「サラ」
もう一度名前を呼ぶと、何もない場所へ逸れた右腕が再び震えた。
ハデスは俺ではなく、自分の腕を見ていた。指を動かそうとしているのか、伸びていた五本の指がゆっくりと曲がっていく。けれど、その動きはひどくぎこちない。途中で何度も止まり、見えない何かと押し合っているようだった。
「まだ余に逆らうだけの力を残しておったか」
驚いてはいても、怒っている様子はない。
むしろ、ハデスの口元には薄い笑みが戻っていた。
「よい。完全に沈んでしまったのでは、あまりに張り合いがないからのう」
「サラは、そこにいるんだな」
「今のものを見ても、まだ余に尋ねるのか?」
「お前の言葉で聞きたい」
ハデスは震え続ける右手へ目を落とした。
「この身体を支配しておるのは余じゃ。手足も、声も、今は余の意思に従う。じゃが、この娘の意識まで消え去ったわけではない」
胸の奥に残っていた重さが、僅かにほどけた。
サラはまだいる。
俺の声を聞き、自分の身体を取り戻そうとしている。
「だったら、返せ」
「断る」
答えと同時に、震えていた腕が下がった。
ハデスが指を一本ずつ握り込み、拳を作る。途中で何度か動きが鈍ったものの、最後には親指まで折り畳まれた。
再び開かれた右手には、もう震えがない。
「今の一度で、この身体を取り戻せたと思うたか?」
ハデスが掌を俺へ向ける。
「この娘の抵抗は認めよう。されど、余へ届くには足りぬ」
黒い魔力が指先へ集まり始めた。
俺は身構えようとして、上がらない両腕に力を込める。傷口から血が流れ、制服の袖をさらに赤く染めた。
遠くへ弾き飛ばされた〈レーヴァテイン〉は、瓦礫の脇で炎を揺らしている。拾うなら、ハデスが動く前に走らなければならない。
けれど、俺の足は剣ではなく、正面にいるサラへ向いた。
「何のつもりじゃ?」
「サラを連れて帰る」
「それは先ほども聞いた」
「だったら、何度でも言う」
一歩踏み出す。
脇腹の奥が痛み、右足にうまく力が入らない。それでも立ち止まらず、もう一歩進んだ。
ハデスが俺の背後へ視線を向ける。
「剣は拾わぬのか?」
「今は必要ない」
「余を倒さず、どうやってこの娘を取り戻す?」
「お前と戦っても、サラを傷つけるだけだ」
刃を使わない戦い方を考え、拳や足でハデスに挑んだ。それでも、結局は同じだった。
サラの身体へ攻撃していることに変わりはない。
俺が倒すべき相手は目の前にいる。けれど、俺が手を伸ばしたい相手も、同じ場所にいる。
なら、これ以上ハデスだけを見て戦う必要はなかった。
「俺はサラに会いに行く」
「余が通すと思うか?」
「通してもらうつもりはない」
ハデスの右手から黒い魔力が放たれた。
避けようとしたが、傷ついた足は思ったように動かなかった。両腕を胸の前で交差させる。
衝撃が腕を打ち、傷口を抉った。
「ぐっ……!」
足が床を滑る。
押し倒されそうになる身体を、右足を後ろへ引いて支えた。腕から流れた血が指先まで伝い、床へ続けて落ちていく。
それでも、今度は吹き飛ばされなかった。
前へ出した左足も戻していない。
「まだ来るか」
「ああ」
「剣を捨てれば、この身体を傷つけずに済むとでも思うたか?」
「そんなことは思ってない」
傷つけたくない。できるなら、これ以上かすり傷一つ増やしたくなかった。
けれど、ここで立ち止まればサラは戻ってこない。
「痛いなら、後で何度でも謝る」
「勝手な男じゃのう」
「分かってるよ」
もう一度、前へ踏み出す。
ハデスは右手を下ろし、代わりに左腕を持ち上げた。
掌が肩へ向かってくる。
身体を傾けて直撃を避けたが、指先が傷の残る左肩を掠めた。黒い魔力が弾け、焼けるような痛みが首筋まで駆け上がる。
膝が折れた。
床へ倒れる寸前で右手をつき、どうにか踏みとどまる。
「桐宮君!」
遠くから橘の声が聞こえた。
そちらを見る余裕はない。矢の風切り音と銃声は途切れず、魔獣の唸り声も続いている。橘たちは、自分たちの戦いだけで精いっぱいだ。
サラを任されたのは俺だ。
床を押し、再び立ち上がる。
「どうした?」
ハデスが目を細めた。
「先ほどまでの威勢は、もう残っておらぬか?」
「……残ってるよ」
息を吐くたびに胸が痛む。
それでも顔を上げると、サラの真紅の瞳がこちらを見ていた。
今、その目で俺を見ているのはハデスだ。
けれど、その奥にサラもいる。
「サラ。聞こえてるんだろ」
呼びかけながら、一歩進む。
ハデスは動かない。
俺の言葉を聞いたサラがどうするのか、確かめようとしているようだった。
「みんな、お前を連れて帰るためにここまで来たんだ。橘も、五十嵐も、ティオナも、黒崎も、今もそこで戦ってる」
右手が僅かに揺れた。
今度は見間違えなかった。
ハデスも気づいたはずだ。けれど、止めようとはせず、面白そうに自分の手を見下ろしている。
「名前を呼び、仲間の話を聞かせれば戻ると思うておるのか?」
「分からない」
「分からぬまま、余へ近づいておると?」
「他に方法がないからな」
そう答えると、ハデスが小さく笑った。
「命を懸ける理由としては、随分と頼りないのう」
「俺はアースみたいに、何でも分かるわけじゃない。正しいやり方なんて知らないよ」
あいつなら、もっと上手くやれるのかもしれない。
ハデスの考えも、サラの状態も、俺よりずっと正確に見抜いている。
それでも、アースは俺に身体を返した。
何を考えてそうしたのかは分からない。今も答えを教えるつもりはないらしく、意識の奥から声は聞こえてこなかった。
だったら、自分で決めるしかない。
「正しいかは分からないけど、ここでサラを置いて帰るのが間違ってることくらいは分かる」
ハデスとの距離は、残り数歩まで縮まっていた。
右腕が持ち上がる。
掌に黒い魔力は集まっていない。さっき俺の胸元へ伸ばした時と同じだ。
それでも、まともに打ち込まれれば立ってはいられない。
「ここまで来れば、声が届くとでも?」
「もう届いてる」
「一度、腕を逸らしただけじゃ」
「その一度があれば十分だ」
ハデスの眉が僅かに動いた。
俺は足を止めない。
「聞こえてるなら答えろ、サラ」
残り三歩。
「俺たちに何も言わないまま、勝手に退学しようとしたことも」
二歩。
「もう来ないでなんて言って、俺たちを追い返そうとしたことも」
一歩。
「全部、自分の口で説明しろ」
ハデスが右の掌を突き出した。
胸元へ迫る動きは見えていた。けれど、避ければサラから離れてしまう。
俺はそのまま踏み込んだ。
掌が制服へ触れる直前、右腕の動きが鈍る。
完全には止まらない。
指先が胸元を押し、傷ついた身体に痛みが走る。それでも、俺を突き飛ばすだけの力は乗っていなかった。
右腕が震えている。
ハデスが強引に押し込もうとするたび、サラが内側から止めていた。
「サラ!」
その名を呼び、残った距離を一気に詰める。
ハデスの目が見開かれた。
俺は伸ばされた右腕の内側へ入り込み、サラの身体を両腕で抱きしめた。
「なっ――」
腕に触れた肩は細く、驚くほど軽かった。
触れれば、この身体がサラのものだと嫌でも分かる。戦うために借りた器でも、ハデスの所有物でもない。
間違いなく、俺たちが連れ戻しに来たサラ本人の身体だった。
「何の真似じゃ」
「見れば分かるだろ」
「このまま余を押さえ込むつもりか?」
「違う」
力で拘束できるとは思っていない。
ハデスが本気で振り払えば、今の俺など簡単に引き剥がされる。
それでも腕を緩めなかった。
すぐ近くにある耳へ届くよう、もう一度サラの名を呼ぶ。
「戻ってこい」
返事はない。
腕の中にいる身体から聞こえるのは、浅い呼吸だけだった。
「お前が何を考えて、里に残ったのかは知らない。俺たちを巻き込みたくなかったのかもしれない。これしか方法がないと思ってたのかもしれない」
クロイツ家で再会した時、サラは自分の意思でここに残ると言った。
あの時の表情も、弱り切った声も覚えている。
それでも俺たちを追い返そうとした。
「でも、俺は納得してない」
背中へ回した腕に力を込める。
「橘たちだって、納得してない。だから、みんなここにいるんだ」
「届かぬよ」
耳元でハデスの声がした。
「この身体を抱いたところで、この娘の意識まで引き上げられるものか」
「だったら、届くまで呼ぶ」
「何度呼ぼうと同じじゃ」
「お前が決めるな」
ハデスの左手が俺の脇腹へ触れた。
掌から魔力を放たれれば、今度こそ立ってはいられない。分かっていても、腕をほどくつもりはなかった。
「サラ」
左手が制服を掴む。
けれど、そこから動かなかった。
押し離そうとする力と、それを拒む力が、俺の脇腹へ添えられた手の中でぶつかっている。
右腕だけではない。
俺が触れている身体全体が、ごく僅かに震えていた。
ハデスが息を吐く。
苛立ちではなく、サラがどこまで抗えるのかを見定めようとしているように聞こえた。
「この程度では、まだ余から身体を奪えぬぞ」
「今すぐ全部取り戻せなくてもいい」
俺はサラへ話しかけ続ける。
「指一本でも、腕一本でもいい。少しずつ取り返せ」
返事はない。
「お前の身体だろ」
震えは弱まらない。
「勝手に諦めるな」
俺の肩口に、サラの頬が触れている。
そこから聞こえる呼吸が、一度だけ乱れた。
「戻ってこい、サラ。みんなで一緒に帰るんだ」
どれほど待ったのかは分からない。
実際には、ほんの数秒だったのかもしれない。
魔獣の声も、戦う仲間たちの音も消えてはいない。それなのに、今だけは腕の中にいるサラの呼吸しか聞こえなかった。
やがて、脇腹へ触れていた左手から力が抜けた。
腕が下がっていく。
ハデスが離したのか、サラが動かしたのか、俺には判別できない。
それでも抱きしめたまま待った。
腰の辺りで、何かが制服を掠める。
垂れ下がっていた右手の指先が、背中へ触れていた。
指が震えながら曲がっていく。
最初は布の表面を撫でるだけだった。それでも何度か動きを繰り返し、最後には俺の制服を弱くつかんだ。
声はなかった。
それでも、背中の布をつかむ微かな力を、俺が間違えるはずはなかった。
もう一度名前を呼ぶと、何もない場所へ逸れた右腕が再び震えた。
ハデスは俺ではなく、自分の腕を見ていた。指を動かそうとしているのか、伸びていた五本の指がゆっくりと曲がっていく。けれど、その動きはひどくぎこちない。途中で何度も止まり、見えない何かと押し合っているようだった。
「まだ余に逆らうだけの力を残しておったか」
驚いてはいても、怒っている様子はない。
むしろ、ハデスの口元には薄い笑みが戻っていた。
「よい。完全に沈んでしまったのでは、あまりに張り合いがないからのう」
「サラは、そこにいるんだな」
「今のものを見ても、まだ余に尋ねるのか?」
「お前の言葉で聞きたい」
ハデスは震え続ける右手へ目を落とした。
「この身体を支配しておるのは余じゃ。手足も、声も、今は余の意思に従う。じゃが、この娘の意識まで消え去ったわけではない」
胸の奥に残っていた重さが、僅かにほどけた。
サラはまだいる。
俺の声を聞き、自分の身体を取り戻そうとしている。
「だったら、返せ」
「断る」
答えと同時に、震えていた腕が下がった。
ハデスが指を一本ずつ握り込み、拳を作る。途中で何度か動きが鈍ったものの、最後には親指まで折り畳まれた。
再び開かれた右手には、もう震えがない。
「今の一度で、この身体を取り戻せたと思うたか?」
ハデスが掌を俺へ向ける。
「この娘の抵抗は認めよう。されど、余へ届くには足りぬ」
黒い魔力が指先へ集まり始めた。
俺は身構えようとして、上がらない両腕に力を込める。傷口から血が流れ、制服の袖をさらに赤く染めた。
遠くへ弾き飛ばされた〈レーヴァテイン〉は、瓦礫の脇で炎を揺らしている。拾うなら、ハデスが動く前に走らなければならない。
けれど、俺の足は剣ではなく、正面にいるサラへ向いた。
「何のつもりじゃ?」
「サラを連れて帰る」
「それは先ほども聞いた」
「だったら、何度でも言う」
一歩踏み出す。
脇腹の奥が痛み、右足にうまく力が入らない。それでも立ち止まらず、もう一歩進んだ。
ハデスが俺の背後へ視線を向ける。
「剣は拾わぬのか?」
「今は必要ない」
「余を倒さず、どうやってこの娘を取り戻す?」
「お前と戦っても、サラを傷つけるだけだ」
刃を使わない戦い方を考え、拳や足でハデスに挑んだ。それでも、結局は同じだった。
サラの身体へ攻撃していることに変わりはない。
俺が倒すべき相手は目の前にいる。けれど、俺が手を伸ばしたい相手も、同じ場所にいる。
なら、これ以上ハデスだけを見て戦う必要はなかった。
「俺はサラに会いに行く」
「余が通すと思うか?」
「通してもらうつもりはない」
ハデスの右手から黒い魔力が放たれた。
避けようとしたが、傷ついた足は思ったように動かなかった。両腕を胸の前で交差させる。
衝撃が腕を打ち、傷口を抉った。
「ぐっ……!」
足が床を滑る。
押し倒されそうになる身体を、右足を後ろへ引いて支えた。腕から流れた血が指先まで伝い、床へ続けて落ちていく。
それでも、今度は吹き飛ばされなかった。
前へ出した左足も戻していない。
「まだ来るか」
「ああ」
「剣を捨てれば、この身体を傷つけずに済むとでも思うたか?」
「そんなことは思ってない」
傷つけたくない。できるなら、これ以上かすり傷一つ増やしたくなかった。
けれど、ここで立ち止まればサラは戻ってこない。
「痛いなら、後で何度でも謝る」
「勝手な男じゃのう」
「分かってるよ」
もう一度、前へ踏み出す。
ハデスは右手を下ろし、代わりに左腕を持ち上げた。
掌が肩へ向かってくる。
身体を傾けて直撃を避けたが、指先が傷の残る左肩を掠めた。黒い魔力が弾け、焼けるような痛みが首筋まで駆け上がる。
膝が折れた。
床へ倒れる寸前で右手をつき、どうにか踏みとどまる。
「桐宮君!」
遠くから橘の声が聞こえた。
そちらを見る余裕はない。矢の風切り音と銃声は途切れず、魔獣の唸り声も続いている。橘たちは、自分たちの戦いだけで精いっぱいだ。
サラを任されたのは俺だ。
床を押し、再び立ち上がる。
「どうした?」
ハデスが目を細めた。
「先ほどまでの威勢は、もう残っておらぬか?」
「……残ってるよ」
息を吐くたびに胸が痛む。
それでも顔を上げると、サラの真紅の瞳がこちらを見ていた。
今、その目で俺を見ているのはハデスだ。
けれど、その奥にサラもいる。
「サラ。聞こえてるんだろ」
呼びかけながら、一歩進む。
ハデスは動かない。
俺の言葉を聞いたサラがどうするのか、確かめようとしているようだった。
「みんな、お前を連れて帰るためにここまで来たんだ。橘も、五十嵐も、ティオナも、黒崎も、今もそこで戦ってる」
右手が僅かに揺れた。
今度は見間違えなかった。
ハデスも気づいたはずだ。けれど、止めようとはせず、面白そうに自分の手を見下ろしている。
「名前を呼び、仲間の話を聞かせれば戻ると思うておるのか?」
「分からない」
「分からぬまま、余へ近づいておると?」
「他に方法がないからな」
そう答えると、ハデスが小さく笑った。
「命を懸ける理由としては、随分と頼りないのう」
「俺はアースみたいに、何でも分かるわけじゃない。正しいやり方なんて知らないよ」
あいつなら、もっと上手くやれるのかもしれない。
ハデスの考えも、サラの状態も、俺よりずっと正確に見抜いている。
それでも、アースは俺に身体を返した。
何を考えてそうしたのかは分からない。今も答えを教えるつもりはないらしく、意識の奥から声は聞こえてこなかった。
だったら、自分で決めるしかない。
「正しいかは分からないけど、ここでサラを置いて帰るのが間違ってることくらいは分かる」
ハデスとの距離は、残り数歩まで縮まっていた。
右腕が持ち上がる。
掌に黒い魔力は集まっていない。さっき俺の胸元へ伸ばした時と同じだ。
それでも、まともに打ち込まれれば立ってはいられない。
「ここまで来れば、声が届くとでも?」
「もう届いてる」
「一度、腕を逸らしただけじゃ」
「その一度があれば十分だ」
ハデスの眉が僅かに動いた。
俺は足を止めない。
「聞こえてるなら答えろ、サラ」
残り三歩。
「俺たちに何も言わないまま、勝手に退学しようとしたことも」
二歩。
「もう来ないでなんて言って、俺たちを追い返そうとしたことも」
一歩。
「全部、自分の口で説明しろ」
ハデスが右の掌を突き出した。
胸元へ迫る動きは見えていた。けれど、避ければサラから離れてしまう。
俺はそのまま踏み込んだ。
掌が制服へ触れる直前、右腕の動きが鈍る。
完全には止まらない。
指先が胸元を押し、傷ついた身体に痛みが走る。それでも、俺を突き飛ばすだけの力は乗っていなかった。
右腕が震えている。
ハデスが強引に押し込もうとするたび、サラが内側から止めていた。
「サラ!」
その名を呼び、残った距離を一気に詰める。
ハデスの目が見開かれた。
俺は伸ばされた右腕の内側へ入り込み、サラの身体を両腕で抱きしめた。
「なっ――」
腕に触れた肩は細く、驚くほど軽かった。
触れれば、この身体がサラのものだと嫌でも分かる。戦うために借りた器でも、ハデスの所有物でもない。
間違いなく、俺たちが連れ戻しに来たサラ本人の身体だった。
「何の真似じゃ」
「見れば分かるだろ」
「このまま余を押さえ込むつもりか?」
「違う」
力で拘束できるとは思っていない。
ハデスが本気で振り払えば、今の俺など簡単に引き剥がされる。
それでも腕を緩めなかった。
すぐ近くにある耳へ届くよう、もう一度サラの名を呼ぶ。
「戻ってこい」
返事はない。
腕の中にいる身体から聞こえるのは、浅い呼吸だけだった。
「お前が何を考えて、里に残ったのかは知らない。俺たちを巻き込みたくなかったのかもしれない。これしか方法がないと思ってたのかもしれない」
クロイツ家で再会した時、サラは自分の意思でここに残ると言った。
あの時の表情も、弱り切った声も覚えている。
それでも俺たちを追い返そうとした。
「でも、俺は納得してない」
背中へ回した腕に力を込める。
「橘たちだって、納得してない。だから、みんなここにいるんだ」
「届かぬよ」
耳元でハデスの声がした。
「この身体を抱いたところで、この娘の意識まで引き上げられるものか」
「だったら、届くまで呼ぶ」
「何度呼ぼうと同じじゃ」
「お前が決めるな」
ハデスの左手が俺の脇腹へ触れた。
掌から魔力を放たれれば、今度こそ立ってはいられない。分かっていても、腕をほどくつもりはなかった。
「サラ」
左手が制服を掴む。
けれど、そこから動かなかった。
押し離そうとする力と、それを拒む力が、俺の脇腹へ添えられた手の中でぶつかっている。
右腕だけではない。
俺が触れている身体全体が、ごく僅かに震えていた。
ハデスが息を吐く。
苛立ちではなく、サラがどこまで抗えるのかを見定めようとしているように聞こえた。
「この程度では、まだ余から身体を奪えぬぞ」
「今すぐ全部取り戻せなくてもいい」
俺はサラへ話しかけ続ける。
「指一本でも、腕一本でもいい。少しずつ取り返せ」
返事はない。
「お前の身体だろ」
震えは弱まらない。
「勝手に諦めるな」
俺の肩口に、サラの頬が触れている。
そこから聞こえる呼吸が、一度だけ乱れた。
「戻ってこい、サラ。みんなで一緒に帰るんだ」
どれほど待ったのかは分からない。
実際には、ほんの数秒だったのかもしれない。
魔獣の声も、戦う仲間たちの音も消えてはいない。それなのに、今だけは腕の中にいるサラの呼吸しか聞こえなかった。
やがて、脇腹へ触れていた左手から力が抜けた。
腕が下がっていく。
ハデスが離したのか、サラが動かしたのか、俺には判別できない。
それでも抱きしめたまま待った。
腰の辺りで、何かが制服を掠める。
垂れ下がっていた右手の指先が、背中へ触れていた。
指が震えながら曲がっていく。
最初は布の表面を撫でるだけだった。それでも何度か動きを繰り返し、最後には俺の制服を弱くつかんだ。
声はなかった。
それでも、背中の布をつかむ微かな力を、俺が間違えるはずはなかった。

