魔力の少ない魔法使い二年生編

 〈ヴリトラ〉の切っ先が、タナトスの黒い翼へ食い込んだ。
 硬い手応えが右腕へ返ってくる。それでも烏廻は刃を止めず、踏み込みとともに振り抜いた。
 黒い羽が舞い、深く裂けた翼から血が散る。
 タナトスの身体が大きく傾いた。
 地面を蹴って逃れようとしたものの、傷ついた翼は片側だけ遅れて開く。浮き上がることができず、もつれた足が湿った土を削った。
「ようやく捕まえたな」
 烏廻は間合いを開けさせない。
 返した〈ヴリトラ〉で脇腹を狙うと、タナトスは大鎌の柄を立てて受け止めた。刃と柄がぶつかり、互いの腕が押し返される。
 タナトスは崩れた姿勢のまま大鎌を回した。
 銀色の刃が低い軌道で烏廻の脚へ迫る。烏廻は片足を引いてかわし、鎌が通り過ぎたところへ踏み込んだ。
 右手の一閃。
 タナトスは大鎌を引き戻して受ける。
 続く斬撃も、柄を滑らせるようにして外へ流した。
 飛んで逃げられなくなっても、動きそのものが鈍ったわけではない。むしろ地上での攻防へ集中した分、大鎌の軌道は先ほどよりも小さく、隙が減っていた。
「片翼を裂いた程度で、勝ったつもりか」
「そんなに甘く見えたか?」
 烏廻が〈ヴリトラ〉を振り下ろす。
 正面から受けると見せかけ、タナトスは半歩だけ右へずれた。漆黒の刃が大鎌の表面を滑り、地面へ落ちる。
 そのまま柄の先端が烏廻の左肩へ突き出された。
 身体を捻って直撃を避ける。
 だが、石突が二の腕を掠めた。
 布が裂け、その下へ細い傷が走る。
 痛みは浅い。それに反して、左腕から急速に力が抜けていった。
 指先の感覚はある。肘も肩も動かせる。それでも、自分の腕ではないように重い。
「また左かよ」
「弱っている箇所を放置する理由はない」
「本当に容赦ねえな」
 烏廻は笑いながら左腕を下げた。
 タナトスの視線が僅かに細まる。
 先ほどまで〈ヴリトラ〉を握っていた左手には、既に武器がない。〈インドラ〉も杉林の奥へ弾かれている。
 烏廻の手元に残っているのは、右手の〈ヴリトラ〉だけだった。
 二本あった剣は一本。
 動かしにくかった左腕は、今や構えにすら使われていない。
 タナトスが大鎌を両手で握り直す。
「終わりだ」
 刃が烏廻の左側から迫った。
 狙いは首。
 これまでなら〈インドラ〉か〈ヴリトラ〉で受けていた軌道だ。しかし、片手では逆側まで防御が間に合わない。
 烏廻は右手の剣を動かさなかった。
 大鎌をぎりぎりまで引きつけ、刃が首へ届く直前に一歩だけ前へ出る。
 銀色の切っ先が左肩の上を通過した。
 刃の内側へ入り込んだ烏廻は、左腕で大鎌の柄を抱え込む。
 ほとんど力の入らない腕だけでは、止められない。脇を締め、柄を自分の身体との間に挟んで固定する。
「何――」
「そこを狙うと思ったよ」
 タナトスが大鎌を引こうとする。
 柄が左腕の傷へ食い込み、烏廻の表情が僅かに歪んだ。
 それでも離さない。
 必要なのは、ほんの一瞬だった。
 烏廻は右足を踏み込み、空いた懐へ肩からぶつかった。
 体勢を崩したタナトスの胸元へ、〈ヴリトラ〉を振り上げる。
 タナトスは傷ついた翼を前へ回した。
 先ほどと同じ翼で刃を受け、その間に大鎌を取り戻そうとする。
 烏廻は構わず踏み込んだ。
 〈ヴリトラ〉が翼を切り裂き、その奥の胸元まで走る。
 黒い外套が裂け、鮮血が舞った。
「ぐっ……!」
 タナトスの腕から力が抜ける。
 大鎌が地面へ落ちた。
 烏廻は左腕を柄から外し、よろめいたタナトスへ身体を寄せる。反撃を許さず、右手の柄頭をその腹部へ叩き込んだ。
 タナトスの身体がくの字に折れる。
 続けて顎を蹴り上げると、背中から地面へ倒れた。
 黒い翼が土の上へ広がる。
 起き上がろうとした右手が、僅かに動いた。
 烏廻はその手首を踏み、〈ヴリトラ〉の切っ先を喉元へ向ける。
「まだやるか?」
 タナトスは答えない。
 真紅の目が烏廻を睨んでいたが、身体はもう動かなかった。胸元から流れた血が外套を濡らし、次第に瞼が下がっていく。
 力が抜けると同時に、周囲へ漂っていた黒い靄が薄れた。
 烏廻はすぐには剣を下ろさない。
 胸元と指先の動きを見極め、もう立てないと判断してから、ようやく〈ヴリトラ〉を引いた。
「人の弱点ばっか狙うからだ」
 軽口を叩いた声に、返事はなかった。
 烏廻は左腕を持ち上げようとする。
 肩は動いたものの、肘から先が思うようについてこない。タナトスが倒れても、受けた影響まですぐに消えるわけではないらしい。
「面倒な置き土産しやがって」
 小さく息を吐き、杉林の奥へ目を向ける。
 〈インドラ〉は一本の杉へ深く突き刺さっていた。
 烏廻はそこまで歩き、右手で柄を掴んで引き抜く。〈ヴリトラ〉を力の入らない左手へ持たせると、指だけは柄から離れないよう握り込んだ。
 その時、ケルベロスの咆哮が響いた。
 ◆
 三つの顎が、異なる方向から帝へ迫っていた。
 中央が正面から噛みつき、左が退路へ回り込む。右の口元には、白い靄が集まっている。
 帝は左へ踏み出すと見せかけ、身体へ纏わせた風を逆へ流した。
 中央の牙を紙一重でかわし、巨体の右側へ抜ける。
 すぐに右の首が追ってきた。
 冷気を吐かせる前に〈天ノ叢雲〉を振るい、開いた顎の側面を打つ。狙いを外れた白い息が杉の根元を凍らせた。
 帝はそのまま前脚へ刃を走らせる。
 先ほど傷つけた関節が再び裂け、黒い血が飛んだ。
 しかし、帝が離れるより先に、後ろから左の首が迫る。
 振り向きざまに刀を合わせた。
 牙と刃が噛み合い、重い衝撃に両腕が沈む。
 押し返すことはできない。
 帝は刀を傾けて牙を流そうとしたが、中央の首が既に次の攻撃へ移っていた。
「随分としつこいね……!」
 地面へ膝をつく直前、足元で風を弾けさせる。
 身体が横へ押し出され、中央の顎が左の首へぶつかった。二つの首がもつれ、巨体が大きく揺れる。
 帝はすぐに立ち上がったものの、呼吸が乱れていた。
 背中を杉へ打ちつけた痛みも残っている。大きな魔法を使った直後から、一度も満足に休めていない。
 対するケルベロスは、傷を負うたびに黒い靄を集め、何度でも立ち上がってくる。
 先ほど切り開いた前脚にも、既に靄がまとわりついていた。
「まだ塞がるのか」
 帝は〈天ノ叢雲〉を構え、浅く息を吐く。
 傷の回復は、最初より遅くなっているようにも見える。
 だが、自分の消耗によってそう感じているだけかもしれない。確証のない期待へ賭けるつもりはなかった。
 三つの首が体勢を立て直す。
 中央の首が地面を蹴ようとしたところで、その動きが止まった。
 傷へ集まっていた黒い靄が揺らぐ。
 一度は繋がりかけていた前脚の傷から、再び血が流れ始めた。
 左の首も異変に気づいたらしい。自らの身体へ顔を向け、低い唸り声を上げる。
 黒い靄は薄れ続け、やがて夜気の中へ消えた。
「……なるほど」
 何が起きたのか、帝には分からない。
 ただ、杉林の奥から聞こえていた金属音が止んでいる。
 それだけ分かれば十分だった。
「先生も、仕事を終えたようですね」
 ケルベロスが三つの頭を帝へ向けた。
 傷が治らないと理解したのか、それまで以上に低い姿勢を取る。残った力をすべて使い、一度の突進で帝を押し潰すつもりに見えた。
 帝は〈天ノ叢雲〉を身体の右側へ引いた。
 刀身へ風が集まり、周囲の草が同じ方向へなびいていく。
 三つの喉から咆哮が上がる。
 ケルベロスが地面を蹴った。
 傷ついた前脚を庇いながらも、速度は落ちていない。中央の顎が正面から迫り、その左右から残る二つの首が帝を挟み込む。
 逃げ場はない。
 帝は正面へ駆けた。
 中央の首が牙を剥く。
 噛みつかれる寸前、帝は地面すれすれまで身体を沈めた。その頭部の下を潜り、傷ついた前脚へ〈天ノ叢雲〉を振り抜く。
 風を纏った刃が関節を深く断った。
 支えを失った巨体が前へ傾く。
 中央の首が地面へ落ち、左右の首も帝を追おうとして内側へ寄った。
 三つの首が、互いに重なる。
 帝は切り返し、踏み込んだ足を軸にして身体を捻った。
 刀身へ集めていた風が、〈天ノ叢雲〉の軌道に沿って伸びていく。
「終わりだよ」
 横薙ぎの一閃が、三つの首の付け根を駆け抜けた。
 風が抜けたあと、杉林に静けさが戻る。
 ケルベロスは倒れ込んだ姿勢のまま、動かなかった。
 黒い体毛の間から血が流れ、土へ染み込んでいく。それでも、傷口へ靄が集まることはない。
 帝はしばらく〈天ノ叢雲〉を構えたまま待った。
 六つの瞳から光が失われ、三つの顎が完全に力をなくしたところで、ようやく刀を下ろす。
「さすがに、少し疲れたね」
 背後から、土を踏む音が聞こえた。
 帝が振り返ると、二本の剣を持った烏廻が杉の間から歩いてくる。上着は裂け、左腕を僅かに下げていたが、足取りに大きな乱れはない。
「終わったみてえだな」
「ええ。先生も、その様子なら無事に済んだようですね」
「これが無事に見えんのか?」
「歩けているなら問題ないでしょう」
「教師への気遣いが足りねえぞ」
「必要ですか?」
「即答すんな」
 烏廻は倒れたケルベロスへ目を向け、続いて帝を見る。
「助かった。あいつまで相手してたら、さすがに面倒だった」
「先生なら、僕がいなくてもどうにかしたでしょうけどね」
「どうにかするのと、楽に済むのは別だ」
「つまり、僕が来て正解だったと」
「最初からそう言ってんだよ」
 帝は〈天ノ叢雲〉についた血を振り払い、屋敷の方角へ視線を向けた。
 遠くから、何かが砕けるような音が響いてくる。
 中の戦いは、まだ終わっていない。
「戻るぞ」
 烏廻が先に歩き出す。
「言われなくても、そのつもりです」
「お前、ここに確かめたいことがあるだけじゃなかったのか?」
 帝の足が一瞬だけ止まった。
「まだ確認は済んでいませんからね」
「そうかよ」
 烏廻は振り返らなかった。
 それ以上追及する気もないらしい。
 帝も何も付け加えず、その背中を追った。
 二人は倒れた番犬と大鎌の男を杉林へ残し、戦いの続く屋敷へ向かった。