背中の布をつかんだ指から、僅かな力が伝わってくる。
強く握れているわけではない。少し身体を離せば、それだけでほどけてしまいそうな弱い力だった。
それでも、これはサラの意思だ。
「聞こえてるんだろ、サラ」
返事はない。
代わりに、制服をつかんでいた指がもう一度動いた。
ハデスが小さく息を吐く。
「右腕だけでは飽き足らず、余の支配を押し返そうとしておるか」
声は間違いなくハデスのものだった。
けれど、先ほどまでの余裕は薄れている。俺の脇腹へ添えられていた左手も、押し離そうとする途中で止まっていた。
「だったら、もう終わりだ」
「何がじゃ?」
「サラは戻ってくる」
「指が動いた程度で、随分と都合よく考えるものじゃな」
制服をつかんでいた指が開き始める。
サラが離そうとしているわけではない。曲がった指を、ハデスが一本ずつ伸ばそうとしていた。
「この程度の抵抗で、余から身体を奪えると思うな」
人差し指が布から離れる。
続いて、中指も伸びていく。
俺はサラを抱いたまま、その手へ自分の右手を重ねた。傷ついた腕に痛みが走ったが、構わず指ごと握り込む。
「サラ、離すな」
「何をしておる?」
「サラに言ってる。お前は黙ってろ」
「この口で話しておるのは余じゃぞ」
「声を出してるのがお前でも、サラには聞こえてる」
伸ばされかけていた指が、俺の手の中で止まった。
押し開こうとするハデスの力へ逆らい、サラが再び指を曲げていく。
自分から握り返そうとしている。
そう確信した直後、腕の中の身体が大きく震えた。
「っ……」
サラの喉から、短い声が漏れた。
ハデスの口調ではない。苦しそうに息を詰まらせただけの声だった。
それでも、今までのサラにはできなかったことだ。
「サラ!」
顔を覗き込もうとしたが、サラの額は俺の肩口へ押しつけられたまま動かない。
背中へ回した腕へ少し力を込める。
「もう一回だ。何でもいい。声を出せ」
「無駄じゃ」
ハデスが言い切ると、身体へ再び力が入った。
止まっていた左腕が動き、俺の脇腹を押す。
負傷している場所へ指が食い込み、鋭い痛みに息が詰まった。身体を離されそうになり、床を踏んで耐える。
「ぐっ……!」
「手を離せ。さもなくば、その傷では済まぬぞ」
「嫌だ」
「このまま余へしがみついて、何ができる?」
「俺には何もできない」
「ならば――」
「だから、あとはサラがやる」
脇腹を押していた手から、少しずつ力が抜けていく。
ハデスが再び押し込もうとする。けれど、指先が制服を滑るだけで、俺の身体を離すところまで動かなかった。
左右の腕が別々の意思に従っている。
右手は俺の手を握り返そうとし、左手は俺を押し離そうとしていた。その左手も、次第に動きを鈍らせていく。
「サラ。お前が何を考えて、俺たちを遠ざけようとしたのかは知らない」
肩口へ触れているピンク色の髪が、呼吸に合わせて微かに揺れる。
「俺たちを巻き込みたくなかったのかもしれない。これしか方法がないと思ってたのかもしれない」
クロイツ家で再会した時、サラは自分の意思でここに残ると言った。
もう来ないで、とも。
あの時の表情も、弱り切った声も覚えている。
「でも、俺は納得してない」
ハデスが何かを言おうとする。
その前に言葉を続けた。
「勝手にいなくなって、それで全部終わりにできると思うな。言いたいことがあるなら、自分で言え」
「余ではなく、この娘に答えを求めるか」
「当たり前だろ」
「今、この身体を動かしておるのは余じゃ」
「今までは、だ」
俺の手を握る指が僅かに強くなった。
ハデスが黙る。
サラの呼吸は浅い。身体の震えも止まっていない。それでも、俺の手を握った右手だけは離れなかった。
「サラ。聞こえてるなら返事をしろ」
喉が動いた。
何かを言おうとしている。
けれど、唇から聞こえてきたのはハデスの声だった。
「声を取り戻したところで、余の支配は揺るがぬ」
「だったら、どうしてサラの声を止めるんだよ」
ハデスは答えなかった。
俺の手を握ろうとしている右手へ視線を落とし、僅かに目を細める。
サラがどこまで抗えるのか、見極めようとしている。
そう見えた。
「サラ」
ハデスの反応を待たず、もう一度名前を呼ぶ。
「戻ってきて、ちゃんと話せ」
返事はない。
それでも喉は何度も動いていた。
唇が僅かに開いても、すぐに閉じられる。息だけが漏れ、言葉になる前に消えていく。
「みんな、お前を連れて帰るためにここまで来たんだ。今もそこで戦ってる」
背後では矢の風切り音と銃声が続いている。
五十嵐が魔獣を引きつけ、ティオナが魔法で動きを止める。橘と黒崎も、途切れることなく攻撃を続けていた。
「一人で全部決めるな。迷惑をかけるとか、巻き込みたくないとか、それもお前が勝手に決めていいことじゃない」
腕の中で、息を吸う音がした。
サラの唇がゆっくりと開く。
「は……」
掠れた音が一つ落ちる。
俺は息を止めた。
サラの唇が、もう一度動く。
「……や、と……君」
ハデスの低い声ではない。
弱々しく、途中で途切れかけた声だった。
けれど、確かに俺を呼んだ。
「サラ」
顔を離し、正面から見つめる。
真紅の瞳が揺れていた。
さっきまで俺だけを見据えていた視線が何度も焦点を失い、それでもこちらへ戻ってくる。
「俺が分かるか?」
「隼人……君」
「ああ。ここにいる」
返事を聞いたサラの眉が僅かに寄った。
表情まで自分の意思で動かそうとしている。
しばらく俺を見つめたあと、サラは掠れた声で尋ねた。
「……あたし、戻ってもいいのかな」
一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。
「何言ってんだよ」
「あたしのせいで、みんなが傷ついた。隼人君も、瑞希も……お母さんまで」
俺の手を握っていた指から、力が抜けかける。
「あたしの手が……お母さんの胸を貫いたの」
サラは、あの時のことを見ていた。
自分の身体を奪われながら、それでも外で起きたことを覚えている。
「あれはお前がやったことじゃない」
「でも、あたしの手だった」
「身体を奪ったハデスがやったんだ。お前が望んでやったことじゃないだろ」
「同じだよ……」
「同じじゃない」
離れかけた指を握り直す。
「お前が消えたって、起きたことがなくなるわけじゃない。それで誰かが救われるわけでもないだろ」
「でも……戻っても、前みたいには……」
「前と全く同じじゃなくてもいい」
学食でくだらない話をしたこと。
合宿で一緒に騒いだこと。
祭りの人混みの中を、手をつないで歩いたこと。
どれも特別なことだとは思っていなかった。
サラがいなくなってから、あれが当たり前ではなかったのだと気づいた。
「また学食で飯を食って、みんなでくだらない話をすればいい。何か抱えてるなら、今度はちゃんと俺たちにも話せ」
口にするのは少し恥ずかしかった。
それでも、今は誤魔化したくなかった。
「お前がいないと、寂しいんだよ」
サラの瞳が大きく揺れた。
「隼人君……」
「戻ってきてほしいから、俺たちはここまで来たんだ。戻ってほしくなかったら、こんなところまで来るわけないだろ」
「でも、あたし……」
「怖いなら、怖いって言え。謝りたいなら、そう言えばいい。でも、何も言わないまま消えようとするな」
俺の手の中で、サラの指が止まった。
「だから戻ってこい。これ以上、一人で全部抱え込むな。これからどうするかは、俺たちと一緒に考えればいいだろ」
サラは唇を閉じた。
すぐには答えが返ってこない。
それでも、抜けかけていた指の力が少しずつ戻ってくる。
「だから戻ってこい。俺たちのところに」
やがて、サラの指が俺の手を握り返した。
「……うん」
小さな返事だった。
直後、サラの顔から表情が消える。
ハデスが主導権を取り戻したのか、開いていた唇が閉じ、俺の手を握っていた右手も強張った。
「今の言葉だけで、この娘の迷いが消えたと思うか?」
「消えてなくてもいい」
「怖くても、迷ってても、戻ってきていいだろ」
サラの右手を握り直す。
「もう一回だ、サラ」
呼びかけても、すぐには反応がない。
ハデスの視線が俺を捉える。右腕が動き、握っていた手ごと外側へ捻られた。
傷ついた腕に力が加わり、肩まで痛みが走る。
それでも手を離さなかった。
「離せと言うておる」
「サラが離せって言うまで離さない」
「つくづく、諦めの悪い男じゃのう」
呆れたような声とは裏腹に、ハデスの口元には薄い笑みが残っていた。
俺の手を振りほどこうと、右腕に力が込められる。
その動きが途中で鈍った。
サラの右腕が再び震えている。
外側へ向かっていた手が、少しずつ元の位置へ戻ってくる。指が俺の手を握り、今度は先ほどよりもはっきりと力を込めた。
「……離さ、ないで」
途切れながらも、サラの声が届いた。
「分かった」
すぐに答える。
「離さない」
もう一度サラを抱き寄せる。
右腕が、ゆっくりと俺の背中へ回った。
まだ震えている。それでも今度は指先だけではない。肘が曲がり、腕全体が俺の身体へ触れている。
「そこまで取り戻したか」
ハデスの声から余裕が消える。
「まだだ」
俺はサラの身体を抱きしめたまま答えた。
「全部返してもらう」
「それを決めるのは、お主ではあるまい」
「ああ。決めるのはサラだ」
俺の言葉が終わると、サラの喉が痙攣するように震えた。
「あたしの……」
声が漏れた直後、歯が噛み合う。ハデスが口を閉ざそうとしている。
固く結ばれた唇が震え、サラが内側から押し返すように再び開いた。
「あたしの、身体……だから」
弱い声だった。
だが、その言葉だけは途切れなかった。
俺の背中へ回った右腕に力が入る。
左腕も震えながら持ち上がり、俺の制服へ触れた。
「返して」
サラがハデスへ告げる。
同じ身体の内側にいる相手へ向けた言葉が、大広間へ響いた。
声が途切れた直後、俺の背中へ回っていた腕から力が抜けかける。
俯いていた顔が上がり、細められた真紅の瞳が俺を捉えた。
「余に命じるか」
同じ口から、ハデスの声が発せられる。
だが、腕が俺から離れるより先に、その喉が再び震えた。
閉じた唇が僅かに開き、掠れた息が漏れる。
「あたしの身体だもん」
一語ずつ口を取り戻すように、サラが言い切る。
身体は震え続けている。腕だけではない。肩も足も、ハデスの力へ逆らうように動こうとしていた。
「……うん。怖いよ」
サラは誰に問われるでもなく、自分の迷いを声にした。
サラの指が震える。
それでも、俺の制服からは離れなかった。
「戻ってから、どうなるのかも分からない。みんなが、あたしを許してくれるかも分からない」
一度言葉を切り、浅く息を吸う。
「でも、もう一人で決めない」
サラの声が、少しずつ強くなっていく。
「みんなと話して、自分で決める。だから――」
俺の背中へ回した両腕に力が込められる。
「あたし、戻りたい」
周囲を満たしていた圧力が大きく揺れた。
ハデスは何も言わない。
右腕も左腕も動かさず、サラがどこまで主導権を取り戻せるのかを確かめるように沈黙している。
「隼人君や、みんなのところに戻りたい」
サラはその間も力を緩めなかった。
俺の背中へ回した腕を離さず、足へ力を込める。震えていた膝が、少しずつ伸びていく。
「あたしは器じゃない」
途切れかけていた声が、今度は大広間へはっきりと響いた。
「あたしは、サラ・クロイツだから」
サラの両手が俺の制服を強くつかむ。
「だから、あたしに返して」
言い終えた途端、サラの唇が固く閉ざされた。
喉の奥から押し殺したような息が漏れ、口元がゆっくりと歪む。
長い沈黙のあと、再び口を奪ったハデスが静かに告げた。
「その意思、確かに見届けた」
声から感情は読み取れなかった。
直後、サラの身体を覆っていた圧力が急速に弱まっていく。
巻き上げられていた髪が肩へ落ち、震えていた床も静かになった。
腕の中にある身体から力が抜ける。
「サラ!」
崩れ落ちそうになった身体を両腕で支える。
サラの額が俺の胸元へ触れた。
呼吸は続いている。
両足には立っているだけの力が残っていないらしく、身体の重さを俺へ預けていた。
「おい、サラ。聞こえるか?」
肩を支えながら顔を覗き込む。
閉じていた瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
こちらへ向けられた瞳に、先ほどまでのハデスの余裕はない。ひどく疲れた様子で、それでもサラは自分の意思で俺を見ていた。
「隼人君……」
「ああ」
「あたし、戻って……これた?」
震える声で尋ねるサラを支え直す。
「ああ」
答えると、サラの瞳が僅かに揺れた。
サラは身体を俺へ預けたまま、両手で制服をつかんでいる。俺も、背中へ回した腕をほどかなかった。
腕の中にいるサラを見つめ、もう一度はっきりと告げる。
「おかえり、サラ」
サラは目を伏せた。
泣きそうに歪んだ口元へ、それでも小さな笑みが浮かぶ。
「……ただいま」
強く握れているわけではない。少し身体を離せば、それだけでほどけてしまいそうな弱い力だった。
それでも、これはサラの意思だ。
「聞こえてるんだろ、サラ」
返事はない。
代わりに、制服をつかんでいた指がもう一度動いた。
ハデスが小さく息を吐く。
「右腕だけでは飽き足らず、余の支配を押し返そうとしておるか」
声は間違いなくハデスのものだった。
けれど、先ほどまでの余裕は薄れている。俺の脇腹へ添えられていた左手も、押し離そうとする途中で止まっていた。
「だったら、もう終わりだ」
「何がじゃ?」
「サラは戻ってくる」
「指が動いた程度で、随分と都合よく考えるものじゃな」
制服をつかんでいた指が開き始める。
サラが離そうとしているわけではない。曲がった指を、ハデスが一本ずつ伸ばそうとしていた。
「この程度の抵抗で、余から身体を奪えると思うな」
人差し指が布から離れる。
続いて、中指も伸びていく。
俺はサラを抱いたまま、その手へ自分の右手を重ねた。傷ついた腕に痛みが走ったが、構わず指ごと握り込む。
「サラ、離すな」
「何をしておる?」
「サラに言ってる。お前は黙ってろ」
「この口で話しておるのは余じゃぞ」
「声を出してるのがお前でも、サラには聞こえてる」
伸ばされかけていた指が、俺の手の中で止まった。
押し開こうとするハデスの力へ逆らい、サラが再び指を曲げていく。
自分から握り返そうとしている。
そう確信した直後、腕の中の身体が大きく震えた。
「っ……」
サラの喉から、短い声が漏れた。
ハデスの口調ではない。苦しそうに息を詰まらせただけの声だった。
それでも、今までのサラにはできなかったことだ。
「サラ!」
顔を覗き込もうとしたが、サラの額は俺の肩口へ押しつけられたまま動かない。
背中へ回した腕へ少し力を込める。
「もう一回だ。何でもいい。声を出せ」
「無駄じゃ」
ハデスが言い切ると、身体へ再び力が入った。
止まっていた左腕が動き、俺の脇腹を押す。
負傷している場所へ指が食い込み、鋭い痛みに息が詰まった。身体を離されそうになり、床を踏んで耐える。
「ぐっ……!」
「手を離せ。さもなくば、その傷では済まぬぞ」
「嫌だ」
「このまま余へしがみついて、何ができる?」
「俺には何もできない」
「ならば――」
「だから、あとはサラがやる」
脇腹を押していた手から、少しずつ力が抜けていく。
ハデスが再び押し込もうとする。けれど、指先が制服を滑るだけで、俺の身体を離すところまで動かなかった。
左右の腕が別々の意思に従っている。
右手は俺の手を握り返そうとし、左手は俺を押し離そうとしていた。その左手も、次第に動きを鈍らせていく。
「サラ。お前が何を考えて、俺たちを遠ざけようとしたのかは知らない」
肩口へ触れているピンク色の髪が、呼吸に合わせて微かに揺れる。
「俺たちを巻き込みたくなかったのかもしれない。これしか方法がないと思ってたのかもしれない」
クロイツ家で再会した時、サラは自分の意思でここに残ると言った。
もう来ないで、とも。
あの時の表情も、弱り切った声も覚えている。
「でも、俺は納得してない」
ハデスが何かを言おうとする。
その前に言葉を続けた。
「勝手にいなくなって、それで全部終わりにできると思うな。言いたいことがあるなら、自分で言え」
「余ではなく、この娘に答えを求めるか」
「当たり前だろ」
「今、この身体を動かしておるのは余じゃ」
「今までは、だ」
俺の手を握る指が僅かに強くなった。
ハデスが黙る。
サラの呼吸は浅い。身体の震えも止まっていない。それでも、俺の手を握った右手だけは離れなかった。
「サラ。聞こえてるなら返事をしろ」
喉が動いた。
何かを言おうとしている。
けれど、唇から聞こえてきたのはハデスの声だった。
「声を取り戻したところで、余の支配は揺るがぬ」
「だったら、どうしてサラの声を止めるんだよ」
ハデスは答えなかった。
俺の手を握ろうとしている右手へ視線を落とし、僅かに目を細める。
サラがどこまで抗えるのか、見極めようとしている。
そう見えた。
「サラ」
ハデスの反応を待たず、もう一度名前を呼ぶ。
「戻ってきて、ちゃんと話せ」
返事はない。
それでも喉は何度も動いていた。
唇が僅かに開いても、すぐに閉じられる。息だけが漏れ、言葉になる前に消えていく。
「みんな、お前を連れて帰るためにここまで来たんだ。今もそこで戦ってる」
背後では矢の風切り音と銃声が続いている。
五十嵐が魔獣を引きつけ、ティオナが魔法で動きを止める。橘と黒崎も、途切れることなく攻撃を続けていた。
「一人で全部決めるな。迷惑をかけるとか、巻き込みたくないとか、それもお前が勝手に決めていいことじゃない」
腕の中で、息を吸う音がした。
サラの唇がゆっくりと開く。
「は……」
掠れた音が一つ落ちる。
俺は息を止めた。
サラの唇が、もう一度動く。
「……や、と……君」
ハデスの低い声ではない。
弱々しく、途中で途切れかけた声だった。
けれど、確かに俺を呼んだ。
「サラ」
顔を離し、正面から見つめる。
真紅の瞳が揺れていた。
さっきまで俺だけを見据えていた視線が何度も焦点を失い、それでもこちらへ戻ってくる。
「俺が分かるか?」
「隼人……君」
「ああ。ここにいる」
返事を聞いたサラの眉が僅かに寄った。
表情まで自分の意思で動かそうとしている。
しばらく俺を見つめたあと、サラは掠れた声で尋ねた。
「……あたし、戻ってもいいのかな」
一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。
「何言ってんだよ」
「あたしのせいで、みんなが傷ついた。隼人君も、瑞希も……お母さんまで」
俺の手を握っていた指から、力が抜けかける。
「あたしの手が……お母さんの胸を貫いたの」
サラは、あの時のことを見ていた。
自分の身体を奪われながら、それでも外で起きたことを覚えている。
「あれはお前がやったことじゃない」
「でも、あたしの手だった」
「身体を奪ったハデスがやったんだ。お前が望んでやったことじゃないだろ」
「同じだよ……」
「同じじゃない」
離れかけた指を握り直す。
「お前が消えたって、起きたことがなくなるわけじゃない。それで誰かが救われるわけでもないだろ」
「でも……戻っても、前みたいには……」
「前と全く同じじゃなくてもいい」
学食でくだらない話をしたこと。
合宿で一緒に騒いだこと。
祭りの人混みの中を、手をつないで歩いたこと。
どれも特別なことだとは思っていなかった。
サラがいなくなってから、あれが当たり前ではなかったのだと気づいた。
「また学食で飯を食って、みんなでくだらない話をすればいい。何か抱えてるなら、今度はちゃんと俺たちにも話せ」
口にするのは少し恥ずかしかった。
それでも、今は誤魔化したくなかった。
「お前がいないと、寂しいんだよ」
サラの瞳が大きく揺れた。
「隼人君……」
「戻ってきてほしいから、俺たちはここまで来たんだ。戻ってほしくなかったら、こんなところまで来るわけないだろ」
「でも、あたし……」
「怖いなら、怖いって言え。謝りたいなら、そう言えばいい。でも、何も言わないまま消えようとするな」
俺の手の中で、サラの指が止まった。
「だから戻ってこい。これ以上、一人で全部抱え込むな。これからどうするかは、俺たちと一緒に考えればいいだろ」
サラは唇を閉じた。
すぐには答えが返ってこない。
それでも、抜けかけていた指の力が少しずつ戻ってくる。
「だから戻ってこい。俺たちのところに」
やがて、サラの指が俺の手を握り返した。
「……うん」
小さな返事だった。
直後、サラの顔から表情が消える。
ハデスが主導権を取り戻したのか、開いていた唇が閉じ、俺の手を握っていた右手も強張った。
「今の言葉だけで、この娘の迷いが消えたと思うか?」
「消えてなくてもいい」
「怖くても、迷ってても、戻ってきていいだろ」
サラの右手を握り直す。
「もう一回だ、サラ」
呼びかけても、すぐには反応がない。
ハデスの視線が俺を捉える。右腕が動き、握っていた手ごと外側へ捻られた。
傷ついた腕に力が加わり、肩まで痛みが走る。
それでも手を離さなかった。
「離せと言うておる」
「サラが離せって言うまで離さない」
「つくづく、諦めの悪い男じゃのう」
呆れたような声とは裏腹に、ハデスの口元には薄い笑みが残っていた。
俺の手を振りほどこうと、右腕に力が込められる。
その動きが途中で鈍った。
サラの右腕が再び震えている。
外側へ向かっていた手が、少しずつ元の位置へ戻ってくる。指が俺の手を握り、今度は先ほどよりもはっきりと力を込めた。
「……離さ、ないで」
途切れながらも、サラの声が届いた。
「分かった」
すぐに答える。
「離さない」
もう一度サラを抱き寄せる。
右腕が、ゆっくりと俺の背中へ回った。
まだ震えている。それでも今度は指先だけではない。肘が曲がり、腕全体が俺の身体へ触れている。
「そこまで取り戻したか」
ハデスの声から余裕が消える。
「まだだ」
俺はサラの身体を抱きしめたまま答えた。
「全部返してもらう」
「それを決めるのは、お主ではあるまい」
「ああ。決めるのはサラだ」
俺の言葉が終わると、サラの喉が痙攣するように震えた。
「あたしの……」
声が漏れた直後、歯が噛み合う。ハデスが口を閉ざそうとしている。
固く結ばれた唇が震え、サラが内側から押し返すように再び開いた。
「あたしの、身体……だから」
弱い声だった。
だが、その言葉だけは途切れなかった。
俺の背中へ回った右腕に力が入る。
左腕も震えながら持ち上がり、俺の制服へ触れた。
「返して」
サラがハデスへ告げる。
同じ身体の内側にいる相手へ向けた言葉が、大広間へ響いた。
声が途切れた直後、俺の背中へ回っていた腕から力が抜けかける。
俯いていた顔が上がり、細められた真紅の瞳が俺を捉えた。
「余に命じるか」
同じ口から、ハデスの声が発せられる。
だが、腕が俺から離れるより先に、その喉が再び震えた。
閉じた唇が僅かに開き、掠れた息が漏れる。
「あたしの身体だもん」
一語ずつ口を取り戻すように、サラが言い切る。
身体は震え続けている。腕だけではない。肩も足も、ハデスの力へ逆らうように動こうとしていた。
「……うん。怖いよ」
サラは誰に問われるでもなく、自分の迷いを声にした。
サラの指が震える。
それでも、俺の制服からは離れなかった。
「戻ってから、どうなるのかも分からない。みんなが、あたしを許してくれるかも分からない」
一度言葉を切り、浅く息を吸う。
「でも、もう一人で決めない」
サラの声が、少しずつ強くなっていく。
「みんなと話して、自分で決める。だから――」
俺の背中へ回した両腕に力が込められる。
「あたし、戻りたい」
周囲を満たしていた圧力が大きく揺れた。
ハデスは何も言わない。
右腕も左腕も動かさず、サラがどこまで主導権を取り戻せるのかを確かめるように沈黙している。
「隼人君や、みんなのところに戻りたい」
サラはその間も力を緩めなかった。
俺の背中へ回した腕を離さず、足へ力を込める。震えていた膝が、少しずつ伸びていく。
「あたしは器じゃない」
途切れかけていた声が、今度は大広間へはっきりと響いた。
「あたしは、サラ・クロイツだから」
サラの両手が俺の制服を強くつかむ。
「だから、あたしに返して」
言い終えた途端、サラの唇が固く閉ざされた。
喉の奥から押し殺したような息が漏れ、口元がゆっくりと歪む。
長い沈黙のあと、再び口を奪ったハデスが静かに告げた。
「その意思、確かに見届けた」
声から感情は読み取れなかった。
直後、サラの身体を覆っていた圧力が急速に弱まっていく。
巻き上げられていた髪が肩へ落ち、震えていた床も静かになった。
腕の中にある身体から力が抜ける。
「サラ!」
崩れ落ちそうになった身体を両腕で支える。
サラの額が俺の胸元へ触れた。
呼吸は続いている。
両足には立っているだけの力が残っていないらしく、身体の重さを俺へ預けていた。
「おい、サラ。聞こえるか?」
肩を支えながら顔を覗き込む。
閉じていた瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
こちらへ向けられた瞳に、先ほどまでのハデスの余裕はない。ひどく疲れた様子で、それでもサラは自分の意思で俺を見ていた。
「隼人君……」
「ああ」
「あたし、戻って……これた?」
震える声で尋ねるサラを支え直す。
「ああ」
答えると、サラの瞳が僅かに揺れた。
サラは身体を俺へ預けたまま、両手で制服をつかんでいる。俺も、背中へ回した腕をほどかなかった。
腕の中にいるサラを見つめ、もう一度はっきりと告げる。
「おかえり、サラ」
サラは目を伏せた。
泣きそうに歪んだ口元へ、それでも小さな笑みが浮かぶ。
「……ただいま」

