魔力の少ない魔法使い二年生編

 祭壇は、同じ大広間の中にある。
 それでも、真っ直ぐには進めなかった。砕けた柱や床石が行く手を塞ぎ、天井からは今も細かな砂が落ちてくる。
 五十嵐とティオナが先へ回り、足を置ける場所を確かめながら瓦礫を退けていた。黒崎は最後尾で〈フライクーゲル〉を構え、俺たちの背後へ目を配っている。
 魔獣が戻ってくる気配はない。けれど、誰も警戒を解こうとはしなかった。
 橘に支えられたサラが、瓦礫を避けて一歩を踏み出す。肩に掛けた俺の上着がずれると、空いた手でその前を握り直した。
「無理するな」
「……大丈夫」
 返事はしたものの、サラはこちらを見なかった。足元を確かめる時以外は、ずっと祭壇へ顔を向けている。
 俺もその隣を離れずに歩いた。
「いた」
 先を行く五十嵐が足を止める。
 傾いた祭壇の陰に、人影が倒れていた。
「お母さん……!」
 サラが前へ出ようとした途端、膝が揺れた。橘が腕を回し、崩れかけた身体を支え直す。
「サラちゃん、一緒に行くから」
 サラは唇を結び、橘の腕につかまった。残りの距離を二人で進み、母親のそばへ膝をつく。
 エルフリーデさんは横向きに倒れていた。頬には長い髪がかかり、こちらへ投げ出された右腕にも動きはない。
「お母さん」
 サラが顔を覗き込む。
「聞こえる? お母さん……」
 返事はなかった。
 肩へ伸ばしかけた手が、触れる直前で止まる。指先が震え、サラはそれを握り込もうとした。けれど、うまく力が入らないらしく、開いたままの手を膝へ戻した。
「……怖い」
 俯いた顔から、声が漏れる。
「触ったら、本当に……」
 その先を言えず、サラは黙り込んだ。
 俺もすぐには言葉を返せなかった。あの腕が胸を貫いた光景は、今も目に焼きついている。大丈夫だと言ってやりたくても、その根拠がなかった。
 橘がサラの背中へ手を添える。
 その時、サラの口から別の声がした。
「何を怯えておる」
 サラ自身が目を見開き、口元へ手を当てた。
「ハデス……?」
 問いかける声はサラのものだ。けれど、次に同じ唇から返ってきた言葉は違った。
「その女は生きておる」
 俺は思わずサラを見た。
 口元へ当てていた手が下がっていく。サラはエルフリーデさんへ目を向けたまま、掠れた声で尋ねた。
「お母さんが……生きてる?」
「そう言うておろう」
「だって、あたしの手が……」
「あれをしたのは余じゃ」
 ハデスが遮る。
「お主ではない」
 サラは自分の手を見下ろした。
 それだけで恐怖が消えるはずはない。けれど、今度は膝の上へ戻さず、もう一度母親の肩へ伸ばした。
 指先が触れる。
「……温かい」
 俺は握っていた〈レーヴァテイン〉を消し、サラの隣へ膝をついた。
 エルフリーデさんの首元へ指を当てる。傷ついた腕が震えるせいで、すぐには分からなかった。位置をずらし、呼吸を抑えて指先へ意識を集中させる。
 弱いながらも、確かに脈が打っていた。
 口元へ手を近づけると、そこにも微かな息が触れる。
「脈がある。息もしてる」
「本当に?」
「ああ。生きてる」
 サラが大きく息を吐いた。肩へ触れていた手はそのままに、もう片方の手を床につく。
「よかった……」
 声が震え、次の言葉が出てこない。
 橘も隣へしゃがみ込み、サラの背中を支えた。サラは一度だけ橘を見て頷き、また母親へ向き直る。
「お母さん、あたし……」
 顔にかかった髪を、指でそっと払う。
 エルフリーデさんの瞼は閉じたままだった。呼びかけに応える動きもない。
 サラが胸元へ視線を下げる。
「傷は……?」
 その声に、俺も息を詰めた。
 肩と背中へ手を添え、サラと一緒にエルフリーデさんをゆっくりと仰向けにする。胸元の衣服は裂けていた。その奥を見たサラの手が止まる。
 穴は、まだ残っていた。
 血は流れていない。それでも、胸の中央には向こう側の床が見えるほどの穴が開いている。
「そんな……」
 橘が呟いた。
 五十嵐も言葉を失い、ティオナはエルフリーデさんの胸元を見つめていた。
 俺は首元へ当てた指の感触を思い返す。脈はあった。呼吸も、自分で確かめた。
 それなのに、目の前にある傷は何も変わっていない。
「ハデス。どういうことだ」
「余が死なせておらぬ」
「胸に穴が開いたままなんだぞ。このままでいいのかよ」
 サラは俺たちのやり取りを聞きながら、母親の肩へ添えた手を動かせずにいた。
「……お母さんは、ずっとこのままなの?」
 尋ねると、同じ口から静かな答えが返る。
「その必要はない」
 エルフリーデさんの胸元へ、黒い魔力が集まり始めた。
 サラの肩が跳ねる。俺も咄嗟に身を乗り出した。
「何をする気だ!」
「閉じるだけじゃ。邪魔をするでない」
 黒い魔力が穴の縁を覆っていく。
 サラは母親の肩に手を添えたまま、それを見ていた。俺も目を離さずに待つ。闇に隠された胸元で、欠けていた部分が少しずつ形を取り戻していった。
 やがて魔力が薄れ、裂けた衣服の奥が見えた。
 先ほどまで向こう側の床が見えていた場所に、もう穴はなかった。
「塞がった……」
 橘の声を聞いて、サラがそっと手を近づける。穴のあった場所へ指先で触れ、確かめるように見つめた。
「余が開けたものを、余が閉じた。それだけのことじゃ」
 何事もなかったようなハデスの声に、腹が立った。
「だったら、どうしてすぐに――」
「隼人君」
 サラに呼ばれ、言葉を止める。
 サラは俺を見てから、母親へ視線を戻した。俺もそれ以上は続けず、エルフリーデさんの呼吸を確かめる。
 先ほどよりも胸の動きが分かりやすい。首元へ触れると、脈もはっきりと指先へ伝わってきた。
「息はしてる。脈も、さっきより強い」
 サラは小さく頷いた。
 俺が手を離すと、サラは母親の左手を取り、両手で包み込んだ。
「お母さん」
 握った手へ顔を近づける。
「聞こえてる? あたしだよ」
 エルフリーデさんは動かない。
 それでもサラは手を離さず、言葉を続けた。
「あたし、戻ってきたよ」
 喉が詰まったのか、そこで一度口を閉じた。俯いて息を整え、母親の顔を見る。
「だから、お母さんも戻ってきてよ」
 返事を待つサラの隣で、俺は何も言えなかった。
 胸の穴は塞がった。息もしている。けれど、サラが待っているのは、それを伝える俺の言葉ではない。
 重ねた手の上へ、一滴、涙が落ちる。
 その下で、エルフリーデさんの指が動いた。
「……お母さん?」
 サラが顔を上げる。
 母親の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。天井へ向いた目はしばらく何も捉えていなかったが、呼びかけるサラへ少しずつ動いていく。
 視線が合った。
「……サラ」
 掠れた声だった。
 それを聞いた途端、サラの顔が泣きそうに歪んだ。
「うん。あたしだよ」
 握っている左手とは反対の、エルフリーデさんの右手が持ち上がる。
 指先がサラの頬へ伸びた。
 けれど、届く前に力が抜けてしまう。サラは母親の左手から片手を離し、落ちかけた右手を受け止めた。
「お母さん……?」
 エルフリーデさんは再び目を閉じていた。
 サラが身を乗り出す。俺は首元へ指を当て、続いて胸の動きを見た。
「息はしてる。脈もある」
 サラも母親の胸元を見つめる。
 呼吸に合わせて衣服が動くのを確かめてから、受け止めた右手を床へそっと戻した。左手は握ったままだ。
「……あたしの名前、呼んでくれた」
「うん」
 橘が答える。
 サラは母親の顔へ目を戻し、涙を拭った。すぐに次の涙がこぼれたが、もう呼びかけを繰り返すことはしなかった。
 その時、大広間の入口から足音がした。
 黒崎が〈フライクーゲル〉を向ける。俺も腰を上げようとしたが、脇腹に痛みが走り、途中で動きを止めた。
「桐宮!」
 聞き慣れた声に顔を上げる。
 瓦礫を越えて現れたのは、烏廻さんだった。裂けた上着を着たまま、両手に〈ヴリトラ〉と〈インドラ〉を握っている。左腕は右よりも低く下がっていたが、足取りに大きな乱れはなかった。
 その隣にいる人物を見て、俺は目を疑った。
「帝!?」
 帝は〈天ノ叢雲〉を手にしていた。制服は汚れ、身体にも戦った跡が残っている。
「なんでお前がここにいるんだよ」
「話せば長くなる」
 帝は俺の姿を見たあと、サラと、その前に横たわるエルフリーデさんへ目を向けた。
「今は僕のことより、そちらが先だろう」
 確かに、ここで事情を聞いている場合ではなかった。
 烏廻さんが大広間を見回す。魔獣の姿はなく、黒い亀裂も消えている。最後にサラを見て、足を止めた。
「終わったのか」
「……サラは戻ってきました」
 俺が答えると、サラも顔を上げた。
「心配かけて、ごめんなさい」
 烏廻さんはサラの顔を確かめ、短く息を吐いた。
「立てるか?」
「私が支えれば」
 橘が答える。
 烏廻さんは頷いて祭壇へ近づき、エルフリーデさんのそばへ屈んだ。
「こちらは?」
「息はしています。一度、目も覚ましたんですけど……」
 俺の答えを聞きながら、烏廻さんが状態を確かめる。その背後で、別の足音が近づいてきた。
「隼人!」
 玲奈が大広間へ駆け込んでくる。紘弥とルイも一緒だった。
 三人とも無傷ではない。紘弥の頬には攻撃を受けた跡が残り、〈グングニル〉を持つルイは左腕を庇っている。
 玲奈は俺のそばへ来ると、両腕から脇腹へ目を走らせた。
「隼人、その傷……!」
「なんとかなったよ」
「どこがよ」
 言い返しかけた玲奈の視線が、俺の隣で止まる。
「サラ……?」
 サラが振り向いた。
「玲奈ちゃん」
 涙の残る顔で、それでも口元を緩める。
「……ただいま」
 玲奈はすぐには答えなかった。
 紘弥が長く息を吐き、ルイも槍先を下げる。玲奈は二人よりも先にサラの前へ膝をついた。
「遅いのよ」
「……ごめん」
 サラが俯きかけると、玲奈はその肩へ手を置いた。
 続けようとした言葉を飲み込み、サラの顔を見つめる。それから、肩に掛かっていた上着を直した。
「立つ時は言いなさい。手を貸すから」
「……うん」
 サラの返事を聞いて、烏廻さんが立ち上がった。
「ここを出るぞ。動ける奴は負傷者を支えろ」
「庭園と参道に残ってる人たちは?」
 俺が尋ねると、烏廻さんはすぐに答えた。
「順番に回収する。全員、生きて帰す」
 帝が〈天ノ叢雲〉を消し、エルフリーデさんのそばへ回った。
「僕が運びます」
「頼む」
 サラは握っていた母親の手を見た。
 指を一本ずつ緩め、身体の脇へ戻す。帝が背中と膝の下へ腕を入れ、慎重に抱き上げるまで、サラはその手を目で追っていた。
「……お願い」
 帝はサラへ頷き、エルフリーデさんを抱え直した。
 橘と玲奈が左右へ回り、サラに肩を貸す。立ち上がったサラの膝は震えていたが、二人に支えられながら足を踏みしめた。
 俺も床へ手をつき、身体を起こそうとした。
 腕に力を込めた途端、傷が痛む。どうにか腰を浮かせたものの、足が踏ん張りきれず、再び膝をついた。
「隼人!」
 玲奈がこちらを向く。
「大丈夫だ。ちょっと力が抜けただけだ」
「お前も一人で立とうとすんなよ」
 紘弥が横へ屈み、俺の腕を自分の肩へ回した。
「ほら、つかまれ」
「……悪い」
 今度は逆らわず、紘弥に支えてもらいながら立ち上がる。
 身体を起こしてみると、両腕だけでなく、背中も脇腹も痛かった。ここまで自分の足で歩いてきたはずなのに、もう同じようには動けそうになかった。
 黒崎は入口の向こうを警戒し、五十嵐とティオナもそちらへ身体を向けている。ルイは槍を手に、俺と紘弥が立つのを待っていた。
「帰れるのかな」
 サラの声がした。
 橘と玲奈に支えられながら、帝に抱き上げられた母親を見ている。
「帰るんだよ」
 俺は答えた。
「今度は、全員で」
 サラはこちらを見て、それから隣の二人へ目を向けた。
「うん」
 傾いた祭壇へ背を向ける。
 サラは二人に支えられながら、自分で選んだ帰り道へ一歩を踏み出した。