当日の朝。
空は薄曇りで、風はまだ冷たかった。
正門前に着くと、橘がすでに待っていた。
制服ではなく、動きやすい上下に薄手の上着を羽織っている。
「おはよう、桐宮君」
「早いな」
「眠れなくて、結局五時には起きちゃった」
橘は苦笑した。
その目の下には、うっすらと隈がある。
「お前、大丈夫か」
「桐宮君だって人のこと言えないでしょう」
「……確かに」
俺も似たようなものだった。
昨夜は何度も目が覚めた。
そのたびに、あの手紙の一文が頭に浮かんだ。
――探さないでほしい。
「二人とも、揃ってるな」
背後から声がした。
烏迴さんだった。
いつものよれたシャツではなく、上下ともきちんとした格好をしている。
肩には大きめの鞄。
「……なんか、先生らしいですね」
「うるさい。家庭訪問だからな」
烏迴さんは面倒くさそうに言った。
「言っておくが、俺だってこういう格好は好きじゃない」
その言い方に、橘が小さく笑う。
「行くぞ」
烏迴さんが歩き出す。
俺たちも後に続いた。
振り返ると、校舎の窓に人影が見えた気がした。
――たぶん、母さんだ。
止めはしない。だが、見送りにも来ない。
あの人らしい。
最寄りの駅から電車に乗り、二時間ほど揺られた。
都市部を抜け、住宅地を抜け、やがて窓の外は田畑と山だけになった。
乗客も、駅ごとに減っていく。
「なあ、烏迴さん」
「なんだ」
「まだ着かないんですか」
「まだ半分だ」
「半分!?」
思わず声が出た。
「言っただろう。かなり奥だと」
烏迴さんは窓の外を見たまま答えた。
「電車を降りたら、バスに乗り換える。それから歩きだ」
「歩き……」
「二時間はかかる」
「二時間!?」
「静かにしろ」
烏迴さんに睨まれ、俺は口を閉じた。
だが、頭の中では計算が回っていた。
電車で二時間、バスで一時間、徒歩で二時間。
――片道五時間。
こんなに遠いのかサラの家は。
「桐宮君」
隣に座っていた橘が、小さく声をかけてきた。
「なんだ?」
「私、知らなかった」
橘は窓の外を見つめている。
「サラちゃんが、こんな所に住んでたなんて」
「……ああ」
「一年も一緒にいたのに」
橘の声が、少しだけ沈んだ。
「山の方だって聞いた時、私、なんとなく近くの山を想像してたの。バスで行けるくらいの」
「俺もだ」
「そうだよね」
橘は目を伏せた。
「私たち、何も知らなかったんだね」
窓の外を、また一つ山が流れていく。
新緑の季節にはまだ早く、木々の色はどこか鈍かった。
電車を降りた駅は、無人だった。
ホームに屋根はなく、改札の代わりに古い箱が置かれているだけ。
降りたのは俺たち三人だけだった。
「バスは一日三本だ」
烏迴さんが時刻表を指差す。
確かに、そこには三つしか時刻が書かれていなかった。
「次は四十分後だな」
「……不便すぎませんか」
「そういう場所なんだよ」
烏迴さんは近くのベンチに腰を下ろした。
俺たちも隣に座る。
周りには何もない。
自動販売機が一台と、朽ちかけた小屋があるだけだ。
「烏迴さん」
「なんだ」
「一つ、聞いてもいいですか」
「内容による」
「昨日言ってた話です」
俺は前を向いたまま言った。
「相手が拒まないってのは、見られて困るものがないか、見せても構わないと思ってるか、どっちかだって」
「ああ」
「烏迴さんは、どっちだと思ってるんですか」
烏迴さんは、しばらく答えなかった。
風が吹いて、伸びきった雑草が揺れた。
「……どっちでもないかもしれん」
「え?」
「三つ目の可能性がある」
烏迴さんは、無意識のように胸ポケットへ手をやった。
だが、そこには何もない。
自分でもそれに気づいたのか、烏迴さんは小さく舌打ちをして手を下ろした。
「見られたところで、どうにもならないと思っている場合だ」
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ」
烏迴さんは膝の上で指を組んだ。
「俺たちが何を見ようが、何を言おうが、結果は変わらない。そう確信してるなら、拒む理由もない」
背筋に、冷たいものが走った。
「……」
「まあ、俺の考えすぎかもしれんがな」
烏迴さんは立ち上がった。
「バスが来たぞ」
遠くから、古びたバスが一台近づいてくるのが見えた。
バスに乗ったのは、俺たち三人だけだった。
運転手が一度だけこちらを見て、それきり何も言わずに発車した。
道は、次第に細くなっていった。
舗装はされているが、対向車が来たらすれ違えないような幅だ。
窓の外は、いつの間にか山しか見えなくなっていた。
途中、いくつかバス停を通り過ぎた。
だが、乗る者も降りる者もいない。
バス停の周りに家があることすら稀だった。
「……本当に人が住んでるんですか、この辺」
「住んでるさ」
烏迴さんが答える。
「見えないだけだ」
その言い方が、妙に引っかかった。
一時間ほど揺られて、終点に着いた。
降りた場所は、山道の入口だった。
小さな駐車場があり、その先に細い道が伸びている。
「ここからは歩きだ」
烏迴さんが鞄を担ぎ直した。
俺は改めて周囲を見回す。
人の気配はない。
鳥の声すらしない。
あるのは、木々が風に揺れる音だけだった。
「……静かですね」
橘が小さく呟いた。
「ああ」
俺も頷く。
静かすぎる。
山というのは、もっと騒がしいものだったはずだ。
去年の合宿で行った山では、虫の声も鳥の声も、うるさいくらいに聞こえていた。
だが、ここは違う。
まるで、音が吸い込まれているような。
「行くぞ」
烏迴さんが先に歩き出した。
山道は、思っていたよりも整備されていた。
石が敷かれ、荒れた様子もない。
誰かが定期的に手入れをしている道だ。
だが、その割に人とすれ違わない。
三十分歩いても、一人も。
「烏迴さん」
「なんだ」
「この道、他に使う人はいないんですか」
「いないだろうな」
烏迴さんは前を向いたまま答える。
「この先には、クロイツの土地しかない」
「……土地?」
「山ひとつだ」
俺は思わず足を止めた。
「山……ひとつ?」
「そうだ」
「一つの家が、山を丸ごと持ってるってことですか」
「書類の上ではな」
烏迴さんは肩をすくめた。
「行政上は、この山全体が私有地として登録されているだけだ。中がどうなっているかは、どこにも書かれていない」
「どこにも……?」
「地図にも載っていない」
烏迴さんは言った。
「住所は分かる。だが、その住所に何があるのかは分からん。俺が調べられたのは、そこまでだ」
「そんなことが……」
「あるんだよ、実際に」
俺と橘は顔を見合わせた。
――住所はある。だが、そこに何があるのかは誰も知らない。
その事実だけが、じわりと胸に残った。
道はさらに細くなり、傾斜がきつくなってきた。
二時間近く歩いた頃、烏迴さんが足を止めた。
「……着いたぞ」
顔を上げる。
木々が途切れ、視界が開けていた。
その先に。
――門があった。
石造りの、古い門だ。
高さは俺の背丈の二倍ほど。左右には石垣が伸び、その先は木々に紛れて見えない。
どこまで続いているのか、見当もつかなかった。
門は、開いていた。
閉ざされているのではなく、最初から開けられている。
まるで、俺たちを待っていたかのように。
そして、その向こうに見えたのは――。
家々だった。
石畳の道の両脇に、古い木造の家が並んでいる。
その奥にも、さらに奥にも。
斜面に沿って、いくつも、いくつも。
「……なんだ、これ」
俺は思わず呟いた。
一軒の屋敷を想像していた。
大きな門構えの、古い家を。
だが、目の前にあるのは。
「……村?」
橘が息を呑む。
「……そういうことか」
烏迴さんが低く呟いた。
「知ってたんですか」
「いや」
烏迴さんは首を横に振った。
「山ひとつが私有地だと聞いた時、妙だとは思っていた。だが、まさかこれとはな」
その声には、明らかな驚きが混じっていた。
この人でも、想像していなかったらしい。
俺は、その光景を呆然と見つめていた。
だが、すぐに気づいた。
おかしい。
これだけの家があるのに。
――音がしない。
人の声も、生活の音も、何も聞こえない。
煙も上がっていない。
まるで、誰も住んでいないかのようだった。
いや。
違う。
俺は、視線を感じていた。
どこからか。
いくつも。
「……見られてるな」
烏迴さんが低く呟いた。
「ええ」
俺も頷く。
窓の奥。家々の陰。
姿は見えない。
だが、確実にいる。
この場所の人間が、俺たちを見ている。
「二人とも」
烏迴さんが振り返らずに言った。
「ここから先は、俺の後ろを歩け。勝手に喋るな。目を合わせるな」
「……はい」
「行くぞ」
烏迴さんが、門をくぐった。
俺と橘も、その後に続く。
石畳を踏んだ瞬間。
背後で、重い音がした。
振り返ると、門が閉まっていた。
誰も、触れていないのに。
空は薄曇りで、風はまだ冷たかった。
正門前に着くと、橘がすでに待っていた。
制服ではなく、動きやすい上下に薄手の上着を羽織っている。
「おはよう、桐宮君」
「早いな」
「眠れなくて、結局五時には起きちゃった」
橘は苦笑した。
その目の下には、うっすらと隈がある。
「お前、大丈夫か」
「桐宮君だって人のこと言えないでしょう」
「……確かに」
俺も似たようなものだった。
昨夜は何度も目が覚めた。
そのたびに、あの手紙の一文が頭に浮かんだ。
――探さないでほしい。
「二人とも、揃ってるな」
背後から声がした。
烏迴さんだった。
いつものよれたシャツではなく、上下ともきちんとした格好をしている。
肩には大きめの鞄。
「……なんか、先生らしいですね」
「うるさい。家庭訪問だからな」
烏迴さんは面倒くさそうに言った。
「言っておくが、俺だってこういう格好は好きじゃない」
その言い方に、橘が小さく笑う。
「行くぞ」
烏迴さんが歩き出す。
俺たちも後に続いた。
振り返ると、校舎の窓に人影が見えた気がした。
――たぶん、母さんだ。
止めはしない。だが、見送りにも来ない。
あの人らしい。
最寄りの駅から電車に乗り、二時間ほど揺られた。
都市部を抜け、住宅地を抜け、やがて窓の外は田畑と山だけになった。
乗客も、駅ごとに減っていく。
「なあ、烏迴さん」
「なんだ」
「まだ着かないんですか」
「まだ半分だ」
「半分!?」
思わず声が出た。
「言っただろう。かなり奥だと」
烏迴さんは窓の外を見たまま答えた。
「電車を降りたら、バスに乗り換える。それから歩きだ」
「歩き……」
「二時間はかかる」
「二時間!?」
「静かにしろ」
烏迴さんに睨まれ、俺は口を閉じた。
だが、頭の中では計算が回っていた。
電車で二時間、バスで一時間、徒歩で二時間。
――片道五時間。
こんなに遠いのかサラの家は。
「桐宮君」
隣に座っていた橘が、小さく声をかけてきた。
「なんだ?」
「私、知らなかった」
橘は窓の外を見つめている。
「サラちゃんが、こんな所に住んでたなんて」
「……ああ」
「一年も一緒にいたのに」
橘の声が、少しだけ沈んだ。
「山の方だって聞いた時、私、なんとなく近くの山を想像してたの。バスで行けるくらいの」
「俺もだ」
「そうだよね」
橘は目を伏せた。
「私たち、何も知らなかったんだね」
窓の外を、また一つ山が流れていく。
新緑の季節にはまだ早く、木々の色はどこか鈍かった。
電車を降りた駅は、無人だった。
ホームに屋根はなく、改札の代わりに古い箱が置かれているだけ。
降りたのは俺たち三人だけだった。
「バスは一日三本だ」
烏迴さんが時刻表を指差す。
確かに、そこには三つしか時刻が書かれていなかった。
「次は四十分後だな」
「……不便すぎませんか」
「そういう場所なんだよ」
烏迴さんは近くのベンチに腰を下ろした。
俺たちも隣に座る。
周りには何もない。
自動販売機が一台と、朽ちかけた小屋があるだけだ。
「烏迴さん」
「なんだ」
「一つ、聞いてもいいですか」
「内容による」
「昨日言ってた話です」
俺は前を向いたまま言った。
「相手が拒まないってのは、見られて困るものがないか、見せても構わないと思ってるか、どっちかだって」
「ああ」
「烏迴さんは、どっちだと思ってるんですか」
烏迴さんは、しばらく答えなかった。
風が吹いて、伸びきった雑草が揺れた。
「……どっちでもないかもしれん」
「え?」
「三つ目の可能性がある」
烏迴さんは、無意識のように胸ポケットへ手をやった。
だが、そこには何もない。
自分でもそれに気づいたのか、烏迴さんは小さく舌打ちをして手を下ろした。
「見られたところで、どうにもならないと思っている場合だ」
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ」
烏迴さんは膝の上で指を組んだ。
「俺たちが何を見ようが、何を言おうが、結果は変わらない。そう確信してるなら、拒む理由もない」
背筋に、冷たいものが走った。
「……」
「まあ、俺の考えすぎかもしれんがな」
烏迴さんは立ち上がった。
「バスが来たぞ」
遠くから、古びたバスが一台近づいてくるのが見えた。
バスに乗ったのは、俺たち三人だけだった。
運転手が一度だけこちらを見て、それきり何も言わずに発車した。
道は、次第に細くなっていった。
舗装はされているが、対向車が来たらすれ違えないような幅だ。
窓の外は、いつの間にか山しか見えなくなっていた。
途中、いくつかバス停を通り過ぎた。
だが、乗る者も降りる者もいない。
バス停の周りに家があることすら稀だった。
「……本当に人が住んでるんですか、この辺」
「住んでるさ」
烏迴さんが答える。
「見えないだけだ」
その言い方が、妙に引っかかった。
一時間ほど揺られて、終点に着いた。
降りた場所は、山道の入口だった。
小さな駐車場があり、その先に細い道が伸びている。
「ここからは歩きだ」
烏迴さんが鞄を担ぎ直した。
俺は改めて周囲を見回す。
人の気配はない。
鳥の声すらしない。
あるのは、木々が風に揺れる音だけだった。
「……静かですね」
橘が小さく呟いた。
「ああ」
俺も頷く。
静かすぎる。
山というのは、もっと騒がしいものだったはずだ。
去年の合宿で行った山では、虫の声も鳥の声も、うるさいくらいに聞こえていた。
だが、ここは違う。
まるで、音が吸い込まれているような。
「行くぞ」
烏迴さんが先に歩き出した。
山道は、思っていたよりも整備されていた。
石が敷かれ、荒れた様子もない。
誰かが定期的に手入れをしている道だ。
だが、その割に人とすれ違わない。
三十分歩いても、一人も。
「烏迴さん」
「なんだ」
「この道、他に使う人はいないんですか」
「いないだろうな」
烏迴さんは前を向いたまま答える。
「この先には、クロイツの土地しかない」
「……土地?」
「山ひとつだ」
俺は思わず足を止めた。
「山……ひとつ?」
「そうだ」
「一つの家が、山を丸ごと持ってるってことですか」
「書類の上ではな」
烏迴さんは肩をすくめた。
「行政上は、この山全体が私有地として登録されているだけだ。中がどうなっているかは、どこにも書かれていない」
「どこにも……?」
「地図にも載っていない」
烏迴さんは言った。
「住所は分かる。だが、その住所に何があるのかは分からん。俺が調べられたのは、そこまでだ」
「そんなことが……」
「あるんだよ、実際に」
俺と橘は顔を見合わせた。
――住所はある。だが、そこに何があるのかは誰も知らない。
その事実だけが、じわりと胸に残った。
道はさらに細くなり、傾斜がきつくなってきた。
二時間近く歩いた頃、烏迴さんが足を止めた。
「……着いたぞ」
顔を上げる。
木々が途切れ、視界が開けていた。
その先に。
――門があった。
石造りの、古い門だ。
高さは俺の背丈の二倍ほど。左右には石垣が伸び、その先は木々に紛れて見えない。
どこまで続いているのか、見当もつかなかった。
門は、開いていた。
閉ざされているのではなく、最初から開けられている。
まるで、俺たちを待っていたかのように。
そして、その向こうに見えたのは――。
家々だった。
石畳の道の両脇に、古い木造の家が並んでいる。
その奥にも、さらに奥にも。
斜面に沿って、いくつも、いくつも。
「……なんだ、これ」
俺は思わず呟いた。
一軒の屋敷を想像していた。
大きな門構えの、古い家を。
だが、目の前にあるのは。
「……村?」
橘が息を呑む。
「……そういうことか」
烏迴さんが低く呟いた。
「知ってたんですか」
「いや」
烏迴さんは首を横に振った。
「山ひとつが私有地だと聞いた時、妙だとは思っていた。だが、まさかこれとはな」
その声には、明らかな驚きが混じっていた。
この人でも、想像していなかったらしい。
俺は、その光景を呆然と見つめていた。
だが、すぐに気づいた。
おかしい。
これだけの家があるのに。
――音がしない。
人の声も、生活の音も、何も聞こえない。
煙も上がっていない。
まるで、誰も住んでいないかのようだった。
いや。
違う。
俺は、視線を感じていた。
どこからか。
いくつも。
「……見られてるな」
烏迴さんが低く呟いた。
「ええ」
俺も頷く。
窓の奥。家々の陰。
姿は見えない。
だが、確実にいる。
この場所の人間が、俺たちを見ている。
「二人とも」
烏迴さんが振り返らずに言った。
「ここから先は、俺の後ろを歩け。勝手に喋るな。目を合わせるな」
「……はい」
「行くぞ」
烏迴さんが、門をくぐった。
俺と橘も、その後に続く。
石畳を踏んだ瞬間。
背後で、重い音がした。
振り返ると、門が閉まっていた。
誰も、触れていないのに。

