見えていた。
ハデスの重心が前へ移り、左足が床を蹴るところまで、はっきりと。
それでも、俺が剣を上げた時には、ハデスの掌が目の前まで迫っていた。
「っ!」
〈レーヴァテイン〉の腹で受ける。黒い魔力が弾け、肘が胸元へ食い込んだ。
攻撃はそれで終わらない。
ハデスの腰が右へ回る。蹴りが来ると読んで後ろへ下がったが、実際に飛んできたのは左の拳だった。
顔を反らしてかわす。拳が頬を擦った直後、腰の回転がそのまま蹴りへ変わった。
左腕を下げて受けたものの、衝撃を殺し切れない。身体が横へ流され、左足が床から浮いた。
転ぶ前に剣先を突き立て、強引に体勢を戻す。
「今のも見えておったのであろう?」
「見えても、間に合わないんだよ」
「では、見るだけでは足りぬということじゃ」
「分かってる」
口ではそう返したが、簡単に埋められる差ではなかった。
全身を見て、最初の動きは捉えられる。けれど、そこから二つ、三つと攻撃を繋げられれば、目で追えても身体がついていかない。
さっきまでのハデスは、やはり速さを抑えていたんだ。
脇腹が痛む。左腕の痺れも強くなっていた。剣を握る右手にも、少しずつ力が入らなくなっている。
それでも、ハデスから目は逸らさない。
右肩が下がる。同時に左足が半歩前へ出た。
俺は攻撃の種類を読むことを諦め、剣を斜めに寝かせた。掌でも蹴りでも、受けた後に右側へ逃げられるようにする。
ハデスが間合いへ入った。
右の掌を剣で流し、予定していた通りに右へ回り込む。その先でハデスの左足が床を踏み、身体ごと進路を塞いできた。
読まれている。
とっさに左へ切り返す。ハデスの指先が制服の袖を擦り、布が裂けた。
もう一歩離れようとしたが、すぐに踏み込みが追ってくる。
剣の腹で肩を押し、強引に距離を作ろうとした。ハデスは押された方向へ自分から踏み込み、身体を回す。
反対側から回ってきた肘が、みぞおちに入った。
「がっ……!」
息が止まり、膝が落ちかける。
歯を食いしばって右足を踏ん張り、落ちてきたハデスの掌を剣で受けた。黒い魔力が弾けるたびに腕が下がり、刃の平が額へ近づいてくる。
「立て直したのは視線だけか?」
「それでも、前よりはましだろ……!」
「確かにのう」
ハデスの口元に薄い笑みが浮かぶ。
押し合っていた力が、不意に消えた。
上体が前へ流れた瞬間、ハデスが俺の横をすり抜ける。背後へ回られると読み、俺は振り返らずに後ろへ肘を突き出した。
肘が着物を掠める手応えがある。
けれど、反撃される前に振り返ると、既にハデスは間合いの外へ離れていた。
「今のは惜しかったのう」
「惜しいだけかよ」
「当たるまでは、惜しいとしか言えまい」
悪びれもせず返し、ハデスはまた腰を落とした。
今までの攻防で、こちらの逃げる方向まで読まれ始めている。同じやり方は、もう通じない。
肩で息をしながら、俺も構えを低くする。
ハデスが左へ動いた。
追って身体の向きを変えると、足元に転がっていた石片を踵で蹴り上げる。顔へ飛んできたそれを剣で払った時には、ハデスの姿が視界から消えていた。
右でも左でもない。反射的に腰を落とすと、頭上を脚が通り過ぎた。しゃがんだ俺を跨ぐようにハデスが着地し、振り向きざまの掌を背中へ伸ばしてくる。
床を蹴って前へ転がった。背中を掠めた黒い魔力が制服を焼き、熱が遅れて皮膚まで届く。
起き上がりながら剣を横へ払う。刃は返してある。ハデスは上体を反らして剣の腹をかわし、すぐに間合いへ戻ってきた。
離れれば追いつかれる。なら、次は離れない。
伸びてきた右腕の内側へ踏み込み、肩をぶつける。近すぎて掌は使えないはずだったが、ハデスは俺の肩へ腕を絡め、そのまま体重を預けてきた。
足を掛けられる。
そう気づいた時には右足が床から離れ、視界がひっくり返っていた。投げられながらハデスの腕を掴み、引き込む。俺だけが床へ落ちるよりはましだ。
背中に硬い衝撃を受ける。ハデスも体勢を崩したものの、床へ片手をついただけで倒れず、俺の胸を踏みつけるように足を下ろしてきた。
身体を捻って避けると、踵が制服の胸元を掠めた。空いた脇腹へ、寝かせた剣を下から振り上げる。
ハデスは床についた手で身体を浮かせ、刃のない側を爪先で蹴った。狙いが外へ押し流される。着地した時には、もうこちらを向いていた。
「懐へ入れば、余の手が止まると思うたか?」
「少しくらい困れよ」
「困らせたいのなら、先に余を驚かせることじゃな」
返事の代わりに、剣先をハデスの顔へ向ける。
炎を纏った刃に目を向けさせ、空いた左手で足元の石片を拾った。アースが使っていた手だ。投げると見せかけて握ったまま踏み込み、剣を持つ右腕を大きく引く。
ハデスの視線が、引かれた刃へ動いた。
その隙に左手の石を捨て、顎へ拳を突き上げる。
指先が届く直前、ハデスの顔が僅かに横へずれた。拳は頬を擦っただけで通り過ぎる。次いで手首を掴まれ、腕を外側へ捻られた。
痛みに身体が傾く。右手の剣で払おうとしても、その腕ごと肘で押さえ込まれた。
「真似るだけでは足りぬ」
「まだ、途中だ」
掴まれた左腕を引くのではなく、自分からさらに捻った。肩に痛みが走る。けれど、傾いた勢いのまま右足を跳ね上げることはできた。
爪先がハデスの脇腹へ向かう。
ハデスは俺の両腕を放し、後ろへ半歩退いた。蹴りは届かなかったが、拘束は外れた。
すぐに追わず、こちらも一歩下がる。息を整える時間が欲しかったのに、肺へ入った空気は喉の奥で引っ掛かった。
「今のは、少しだけ驚いたぞ」
「少しだけかよ」
ハデスの声には余裕がある。こちらが必死に考えて作った隙も、あいつにとっては半歩下がれば済む程度のものだ。
それでも、何もできないわけじゃない。そう思えたことだけは、さっきまでと違った。
息を整える間もなく、ハデスが距離を詰めてくる。振り下ろされた踵を剣で受けたが、押し切られた身体は大広間の端へ弾き飛ばされた。
肩から床へ落ち、勢いのまま転がる。止まった俺のすぐ横を狼型の魔獣が駆け抜けた。
「桐宮君!」
橘の声に顔を上げる。いつの間にか、俺は四人が守る戦線の近くまで押し出されていた。
狼型が五十嵐へ飛びかかる。五十嵐は〈猫又〉で前脚を受け流し、低い姿勢から脇腹へ爪を振り抜いた。傾いた巨体の後ろでは、柱を這ってきた蜘蛛型が長い脚を持ち上げている。
橘の矢がその脚の付け根を射抜いた。動きが止まったところへ、ティオナの〈ケルキオン〉から水の槍が放たれる。
「【アクア・ランス】」
蜘蛛型が床を滑り、後続の魔獣を巻き込む。その頭上から迫っていた鳥型も、黒崎の銃弾に片翼を撃ち抜かれて墜落した。
四人の連携は崩れていない。それでも、橘の指は矢を番えるたびに震え、五十嵐の足取りにも疲労が見える。ティオナは肩で息をし、黒崎も銃身を支える腕を僅かに下げていた。
黒い亀裂の奥では、次の影が蠢いている。四人とも、俺を助けられる状態ではない。
「こっちは私たちが抑える!」
橘は魔獣へ狙いを定めたまま叫んだ。
「桐宮君は、サラちゃんをお願い!」
「……ああ!」
床へ剣先を突き立てて立ち上がり、四人から離れる方向へ走る。ここでハデスを迎えれば、橘たちまで攻撃へ巻き込みかねない。
追ってきたハデスへ向き直り、大広間の中央へ戻るように間合いを取り直した。
何度も聞いた矢と銃の音が、先ほどよりも遠く感じた。息を吸っても胸の奥まで入らず、視界の端が僅かに暗くなっている。
このままでは、ハデスに届く前に、こちらの身体が先に動かなくなる。
それでも、諦めるという選択肢はなかった。
「まだやるか?」
「サラを返すまで、やめるわけないだろ」
「その身体で、余を止められると思うておるのか?」
「止められるかじゃない。止めるんだよ」
言い切った直後、ハデスの姿が揺らいだ。
今までより速い。
輪郭を捉えるより先に、下から掌が跳ね上がってくる。
剣の腹を差し込んだが、受けた位置が浅い。柄が手の中で跳ね、〈レーヴァテイン〉が頭上へ弾き飛ばされた。
炎の剣が床へ落ち、回転しながら遠ざかっていく。
拾いに行く余裕はない。手放したのを確かめたハデスが、右の掌を胸元へ向けていた。
指先に黒い魔力が集まる。
後ろへ下がれば、射線の先には魔獣と戦う橘たちがいる。
逃げられない。
両腕を交差させ、衝撃に備える。
放たれた黒い魔力が腕へぶつかった。
「くっ……!」
皮膚が裂け、血が飛ぶ。両足が床から離れ、身体ごと後ろへ押し出された。
背中から床へ落ち、何度も転がる。ようやく止まった時には、どこが上かもすぐには分からなかった。
耳鳴りの向こうで、床を踏む音が一定の間隔で近づいてくる。急ぐ必要などないとでも言うような足取りだった。
遠くへ弾かれた〈レーヴァテイン〉は、炎を纏ったまま瓦礫の脇に落ちている。手を伸ばしても届かない。立って走れば拾えるかもしれないが、その前に追いつかれる。
なら、武器のことは後だ。
起き上がらなきゃならない。
右手をついて上体を起こす。腕の傷から流れた血が、指先を伝って床へ落ちた。
一度では立てず、膝をつく。
「もうよかろう」
ハデスの声が近づいてくる。
「見るべきものを見て、弱いなりに考えた。余に三歩を踏ませたことも、悪くはなかったぞ」
「勝手に……終わらせるな」
足に力を込める。膝が震え、半分まで立ち上がったところで再び崩れかけた。
ハデスは手を出さない。サラの顔で、何かを見極めるようにこちらを見ている。
その視線に腹が立った。
痛む右足を床に押しつけ、今度こそ立ち上がる。
「まだ、俺は……」
息が続かない。
それでも、ハデスから目を逸らさず、言葉を継いだ。
「サラを、連れて帰ってない」
ハデスの目が、僅かに細くなる。
「ならば、その意地を余に見せてみよ」
右の掌が、俺の胸元へ伸びてくる。
黒い魔力は集められていない。それでも、今の俺にかわせる速さではなかった。
剣は遠い。腕も上がらない。
けれど、今度は目を閉じなかった。
サラの顔を真っ直ぐ見つめる。
「サラ」
呼んだ直後、ハデスの掌が胸の手前で止まった。
指先まで完全に伸びた状態で、腕だけが宙に固定されたように動かない。
ハデスの顔から、初めて笑みが消えた。
伸びた腕が小刻みに震え始める。胸元へ進もうとする力と、それを押し戻そうとする力が、同じ腕の中でぶつかっていた。
やがて、指先が僅かに下がる。
掌は俺の胸を外れ、何もない空間へ向けられた。
ハデスはすぐに腕を引かなかった。
自分の右手を見つめ、何かの気配を確かめるように目を閉じる。
「……そうか」
独り言のように告げ、ゆっくりと目を開いた。
「お主も、まだ諦めてはおらぬか」
その言葉が誰へ向けられたものなのか、考えるまでもなかった。
俺は視線を逸らさぬまま、サラの名をもう一度呼んだ。
ハデスの重心が前へ移り、左足が床を蹴るところまで、はっきりと。
それでも、俺が剣を上げた時には、ハデスの掌が目の前まで迫っていた。
「っ!」
〈レーヴァテイン〉の腹で受ける。黒い魔力が弾け、肘が胸元へ食い込んだ。
攻撃はそれで終わらない。
ハデスの腰が右へ回る。蹴りが来ると読んで後ろへ下がったが、実際に飛んできたのは左の拳だった。
顔を反らしてかわす。拳が頬を擦った直後、腰の回転がそのまま蹴りへ変わった。
左腕を下げて受けたものの、衝撃を殺し切れない。身体が横へ流され、左足が床から浮いた。
転ぶ前に剣先を突き立て、強引に体勢を戻す。
「今のも見えておったのであろう?」
「見えても、間に合わないんだよ」
「では、見るだけでは足りぬということじゃ」
「分かってる」
口ではそう返したが、簡単に埋められる差ではなかった。
全身を見て、最初の動きは捉えられる。けれど、そこから二つ、三つと攻撃を繋げられれば、目で追えても身体がついていかない。
さっきまでのハデスは、やはり速さを抑えていたんだ。
脇腹が痛む。左腕の痺れも強くなっていた。剣を握る右手にも、少しずつ力が入らなくなっている。
それでも、ハデスから目は逸らさない。
右肩が下がる。同時に左足が半歩前へ出た。
俺は攻撃の種類を読むことを諦め、剣を斜めに寝かせた。掌でも蹴りでも、受けた後に右側へ逃げられるようにする。
ハデスが間合いへ入った。
右の掌を剣で流し、予定していた通りに右へ回り込む。その先でハデスの左足が床を踏み、身体ごと進路を塞いできた。
読まれている。
とっさに左へ切り返す。ハデスの指先が制服の袖を擦り、布が裂けた。
もう一歩離れようとしたが、すぐに踏み込みが追ってくる。
剣の腹で肩を押し、強引に距離を作ろうとした。ハデスは押された方向へ自分から踏み込み、身体を回す。
反対側から回ってきた肘が、みぞおちに入った。
「がっ……!」
息が止まり、膝が落ちかける。
歯を食いしばって右足を踏ん張り、落ちてきたハデスの掌を剣で受けた。黒い魔力が弾けるたびに腕が下がり、刃の平が額へ近づいてくる。
「立て直したのは視線だけか?」
「それでも、前よりはましだろ……!」
「確かにのう」
ハデスの口元に薄い笑みが浮かぶ。
押し合っていた力が、不意に消えた。
上体が前へ流れた瞬間、ハデスが俺の横をすり抜ける。背後へ回られると読み、俺は振り返らずに後ろへ肘を突き出した。
肘が着物を掠める手応えがある。
けれど、反撃される前に振り返ると、既にハデスは間合いの外へ離れていた。
「今のは惜しかったのう」
「惜しいだけかよ」
「当たるまでは、惜しいとしか言えまい」
悪びれもせず返し、ハデスはまた腰を落とした。
今までの攻防で、こちらの逃げる方向まで読まれ始めている。同じやり方は、もう通じない。
肩で息をしながら、俺も構えを低くする。
ハデスが左へ動いた。
追って身体の向きを変えると、足元に転がっていた石片を踵で蹴り上げる。顔へ飛んできたそれを剣で払った時には、ハデスの姿が視界から消えていた。
右でも左でもない。反射的に腰を落とすと、頭上を脚が通り過ぎた。しゃがんだ俺を跨ぐようにハデスが着地し、振り向きざまの掌を背中へ伸ばしてくる。
床を蹴って前へ転がった。背中を掠めた黒い魔力が制服を焼き、熱が遅れて皮膚まで届く。
起き上がりながら剣を横へ払う。刃は返してある。ハデスは上体を反らして剣の腹をかわし、すぐに間合いへ戻ってきた。
離れれば追いつかれる。なら、次は離れない。
伸びてきた右腕の内側へ踏み込み、肩をぶつける。近すぎて掌は使えないはずだったが、ハデスは俺の肩へ腕を絡め、そのまま体重を預けてきた。
足を掛けられる。
そう気づいた時には右足が床から離れ、視界がひっくり返っていた。投げられながらハデスの腕を掴み、引き込む。俺だけが床へ落ちるよりはましだ。
背中に硬い衝撃を受ける。ハデスも体勢を崩したものの、床へ片手をついただけで倒れず、俺の胸を踏みつけるように足を下ろしてきた。
身体を捻って避けると、踵が制服の胸元を掠めた。空いた脇腹へ、寝かせた剣を下から振り上げる。
ハデスは床についた手で身体を浮かせ、刃のない側を爪先で蹴った。狙いが外へ押し流される。着地した時には、もうこちらを向いていた。
「懐へ入れば、余の手が止まると思うたか?」
「少しくらい困れよ」
「困らせたいのなら、先に余を驚かせることじゃな」
返事の代わりに、剣先をハデスの顔へ向ける。
炎を纏った刃に目を向けさせ、空いた左手で足元の石片を拾った。アースが使っていた手だ。投げると見せかけて握ったまま踏み込み、剣を持つ右腕を大きく引く。
ハデスの視線が、引かれた刃へ動いた。
その隙に左手の石を捨て、顎へ拳を突き上げる。
指先が届く直前、ハデスの顔が僅かに横へずれた。拳は頬を擦っただけで通り過ぎる。次いで手首を掴まれ、腕を外側へ捻られた。
痛みに身体が傾く。右手の剣で払おうとしても、その腕ごと肘で押さえ込まれた。
「真似るだけでは足りぬ」
「まだ、途中だ」
掴まれた左腕を引くのではなく、自分からさらに捻った。肩に痛みが走る。けれど、傾いた勢いのまま右足を跳ね上げることはできた。
爪先がハデスの脇腹へ向かう。
ハデスは俺の両腕を放し、後ろへ半歩退いた。蹴りは届かなかったが、拘束は外れた。
すぐに追わず、こちらも一歩下がる。息を整える時間が欲しかったのに、肺へ入った空気は喉の奥で引っ掛かった。
「今のは、少しだけ驚いたぞ」
「少しだけかよ」
ハデスの声には余裕がある。こちらが必死に考えて作った隙も、あいつにとっては半歩下がれば済む程度のものだ。
それでも、何もできないわけじゃない。そう思えたことだけは、さっきまでと違った。
息を整える間もなく、ハデスが距離を詰めてくる。振り下ろされた踵を剣で受けたが、押し切られた身体は大広間の端へ弾き飛ばされた。
肩から床へ落ち、勢いのまま転がる。止まった俺のすぐ横を狼型の魔獣が駆け抜けた。
「桐宮君!」
橘の声に顔を上げる。いつの間にか、俺は四人が守る戦線の近くまで押し出されていた。
狼型が五十嵐へ飛びかかる。五十嵐は〈猫又〉で前脚を受け流し、低い姿勢から脇腹へ爪を振り抜いた。傾いた巨体の後ろでは、柱を這ってきた蜘蛛型が長い脚を持ち上げている。
橘の矢がその脚の付け根を射抜いた。動きが止まったところへ、ティオナの〈ケルキオン〉から水の槍が放たれる。
「【アクア・ランス】」
蜘蛛型が床を滑り、後続の魔獣を巻き込む。その頭上から迫っていた鳥型も、黒崎の銃弾に片翼を撃ち抜かれて墜落した。
四人の連携は崩れていない。それでも、橘の指は矢を番えるたびに震え、五十嵐の足取りにも疲労が見える。ティオナは肩で息をし、黒崎も銃身を支える腕を僅かに下げていた。
黒い亀裂の奥では、次の影が蠢いている。四人とも、俺を助けられる状態ではない。
「こっちは私たちが抑える!」
橘は魔獣へ狙いを定めたまま叫んだ。
「桐宮君は、サラちゃんをお願い!」
「……ああ!」
床へ剣先を突き立てて立ち上がり、四人から離れる方向へ走る。ここでハデスを迎えれば、橘たちまで攻撃へ巻き込みかねない。
追ってきたハデスへ向き直り、大広間の中央へ戻るように間合いを取り直した。
何度も聞いた矢と銃の音が、先ほどよりも遠く感じた。息を吸っても胸の奥まで入らず、視界の端が僅かに暗くなっている。
このままでは、ハデスに届く前に、こちらの身体が先に動かなくなる。
それでも、諦めるという選択肢はなかった。
「まだやるか?」
「サラを返すまで、やめるわけないだろ」
「その身体で、余を止められると思うておるのか?」
「止められるかじゃない。止めるんだよ」
言い切った直後、ハデスの姿が揺らいだ。
今までより速い。
輪郭を捉えるより先に、下から掌が跳ね上がってくる。
剣の腹を差し込んだが、受けた位置が浅い。柄が手の中で跳ね、〈レーヴァテイン〉が頭上へ弾き飛ばされた。
炎の剣が床へ落ち、回転しながら遠ざかっていく。
拾いに行く余裕はない。手放したのを確かめたハデスが、右の掌を胸元へ向けていた。
指先に黒い魔力が集まる。
後ろへ下がれば、射線の先には魔獣と戦う橘たちがいる。
逃げられない。
両腕を交差させ、衝撃に備える。
放たれた黒い魔力が腕へぶつかった。
「くっ……!」
皮膚が裂け、血が飛ぶ。両足が床から離れ、身体ごと後ろへ押し出された。
背中から床へ落ち、何度も転がる。ようやく止まった時には、どこが上かもすぐには分からなかった。
耳鳴りの向こうで、床を踏む音が一定の間隔で近づいてくる。急ぐ必要などないとでも言うような足取りだった。
遠くへ弾かれた〈レーヴァテイン〉は、炎を纏ったまま瓦礫の脇に落ちている。手を伸ばしても届かない。立って走れば拾えるかもしれないが、その前に追いつかれる。
なら、武器のことは後だ。
起き上がらなきゃならない。
右手をついて上体を起こす。腕の傷から流れた血が、指先を伝って床へ落ちた。
一度では立てず、膝をつく。
「もうよかろう」
ハデスの声が近づいてくる。
「見るべきものを見て、弱いなりに考えた。余に三歩を踏ませたことも、悪くはなかったぞ」
「勝手に……終わらせるな」
足に力を込める。膝が震え、半分まで立ち上がったところで再び崩れかけた。
ハデスは手を出さない。サラの顔で、何かを見極めるようにこちらを見ている。
その視線に腹が立った。
痛む右足を床に押しつけ、今度こそ立ち上がる。
「まだ、俺は……」
息が続かない。
それでも、ハデスから目を逸らさず、言葉を継いだ。
「サラを、連れて帰ってない」
ハデスの目が、僅かに細くなる。
「ならば、その意地を余に見せてみよ」
右の掌が、俺の胸元へ伸びてくる。
黒い魔力は集められていない。それでも、今の俺にかわせる速さではなかった。
剣は遠い。腕も上がらない。
けれど、今度は目を閉じなかった。
サラの顔を真っ直ぐ見つめる。
「サラ」
呼んだ直後、ハデスの掌が胸の手前で止まった。
指先まで完全に伸びた状態で、腕だけが宙に固定されたように動かない。
ハデスの顔から、初めて笑みが消えた。
伸びた腕が小刻みに震え始める。胸元へ進もうとする力と、それを押し戻そうとする力が、同じ腕の中でぶつかっていた。
やがて、指先が僅かに下がる。
掌は俺の胸を外れ、何もない空間へ向けられた。
ハデスはすぐに腕を引かなかった。
自分の右手を見つめ、何かの気配を確かめるように目を閉じる。
「……そうか」
独り言のように告げ、ゆっくりと目を開いた。
「お主も、まだ諦めてはおらぬか」
その言葉が誰へ向けられたものなのか、考えるまでもなかった。
俺は視線を逸らさぬまま、サラの名をもう一度呼んだ。

