魔力の少ない魔法使い二年生編

ハデスの踏み込みが、先ほどまでより深い。
 白い脚が一気に間合いを越え、右の掌が顔へ迫った。俺は〈レーヴァテイン〉を持ち上げ、剣の腹で受けようとする。
 刃に触れる直前、ハデスの肩が沈んだ。
 掌は囮だ。
 気づいて視線を下げた先で、裂けた裾が大きく開く。全く止められることなく上がった膝が、脇腹へ深く突き刺さった。
「ぐっ!」
 身体が横へ押し出される。床へ片手をつき、転がるように距離を取った。
 脇腹の痛みに耐えて顔を上げる。ハデスは既に目の前まで迫っていた。
 身体を回し、今度は踵を振り上げてくる。裾に止められていた時とは違い、脚は途中で速度を失わない。
 剣を縦にして蹴りを受けた。
 重い音が響き、両腕が胸元へ押し込まれる。踏ん張った靴底が、ひび割れた床を数十センチ滑った。
「どうした。先ほどまでより反応が遅いぞ?」
「誰のせいだよ……!」
「余は、しっかり見ておけと教えたであろう」
「簡単に言うな!」
 剣へ力を込め、蹴り足を押し返そうとする。
 ハデスは逆らわずに脚を引いた。急に支えを失った身体が前へ傾く。
 その額へ、ハデスの指先が触れた。
「遅い」
 黒い魔力が弾け、視界が大きく傾いた。
 背中から床へ落ち、肺の空気が一気に押し出される。握っていた〈レーヴァテイン〉が手を離れ、床の上を滑っていった。
 起き上がろうとした俺のすぐ横へ、ハデスの足が下りる。床石が砕け、飛んだ破片が頬を打った。
 見上げると、裂けた裾の間から伸びる脚が目の前にある。
 反射的に顔を逸らしかけた。
「また目を逸らすのか?」
 楽しそうな声が頭上から降ってきた。
「……分かってるよ」
 右手を床につき、ハデスの足元から転がって離れる。立ち上がる勢いを殺さず、床へ落ちた剣まで走った。
 柄を拾い上げて振り返る。
 ハデスは追ってこなかった。両腕を自然に下ろし、こちらが構え直すのを待っている。
「もう終わりかの?」
「勝手に終わらせるな」
 答えながら、頬に残る熱を無視して剣を構え直す。
 恥ずかしさが消えたわけではない。正面を見れば、破れた着物も、露わになった肩や脚も嫌でも視界へ入る。
 けれど、それを気にして目を逸らせば、次も同じ攻撃を受けるだけだ。
 背後で矢の風切り音がした。銃声がそれに続き、魔獣の唸り声が途中で途切れる。
 橘たちが魔獣を食い止めてくれているのに、俺がこんなことで立ち止まっているわけにはいかない。
 見ているか、目を逸らしているか。その二つだけで考えるから、おかしくなる。
 何を見るのか、自分で決めればいい。
 拳が来る前には肩が動く。蹴りの前には腰が回り、踏み込む前には軸足へ力が乗る。
 サラの肌を意識する必要はない。ハデスがどこから動き、次に何をするのか。その兆しだけを追えばいい。
 一度長く息を吐き、まずは視線をハデスの右肩へ合わせた。
「ほう」
 俺の変化に気づいたのか、ハデスの口元が僅かに上がる。
「今度は逸らさぬのか?」
「お前が見ろって言ったんだろ」
「ならば、よく見ておくことじゃ」
 ハデスの右肩が前へ動く。
 掌が来る。
 そう読んで剣を持ち上げたが、伸びてきた腕は途中で止まった。
 同時に、足元から風を切る音が聞こえる。低く払われた脚が、俺の足首へ迫っていた。
 後ろへ跳んだが、逃げ切れない。靴の先を払われ、着地した時に体勢が傾いた。
 どうにか剣先を床へ突き、倒れるのだけは防ぐ。
「肩だけ見て、どうするつもりじゃ?」
「……試してたんだよ」
「負け惜しみまで覚えたか」
「うるさいな」
 一か所だけ見ても、それが囮なら簡単に引っ掛かる。
 肩から腰へ、さらに足元へと目を動かしていたら、今のハデスの速さには追いつけない。
 視線を僅かに外し、ハデスの身体全体を一つの輪郭として捉える。露わになった部分を見るのではなく、輪郭のどこが動いたかだけに意識を向けた。
 ハデスの左肩が揺れる。同時に右足が床を擦った。
 どちらが囮か判断しようとせず、剣を身体の中央へ寄せる。ハデスが踏み込んでから、目の前で描かれる輪郭全体の変化を追った。
 伸びてきたのは左の掌だった。
 剣の腹で受け止めると、すぐに黒い魔力が弾ける。腕を押し戻されながらも、腰が反対側へ流れるのが見えた。
 右の蹴りが来る。
 読んでいたのに、防御は間に合わなかった。上体を後ろへ逃がしたが、踵が制服の胸元を擦り、浅い衝撃が背中まで抜けた。
 よろめきながら距離を取る。ハデスは追いすがら、今度は両手を胸の前で交差させた。
 右か、左か。
 読もうとした途端、ハデスの身体が沈む。掌ではなく、頭が胸元へ飛び込んできた。
 組みつかれる前に剣を横へ寝かせ、両手で押し出す。刃の腹がハデスの肩に当たり、互いの足が床を滑った。
「少しは見えるようになったか」
「見えても、身体が追いつかないんだよ」
「弱い者とは、不便なものじゃな」
「改めて言われなくても分かってる」
 剣を押し返して距離を作る。
 攻撃が来てから、掌か蹴りかを当てていたのでは遅い。ハデスの技を全て見切るのではなく、自分がどちらへ逃げればよいか、どこで受ければ次に動けるかを先に決める。
 俺にできるのは、それくらいだ。
 呼吸を整え、剣を半歩前へ出す。ハデスはその位置を確かめるように目を細め、再び距離を詰めてきた。
 左の掌を剣で外側へ流す。次に来た右の指先は上体を沈めてかわした。
 完全に避けることだけを考えず、攻撃が終わった後の位置を選ぶ。わざとハデスの右側へ回り込み、次の蹴りを打ちにくくさせた。
 それでも左の掌が肩を掠め、焼けるような痛みが走る。けれど、今度は倒れずに距離を保てた。
 見える。それだけで攻撃を全てかわせるわけじゃない。それでも、視線を逸らして一方的に打たれていた時とは違う。
 俺の変化を確かめたように、ハデスが一度動きを止めた。
 ハデスが右足を踏み出す。
 肩は動いていない。腰が僅かに沈み、踏み出した右足ではなく、左足の指先が床を強く押している。
 来るのは左の蹴りだ。
 俺は後ろへ退かず、自分から前へ出た。
 予想した通り、ハデスの左脚が跳ね上がる。踵が顔の横を通り抜け、風が髪を揺らした。
 上がった脚の下へ潜り込み、刃を返す。〈レーヴァテイン〉の腹を脇腹へ押し当て、炎は抑えたまま身体ごと前へ押し込んだ。
「むっ」
 片足になっていたハデスの身体が傾く。
 そのまま左足を軸足へ掛け、床から払った。
 ハデスの身体が浮く。しかし、背中が床に着く前に片手をつき、腕だけで身体を捩った。
 投げ出された右脚が俺の肩へ迫る。
 今度は見失わない。
 半歩下がって蹴りをかわし、ハデスが着地する場所へ先回りする。床に足が触れた直後、胸元へ柄頭を突き出した。
 ハデスは左腕を挟んで受け止める。
 防がれた。けれど、今の目的は打ち抜くことではない。
 柄頭を腕へ押し当てたまま、床を蹴った。両腕と肩へ全身の力を乗せ、ハデスの身体を押し込む。
 ハデスの足が床を滑った。
 一歩、二歩と後退し、三歩目で強く床を踏みしめる。
 そこでようやく、押し込んだ柄が止まった。
 俺はすぐに後ろへ跳び、反撃の届かない距離まで離れた。
 頬の熱はまだ残っている。それでも、もう横を向くことはなかった。
「……どうだ」
 乱れた呼吸の合間から問いかける。
 ハデスは胸元へ添えていた腕を下ろし、三歩分の距離を確かめるように足元を見た。
「今のは、衣に助けられたわけではないのう」
「当たり前だ」
「ようやく、まともに余を見られるようになったか」
「見たくないところまで目に入るけどな」
 そう返すと、ハデスは声を上げて笑った。
「よい。それでこそ、余の相手をするに足る」
 笑いながら、再び腰を落とす。
 両腕を低く下ろし、左足を大きく後ろへ引いた構えは、さっきまでよりも低い。
「ならば、もう少し速く動いても問題なさそうじゃな」
 まだ速くなるのか。
 背中を冷たい汗が伝った。脇腹も、左肩も、先ほど打ちつけた背中も痛む。それでも、ここで剣を下ろす理由にはならない。
 〈レーヴァテイン〉の柄を握り直し、目の焦点をハデスの全身へ合わせる。
 露わになった肌ではなく、肩と腰、そして足元が作る動きの輪郭を見据えた。
 まだ勝てる気はしない。次の攻撃を見切れる保証もなかった。それでも、目を逸らしたまま打たれることだけは、もう終わりにする。
 ハデスが僅かに前へ重心を移す。その変化も、今度は見逃さなかった。