魔力の少ない魔法使い二年生編

「入りなさい」
 中から母さんの声が返ってきた。
 扉を開けると、母さんはデスクに向かっていた。
 俺たちの姿を見た瞬間、僅かに眉を寄せる。
「……また来たんですね」
「はい」
 俺は母さんの前まで歩いていく。
「今日は、一つだけ聞きに来ました」
「先日も言ったはずです。これ以上、この件に関わることは――」
「クロイツ家のことは聞きません」
 母さんの言葉を遮る。
「……何ですって?」
「あの家が何なのか、何をしてきたのか。それはもう聞きません」
 俺は真っ直ぐに母さんを見た。
「サラの家の住所を教えてください」
 母さんの動きが止まった。
「……住所?」
「はい。入学の時に届け出てるはずですよね」
「桐宮君」
「俺たちは、あいつに会いに行きたいだけです」
 俺は言葉を続ける。
「探るなって言うなら、それは守ります。あの家のことを調べ回るのもやめます。ただ、会って話がしたい。それだけなんです」
 母さんはしばらく黙っていた。
 その視線が、俺から橘へ、そしてまた俺へと戻る。
「……答えは同じです」
 やがて、母さんは静かに言った。
「教えられません」
「なんでですか」
「生徒の個人情報だからです」
 母さんは即答した。
「それを他の生徒に渡すことは、どんな理由があっても認められません」
「烏廻さんと同じことを言うんですね」
「……烏廻先生のところへも行ったんですか」
「はい」
「そうですか」
 母さんは僅かに目を伏せた。
「なら、答えも同じだったでしょう」
「……」
 その通りだった。
 この人たちは、同じ場所に線を引いている。
 そして、その線は正しい。
 正しいからこそ、どうしようもない。
「桐宮君」
 母さんが続ける。
「先日も言いましたが、これ以上この件を探ることは認めません。もし勝手な行動に出るようなら、相応の処分を下さなければならなくなります」
「……」
「分かったら、今日はもう帰りなさい」
 最後だけ、母親としての強い口調が混じった。
 取り付く島もない。
 俺は拳を握りしめる。
 あと一歩。
 あと一歩のところで、いつも扉が閉まる。
 その時だった。
「……一つ、確認してもよろしいですか」
 隣に立っていた橘が、静かに口を開いた。
「何でしょうか」
「今仰った処分というのは、私たちが学園の生徒だから科されるものですよね」
「……ええ、そうです」
「では、生徒でなくなれば、その処分は意味を持たなくなりますよね」
 母さんの表情が、僅かに変わった。
「橘さん」
「私、退学します」
「……」
 母さんの目が見開かれた。
「な……」
「そうすれば、私はもう学園の生徒ではありません。学園長の指示に従う義務も、処分を受ける立場もなくなります」
 橘は淡々と言葉を続ける。
「橘さん、あなた――」
「住所を教えていただけないのは分かりました」
 橘は静かに、しかし一歩も引かずに続けた。
「なら、自分で探します。山の方だということだけは分かっていますから。どれだけ時間がかかっても、片っ端から探します」
「そんなことをして、見つかると思っているんですか」
「思っていません」
 橘は即答した。
「でも、探さないという選択肢はありません」
「……」
「サラちゃんに会いたいんです」
 橘の声は震えていなかった。
「そのためなら、私は学園を辞めても構いません」
 母さんは言葉を失っている。
 俺は橘を見た。
 こいつ、本気で言っている。
 普段は大人しくて、自分から強く前に出ることなんて滅多にない橘が。
 ――だったら。
「じゃあ、俺も退学する」
「桐宮君!?」
 橘が驚いたように俺を見る。
「ちょっと、あなたまで何を言ってるの!」
 母さんが立ち上がった。
「俺だけ残る理由もないだろ。橘一人で山を探し回らせるつもりかよ」
「そういう問題じゃないでしょう!」
「俺もこの学園の生徒じゃなくなれば、学園長に止められる理由もなくなる」
「あなたは私の息子でしょう! 退学したからといって、私があなたを放っておくと思っているの!?」
「……あ」
 確かに、その通りだった。
「いや……でも、ほら。気持ちの問題というか」
「何が気持ちの問題よ! それに、橘さんだって、ここの生徒ではなくなったからといって行かせるわけにはいきません」
 母さんが額を押さえる。
 その様子を見ていると、張り詰めていた空気が少しだけ崩れた。
 だが、母さんはすぐに真剣な表情へ戻る。
「あなたたちは、自分が何をしようとしているのか分かっているの?」
「分かってる」
 俺は答えた。
「分かってないわ」
「……」
「私も、あの家のことは何も知らないの」
 母さんの声には、怒りよりも焦りが滲んでいた。
「相手が何をする家なのかも、何が危険なのかも分からない。備えようがないのよ」
「だったら――」
「隼人……」
 母さんが苦しそうに俺を見る。
 完全に、学園長ではなく母親の顔になっていた。
 その瞬間だった。
 コンコン。
 学園長室の扉がノックされた。
「……誰ですか?」
 母さんが返事をするより先に、扉が開く。
「失礼します」
 そこに立っていたのは、烏廻さんだった。
「烏廻さん……」
 俺が呟くと、烏廻さんは俺と橘、そして母さんを順番に見た。
「……なんだ、この状況は」
「聞いてください、烏廻さん。橘が退学するって――」
「聞こえていた」
「え?」
 烏廻さんは深いため息を吐いた。
「廊下まで聞こえていたぞ」
「……」
 橘が気まずそうに目を逸らす。
「ったく……二年生になったばかりだっていうのに、いきなり退学騒ぎか」
 烏廻さんは頭を掻きながら、俺と橘を見る。
「こりゃあ、ちょっと早いが家庭訪問が必要だな」
「……家庭訪問?」
「ああ」
 烏廻さんは俺と橘を見る。
「クロイツの家にな」
「でも、サラちゃんはもう退学したんじゃないんですか?」
 橘が首を傾げる。
「正式にはまだだ」
 烏廻さんはそう言ってから、学園長へ視線を向けた。
「退学届は受け取っているが、まだ正式には受理していない。そうですよね、学園長」
「……ええ」
 母さんが僅かに目を伏せながら頷く。
「本人から突然退学届が届いた以上、担任として家庭の事情を一度確認しておく必要はある」
 烏廻さんは続けた。
「それに、その直後にお前ら二人まで退学すると言い出した」
「……」
「教師からすれば、何も確認せずに放っておける状況じゃねえだろ」
「烏廻さん……」
「生徒が勝手に危険な場所へ突っ込もうとしてるんだ。教師として、そして担任として見過ごせるわけがない」
 烏廻さんは静かに学園長を見る。
「クロイツの家庭にも、一度直接事情を聞いておくべきだと思います」
「……」
 俺は思わず母さんを見る。
 母さんも、困ったように烏廻さんを見つめていた。
「……烏廻先生」
「なんです?」
「あなた、本気で行くつもりですか?」
「ええ、当たり前です」
 烏廻さんは即答した。
「……そうですか」
 母さんは小さく息を吐いた。
 それから、しばらく黙り込む。
 やがて、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……分かりました」
「え?」
 俺が聞き返す。
「烏廻先生に同行する形であれば、認めます」
「本当か!?」
「ただし、条件があります」
 母さんは俺を真っ直ぐに見た。
「行くのは、あなたと橘さんの二人だけ。そして、烏廻先生の指示には絶対に従うこと」
「分かった」
「もう一つ」
 母さんの声が、僅かに硬くなる。
「向こうで何を見ても、何を言われても、勝手な行動はしないこと」
「……」
「約束できないなら、この話はなしです」
「……分かった」
 俺は頷いた。
「約束する」
「橘さんも」
「はい」
 橘もしっかりと頷いた。
「……それと、橘さん」
「はい」
「退学の話は、聞かなかったことにします」
 母さんはそう言って、僅かに目を伏せた。
「二度と、そんなことを言わないでください」
「……申し訳ありません」
 橘が深く頭を下げた。
「今日はもう帰りなさい」
 母さんは俺たちから視線を逸らした。
「日程は追って伝えます。烏廻先生は残ってください」
「了解しました」
 烏廻さんが軽く頭を下げる。
 俺と橘は、学園長室を後にした。
 廊下に出た瞬間、橘が大きく息を吐く。
「……緊張した」
「お前、あんなこと言い出すとは思わなかった」
「私も」
 橘は苦笑した。
「言ってから、自分でびっくりしたの」
「……そうか」
 俺も同じだ。
 考えるより先に、口が動いていた。
 だが、後悔はしていない。
 しばらく歩いたところで、背後から扉の開く音が聞こえた。
「桐宮」
 振り返ると、烏廻さんが学園長室から顔を出していた。
「烏廻さん?」
「一つだけ釘を刺しておくぞ」
 烏廻さんは俺の前まで歩いてくる。
「学園長も言っていたが、向こうで何があっても勝手に動くな」
「……はい」
「本当に分かってるか?」
「分かってます」
「そうか」
 烏廻さんはため息を吐いた。
「ならいい」
 そう言って、再び学園長室へ戻っていく。
 その背中は、いつもと同じように気怠げで、面倒くさそうだった。
 だが。
 あの人は、俺たちがこんな騒ぎを起こさなくても、いずれクロイツ家へ行くつもりだったんじゃないだろうか。
 根拠はない。
 ただ、なんとなくそんな気がした。
 俺は窓の外へ視線を向ける。
 春の陽が、山の向こうへ傾き始めていた。
 あの先のどこかに、サラがいる。
 ――ようやく、道が開いた。
 まだ何も分かっていない。
 あの家が何なのかも、サラがどうなっているのかも。
 それでも、ようやく会いに行ける。
「待ってろよ、サラ」