魔力の少ない魔法使い二年生編

 俺の胸元へ額を預けたまま、サラは浅い呼吸を繰り返している。制服をつかむ両手にも、ほとんど力は残っていない。
 背中へ回した腕を緩めれば、そのまま床へ崩れ落ちてしまいそうだった。
 戻ってきた。
 少なくとも今、この身体を動かしているのはサラだ。
「サラちゃん!」
 背後から橘の叫びが届いた。
 同時に、獣の咆哮と銃声が大広間を揺らす。
 振り返ると、五十嵐へ飛びかかった狼型の魔獣が、横合いから撃ち込まれた弾丸に弾かれていた。着地した五十嵐が〈猫又〉を振り抜き、その巨体を押し戻す。
「桐宮君、こっちはまだ――!」
 橘の言葉を遮るように、黒い亀裂から新たな魔獣の前脚が現れる。
 サラを取り戻しても、戦いが終わったわけじゃない。
 俺はサラを支えたまま、床へ落ちた〈レーヴァテイン〉の位置を探した。けれど、今の腕で剣を拾い、サラまで守りながら戦えるとは思えない。
「黒崎、入口を頼む! ティオナ、橘さんの前を止めて!」
 五十嵐が叫び、次の魔獣へ向き直る。
 その時だった。
 腕の中で、サラの身体が小さく震えた。
 俺の胸元へ伏せられていた顔が僅かに上がる。疲れ切っていた瞳が細められ、口元にサラのものではない笑みが浮かんだ。
「もうよい。戻れ」
 耳に届いたのはサラの声だった。
 だが、その言葉に込められた響きは、サラのものではない。
「ハデス……!」
 俺が名を呼んだ直後、大広間を満たしていた魔獣たちの動きが止まった。
 五十嵐へ牙を剥いていた狼型が頭を下げる。柱を這っていた蜘蛛型も、翼を広げていた鳥型も、戦っていた四人から一斉に離れていく。
 魔獣たちは次々と黒い亀裂へ戻り始めた。
「……何?」
 五十嵐が〈猫又〉を構えたまま、その光景を見つめる。
 最後の一匹が闇の奥へ姿を消すと、床や壁に走っていた亀裂がゆっくりと狭まっていった。黒い光が細い線となり、それすらも消える。
 後には、壊れた大広間と、荒い呼吸を繰り返す俺たちだけが残された。
「待て、ハデス!」
 呼びかけたが、返事はない。
 サラの口元から笑みが消える。細められていた瞳が大きく開かれ、何が起きたのか分からない様子で自分の唇へ触れようとした。
 けれど、持ち上がった腕は途中で力を失い、俺の胸へ戻ってくる。
「今の……あたしじゃ……」
「分かってる」
「まだ、いる……」
 掠れた声が震える。
 俺だって不安がないわけじゃない。サラが身体を取り戻した直後に、ハデスは同じ口から声を出した。
 それでも、今のサラまで疑うつもりはなかった。
「身体を動かしてるのは、お前だろ」
 俺の言葉に、サラは自分の両手を見る。
 僅かに指を曲げ、それが自分の意思どおり動くことを確かめてから、小さく頷いた。
「だったら大丈夫だ。あいつのことは、あとで考えればいい」
「……うん」
「サラちゃん!」
 今度こそ、橘がこちらへ駆け寄ってくる。
 その後ろから五十嵐とティオナが続き、黒崎も狙撃銃を下ろしながら歩いてきた。全員、制服も身体も傷だらけだった。
「瑞希……」
 橘の姿を認めたサラの顔から、僅かに緊張が抜ける。
 その直後、サラが不思議そうに目を瞬いた。
 橘ではなく、もっと近くにある俺の顔を見る。
 次に、自分の身体へ回された俺の腕へ視線を落とす。
 最後に、俺の制服をつかんでいる自分の両手を見た。
「……え?」
 サラの頬が、見る間に赤くなっていく。
「は、隼人君!?」
「うわっ、急に大声を出すなよ」
「ど、どうして……って、近い! 近いよ!」
「仕方ないだろ。お前、一人じゃ立てないんだから」
「でも、だからって……!」
 サラは慌てて俺の制服から手を離した。
 そのまま身体まで離そうとする。
「待て!」
「きゃっ……!」
 足に力が入らなかったらしく、サラの膝が折れた。
 咄嗟に腰へ腕を回し、倒れる前に抱き留める。さっきよりも身体が密着し、サラの顔が一気に耳まで赤くなった。
「だから言っただろ!」
「い、今のは違うの! ちょっと力が入らなかっただけで……!」
「それを立てないって言うんだよ」
「で、でも、みんな見てるし……!」
 サラが恐る恐る横を見る。
 橘は目元に涙を浮かべたまま、口元を両手で覆っていた。五十嵐は張り詰めていた力が抜けたように肩を落とし、ティオナは僅かに首を傾げている。黒崎だけは何も言わず、周囲へ目を配っていた。
「ご、ごめん。私、邪魔しちゃった……?」
「違うから!」
 橘の言葉に、サラが即座に声を上げる。
「これは隼人君が勝手に――」
「離したら倒れるだろ」
「それは、そうだけど……!」
 言い返しかけたサラが、不意に口を閉じた。
 自分の肩へ目を向け、続いて大きく裂かれた着物の裾を見る。
「……なに、これ」
 ハデスが引き千切った袖と、左右に裂かれた裾。
 今まで自分の身体へ意識を向ける余裕がなかったのだろう。露わになった肩や腿を見たサラの顔から、一瞬で血の気が引いた。
「ちょっ……ちょっと待って! なんでこんなことになってるの!?」
「俺に聞くな! やったのはハデスだ!」
「み、見たの!?」
「戦ってたんだから見るだろ!」
 答えてから、言い方を間違えたことに気づいた。
 サラの顔が、先ほどとは比べものにならないほど赤くなる。
「隼人君の馬鹿!」
「なんで俺が怒られるんだよ!」
 背後で、五十嵐が小さく息を漏らした。
 笑ったのだと気づいて振り向くと、慌てて口元を押さえている。
「ご、ごめん。でも……本当に戻ってきたんだなって」
 その言葉に、サラの動きが止まった。
 橘も涙を拭いながら頷く。
「うん。私も、そう思った」
「瑞希……」
 サラは何かを言おうとして、けれど声にできず俯いた。
 俺は片腕でサラを支えたまま、制服の上着を脱いだ。傷ついた腕に痛みが走ったが、顔には出さず、サラの肩へ掛ける。
「今はこれで我慢しろ」
「……ありがとう」
 サラが上着の前を両手で閉じる。
「橘、支えられるか?」
「うん」
 橘がすぐにサラの隣へ回り、その身体を支えた。
 俺が腕を離すと、サラは一瞬だけこちらを見た。まだ頬は赤かったが、今度は無理に離れようとはしなかった。
「サラちゃん」
 橘が名前を呼ぶ。
 それだけで、サラの表情が歪んだ。
「瑞希、あたし……」
「おかえり」
 謝ろうとしたサラを遮り、橘が告げる。
 サラは目を見開いた。
「私、まだ言いたいことがいっぱいある。怒ってることだってあるから」
「……うん」
「だから、今ここで全部謝って終わりにしないで」
 橘の声も震えていた。
「ちゃんと帰ってから、全部聞かせて」
「……うん」
 サラが何度も頷く。
「ごめんね、瑞希」
「それも、あとで聞く」
 橘はそう言って、サラの身体をそっと抱き寄せた。
 サラの瞳から、一筋の涙がこぼれる。
 五十嵐とティオナも、二人の近くへ歩み寄った。
「本当に心配したんだからね」
「……戻ってきて、よかった」
 二人の言葉に、サラは泣きながら笑った。
「ありがとう。みんな……本当に、ありがとう」
「礼も話も後だ」
 黒崎が周囲を見回しながら言う。
「亀裂は消えたが、安全になったとは限らない。それに、負傷者が多すぎる」
 その言葉で、サラがはっと顔を上げた。
 橘たちの傷を見て、次に俺の両腕と脇腹へ視線を向ける。
「これ……あたしが……」
「その話も後だ」
 俺は言った。
「今はここを出ることを考えよう」
「でも――」
「一人で抱え込まないって、さっき自分で言っただろ」
 サラは唇を噛み、やがて小さく頷いた。
「……うん」
 だが、その表情から不安は消えなかった。
 何かを探すように、壊れた大広間を見回している。
 その視線が、祭壇の方へ向いたところで止まった。
「お母さんは……?」
 胸の奥が強く詰まった。
 サラの腕が、エルフリーデさんの胸を貫いた光景が蘇る。
 倒れてから、エルフリーデさんは一度も動いていない。
 俺は答えを探すように祭壇へ目を向けた。
「……あそこだ」
 辛うじて、それだけを返す。
 サラも俺の視線を追った。
 傾いた祭壇と、その周囲に折り重なる瓦礫。ここからでは、倒れているエルフリーデさんの姿までは見えない。
 けれど、サラには何があったのか分かっている。
 自分の手を見下ろしたまま、その場から動けなくなった。
「サラちゃん」
 橘が支える腕へ力を込める。
「あたし……」
 サラの声が震えた。
「お母さんに、会うのが怖い」
 誰もすぐには答えられなかった。
 怖くないはずがない。
 身体を奪われていたとはいえ、自分の腕が母親の胸を貫くところを、サラは内側から見ていた。
「それでも、行かなきゃ」
 消え入りそうな声で続け、サラは顔を上げた。
 瞳には恐怖が残っている。それでも、祭壇から目を逸らさなかった。
「うん。一緒に行こう」
 橘が答える。
「私たちも行くよ」
 五十嵐が言い、ティオナも頷いた。
 黒崎は何も言わなかったが、狙撃銃を構え直し、俺たちの後方へ回る。
 俺も床へ落ちていた〈レーヴァテイン〉を拾い、サラの隣へ戻った。
「隼人君……」
「今度は一人で行こうとするなよ」
 俺が言うと、サラは少しだけ目を伏せた。
「……うん」
 橘に身体を支えられながら、サラが一歩を踏み出す。
 その足は震えていた。
 それでも、もう止まらなかった。
 俺たちはサラを囲むようにして、エルフリーデさんのいる祭壇へ向かった。