クロイツの里から戻って、三日が過ぎた。
両腕の包帯は外れ、脇腹の傷も塞がっている。失った魔力も少しずつ戻り、階段を上っても足が止まることはなくなった。
それでも身体を捻れば、脇腹の奥には鈍い痛みが残っている。茜先生からは、痛みが消えるまで訓練場へ近づくなと言われていた。
「また見てるぞ」
机のそばから声をかけられ、俺は教室の後ろへ向けていた顔を戻した。
紘弥が呆れたように立っている。
「何がだよ」
「サラの席」
窓際の後ろから二番目。鞄の置かれていない机は、今日もまだ空いていた。
「見るくらいいいだろ」
「来るって分かってんだから、落ち着けって」
「落ち着いてるよ」
「どこがよ」
紘弥が笑う。教科書を開いていた玲奈も、顔を上げずに会話へ入ってきた。
「朝から何度も同じところを見ている人が、落ち着いているようには見えないわね」
「数えてたのか?」
「数えるまでもないわよ。視界に入るもの」
反論しても二人を喜ばせるだけだ。俺は机の上へ視線を落とした。
今日から、サラが授業へ戻る。
退学届は正式に受理されていなかった。身体を動かしているのがサラ本人だと確認したうえで、しばらく茜先生の診察を受けることを条件に、復帰が認められたらしい。
昨日、医務室を訪ねた時、明日は教室へ行くとサラ本人から聞いた。
「迎えに行けばよかったんじゃねえの?」
「一人で教室に入りたいから、来なくていいって言われたんだよ」
「なら、大人しく待つしかないわね」
玲奈がようやくこちらを見た。
「待ってるだろ」
「そうね。何度も扉を見ながら」
「だから――」
言い返そうとしたところで、その扉が開いた。
教室へ入ってきた烏廻さんの後ろに、見慣れたピンク色の髪が見える。俺だけでなく、教室中の視線がそちらへ集まった。
サラは扉の前で足を止めた。
制服姿で教室に立っている。それだけで、里で起きたことが急に遠くなったように感じた。
サラと目が合う。緊張していた表情が僅かに緩み、口元に笑みが浮かんだ。
「おはよう」
すぐには誰も返さなかった。
事情をどこまで聞いているのかは分からない。突然退学したはずの生徒が戻ってきたのだから、驚くのも無理はなかった。
返事を待つ間に、サラの笑みが少しずつ固くなる。
「いつまでそこに立っているつもりですの?」
静寂を破ったのは涼子だった。
腕を組み、いつもと変わらない様子でサラを見ている。
「戻ってきたのなら、さっさと席に着きなさいな。授業が始まりませんわ」
「……うん」
サラが小さく頷き、教室へ入る。
「クロイツさん」
今度は京子が声をかけた。
「おはよう」
「うん。おはよう」
雨宮も自分の席から片手を上げる。
「戻ったか」
「ただいま」
「なら、早く座れ。先生が待ってるぞ」
サラが教壇へ目を向ける。
「烏廻先生、何かないの?」
「ねえよ。席に着け」
「そこは少しくらい考えてよ」
「考える時間が無駄だ。早くしろ」
「はーい」
不満そうに返事をしながら、サラは窓際の席へ向かった。
俺のそばを通る時、歩みが僅かに緩む。
「隼人君も、おはよう」
「ああ。おはよう」
交わしたのは、それだけだった。
サラが自分の席へ着き、烏廻さんが出席簿を開く。名前が順に呼ばれていき、サラ・クロイツのあとにも本人の声で返事が続いた。
止まっていた空気が、少しずつ動き始める。椅子を引く音や教科書を開く音が重なり、誰かが小声で今日の課題を確認していた。
何事もなかったわけじゃない。
それでも、何もかもを特別にしなければ戻れないわけでもなかった。
昼休みになると、俺たちは学食の隅にあるテーブルへ集まった。
俺とサラ、玲奈、紘弥。別の教室から来た橘とルイも一緒だ。
「なんか、久しぶりだね」
サラが全員の顔を見回す。
「そんなに経ってないだろ」
「期間の話じゃないの。もっと長く離れてた気がするんだもん」
そう言いながら、サラは料理を次々と口へ運んでいく。橘がその様子を見て、少しだけ眉を下げた。
「サラちゃん、そんなに急いで食べて大丈夫?」
「朝から緊張してて、あんまり食べられなかったの」
「教室じゃ、そう見えなかったけどな」
「頑張ってたの。隼人君には分からないだろうけど」
「サラが来る前から落ち着かなかった奴もいるしな」
紘弥が余計なことを言った。
サラの手が止まり、こちらへ顔を向ける。
「落ち着かなかったの?」
「扉とお前の席を、何度も見てたわね」
玲奈まで加わる。
「来るって聞いてたから、確認してただけだ」
「そっか」
サラはそれ以上追及せず、楽しそうに笑った。
「待っててくれたんだ」
「だから、確認してただけだって」
「うん。そういうことにしといてあげる」
隣で橘まで笑い始めたので、俺は食事へ逃げることにした。
「クロイツさん」
少しして、ルイが声を落とした。
「ハデスとの繋がりは、今も残っているのですか」
「ううん。あたしには、よく分からないんだ」
サラは箸を置き、自分の胸元へ目を落とした。
「身体を動かしてるのは、間違いなくあたし。でも、ハデスがどこにいるのかとか、今こっちの声を聞いてるのかまでは分からない」
「本人に聞けないのか?」
紘弥が尋ねる。
「呼びかけても、返事をするかはハデス次第みたい」
「ずっと聞かれてるかもしれねえってことか」
「余が常に、お主らの話へ耳を傾けておるとでも思うたか?」
サラの口から、低い声が返った。
紘弥の動きが止まる。玲奈と橘も言葉を切り、ルイは静かにサラの様子を見つめていた。
箸を握る手も、座っている姿勢も変わらない。身体を動かしているのはサラのままだ。同じ唇から発せられた声だけが、ハデスのものへ変わっていた。
「……本当に聞いてたのかよ」
「勘違いするでない。余は冥界におる」
ハデスの答えに、紘弥が目を瞬いた。
「冥界? じゃあ、どうしてサラの口から話せるんだよ」
「顕現の際に生じた繋がりが、この娘との間に残っておる。余がそちらへ意識を向ければ、それを通して声を届けることもできる」
「それ以外の時は、こっちの話も聞こえないの?」
サラ自身の声で問いかける。
同じ口から、すぐにハデスの声が返った。
「冥界におる余へ、現世の声が絶えず届く道理があるまい」
「じゃあ、今はあたしの中にいるわけじゃないんだ」
「余は冥界におる。先ほどそう告げたであろう」
「そういう意味だったんだ……」
それきり、返事は途絶えた。
「ハデス?」
サラが呼びかけても、今度は何も返ってこない。しばらく待ったあと、困ったように俺たちを見回した。
「……もう、こっちの声は聞いてないみたい」
「ハデス本人が残っているのではなく、冥界にいる本人へつながる道だけが残っている、ということでしょうか」
ルイが言葉を選びながら確認する。
「たぶん、そういうことなんだと思う」
サラは自分の指を一度曲げてから、膝の上へ手を戻した。
「戻ってきてから、あたしの意思に反して手足が動いたことはないよ。さっきも、声を出しただけだった」
ハデスが話している間も、身体の主導権はサラにあった。声を発したことと、身体を奪うことは別らしい。
橘がサラの顔を覗き込む。
「身体に何か変わったことはない?」
「うん。大丈夫」
「何かあったら、茜先生だけじゃなくて私たちにも言ってね」
「分かってる。今度は一人で決めないよ」
サラは迷わず答えた。
その言葉を聞いて、俺も口にしかけていた念押しをやめる。
「それより、休んでた間のノートを見せてほしいんだけど」
サラが話題を変えると、玲奈が鞄へ手を伸ばした。
「一通りまとめてあるわよ」
「本当? ありがとう、玲奈ちゃん!」
「俺のも見るか?」
サラが紘弥へ顔を向ける。
「紘弥君のも?」
「おう」
「じゃあ、玲奈ちゃんのを見終わったら借りるね」
「何で俺のが後なんだよ」
「玲奈ちゃんの方が分かりやすそうだから」
「まだ見てもいないだろ」
紘弥が不満そうに返すのを聞きながら、サラが笑う。橘もつられるように笑い、ルイは呆れた様子で二人を見ていた。
ハデスとの繋がりも、これからどうなるのかも分からない。それでも今すぐ答えを出さなければ、この時間まで失われるわけではなかった。
学食で飯を食べて、みんなでくだらない話をする。
里でサラへ伝えた光景が、今は目の前にある。
放課後、教室を出たところで後ろから名前を呼ばれた。
「隼人君」
振り返ると、鞄を肩へ掛けたサラが立っている。
「これから医務室か?」
「うん。しばらく、帰る前に診てもらうことになってるの」
「ついていこうか?」
「大丈夫。今日は一人で行くよ」
朝、自分で教室へ入ると決めた時と同じ顔だった。
「分かった」
「じゃあ、また明日ね」
サラは軽く手を振り、医務室のある校舎へ歩き出す。
以前なら、明日も会えることをわざわざ確かめたりはしなかった。その当たり前が一度なくなったからこそ、今はその言葉が少しだけ特別に聞こえる。
「ああ。また明日」
俺が答えると、サラは歩きながらもう一度手を振った。
その背中が廊下の角を曲がるまで見送り、俺も寮へ向かって歩き出した。
両腕の包帯は外れ、脇腹の傷も塞がっている。失った魔力も少しずつ戻り、階段を上っても足が止まることはなくなった。
それでも身体を捻れば、脇腹の奥には鈍い痛みが残っている。茜先生からは、痛みが消えるまで訓練場へ近づくなと言われていた。
「また見てるぞ」
机のそばから声をかけられ、俺は教室の後ろへ向けていた顔を戻した。
紘弥が呆れたように立っている。
「何がだよ」
「サラの席」
窓際の後ろから二番目。鞄の置かれていない机は、今日もまだ空いていた。
「見るくらいいいだろ」
「来るって分かってんだから、落ち着けって」
「落ち着いてるよ」
「どこがよ」
紘弥が笑う。教科書を開いていた玲奈も、顔を上げずに会話へ入ってきた。
「朝から何度も同じところを見ている人が、落ち着いているようには見えないわね」
「数えてたのか?」
「数えるまでもないわよ。視界に入るもの」
反論しても二人を喜ばせるだけだ。俺は机の上へ視線を落とした。
今日から、サラが授業へ戻る。
退学届は正式に受理されていなかった。身体を動かしているのがサラ本人だと確認したうえで、しばらく茜先生の診察を受けることを条件に、復帰が認められたらしい。
昨日、医務室を訪ねた時、明日は教室へ行くとサラ本人から聞いた。
「迎えに行けばよかったんじゃねえの?」
「一人で教室に入りたいから、来なくていいって言われたんだよ」
「なら、大人しく待つしかないわね」
玲奈がようやくこちらを見た。
「待ってるだろ」
「そうね。何度も扉を見ながら」
「だから――」
言い返そうとしたところで、その扉が開いた。
教室へ入ってきた烏廻さんの後ろに、見慣れたピンク色の髪が見える。俺だけでなく、教室中の視線がそちらへ集まった。
サラは扉の前で足を止めた。
制服姿で教室に立っている。それだけで、里で起きたことが急に遠くなったように感じた。
サラと目が合う。緊張していた表情が僅かに緩み、口元に笑みが浮かんだ。
「おはよう」
すぐには誰も返さなかった。
事情をどこまで聞いているのかは分からない。突然退学したはずの生徒が戻ってきたのだから、驚くのも無理はなかった。
返事を待つ間に、サラの笑みが少しずつ固くなる。
「いつまでそこに立っているつもりですの?」
静寂を破ったのは涼子だった。
腕を組み、いつもと変わらない様子でサラを見ている。
「戻ってきたのなら、さっさと席に着きなさいな。授業が始まりませんわ」
「……うん」
サラが小さく頷き、教室へ入る。
「クロイツさん」
今度は京子が声をかけた。
「おはよう」
「うん。おはよう」
雨宮も自分の席から片手を上げる。
「戻ったか」
「ただいま」
「なら、早く座れ。先生が待ってるぞ」
サラが教壇へ目を向ける。
「烏廻先生、何かないの?」
「ねえよ。席に着け」
「そこは少しくらい考えてよ」
「考える時間が無駄だ。早くしろ」
「はーい」
不満そうに返事をしながら、サラは窓際の席へ向かった。
俺のそばを通る時、歩みが僅かに緩む。
「隼人君も、おはよう」
「ああ。おはよう」
交わしたのは、それだけだった。
サラが自分の席へ着き、烏廻さんが出席簿を開く。名前が順に呼ばれていき、サラ・クロイツのあとにも本人の声で返事が続いた。
止まっていた空気が、少しずつ動き始める。椅子を引く音や教科書を開く音が重なり、誰かが小声で今日の課題を確認していた。
何事もなかったわけじゃない。
それでも、何もかもを特別にしなければ戻れないわけでもなかった。
昼休みになると、俺たちは学食の隅にあるテーブルへ集まった。
俺とサラ、玲奈、紘弥。別の教室から来た橘とルイも一緒だ。
「なんか、久しぶりだね」
サラが全員の顔を見回す。
「そんなに経ってないだろ」
「期間の話じゃないの。もっと長く離れてた気がするんだもん」
そう言いながら、サラは料理を次々と口へ運んでいく。橘がその様子を見て、少しだけ眉を下げた。
「サラちゃん、そんなに急いで食べて大丈夫?」
「朝から緊張してて、あんまり食べられなかったの」
「教室じゃ、そう見えなかったけどな」
「頑張ってたの。隼人君には分からないだろうけど」
「サラが来る前から落ち着かなかった奴もいるしな」
紘弥が余計なことを言った。
サラの手が止まり、こちらへ顔を向ける。
「落ち着かなかったの?」
「扉とお前の席を、何度も見てたわね」
玲奈まで加わる。
「来るって聞いてたから、確認してただけだ」
「そっか」
サラはそれ以上追及せず、楽しそうに笑った。
「待っててくれたんだ」
「だから、確認してただけだって」
「うん。そういうことにしといてあげる」
隣で橘まで笑い始めたので、俺は食事へ逃げることにした。
「クロイツさん」
少しして、ルイが声を落とした。
「ハデスとの繋がりは、今も残っているのですか」
「ううん。あたしには、よく分からないんだ」
サラは箸を置き、自分の胸元へ目を落とした。
「身体を動かしてるのは、間違いなくあたし。でも、ハデスがどこにいるのかとか、今こっちの声を聞いてるのかまでは分からない」
「本人に聞けないのか?」
紘弥が尋ねる。
「呼びかけても、返事をするかはハデス次第みたい」
「ずっと聞かれてるかもしれねえってことか」
「余が常に、お主らの話へ耳を傾けておるとでも思うたか?」
サラの口から、低い声が返った。
紘弥の動きが止まる。玲奈と橘も言葉を切り、ルイは静かにサラの様子を見つめていた。
箸を握る手も、座っている姿勢も変わらない。身体を動かしているのはサラのままだ。同じ唇から発せられた声だけが、ハデスのものへ変わっていた。
「……本当に聞いてたのかよ」
「勘違いするでない。余は冥界におる」
ハデスの答えに、紘弥が目を瞬いた。
「冥界? じゃあ、どうしてサラの口から話せるんだよ」
「顕現の際に生じた繋がりが、この娘との間に残っておる。余がそちらへ意識を向ければ、それを通して声を届けることもできる」
「それ以外の時は、こっちの話も聞こえないの?」
サラ自身の声で問いかける。
同じ口から、すぐにハデスの声が返った。
「冥界におる余へ、現世の声が絶えず届く道理があるまい」
「じゃあ、今はあたしの中にいるわけじゃないんだ」
「余は冥界におる。先ほどそう告げたであろう」
「そういう意味だったんだ……」
それきり、返事は途絶えた。
「ハデス?」
サラが呼びかけても、今度は何も返ってこない。しばらく待ったあと、困ったように俺たちを見回した。
「……もう、こっちの声は聞いてないみたい」
「ハデス本人が残っているのではなく、冥界にいる本人へつながる道だけが残っている、ということでしょうか」
ルイが言葉を選びながら確認する。
「たぶん、そういうことなんだと思う」
サラは自分の指を一度曲げてから、膝の上へ手を戻した。
「戻ってきてから、あたしの意思に反して手足が動いたことはないよ。さっきも、声を出しただけだった」
ハデスが話している間も、身体の主導権はサラにあった。声を発したことと、身体を奪うことは別らしい。
橘がサラの顔を覗き込む。
「身体に何か変わったことはない?」
「うん。大丈夫」
「何かあったら、茜先生だけじゃなくて私たちにも言ってね」
「分かってる。今度は一人で決めないよ」
サラは迷わず答えた。
その言葉を聞いて、俺も口にしかけていた念押しをやめる。
「それより、休んでた間のノートを見せてほしいんだけど」
サラが話題を変えると、玲奈が鞄へ手を伸ばした。
「一通りまとめてあるわよ」
「本当? ありがとう、玲奈ちゃん!」
「俺のも見るか?」
サラが紘弥へ顔を向ける。
「紘弥君のも?」
「おう」
「じゃあ、玲奈ちゃんのを見終わったら借りるね」
「何で俺のが後なんだよ」
「玲奈ちゃんの方が分かりやすそうだから」
「まだ見てもいないだろ」
紘弥が不満そうに返すのを聞きながら、サラが笑う。橘もつられるように笑い、ルイは呆れた様子で二人を見ていた。
ハデスとの繋がりも、これからどうなるのかも分からない。それでも今すぐ答えを出さなければ、この時間まで失われるわけではなかった。
学食で飯を食べて、みんなでくだらない話をする。
里でサラへ伝えた光景が、今は目の前にある。
放課後、教室を出たところで後ろから名前を呼ばれた。
「隼人君」
振り返ると、鞄を肩へ掛けたサラが立っている。
「これから医務室か?」
「うん。しばらく、帰る前に診てもらうことになってるの」
「ついていこうか?」
「大丈夫。今日は一人で行くよ」
朝、自分で教室へ入ると決めた時と同じ顔だった。
「分かった」
「じゃあ、また明日ね」
サラは軽く手を振り、医務室のある校舎へ歩き出す。
以前なら、明日も会えることをわざわざ確かめたりはしなかった。その当たり前が一度なくなったからこそ、今はその言葉が少しだけ特別に聞こえる。
「ああ。また明日」
俺が答えると、サラは歩きながらもう一度手を振った。
その背中が廊下の角を曲がるまで見送り、俺も寮へ向かって歩き出した。

