魔力の少ない魔法使い二年生編

 クロイツの里から戻った翌朝。
 目を覚ますと、見慣れた医務室の天井があった。
 両腕と脇腹には包帯が巻かれている。傷そのものは治療を受けて塞がっていたが、背中を起こすだけで身体の奥が引きつり、あちこちから鈍い痛みが返ってきた。
 里を出たあとのことは、ところどころしか覚えていない。
 暗い参道を下り、石造りの門を越えたこと。烏廻さんを中心に全員で輪を作ったこと。転移の直後、見慣れた学園の門を見上げたこと。
 そこから先の記憶は途切れていた。
 窓の外には、いつもと変わらない学園の景色が広がっている。校舎へ向かう生徒の姿も、遠くから聞こえてくる話し声も、里へ向かう前と何も変わらない。
 その中に、俺たちだけが戻れていないような気がした。
「起きたのか」
 扉の方から声がした。
 白衣を着た茜先生が、書類を片手に医務室へ入ってくる。
「気分は」
「身体中が痛いです」
「そうか。あれだけ無茶をしたんだ。当然だな」
 茜先生は淡々と答え、ベッドの脇へ来た。
 包帯の上から両腕へ触れ、続いて脇腹の状態を確かめる。僅かに押されただけで痛みが走り、思わず顔が歪んだ。
「傷は塞がっているが、失った魔力も体力も戻りきっていない。もう少し安静にしておけ」
「他のみんなは?」
「命に関わる者はいない。負傷者もいるが、全員こちらへ戻っている」
 その答えを聞き、詰めていた息を吐いた。
「里の人たちは」
「辰巳が教師を連れて戻った。夜明けまでに全員の所在を確認している。崩れた建物や避難の途中で負傷した者はいたが、死者はいない」
 戦いは終わった。
 けれど、すべてが元に戻ったわけではない。
「サラはどうなりましたか」
 茜先生は俺の顔をしばらく見たあと、手にしていた書類を閉じた。
「サラ・クロイツの身体に、目立った外傷はない。魔力と体力の消耗は大きいが、今は自分の意思で身体を動かしている」
「ハデスは」
「残っている」
 分かっていたことなのに、その答えを聞くと身体へ力が入った。
 身体の主導権をサラが持っているからといって、問題がなくなったわけではない。
「サラは、どうなるんですか」
「それを決めるために、学園長たちが話し合っている」
「閉じ込めたりするつもりですか」
「桐宮」
 茜先生の声が低くなる。
「まだ決まっていないことを、決まったものとして騒ぐな」
「でも――」
「危険がないとは言えない。だから監視はしている。だが、サラ・クロイツ本人を罪人として扱っているわけでもない」
 それ以上は答えないというように、茜先生は書類で俺の肩を軽く叩いた。
「本人に会えば分かる」
「会えるんですか」
「向こうがお前を呼んでいる。立てるなら来い」
 すぐにベッドから足を下ろす。
 床へついた途端、右足から力が抜けかけた。
「立てるなら、と言ったはずだが」
「立てます」
「今、倒れかけただろう」
「まだ倒れてません」
 ベッドの縁へ手をつき、今度はゆっくりと立ち上がる。
 茜先生は呆れたように息を吐いたが、止めはしなかった。
 茜先生の後について、サラたちがいる部屋まで歩かされた。
 扉の前には烏廻さんが立っていた。壁へ背を預け、眠そうに目を細めている。
「起きたか」
「烏廻さんこそ、休まなくていいんですか」
「お前にだけは言われたくねえよ」
 烏廻さんが身体を起こし、扉へ目を向ける。
「中にサラと母親がいる」
「エルフリーデさんは」
「まだ眠ってる。呼吸も脈も安定してるが、目を覚ましたのは里にいた時の一度だけだ」
「そうですか……」
「クロイツは、ほとんどあそこから動こうとしねえ」
 扉の向こうへ視線を向ける。
「入っていいんですか」
「クロイツがお前を呼んだんだ。俺に聞くな」
 烏廻さんが扉を開ける。
 茜先生は「何かあれば呼べ」とだけ告げ、その場を離れた。
 部屋の中央に、白い寝台があった。
 エルフリーデさんは目を閉じたまま横になっている。胸元は布に覆われ、あの時開いていた穴は見えない。
 その傍らに、サラが座っていた。
 扉の音に気づき、ゆっくりとこちらを振り返る。
「隼人君」
「よう」
 何か言わなければと思ったのに、それしか出てこなかった。
 サラもすぐには続けない。
 俺の両腕と脇腹へ視線を向け、僅かに眉を寄せた。
「もう歩いて大丈夫なの?」
「ここまでならな」
「本当に?」
「……一回、倒れかけた」
「駄目じゃん」
 弱々しい声だったが、少しだけいつものサラに戻っていた。
「お前はどうなんだよ」
「あたしは平気」
「それ、信用していいのか?」
「隼人君よりは平気」
 言い返され、何も言えなくなる。
 サラの隣にはもう一つ椅子が用意されていた。呼ばれた理由を尋ねる前に、そこへ座る。
「玲奈たちは来たのか?」
「うん。玲奈ちゃんと瑞希は朝から来てくれたよ。紘弥君も、さっきまでいた」
「何か言われた?」
「帰ってから、ちゃんと話を聞くって」
 サラは僅かに目を伏せた。
「里の人たちも、死んだ人はいなかったって聞いた」
「ああ」
「よかった」
 口ではそう言いながら、サラの表情は晴れない。
 寝台の上へ置かれた母親の手を、両手で包んでいる。
「お母さん、あれから一度も起きないの」
「茜先生も、呼吸と脈は安定してるって言ってた」
「うん。でも……」
 サラの指へ力が入る。
「目を覚ましたら、何を話せばいいのか分からない」
 俺はすぐに答えられなかった。
 サラを依代にして、ハデスを呼び出す儀式を行ったのはエルフリーデさんだ。
 それでもサラは、胸を貫かれた母親を見て泣き、助かったことを心から喜んでいた。
 心配しているから、すぐに許せるわけではない。
 怒っているから、いなくなってほしいわけでもない。
「分からないなら、分からないって言えばいいだろ」
「それだけ?」
「俺だって、お前に何を言えばいいか分からなかった」
 里で再会した時も、身体を取り戻した時も、正しい言葉を選べたとは思っていない。
「でも、黙ったままいなくなるよりはいい」
 サラは少しだけ目を伏せた。
「……それ、あたしに言ってる?」
「どっちにも」
「そっか」
 小さく笑い、もう一度母親の手を見る。
「聞きたいこと、いっぱいあるんだ」
「うん」
「どうして、そこまでしてハデスを呼びたかったのか。あたしを学園に行かせてくれた時、何を考えてたのか。あたしが戻るって言った時、本当はどう思ってたのか」
 一つずつ口にするたび、サラの声が僅かに震える。
「怖いんだよ。聞いたら、今まで信じてたことまで全部違ってたって分かりそうで」
「それでも聞くんだろ」
「……うん」
 迷いながらも、サラは頷いた。
「今度は、聞かないまま自分で決めたくないから」
 その時だった。
 サラが包んでいた指先が、僅かに動いた。
 俺たちは同時に寝台へ目を向ける。
「お母さん?」
 閉じられていたエルフリーデさんの瞼が震えた。
 ゆっくりと開き、焦点の合わない瞳が天井を彷徨う。
「お母さん、あたしが分かる?」
 サラが立ち上がろうとする。
 だが膝が揺れ、椅子へ手をついた。
 俺も咄嗟に動こうとして、脇腹の痛みに息を詰める。
「二人とも動くな」
 サラの声を聞きつけたのか、茜先生が部屋へ入ってきた。
 寝台の脇へ回り、エルフリーデさんの瞳と脈を確かめる。
「聞こえるか」
 問いかけに、エルフリーデさんの唇が僅かに動いた。
「……サラ」
 掠れた声が、静かな部屋へ落ちる。
「うん。ここにいるよ」
 サラが母親の手を握り直した。
「あたし、ちゃんと戻ってきたよ」
 エルフリーデさんの視線が、ゆっくりとサラへ向く。
 しばらく顔を見つめたあと、その目元が僅かに歪んだ。
「私は……」
 声が途切れる。
 何を言おうとしたのかは分からない。
 謝ろうとしたのか、それとも儀式のことを話そうとしたのか。
 サラも続きを待っていた。
 けれど、エルフリーデさんの呼吸が乱れ始めると、首を横へ振った。
「今は言わなくていい」
「サラ……」
「聞きたいことも、言いたいこともいっぱいあるよ。あたし、まだお母さんのこと許せるか分からない」
 エルフリーデさんの瞳が揺れた。
 サラも泣きそうに顔を歪める。それでも、母親の手を離さなかった。
「だから、元気になってから全部話して」
 一度言葉を切り、握った手へ僅かに力を込める。
「何も言わないまま、またいなくならないで」
 長い沈黙のあと、エルフリーデさんの指がサラの手を弱く握り返した。
「……ええ」
 声はほとんど息に近かった。
 それでも、サラには届いた。
「うん」
 サラの頬から涙が落ちる。
 エルフリーデさんはもう一度娘の名を呼ぼうとしたが、声になる前に瞼が閉じていった。
「お母さん?」
「眠っただけだ」
 茜先生が脈を確かめながら答える。
「今は休ませろ。話の続きは、もっと回復してからにしろ」
 サラは涙を拭い、静かに頷いた。
「はい」
 許したわけではない。
 何があったのかも、まだ聞けていない。
 それでも二人の間には、続きを話すための約束が残った。
 俺は椅子の背へ身体を預ける。
 脇腹の痛みは消えていない。サラの中にはハデスが残り、学園がどんな判断を下すのかも分からない。
 終わっていないことばかりだった。
 それでも、今度は誰も黙ったままいなくならない。
 そう思えるだけで、昨夜よりは少しだけ前へ進めた気がした。