「入りなさい」
中から母さんの声が返ってくる。
扉を開けると、母さんはデスクに向かっていた。
俺たちの姿を見た瞬間、僅かに眉を寄せる。
「……また来たのね」
「ああ」
俺は母さんの前まで歩いていく。
「今日は、一つだけ聞きに来た」
「昨日も言ったはずよ。これ以上、この件に関わることは――」
「クロイツ家のことは聞かない」
母さんの言葉を遮る。
「……何ですって?」
「あの家が何なのか、何をしてきたのか。それはもう聞かない」
俺は真っ直ぐに母さんを見た。
「サラの家の住所を教えてくれ」
母さんの動きが止まった。
「……住所?」
「ああ。入学の時に届け出てるはずだ」
「桐宮君」
「俺たちは、あいつに会いに行きたいだけだ」
俺は言葉を続けた。
「探るなって言うなら、それは守る。あの家のことを調べ回るのもやめる。ただ、会って話がしたい。それだけなんだ」
母さんはしばらく黙っていた。
その視線が、俺から橘へ、そしてまた俺へと戻る。
「……答えは同じよ」
やがて、母さんは静かに言った。
「教えられないわ」
「なんでだ!」
「生徒の個人情報だからよ」
母さんは即答した。
「それを他の生徒に渡すことは、どんな理由があっても認められない」
「烏迴さんと同じことを言うんだな」
「……先生のところへも行ったの」
「ああ」
「そう」
母さんは僅かに目を伏せた。
「なら、答えも同じだったでしょう」
「……」
その通りだった。
この人たちは、同じ場所に線を引いている。
そして、その線は正しい。
正しいからこそ、どうしようもない。
「桐宮君」
母さんが続けた。
「昨日も言ったけれど、これ以上この件を探ることは認めません。もし勝手な行動に出るようなら、相応の処分を下さなければならなくなる」
「……」
「分かったら、今日はもう帰りなさい」
取り付く島もなかった。
俺は拳を握りしめる。
あと一歩。
あと一歩のところで、いつも扉が閉まる。
その時だった。
「……一つ、確認してもよろしいですか」
隣に立っていた橘が、静かに口を開いた。
「何かしら」
「今仰った処分というのは、私たちが学園の生徒だから科されるものですよね」
「……ええ、そうよ」
「では、生徒でなくなれば、その処分は意味を持たなくなりますね」
母さんの表情が、僅かに変わった。
「橘さん」
「私、退学します」
「……」
母さんの目が見開かれた。
「な……」
「そうすれば、私はもう学園の生徒ではありません。学園長の指示に従う義務も、処分を受ける立場もなくなります」
橘は淡々と言葉を続ける。
「橘さん、あなた――」
「住所を教えていただけないのは分かりました」
橘は静かに、しかし一歩も引かずに続けた。
「なら、自分で探します。山の方だということだけは分かっていますから。どれだけ時間がかかっても、片っ端から回ります」
「そんなことをして、見つかるとでも思っているの」
「思っていません」
橘は即答した。
「でも、探さないという選択肢はありません」
「……」
「サラちゃんに会いたいんです」
橘の声は震えていなかった。
「そのためなら、私は学園を辞めても構いません」
母さんは言葉を失っている。
俺は橘を見た。
こいつ、本気で言っている。
いつも冷静で、誰よりも先に落ち着けと言う側の人間が。
――だったら。
「じゃあ、俺も退学する」
「桐宮君!?」
橘が驚いたように俺を見る。
「ちょっと、あなたまで何を言ってるの!?」
母さんが立ち上がる。
「俺だけ残る理由もないだろ。橘一人で山を回らせるつもりか」
「そういう問題じゃないわ!」
「俺もこの学園の生徒じゃなくなれば、学園長に止められる理由もなくなる」
「あなたは私の息子でしょう! 退学したからといって、私があなたを放っておくと思っているの!?」
「……あ」
確かに、その通りだった。
「いや……でも、ほら。気持ちの問題というか」
「何が気持ちの問題よ! それに、橘さんもここの生徒ではなくなったからといって行かせるわけにいきません」
母さんが額を押さえる。
その様子を見ていると、張り詰めていた空気が少しだけ崩れていく。
だが、母さんはすぐに真剣な表情へ戻った。
「あなたたちは、自分が何をしようとしているのか分かっているの?」
「分かってる」
俺は答えた。
「分かってないわ」
「……」
「昨日も言ったでしょう。私も、あの家のことは何も知らないの」
母さんの声には、怒りよりも焦りが滲んでいた。
「相手が何をする家なのかも、何が危険なのかも分からない。備えようがないのよ」
「だったら――」
「隼人……」
母さんが苦しそうに俺を見る。
その瞬間だった。
コンコン。
学園長室の扉がノックされた。
「……誰?」
母さんが返事をするより先に、扉が開く。
「失礼します」
そこに立っていたのは、烏迴さんだった。
「烏迴さん……」
俺が呟くと、烏迴さんは俺と橘、そして母さんを順番に見た。
「……なんだ、この状況は」
「聞いてください、烏迴さん。橘が退学するって――」
「聞こえていた」
「え?」
烏迴さんは深いため息を吐いた。
「廊下まで聞こえていたぞ」
「……」
橘が気まずそうに目を逸らす。
「ったく……二年生になったばかりだっていうのに、いきなり退学騒ぎか」
烏迴さんは頭を掻きながら、俺と橘を見る。
「こりゃあ、ちょっと早いが家庭訪問が必要だな」
「……家庭訪問?」
「ああ」
烏迴さんは俺と橘を見る。
「ああ、クロイツの家にな」
「でも、サラちゃんはもう退学したんじゃないんですか?」
橘が首を傾げる。
「正式にはまだだな……退学届を受け取りはしたが、まだ受理して返答はしていないはずだ。……そうですよね、学園長」
「……ええ、そうですね」
母さんが僅かに目を伏せながら頷く。
「それにだ」
烏迴さんは鋭い視線を向ける。
「クロイツが退学を申し出た直後に、お前ら二人まで退学すると言い出した。教師からすれば、そこに何か事情があると考えるのが普通だろ」
「だからこそ、俺たちは――」
「分かっている」
烏迴さんは俺の言葉を遮り、呆れたように息を吐いた。
「生徒が勝手に危険な場所へ突っ込もうとしてるんだ。教師として、そして担任として見過ごせるわけがない」
「烏迴さん……」
烏迴さんは静かに学園長を見る。
「それに、退学を申し出たクロイツの家庭にも、一度事情を聞いておく必要があるだろ」
「……」
俺は思わず母さんを見る。
母さんも、困ったように烏迴さんを見つめていた。
「……烏迴先生」
「なんです?」
「あなた、本気で行くつもりですか?」
「ええ、当たり前です」
烏迴さんは即答した。
「……そう」
母さんは小さく息を吐いた。
それから、しばらく黙り込む。
やがて、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……分かったわ」
「え?」
俺が聞き返す。
「烏迴先生に同行する形であれば、認めます」
「本当か!?」
「ただし、条件があるわ」
母さんは俺を真っ直ぐに見た。
「行くのは、あなたと橘さんの二人だけ。そして、烏迴先生の指示には絶対に従うこと」
「分かった」
「もう一つ」
母さんの声が、僅かに硬くなる。
「向こうで何を見ても、何を言われても、勝手な行動はしないこと」
「……」
「約束できないなら、この話はなしよ」
「……分かった」
俺は頷いた。
「約束する」
「橘さんも」
「はい」
橘も、しっかりと頷いた。
「……それと、橘さん」
「はい」
「退学の話は、聞かなかったことにします」
母さんはそう言って、僅かに目を伏せた。
「二度と、そんなことを言わないで」
「……申し訳ありません」
橘が深く頭を下げる。
「今日はもう帰りなさい」
母さんは俺たちから視線を逸らした。
「日程は追って伝えます。先生は残ってください」
「了解しました」
烏迴さんが軽く頭を下げる。
「……決まりだな」
烏迴さんが呟いた。
俺と橘は、学園長室を後にした。
廊下に出た瞬間、橘が大きく息を吐く。
「……緊張した」
「お前、あんなこと言い出すとは思わなかった」
「私も」
橘は苦笑した。
「言ってから、自分でびっくりしたの」
「……そうか」
俺も、同じだ。
考えるより先に、口が動いていた。
だが、後悔はしていない。
「桐宮」
背後から声がかかった。
振り返ると、烏迴さんが学園長室から出てきたところだった。
「烏迴さん」
「一つだけ釘を刺しておくぞ」
烏迴さんは、俺の前で足を止めた。
「学園長も言っていたが、向こうで何があっても、勝手に動くな」
「……はい」
「本当に分かってるか?」
「……分かってます」
「そうか」
烏迴さんはため息をついた。
「ならいい」
そう言って、烏迴さんは学園長室に戻って行く。
その姿はいつもと同じように気怠げで、面倒くさそうだった。
だが。
あの人は、俺たちが言い出さなくても行くつもりだったんじゃないだろうか。
根拠はない。けど、なんとなくそんな感じがした。
俺は窓の外へ視線を向けた。
春の陽が、山の方へ傾き始めている。
あの向こうのどこかに、あいつがいる。
――ようやく、道が開いた。
まだ何も分かっていない。
あの家が何なのかも、サラがどうなっているのかも。
それでも、ようやく向かえる。
「待ってろよ、サラ」
中から母さんの声が返ってくる。
扉を開けると、母さんはデスクに向かっていた。
俺たちの姿を見た瞬間、僅かに眉を寄せる。
「……また来たのね」
「ああ」
俺は母さんの前まで歩いていく。
「今日は、一つだけ聞きに来た」
「昨日も言ったはずよ。これ以上、この件に関わることは――」
「クロイツ家のことは聞かない」
母さんの言葉を遮る。
「……何ですって?」
「あの家が何なのか、何をしてきたのか。それはもう聞かない」
俺は真っ直ぐに母さんを見た。
「サラの家の住所を教えてくれ」
母さんの動きが止まった。
「……住所?」
「ああ。入学の時に届け出てるはずだ」
「桐宮君」
「俺たちは、あいつに会いに行きたいだけだ」
俺は言葉を続けた。
「探るなって言うなら、それは守る。あの家のことを調べ回るのもやめる。ただ、会って話がしたい。それだけなんだ」
母さんはしばらく黙っていた。
その視線が、俺から橘へ、そしてまた俺へと戻る。
「……答えは同じよ」
やがて、母さんは静かに言った。
「教えられないわ」
「なんでだ!」
「生徒の個人情報だからよ」
母さんは即答した。
「それを他の生徒に渡すことは、どんな理由があっても認められない」
「烏迴さんと同じことを言うんだな」
「……先生のところへも行ったの」
「ああ」
「そう」
母さんは僅かに目を伏せた。
「なら、答えも同じだったでしょう」
「……」
その通りだった。
この人たちは、同じ場所に線を引いている。
そして、その線は正しい。
正しいからこそ、どうしようもない。
「桐宮君」
母さんが続けた。
「昨日も言ったけれど、これ以上この件を探ることは認めません。もし勝手な行動に出るようなら、相応の処分を下さなければならなくなる」
「……」
「分かったら、今日はもう帰りなさい」
取り付く島もなかった。
俺は拳を握りしめる。
あと一歩。
あと一歩のところで、いつも扉が閉まる。
その時だった。
「……一つ、確認してもよろしいですか」
隣に立っていた橘が、静かに口を開いた。
「何かしら」
「今仰った処分というのは、私たちが学園の生徒だから科されるものですよね」
「……ええ、そうよ」
「では、生徒でなくなれば、その処分は意味を持たなくなりますね」
母さんの表情が、僅かに変わった。
「橘さん」
「私、退学します」
「……」
母さんの目が見開かれた。
「な……」
「そうすれば、私はもう学園の生徒ではありません。学園長の指示に従う義務も、処分を受ける立場もなくなります」
橘は淡々と言葉を続ける。
「橘さん、あなた――」
「住所を教えていただけないのは分かりました」
橘は静かに、しかし一歩も引かずに続けた。
「なら、自分で探します。山の方だということだけは分かっていますから。どれだけ時間がかかっても、片っ端から回ります」
「そんなことをして、見つかるとでも思っているの」
「思っていません」
橘は即答した。
「でも、探さないという選択肢はありません」
「……」
「サラちゃんに会いたいんです」
橘の声は震えていなかった。
「そのためなら、私は学園を辞めても構いません」
母さんは言葉を失っている。
俺は橘を見た。
こいつ、本気で言っている。
いつも冷静で、誰よりも先に落ち着けと言う側の人間が。
――だったら。
「じゃあ、俺も退学する」
「桐宮君!?」
橘が驚いたように俺を見る。
「ちょっと、あなたまで何を言ってるの!?」
母さんが立ち上がる。
「俺だけ残る理由もないだろ。橘一人で山を回らせるつもりか」
「そういう問題じゃないわ!」
「俺もこの学園の生徒じゃなくなれば、学園長に止められる理由もなくなる」
「あなたは私の息子でしょう! 退学したからといって、私があなたを放っておくと思っているの!?」
「……あ」
確かに、その通りだった。
「いや……でも、ほら。気持ちの問題というか」
「何が気持ちの問題よ! それに、橘さんもここの生徒ではなくなったからといって行かせるわけにいきません」
母さんが額を押さえる。
その様子を見ていると、張り詰めていた空気が少しだけ崩れていく。
だが、母さんはすぐに真剣な表情へ戻った。
「あなたたちは、自分が何をしようとしているのか分かっているの?」
「分かってる」
俺は答えた。
「分かってないわ」
「……」
「昨日も言ったでしょう。私も、あの家のことは何も知らないの」
母さんの声には、怒りよりも焦りが滲んでいた。
「相手が何をする家なのかも、何が危険なのかも分からない。備えようがないのよ」
「だったら――」
「隼人……」
母さんが苦しそうに俺を見る。
その瞬間だった。
コンコン。
学園長室の扉がノックされた。
「……誰?」
母さんが返事をするより先に、扉が開く。
「失礼します」
そこに立っていたのは、烏迴さんだった。
「烏迴さん……」
俺が呟くと、烏迴さんは俺と橘、そして母さんを順番に見た。
「……なんだ、この状況は」
「聞いてください、烏迴さん。橘が退学するって――」
「聞こえていた」
「え?」
烏迴さんは深いため息を吐いた。
「廊下まで聞こえていたぞ」
「……」
橘が気まずそうに目を逸らす。
「ったく……二年生になったばかりだっていうのに、いきなり退学騒ぎか」
烏迴さんは頭を掻きながら、俺と橘を見る。
「こりゃあ、ちょっと早いが家庭訪問が必要だな」
「……家庭訪問?」
「ああ」
烏迴さんは俺と橘を見る。
「ああ、クロイツの家にな」
「でも、サラちゃんはもう退学したんじゃないんですか?」
橘が首を傾げる。
「正式にはまだだな……退学届を受け取りはしたが、まだ受理して返答はしていないはずだ。……そうですよね、学園長」
「……ええ、そうですね」
母さんが僅かに目を伏せながら頷く。
「それにだ」
烏迴さんは鋭い視線を向ける。
「クロイツが退学を申し出た直後に、お前ら二人まで退学すると言い出した。教師からすれば、そこに何か事情があると考えるのが普通だろ」
「だからこそ、俺たちは――」
「分かっている」
烏迴さんは俺の言葉を遮り、呆れたように息を吐いた。
「生徒が勝手に危険な場所へ突っ込もうとしてるんだ。教師として、そして担任として見過ごせるわけがない」
「烏迴さん……」
烏迴さんは静かに学園長を見る。
「それに、退学を申し出たクロイツの家庭にも、一度事情を聞いておく必要があるだろ」
「……」
俺は思わず母さんを見る。
母さんも、困ったように烏迴さんを見つめていた。
「……烏迴先生」
「なんです?」
「あなた、本気で行くつもりですか?」
「ええ、当たり前です」
烏迴さんは即答した。
「……そう」
母さんは小さく息を吐いた。
それから、しばらく黙り込む。
やがて、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……分かったわ」
「え?」
俺が聞き返す。
「烏迴先生に同行する形であれば、認めます」
「本当か!?」
「ただし、条件があるわ」
母さんは俺を真っ直ぐに見た。
「行くのは、あなたと橘さんの二人だけ。そして、烏迴先生の指示には絶対に従うこと」
「分かった」
「もう一つ」
母さんの声が、僅かに硬くなる。
「向こうで何を見ても、何を言われても、勝手な行動はしないこと」
「……」
「約束できないなら、この話はなしよ」
「……分かった」
俺は頷いた。
「約束する」
「橘さんも」
「はい」
橘も、しっかりと頷いた。
「……それと、橘さん」
「はい」
「退学の話は、聞かなかったことにします」
母さんはそう言って、僅かに目を伏せた。
「二度と、そんなことを言わないで」
「……申し訳ありません」
橘が深く頭を下げる。
「今日はもう帰りなさい」
母さんは俺たちから視線を逸らした。
「日程は追って伝えます。先生は残ってください」
「了解しました」
烏迴さんが軽く頭を下げる。
「……決まりだな」
烏迴さんが呟いた。
俺と橘は、学園長室を後にした。
廊下に出た瞬間、橘が大きく息を吐く。
「……緊張した」
「お前、あんなこと言い出すとは思わなかった」
「私も」
橘は苦笑した。
「言ってから、自分でびっくりしたの」
「……そうか」
俺も、同じだ。
考えるより先に、口が動いていた。
だが、後悔はしていない。
「桐宮」
背後から声がかかった。
振り返ると、烏迴さんが学園長室から出てきたところだった。
「烏迴さん」
「一つだけ釘を刺しておくぞ」
烏迴さんは、俺の前で足を止めた。
「学園長も言っていたが、向こうで何があっても、勝手に動くな」
「……はい」
「本当に分かってるか?」
「……分かってます」
「そうか」
烏迴さんはため息をついた。
「ならいい」
そう言って、烏迴さんは学園長室に戻って行く。
その姿はいつもと同じように気怠げで、面倒くさそうだった。
だが。
あの人は、俺たちが言い出さなくても行くつもりだったんじゃないだろうか。
根拠はない。けど、なんとなくそんな感じがした。
俺は窓の外へ視線を向けた。
春の陽が、山の方へ傾き始めている。
あの向こうのどこかに、あいつがいる。
――ようやく、道が開いた。
まだ何も分かっていない。
あの家が何なのかも、サラがどうなっているのかも。
それでも、ようやく向かえる。
「待ってろよ、サラ」

