ」
低い、女の声だった。
「あ、おかあさん。あのね、このひとたち――」
「中に入りなさい」
その声には、有無を言わせない硬さがあった。
女の子は不満そうに口を尖らせたが、結局引きずられるように家の中へ消えていく。
最後に一度だけ、こちらを振り返った。
その顔には、まだ何かを言いたそうな色が残っていた。
母親らしき女が、こちらを見た。
目が合う。
その表情には――怒りも敵意もなかった。
ただ、ひどく疲れた顔をしていた。
女は無言で頭を下げると、障子を閉めた。
それきり、物音一つしなくなった。
「……桐宮君」
橘が、俺のすぐ後ろで小さく囁いた。
「分かってる」
俺も小声で返す。
――もうあそべないんだって。
あの子は、そう言った。
誰が、そう教えたんだ。
なぜ、そう教える必要があった。
この場所は、おかしい。
人がいるのに、生活の音がしない。
あの子以外、誰も出てこない。
まるで、全員が息を潜めているような――。
いや。
違うのかもしれない。
もしかしたら、これがこの場所では普通なのか。
その考えの方が、よほど気味が悪かった。
歩きながら、俺は周囲を観察する。
どの家も、造りがほとんど同じだ。
大きさも、屋根の形もよく似ている。
まるで、同じ設計図を基に建てられたようだった。
道は緩やかに登っている。
斜面に沿って、家々が段々に並んでいた。
十分ほど歩いた頃、前方に人影が見えた。
道の真ん中に、一人の男が立っている。
三十代くらいだろうか。作務衣のような濃い色の服を着ていた。
烏廻さんが足を止める。
俺たちもそれに続いた。
「星雲魔術師学園の方でございますね」
男が頭を下げた。
その動作は丁寧で、口調も穏やかだった。
「ええ。担任の烏廻です」
「お待ちしておりました。ご案内いたします」
男はそう言うと、身を翻して歩き出した。
名乗りもしない。
こちらの名前を確認することもしなかった。
最初から、俺たちが誰なのか分かっているようだった。
「……あの」
橘が声をかける。
「なんでしょうか」
「サラちゃん……サラ・クロイツさんは、いらっしゃいますか」
男は歩みを止めずに答えた。
「サラ様のことは、当主より直接お話がございます」
「でも――」
「橘」
烏廻さんが短く制した。
橘が口をつぐむ。
男は、何も聞こえなかったかのように歩き続けた。
――サラ様。
その呼び方が、耳に残った。
俺たちが普段呼んでいる『サラ』とは、まるで違う響きだ。
少なくとも、この場所ではサラは『様』を付けて呼ばれる立場にいるらしい。
あの、いつも騒がしくて、みんなの輪の中心で笑っていたあいつが。
やがて、道の突き当たりに大きな建物が見えてきた。
他の家々とは明らかに規模が違う。
平屋だが横に長く、黒い瓦屋根が重々しく伸びている。
周囲には低い塀が巡らされ、正面には両開きの門があった。
門の前には、二人の男が立っていた。
どちらも同じような服装で、俺たちを見ても表情を変えない。
「こちらでございます」
案内の男が門をくぐる。
門番の二人が、無言で頭を下げた。
敷地内は広い庭になっていた。
砂利が敷き詰められ、隅には松が数本植えられている。
手入れは行き届いているが、色彩がない。
花も、飾りも、何もなかった。
里の家々には花が植えられていたのに、ここには一輪もない。
その対比が、妙に引っかかった。
建物の正面まで来ると、男は縁側の前で足を止めた。
「お履物はそのままで結構です。こちらへ」
案内されたのは、庭に面した広間だった。
二十畳はありそうな畳敷きの部屋だ。
だが、家具らしい家具はない。
床の間に掛け軸が一つ。
中央には座布団が三枚。
その正面には、一枚だけ別の座布団が置かれている。
最初から、俺たちを迎える準備がされていた。
「こちらでお待ちください」
男はそう言って、襖を閉めた。
足音が遠ざかっていく。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……烏廻さん」
やがて、俺は小声で呼びかけた。
「なんだ」
「あの案内の人、俺たちが誰か確認しませんでしたよね」
「ああ」
「座布団も、最初から三枚です」
「そうだな」
烏廻さんは庭の方を見たまま答える。
「向こうは、俺たちが三人で来ることを知っていた」
「連絡したんですか?」
「人数までは伝えていない」
俺は息を呑んだ。
「じゃあ、どうして」
「さあな」
烏廻さんは短く答える。
だが、その横顔には僅かな緊張があった。
この人でも、この状況を測りかねているらしい。
「……あの、烏廻先生」
橘が口を開いた。
「なんだ」
「さっきの女の子、サラちゃんと遊んだことがあるって言ってましたよね」
「ああ」
「ということは、サラちゃんは前にもここへ帰ってきたことがあるんですよね」
「少なくとも、あの子の話が本当ならな」
「……なのに」
橘は膝の上で手を握りしめた。
「もう遊べない、って」
「その話は後だ」
烏廻さんが遮る。
「今は、聞かれてると思って話せ」
橘が、はっとしたように口を閉じた。
俺も思わず周囲を見回す。
襖の向こうに、人の気配はない。
だが、この家の造りなら、隣の部屋にいれば会話は筒抜けだろう。
「二人とも」
烏廻さんが、こちらを見ずに言った。
「これから会うのは、クロイツの当主だ」
「……はい」
「話すのは俺だ。お前らは黙って聞いていろ」
「でも――」
「桐宮」
烏廻さんの声が、僅かに鋭くなった。
「今日の目的は何だ」
「……サラに会うことです」
「違う」
「え?」
「今日の目的は、無事に三人で帰ることだ」
烏廻さんは、そこで初めてこちらを見た。
「その上で、会えるなら会う。話が聞けるなら聞く。だが、優先順位を間違えるな」
「……」
「分かったか」
「……はい」
俺は頷いた。
納得したわけじゃない。
だが、この人の言うことは正しい。
庭の方から、鹿威しの音が一つ鳴った。
その音が、やけに大きく響く。
それ以外の音は、何も聞こえない。
鳥の声も、風の音も。
――やっぱり、静かすぎる。
どれくらい待っただろう。
十分か、二十分か。
時計を見る気にもなれなかった。
その時だった。
廊下から、足音が聞こえてきた。
一人分。
ゆっくりとした、落ち着いた歩調。
襖の前で、その足音が止まる。
「失礼いたします」
女の声だった。
襖が、静かに開く。
そこに立っていたのは――一人の女性だった。
年の頃は四十前後だろうか。
濃紺の着物をきっちりと着こなし、髪を後ろで結い上げている。
姿勢は真っ直ぐで、隙がない。
そして。
その髪は、淡い桃色だった。
サラと同じ色の。
「……あ」
橘が、小さく声を漏らした。
女性は静かに部屋へ入ると、正面の座布団の前で膝をついた。
そして、深く一礼する。
「遠路はるばる、ようこそおいでくださいました」
その所作は、完璧だった。
「クロイツ家当主、エルフリーデ・クロイツと申します」
顔を上げた女性を見て、俺は息を呑んだ。
淡い桃色の髪。
目元や顔立ちにも、どこかサラの面影がある。
だが。
サラのような明るさは、その表情にはなかった。
「サラの、母でございます」
その一言に、部屋の空気が変わった気がした。
俺は拳を握りしめる。
――お母さんとは会わない方がいいよ。
サラが橘に言ったという言葉が、頭の中で反響していた。

