アースの拳を、ハデスの掌が正面から受け止めた。
互いの腕が押し合い、足元の亀裂が僅かに広がる。少し前までなら、力を受け切れずにハデスの方が下がっていたはずだ。けれど今は、サラの小さな身体がその場に留まっている。
「随分と馴染んできたみてえだな」
「うむ。ようやく、この身体での力加減が分かってきた」
「借り物で嬉しそうにすんな」
「よい器を褒めておるのじゃ。悪いことではあるまい?」
「持ち主が聞いたら、喜ばねえと思うぞ」
アースが右腕を引いた。
間を置かず、左の拳を脇腹へ打ち込む。ハデスは肘を下げて受け、腕同士がぶつかった勢いを使って身体を回した。着物の裾が大きく翻り、踵がこちらの側頭部へ迫る。
アースは上体を沈めて蹴りをかわす。そのままハデスの軸足へ手を伸ばしたが、触れる直前に相手の身体が宙へ浮いた。
「ちっ」
ハデスは片手を床につき、アースの頭上を越えて背後へ着地する。
振り向くより早く、背中へ掌が触れた。
衝撃が身体の内側を突き抜ける。俺の視界が激しく揺れ、身体は数歩先まで押し出された。
(アース!)
『騒ぐな』
返事と同時に、アースは床へ片手をついて体勢を立て直した。背中には焼けるような痛みが残っている。意識の奥にいる俺にも伝わってくるほどなのに、アースは振り返るなり床を蹴った。
追撃しようとしていたハデスの懐へ入り、伸ばされた右腕を外側へ払う。空いた胸元へ拳を叩き込むと、ハデスの身体が僅かに浮いた。
「――ぐっ」
アースは拳を引かず、そのまま肩から押し込んだ。ハデスの足が床を滑り、数メートル先で止まる。
「身体の使い方を覚えただけで、勝った気になるなよ」
「思うてはおらんよ」
ハデスは胸元を押さえながらも、愉快そうに笑っていた。
「じゃが、先ほどよりは近づけたようじゃ」
「まだ遠い」
「それを決めるのは、お主ではあるまい」
ハデスが踏み込む。
今度は、アースが迎え撃った。
振り下ろされた掌を左腕で受け流し、顎を狙って右拳を跳ね上げる。ハデスは首を反らしてかわすと、すれ違いざまにアースの脇腹へ指先を滑らせた。
触れられた場所から、黒い魔力が弾ける。
「がっ……!」
身体が真横へ吹き飛び、崩れた柱の根元へ背中から叩きつけられた。残っていた石材が衝撃で落ち、肩や腕を打つ。
(大丈夫か!?)
『この程度で喚くな』
アースは瓦礫を押し退けて立ち上がった。
制服の脇腹が裂け、その下には黒く焼けた傷が残っている。けれど流れた血はすぐに止まり、傷口もほどなく塞がっていく。
「その治癒、何度見ても厄介じゃのう」
「観察してる暇があんのか?」
アースが足元の石片を蹴り上げた。
ハデスの視線が飛んできた石へ向く。顔の前で弾かれた隙に、アースは既に間合いへ入っていた。
腹部へ一撃。
身体を折ったハデスの肩を掴み、床へ投げる。
だが、背中が着く直前、ハデスの足がアースの首へ絡みついた。引き倒そうとする力へ逆らわず、アースは自分から前へ転がる。
二人の位置が入れ替わった。
床へ落ちたアースの顔へ、ハデスの掌が振り下ろされる。首を横へずらすと、耳元で床石が砕けた。
アースは至近距離から膝を突き上げる。
ハデスが腕で受けた。その隙に拘束を外し、互いに逆方向へ跳んで距離を取る。
拳と掌を交わした時間は僅かだった。それでも、ハデスの動きは戦い始めた頃とは比べものにならない。サラの手足の長さも、重心の位置も、どこまで力を流せば身体が耐えられるのかも、戦いながら覚えている。
このまま長引けば、さらに差は縮まる。
背後では矢と銃声が続いていた。
五十嵐が狼型の魔獣を引きつけ、橘がその脚を射抜く。柱の陰から回り込んだ蜘蛛型にはティオナの水の槍が突き刺さり、頭上を飛ぶ鳥型は黒崎の弾丸に翼を撃ち抜かれていた。
四人が加わってから、魔獣はこちらまで一匹も抜けてきていない。
それでも押し返すところまではいかず、黒い亀裂からは新たな影が這い出している。五十嵐の制服にも裂け目が増え、橘の呼吸はまだ整い切っていなかった。
(アース、早くハデスを止めないと)
『分かってる』
(あの亀裂を消せるのは、たぶんあいつだけだ)
『だろうな』
アースの返事は短かった。
けれど、すぐには動かない。
正面に立つハデスを、じっと見据えている。
「どうした?」
ハデスが両手を広げた。
「余を止めるのであろう。来ぬのか?」
「……お前、随分と余裕だな」
「強がりに見えるかの?」
「そうじゃねえよ」
アースは答えながら、ハデスの背後へ一瞬だけ視線を動かした。
散らばった魔獣の向こうでは、増援に来た四人が戦っている。誰も無傷ではない。だが、倒れて動かなくなった者もいなかった。
なぜ仲間たちの様子を確かめたのか、俺には分からない。ただ、アースがハデスとの攻防だけでなく、この大広間で起きたこと全体から何かを見極めようとしているのは伝わってきた。
(また何か気づいたのか?)
『……さあな』
(教えろよ)
『お前は余計なこと考えずに見てろ』
それきり、アースは答えなかった。
代わりに構えを解き、両腕を自然に下ろす。
ハデスの眉が僅かに上がった。
「降参か?」
「誰がするか」
「ならば、何の真似じゃ」
「考え事が終わっただけだ」
アースが再び踏み込んだ。
正面から拳を振るう。ハデスが掌を合わせようとしたところで、アースは寸前で腕を止め、身体を斜めへ滑らせた。
脇を抜けながら足を掛ける。
体勢を崩したハデスの背中へ、手加減した掌底を打ち込んだ。
ハデスは前へ数歩よろめいたものの、倒れる前に片足を強く踏みしめた。振り返りざまに腕を薙ぎ、黒い魔力を放つ。
アースは両腕を交差させて受けた。
重い衝撃に身体が押し戻される。靴底が床を削り、腕の皮膚が裂けた。そこへハデスが一気に距離を詰めてくる。
掌が胸元へ向けられた。
アースは半歩だけ右へずれ、左肩で受ける。黒い魔力が弾け、肩口から血が飛んだ。
それでも退かず、空いた右手でハデスの手首を掴む。
「捕まえた」
「それは先ほども聞いたぞ」
ハデスは掴まれた腕を引かなかった。
反対の手をアースの腹部へ添える。
「同じ手が、何度も通じると思うたか?」
掌の下で魔力が膨らむ。
まともに受ければ、今度こそ腹を深く抉られる。
(避けろ!)
俺が叫ぶより先に、アースはハデスの手首を離した。身体を横へ捻り、放たれた衝撃を紙一重でかわす。
黒い魔力が制服を掠め、背後の床を砕いた。
アースはすれ違ったまま、追撃へ移ろうとしなかった。
ハデスもすぐには振り返らない。
二人は背中を向け合い、僅かな間を置いてから同時に相手へ向き直った。
「惜しかったのう」
「どこがだ。外してんじゃねえか」
「お主が避けたからじゃろう」
「……そういうことにしといてやるよ」
アースが、ごく僅かに口元を歪めた。
相手を挑発する時の笑い方ではない。何かを確信したのだと、内側にいる俺にも伝わった。
(アース?)
『隼人』
突然、名前を呼ばれた。
(なんだよ)
『時間だ』
(時間?)
『交代する』
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
アースが表に出ていられる時間が、もう尽きたということか。
(……は?)
『ここからは、お前がやれ』
(ちょっと待て! こんな状況で時間切れなのかよ!)
『時間は選べねえだろ』
(少しくらい延ばせないのか? お前でも手こずってる相手だぞ!)
『無理だ』
(だったら――)
『うるせえな。お前はいつまで奥で見てるつもりだ』
返す言葉が詰まった。
自分から代わってくれと頼んだのは俺だ。あの時は、ハデスが放とうとしていた攻撃から橘を守るため、アースに任せるしかなかった。
けれど状況は、あの時より良くなったわけじゃない。
ハデスはサラの身体へ馴染み、さっきまでとは違う動きを見せている。アースの再生も無限ではない。魔獣の群れも残ったままだ。
よりによって、こんな時に限界が来るなんて。
(……本当に、俺がやるしかないんだな)
『お前がやる。それだけだ』
取りつく島もなかった。
アースは一度言い切ったら、俺が何を言っても曲げない。短い付き合いではない。それくらいは分かっている。
(……勝手すぎるだろ)
『今さら気づいたか』
(褒めてねえよ)
『なら、文句は後で聞いてやる』
アースの意識が、身体の奥へ沈み始める。
(待て、まだ話は――)
『死ぬ気でやれ』
最後にそれだけ告げて、身体を動かしていた力が抜けた。
今まで遠くにあった痛みが、一気に自分のものへ戻ってくる。
焼けるような左肩。鈍く痛む背中。肺へ入り込む砂埃の匂い。足の裏に伝わる、ひび割れた床の感触。
「っ……!」
膝が落ちそうになる。
咄嗟に右足を踏ん張り、どうにか立ち続けた。
視界の端にあった白い前髪が、根元から黒へ戻っていく。身体を満たしていた異質な感覚も薄れ、代わりに、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。
「桐宮君……?」
背後から橘の声が届く。
俺は振り返れなかった。
目の前にはハデスがいる。
こいつから視線を外す余裕なんてない。
ハデスはすぐには攻撃してこなかった。俺の顔を覗き込み、面白そうに目を細めている。
「……入れ替わったか」
「分かるのかよ」
「最初から、お主らの魂は見えておると言うたであろう」
「そうだったな」
自分の右手を開き、握り直す。
間違いなく、俺の身体だ。指一本まで自分の意思で動く。戻ってきた実感と一緒に、逃げ出したくなるほどの圧力まで真正面から感じた。
アースが戦っていた時とは違う。
内側から見ているだけでは分からなかった重さが、ハデスと向き合っただけで全身へ乗りかかってくる。
「あやつは、なぜ退いた?」
「時間切れだってさ」
アースは完全にいなくなったわけではない。意識の奥でこちらを見ている気配だけはあった。
「まあよい」
ハデスが一歩前へ出る。
「今度は、お主が余の相手をするのじゃな?」
怖くないと言えば嘘になる。
勝てるとも思えない。
それでも、身体を返された以上、ここで膝をついているわけにはいかなかった。
「……そうらしい」
右手へ魔力を集める。
「灰燼と化せ――〈レーヴァテイン〉」
灼熱の炎を纏った剣が手の中に顕現する。柄を握ると、ようやく呼吸が少しだけ整った。
ハデスは炎の剣と俺の顔を見比べ、楽しそうに口元を緩めた。
「では、続きを始めようか」
「待たせて悪かったな」
〈レーヴァテイン〉を正面へ構える。
サラの姿をした冥王が、俺を見て笑っている。
その身体を傷つけるわけにはいかない。けれど、止めなければならない。
今度は、アースの後ろから見ているだけじゃない。
俺自身の手で、サラを取り戻すための戦いが始まった。
互いの腕が押し合い、足元の亀裂が僅かに広がる。少し前までなら、力を受け切れずにハデスの方が下がっていたはずだ。けれど今は、サラの小さな身体がその場に留まっている。
「随分と馴染んできたみてえだな」
「うむ。ようやく、この身体での力加減が分かってきた」
「借り物で嬉しそうにすんな」
「よい器を褒めておるのじゃ。悪いことではあるまい?」
「持ち主が聞いたら、喜ばねえと思うぞ」
アースが右腕を引いた。
間を置かず、左の拳を脇腹へ打ち込む。ハデスは肘を下げて受け、腕同士がぶつかった勢いを使って身体を回した。着物の裾が大きく翻り、踵がこちらの側頭部へ迫る。
アースは上体を沈めて蹴りをかわす。そのままハデスの軸足へ手を伸ばしたが、触れる直前に相手の身体が宙へ浮いた。
「ちっ」
ハデスは片手を床につき、アースの頭上を越えて背後へ着地する。
振り向くより早く、背中へ掌が触れた。
衝撃が身体の内側を突き抜ける。俺の視界が激しく揺れ、身体は数歩先まで押し出された。
(アース!)
『騒ぐな』
返事と同時に、アースは床へ片手をついて体勢を立て直した。背中には焼けるような痛みが残っている。意識の奥にいる俺にも伝わってくるほどなのに、アースは振り返るなり床を蹴った。
追撃しようとしていたハデスの懐へ入り、伸ばされた右腕を外側へ払う。空いた胸元へ拳を叩き込むと、ハデスの身体が僅かに浮いた。
「――ぐっ」
アースは拳を引かず、そのまま肩から押し込んだ。ハデスの足が床を滑り、数メートル先で止まる。
「身体の使い方を覚えただけで、勝った気になるなよ」
「思うてはおらんよ」
ハデスは胸元を押さえながらも、愉快そうに笑っていた。
「じゃが、先ほどよりは近づけたようじゃ」
「まだ遠い」
「それを決めるのは、お主ではあるまい」
ハデスが踏み込む。
今度は、アースが迎え撃った。
振り下ろされた掌を左腕で受け流し、顎を狙って右拳を跳ね上げる。ハデスは首を反らしてかわすと、すれ違いざまにアースの脇腹へ指先を滑らせた。
触れられた場所から、黒い魔力が弾ける。
「がっ……!」
身体が真横へ吹き飛び、崩れた柱の根元へ背中から叩きつけられた。残っていた石材が衝撃で落ち、肩や腕を打つ。
(大丈夫か!?)
『この程度で喚くな』
アースは瓦礫を押し退けて立ち上がった。
制服の脇腹が裂け、その下には黒く焼けた傷が残っている。けれど流れた血はすぐに止まり、傷口もほどなく塞がっていく。
「その治癒、何度見ても厄介じゃのう」
「観察してる暇があんのか?」
アースが足元の石片を蹴り上げた。
ハデスの視線が飛んできた石へ向く。顔の前で弾かれた隙に、アースは既に間合いへ入っていた。
腹部へ一撃。
身体を折ったハデスの肩を掴み、床へ投げる。
だが、背中が着く直前、ハデスの足がアースの首へ絡みついた。引き倒そうとする力へ逆らわず、アースは自分から前へ転がる。
二人の位置が入れ替わった。
床へ落ちたアースの顔へ、ハデスの掌が振り下ろされる。首を横へずらすと、耳元で床石が砕けた。
アースは至近距離から膝を突き上げる。
ハデスが腕で受けた。その隙に拘束を外し、互いに逆方向へ跳んで距離を取る。
拳と掌を交わした時間は僅かだった。それでも、ハデスの動きは戦い始めた頃とは比べものにならない。サラの手足の長さも、重心の位置も、どこまで力を流せば身体が耐えられるのかも、戦いながら覚えている。
このまま長引けば、さらに差は縮まる。
背後では矢と銃声が続いていた。
五十嵐が狼型の魔獣を引きつけ、橘がその脚を射抜く。柱の陰から回り込んだ蜘蛛型にはティオナの水の槍が突き刺さり、頭上を飛ぶ鳥型は黒崎の弾丸に翼を撃ち抜かれていた。
四人が加わってから、魔獣はこちらまで一匹も抜けてきていない。
それでも押し返すところまではいかず、黒い亀裂からは新たな影が這い出している。五十嵐の制服にも裂け目が増え、橘の呼吸はまだ整い切っていなかった。
(アース、早くハデスを止めないと)
『分かってる』
(あの亀裂を消せるのは、たぶんあいつだけだ)
『だろうな』
アースの返事は短かった。
けれど、すぐには動かない。
正面に立つハデスを、じっと見据えている。
「どうした?」
ハデスが両手を広げた。
「余を止めるのであろう。来ぬのか?」
「……お前、随分と余裕だな」
「強がりに見えるかの?」
「そうじゃねえよ」
アースは答えながら、ハデスの背後へ一瞬だけ視線を動かした。
散らばった魔獣の向こうでは、増援に来た四人が戦っている。誰も無傷ではない。だが、倒れて動かなくなった者もいなかった。
なぜ仲間たちの様子を確かめたのか、俺には分からない。ただ、アースがハデスとの攻防だけでなく、この大広間で起きたこと全体から何かを見極めようとしているのは伝わってきた。
(また何か気づいたのか?)
『……さあな』
(教えろよ)
『お前は余計なこと考えずに見てろ』
それきり、アースは答えなかった。
代わりに構えを解き、両腕を自然に下ろす。
ハデスの眉が僅かに上がった。
「降参か?」
「誰がするか」
「ならば、何の真似じゃ」
「考え事が終わっただけだ」
アースが再び踏み込んだ。
正面から拳を振るう。ハデスが掌を合わせようとしたところで、アースは寸前で腕を止め、身体を斜めへ滑らせた。
脇を抜けながら足を掛ける。
体勢を崩したハデスの背中へ、手加減した掌底を打ち込んだ。
ハデスは前へ数歩よろめいたものの、倒れる前に片足を強く踏みしめた。振り返りざまに腕を薙ぎ、黒い魔力を放つ。
アースは両腕を交差させて受けた。
重い衝撃に身体が押し戻される。靴底が床を削り、腕の皮膚が裂けた。そこへハデスが一気に距離を詰めてくる。
掌が胸元へ向けられた。
アースは半歩だけ右へずれ、左肩で受ける。黒い魔力が弾け、肩口から血が飛んだ。
それでも退かず、空いた右手でハデスの手首を掴む。
「捕まえた」
「それは先ほども聞いたぞ」
ハデスは掴まれた腕を引かなかった。
反対の手をアースの腹部へ添える。
「同じ手が、何度も通じると思うたか?」
掌の下で魔力が膨らむ。
まともに受ければ、今度こそ腹を深く抉られる。
(避けろ!)
俺が叫ぶより先に、アースはハデスの手首を離した。身体を横へ捻り、放たれた衝撃を紙一重でかわす。
黒い魔力が制服を掠め、背後の床を砕いた。
アースはすれ違ったまま、追撃へ移ろうとしなかった。
ハデスもすぐには振り返らない。
二人は背中を向け合い、僅かな間を置いてから同時に相手へ向き直った。
「惜しかったのう」
「どこがだ。外してんじゃねえか」
「お主が避けたからじゃろう」
「……そういうことにしといてやるよ」
アースが、ごく僅かに口元を歪めた。
相手を挑発する時の笑い方ではない。何かを確信したのだと、内側にいる俺にも伝わった。
(アース?)
『隼人』
突然、名前を呼ばれた。
(なんだよ)
『時間だ』
(時間?)
『交代する』
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
アースが表に出ていられる時間が、もう尽きたということか。
(……は?)
『ここからは、お前がやれ』
(ちょっと待て! こんな状況で時間切れなのかよ!)
『時間は選べねえだろ』
(少しくらい延ばせないのか? お前でも手こずってる相手だぞ!)
『無理だ』
(だったら――)
『うるせえな。お前はいつまで奥で見てるつもりだ』
返す言葉が詰まった。
自分から代わってくれと頼んだのは俺だ。あの時は、ハデスが放とうとしていた攻撃から橘を守るため、アースに任せるしかなかった。
けれど状況は、あの時より良くなったわけじゃない。
ハデスはサラの身体へ馴染み、さっきまでとは違う動きを見せている。アースの再生も無限ではない。魔獣の群れも残ったままだ。
よりによって、こんな時に限界が来るなんて。
(……本当に、俺がやるしかないんだな)
『お前がやる。それだけだ』
取りつく島もなかった。
アースは一度言い切ったら、俺が何を言っても曲げない。短い付き合いではない。それくらいは分かっている。
(……勝手すぎるだろ)
『今さら気づいたか』
(褒めてねえよ)
『なら、文句は後で聞いてやる』
アースの意識が、身体の奥へ沈み始める。
(待て、まだ話は――)
『死ぬ気でやれ』
最後にそれだけ告げて、身体を動かしていた力が抜けた。
今まで遠くにあった痛みが、一気に自分のものへ戻ってくる。
焼けるような左肩。鈍く痛む背中。肺へ入り込む砂埃の匂い。足の裏に伝わる、ひび割れた床の感触。
「っ……!」
膝が落ちそうになる。
咄嗟に右足を踏ん張り、どうにか立ち続けた。
視界の端にあった白い前髪が、根元から黒へ戻っていく。身体を満たしていた異質な感覚も薄れ、代わりに、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。
「桐宮君……?」
背後から橘の声が届く。
俺は振り返れなかった。
目の前にはハデスがいる。
こいつから視線を外す余裕なんてない。
ハデスはすぐには攻撃してこなかった。俺の顔を覗き込み、面白そうに目を細めている。
「……入れ替わったか」
「分かるのかよ」
「最初から、お主らの魂は見えておると言うたであろう」
「そうだったな」
自分の右手を開き、握り直す。
間違いなく、俺の身体だ。指一本まで自分の意思で動く。戻ってきた実感と一緒に、逃げ出したくなるほどの圧力まで真正面から感じた。
アースが戦っていた時とは違う。
内側から見ているだけでは分からなかった重さが、ハデスと向き合っただけで全身へ乗りかかってくる。
「あやつは、なぜ退いた?」
「時間切れだってさ」
アースは完全にいなくなったわけではない。意識の奥でこちらを見ている気配だけはあった。
「まあよい」
ハデスが一歩前へ出る。
「今度は、お主が余の相手をするのじゃな?」
怖くないと言えば嘘になる。
勝てるとも思えない。
それでも、身体を返された以上、ここで膝をついているわけにはいかなかった。
「……そうらしい」
右手へ魔力を集める。
「灰燼と化せ――〈レーヴァテイン〉」
灼熱の炎を纏った剣が手の中に顕現する。柄を握ると、ようやく呼吸が少しだけ整った。
ハデスは炎の剣と俺の顔を見比べ、楽しそうに口元を緩めた。
「では、続きを始めようか」
「待たせて悪かったな」
〈レーヴァテイン〉を正面へ構える。
サラの姿をした冥王が、俺を見て笑っている。
その身体を傷つけるわけにはいかない。けれど、止めなければならない。
今度は、アースの後ろから見ているだけじゃない。
俺自身の手で、サラを取り戻すための戦いが始まった。

