ケルベロスの右の首が、大きく息を吸い込んだ。
牙の隙間へ白い靄が集まり、周囲の空気が急速に冷えていく。
帝は退かなかった。〈天ノ叢雲〉を握る右手とは反対の手を前へ向ける。
「【エア・ウォール】」
斜めに立ち上がった風の壁へ、凍てつく息が叩きつけられた。
正面から押し返すのではない。風の流れに沿って逸らされた冷気が、地面を這いながら中央の首の足元へ流れ込む。濡れた土が白く凍り、踏み出しかけた前脚が滑った。
巨体の均衡が崩れる。
帝はその隙を逃さず、左の首へ踏み込んだ。
横から噛みついてきた牙を〈天ノ叢雲〉の腹で受け、刀を傾けながら外へ流す。牙が地面へ突き刺さったところで首の側面へ回り、黒い体毛の上から刃を走らせた。
浅い。
だが、傷口から黒い靄が滲み出す。
追撃しようとした帝の頭上へ、中央の顎が落ちてきた。
帝は身を沈め、その下を滑るように抜ける。背後で牙が噛み合い、硬い音が響いた。
「考えている以上に、よくできているね」
三つの首は、ただ別々に襲っているわけではない。
中央が正面から押し込み、左が逃げ道を狭め、右が冷気で足場を奪う。どれか一つへ意識を向ければ、残る二つが必ず動く。
先ほど烏廻から聞いた通りだった。
帝が距離を取ると、ケルベロスもすぐには追ってこなかった。低く身を伏せ、六つの瞳でこちらの動きを窺っている。
斬撃は通る。魔法も効く。
しかし、今しがた裂いた首の傷には黒い靄が集まり、既に傷口の半分ほどを塞いでいた。
どういう仕組みで治っているのかは分からない。
少なくとも、同じ場所を一度や二度斬った程度では止められないらしい。
中央の首が吠えた。
右の首が大きく外側へ開き、左の首は反対側から帝を挟み込む。先ほどまでと並びが違う。こちらが三つの役割を読んだと見て、攻め方を変えたのだろう。
「獣にしては賢いじゃないか」
三方向から巨体が迫る。
帝の身体を、足元から巻き上がった風が包んだ。
制服の裾がはためく。
中央の牙が届く直前、帝は地面を蹴った。右へ逃げると見せかけ、踏み出した足で土を強く蹴り直す。風に押された身体が鋭く切り返し、左の首の内側へ潜り込んだ。
顎の下へ〈天ノ叢雲〉を振り上げる。
左の首が仰け反った。
帝は止まらない。傾いた首を足場にして駆け上がり、三つの首が分かれる付け根へ着地した。
中央と右の首が同時に振り向く。
だが、互いの頭が邪魔になり、帝へ噛みつけない。
「大きければいいというものでもないようだね」
振り回された右の首を跳んでかわす。
そのまま巨体の背を走り、前脚の関節へ左手を向けた。
「【ウィンド・ランス】」
一点へ圧縮された風が、黒い体毛を突き破った。
前脚の関節が内側へ折れ、ケルベロスの身体が大きく沈む。帝は背から飛び降り、着地と同時に傷口へ刀を振り抜いた。
二つの攻撃が重なり、前脚から黒い血が噴き出す。
巨体が地面へ倒れ込んだ。
巻き上がった土煙の向こうで、三つの首が怒りに満ちた声を上げる。
帝はすぐに距離を取った。
倒れたからといって、終わったとは思っていない。
案の定、前脚の傷へ黒い靄が集まり始める。裂けた肉がゆっくりと繋がり、折れた関節も元の向きへ戻っていく。
「本当に、きりがないね」
口ではそう言いながらも、帝は〈天ノ叢雲〉を下ろさなかった。
離れた杉林から、刃のぶつかる音が聞こえる。
烏廻と大鎌の男の戦いも続いている。
帝は、ケルベロスの傷が塞がる理由を知らない。いつまで再生を続けられるのかも、その方法を断つ手段も分からなかった。
それでも、自分が何をすべきかは分かっている。
この番犬を、烏廻のもとへ戻さない。
倒し切れなくても、ここへ引きつけておけばいい。その間に烏廻が大鎌の男を倒せば、状況は動く。
「僕に時間稼ぎをさせるとは、烏廻先生も随分と贅沢なことを考える」
以前の自分なら、そんな役目を引き受けようとはしなかっただろう。
勝つのは自分であり、自分が一番でなければ意味がない。他人の勝利を支えるために剣を振るうなど、考えもしなかった。
その思い込みを壊した男は、今も屋敷の中にいる。
そして、その男が助けようとしている少女を、帝は一度、自分の言葉で傷つけた。
謝罪をしたから終わりではない。
だから助けに来たのだと、烏廻へ素直に話すつもりもなかったが。
「まったく。君たちと関わると、調子が狂うよ」
前脚の傷が塞がる。
ケルベロスが立ち上がり、三つの頭を大きく振った。
中央の首が帝を睨みつける一方で、左の首だけが杉林の奥へ顔を向ける。遠くで金属音が響くたび、耳がそちらへ動いていた。
次の瞬間、巨体が向きを変えた。
「おっと」
帝は先回りし、進路へ立つ。
「そちらへは行かせないよ」
中央の首が牙を剥き、正面から飛びかかってきた。
帝は横へ逃げず、真正面から踏み込む。
上顎が頭上を通り過ぎるぎりぎりまで引きつけ、身体を沈めて懐へ潜る。通り抜けざま、右の前脚へ刃を走らせた。
巨体が踏みとどまり、左の首が帝を追う。
振り向きざまに刀で受けると、牙と刃の間で火花が散った。押し込まれた帝の靴が、湿った土へ深い跡を刻む。
「力比べは、趣味ではないんだけどね」
両腕で支えず、押される方向へ自ら一歩踏み込む。
不意に抵抗を失った左の首が勢い余って前へ出た。帝は身体を捻り、その顎を中央の首へ向けて流す。
二つの頭が正面からぶつかった。
鈍い音が響き、ケルベロスの動きが止まる。
右の首が口を開いた。
白い靄が集まる。
帝は左の首の下を抜け、中央の首と位置を入れ替えた。
吐き出された冷気が、帝ではなく中央の首の肩口へ浴びせられる。黒い体毛が白く凍りつき、前脚の動きが目に見えて鈍った。
三つの喉から、互いを責めるような唸り声が上がる。
「役割が決まっているからこそ、崩れた時は脆い」
帝は凍りついた肩へ踏み込み、〈天ノ叢雲〉の柄頭を叩きつけた。
氷に細い亀裂が走る。
続けて刃を振り抜くと、凍った体毛ごと肩口が大きく裂けた。
ケルベロスが巨体を振り回す。
帝は飛び退いたものの、後脚が横から迫っていた。避けきれないと判断し、刀の腹を身体の前へ差し入れる。
重い衝撃が全身を襲った。
「くっ……!」
帝の身体が地面を跳ね、杉の幹へ背中から叩きつけられる。
肺から空気が押し出された。
視界が一瞬だけ揺れる。
ケルベロスは待たない。前脚の傷も、凍って裂けた肩も塞がり切っていないまま、地面を蹴った。
三つの顎が一斉に迫る。
帝は痛む背を幹から離した。
呼吸を整える暇はない。
身体へ纏わせた風を足元へ集め、一気に上空へ跳ぶ。中央の顎が空を噛み、左右の首が遅れて帝を追った。
帝は空中で身を翻す。
眼下では、三つの首がこちらを見上げている。飛び上がった自分を追うために前へ集まり、巨体の重心も前脚へ偏っていた。
狙うなら今だ。
〈天ノ叢雲〉を逆手に持ち替え、切っ先を真下へ向ける。
「【ダウンバースト】」
上空から、巨大な風の塊が落ちた。
轟音とともに三つの頭が押し下げられる。
ケルベロスは四肢を踏ん張ろうとした。だが、傷ついた前脚が先に折れ、巨体の前半分が地面へ叩きつけられた。
さらに風圧が背を押し潰す。
土が円形に抉れ、杉の枝葉が激しく揺れた。三つの顎が地面へ沈み、咆哮さえ風の音に呑み込まれる。
帝は風が弱まると同時に着地した。
膝が僅かに沈む。
今の一撃で魔力を大きく使った。背中の痛みも消えてはいない。
それでも、倒れたケルベロスと烏廻のいる方角の間へ立つ。
土へ沈んだ巨体が動いた。
傷口へ、再び黒い靄が集まっていく。
「まだ立つつもりかい?」
三つの喉から、低い唸り声が返ってくる。
帝は息を整えながら、〈天ノ叢雲〉を構え直した。
「構わないよ。君が何度立とうと――ここから先へは、一歩も通さない」
◆
銀色の大鎌が、烏廻の首を狙って薙ぎ払われた。
烏廻は上体を反らして刃をかわし、〈インドラ〉を斜め下から振り上げる。
タナトスは翼を広げ、後方へ身を引いた。
白い切っ先が外套を掠める。
着地したところへ〈ヴリトラ〉が追ったが、大鎌の柄に止められた。
「先ほどより遅い」
「だったら、さっさと仕留めてみろよ」
烏廻は〈ヴリトラ〉を押し込みながら、右の〈インドラ〉を振るう。
タナトスは大鎌を回転させ、二本の剣をまとめて外へ弾いた。
その動きに合わせて黒い翼が開く。
羽ばたきが起こした風に押され、烏廻の足が地面から僅かに離れた。
大鎌の石突が胸元へ伸びる。
〈インドラ〉を差し入れて受けたものの、衝撃を殺しきれず、烏廻は土の上を滑った。
左手の〈ヴリトラ〉が僅かに下がる。
握れないわけではない。だが、先ほど受けた傷の影響で、左腕は思うように力が入らなかった。
タナトスの視線が、その腕へ向く。
「まだ残っているな」
「嫌なところばっか見てやがる」
「弱った箇所を狙うのは当然だ」
「そういう真面目な返しをしてるから、話が弾まねえんだよ」
烏廻は笑い、二本の剣を構え直した。
杉林の奥で、ケルベロスの咆哮が途切れる。
続いて、空気を押し潰すような轟音が響いた。
タナトスがそちらへ視線を向ける。
ほんの一瞬だった。
烏廻は〈インドラ〉を投げた。
回転する白い剣が、タナトスの胸へ真っ直ぐ飛ぶ。
「――っ」
大鎌が跳ね上がり、〈インドラ〉を弾いた。
白い剣が暗い杉林へ飛んでいく。
その時には、烏廻はタナトスの懐へ入っていた。
左手にあった〈ヴリトラ〉を手放す。
落ちかけた柄を右手で掴み、逆袈裟に振り上げた。
狙いは胴ではない。
逃げるたびに間合いを外してきた、黒い翼。
タナトスが大鎌を戻そうとする。
だが、〈インドラ〉を弾いた刃はまだ外へ流れていた。
「今度は逃がさねえよ」
漆黒の刃が、黒い翼へ振り抜かれた。
牙の隙間へ白い靄が集まり、周囲の空気が急速に冷えていく。
帝は退かなかった。〈天ノ叢雲〉を握る右手とは反対の手を前へ向ける。
「【エア・ウォール】」
斜めに立ち上がった風の壁へ、凍てつく息が叩きつけられた。
正面から押し返すのではない。風の流れに沿って逸らされた冷気が、地面を這いながら中央の首の足元へ流れ込む。濡れた土が白く凍り、踏み出しかけた前脚が滑った。
巨体の均衡が崩れる。
帝はその隙を逃さず、左の首へ踏み込んだ。
横から噛みついてきた牙を〈天ノ叢雲〉の腹で受け、刀を傾けながら外へ流す。牙が地面へ突き刺さったところで首の側面へ回り、黒い体毛の上から刃を走らせた。
浅い。
だが、傷口から黒い靄が滲み出す。
追撃しようとした帝の頭上へ、中央の顎が落ちてきた。
帝は身を沈め、その下を滑るように抜ける。背後で牙が噛み合い、硬い音が響いた。
「考えている以上に、よくできているね」
三つの首は、ただ別々に襲っているわけではない。
中央が正面から押し込み、左が逃げ道を狭め、右が冷気で足場を奪う。どれか一つへ意識を向ければ、残る二つが必ず動く。
先ほど烏廻から聞いた通りだった。
帝が距離を取ると、ケルベロスもすぐには追ってこなかった。低く身を伏せ、六つの瞳でこちらの動きを窺っている。
斬撃は通る。魔法も効く。
しかし、今しがた裂いた首の傷には黒い靄が集まり、既に傷口の半分ほどを塞いでいた。
どういう仕組みで治っているのかは分からない。
少なくとも、同じ場所を一度や二度斬った程度では止められないらしい。
中央の首が吠えた。
右の首が大きく外側へ開き、左の首は反対側から帝を挟み込む。先ほどまでと並びが違う。こちらが三つの役割を読んだと見て、攻め方を変えたのだろう。
「獣にしては賢いじゃないか」
三方向から巨体が迫る。
帝の身体を、足元から巻き上がった風が包んだ。
制服の裾がはためく。
中央の牙が届く直前、帝は地面を蹴った。右へ逃げると見せかけ、踏み出した足で土を強く蹴り直す。風に押された身体が鋭く切り返し、左の首の内側へ潜り込んだ。
顎の下へ〈天ノ叢雲〉を振り上げる。
左の首が仰け反った。
帝は止まらない。傾いた首を足場にして駆け上がり、三つの首が分かれる付け根へ着地した。
中央と右の首が同時に振り向く。
だが、互いの頭が邪魔になり、帝へ噛みつけない。
「大きければいいというものでもないようだね」
振り回された右の首を跳んでかわす。
そのまま巨体の背を走り、前脚の関節へ左手を向けた。
「【ウィンド・ランス】」
一点へ圧縮された風が、黒い体毛を突き破った。
前脚の関節が内側へ折れ、ケルベロスの身体が大きく沈む。帝は背から飛び降り、着地と同時に傷口へ刀を振り抜いた。
二つの攻撃が重なり、前脚から黒い血が噴き出す。
巨体が地面へ倒れ込んだ。
巻き上がった土煙の向こうで、三つの首が怒りに満ちた声を上げる。
帝はすぐに距離を取った。
倒れたからといって、終わったとは思っていない。
案の定、前脚の傷へ黒い靄が集まり始める。裂けた肉がゆっくりと繋がり、折れた関節も元の向きへ戻っていく。
「本当に、きりがないね」
口ではそう言いながらも、帝は〈天ノ叢雲〉を下ろさなかった。
離れた杉林から、刃のぶつかる音が聞こえる。
烏廻と大鎌の男の戦いも続いている。
帝は、ケルベロスの傷が塞がる理由を知らない。いつまで再生を続けられるのかも、その方法を断つ手段も分からなかった。
それでも、自分が何をすべきかは分かっている。
この番犬を、烏廻のもとへ戻さない。
倒し切れなくても、ここへ引きつけておけばいい。その間に烏廻が大鎌の男を倒せば、状況は動く。
「僕に時間稼ぎをさせるとは、烏廻先生も随分と贅沢なことを考える」
以前の自分なら、そんな役目を引き受けようとはしなかっただろう。
勝つのは自分であり、自分が一番でなければ意味がない。他人の勝利を支えるために剣を振るうなど、考えもしなかった。
その思い込みを壊した男は、今も屋敷の中にいる。
そして、その男が助けようとしている少女を、帝は一度、自分の言葉で傷つけた。
謝罪をしたから終わりではない。
だから助けに来たのだと、烏廻へ素直に話すつもりもなかったが。
「まったく。君たちと関わると、調子が狂うよ」
前脚の傷が塞がる。
ケルベロスが立ち上がり、三つの頭を大きく振った。
中央の首が帝を睨みつける一方で、左の首だけが杉林の奥へ顔を向ける。遠くで金属音が響くたび、耳がそちらへ動いていた。
次の瞬間、巨体が向きを変えた。
「おっと」
帝は先回りし、進路へ立つ。
「そちらへは行かせないよ」
中央の首が牙を剥き、正面から飛びかかってきた。
帝は横へ逃げず、真正面から踏み込む。
上顎が頭上を通り過ぎるぎりぎりまで引きつけ、身体を沈めて懐へ潜る。通り抜けざま、右の前脚へ刃を走らせた。
巨体が踏みとどまり、左の首が帝を追う。
振り向きざまに刀で受けると、牙と刃の間で火花が散った。押し込まれた帝の靴が、湿った土へ深い跡を刻む。
「力比べは、趣味ではないんだけどね」
両腕で支えず、押される方向へ自ら一歩踏み込む。
不意に抵抗を失った左の首が勢い余って前へ出た。帝は身体を捻り、その顎を中央の首へ向けて流す。
二つの頭が正面からぶつかった。
鈍い音が響き、ケルベロスの動きが止まる。
右の首が口を開いた。
白い靄が集まる。
帝は左の首の下を抜け、中央の首と位置を入れ替えた。
吐き出された冷気が、帝ではなく中央の首の肩口へ浴びせられる。黒い体毛が白く凍りつき、前脚の動きが目に見えて鈍った。
三つの喉から、互いを責めるような唸り声が上がる。
「役割が決まっているからこそ、崩れた時は脆い」
帝は凍りついた肩へ踏み込み、〈天ノ叢雲〉の柄頭を叩きつけた。
氷に細い亀裂が走る。
続けて刃を振り抜くと、凍った体毛ごと肩口が大きく裂けた。
ケルベロスが巨体を振り回す。
帝は飛び退いたものの、後脚が横から迫っていた。避けきれないと判断し、刀の腹を身体の前へ差し入れる。
重い衝撃が全身を襲った。
「くっ……!」
帝の身体が地面を跳ね、杉の幹へ背中から叩きつけられる。
肺から空気が押し出された。
視界が一瞬だけ揺れる。
ケルベロスは待たない。前脚の傷も、凍って裂けた肩も塞がり切っていないまま、地面を蹴った。
三つの顎が一斉に迫る。
帝は痛む背を幹から離した。
呼吸を整える暇はない。
身体へ纏わせた風を足元へ集め、一気に上空へ跳ぶ。中央の顎が空を噛み、左右の首が遅れて帝を追った。
帝は空中で身を翻す。
眼下では、三つの首がこちらを見上げている。飛び上がった自分を追うために前へ集まり、巨体の重心も前脚へ偏っていた。
狙うなら今だ。
〈天ノ叢雲〉を逆手に持ち替え、切っ先を真下へ向ける。
「【ダウンバースト】」
上空から、巨大な風の塊が落ちた。
轟音とともに三つの頭が押し下げられる。
ケルベロスは四肢を踏ん張ろうとした。だが、傷ついた前脚が先に折れ、巨体の前半分が地面へ叩きつけられた。
さらに風圧が背を押し潰す。
土が円形に抉れ、杉の枝葉が激しく揺れた。三つの顎が地面へ沈み、咆哮さえ風の音に呑み込まれる。
帝は風が弱まると同時に着地した。
膝が僅かに沈む。
今の一撃で魔力を大きく使った。背中の痛みも消えてはいない。
それでも、倒れたケルベロスと烏廻のいる方角の間へ立つ。
土へ沈んだ巨体が動いた。
傷口へ、再び黒い靄が集まっていく。
「まだ立つつもりかい?」
三つの喉から、低い唸り声が返ってくる。
帝は息を整えながら、〈天ノ叢雲〉を構え直した。
「構わないよ。君が何度立とうと――ここから先へは、一歩も通さない」
◆
銀色の大鎌が、烏廻の首を狙って薙ぎ払われた。
烏廻は上体を反らして刃をかわし、〈インドラ〉を斜め下から振り上げる。
タナトスは翼を広げ、後方へ身を引いた。
白い切っ先が外套を掠める。
着地したところへ〈ヴリトラ〉が追ったが、大鎌の柄に止められた。
「先ほどより遅い」
「だったら、さっさと仕留めてみろよ」
烏廻は〈ヴリトラ〉を押し込みながら、右の〈インドラ〉を振るう。
タナトスは大鎌を回転させ、二本の剣をまとめて外へ弾いた。
その動きに合わせて黒い翼が開く。
羽ばたきが起こした風に押され、烏廻の足が地面から僅かに離れた。
大鎌の石突が胸元へ伸びる。
〈インドラ〉を差し入れて受けたものの、衝撃を殺しきれず、烏廻は土の上を滑った。
左手の〈ヴリトラ〉が僅かに下がる。
握れないわけではない。だが、先ほど受けた傷の影響で、左腕は思うように力が入らなかった。
タナトスの視線が、その腕へ向く。
「まだ残っているな」
「嫌なところばっか見てやがる」
「弱った箇所を狙うのは当然だ」
「そういう真面目な返しをしてるから、話が弾まねえんだよ」
烏廻は笑い、二本の剣を構え直した。
杉林の奥で、ケルベロスの咆哮が途切れる。
続いて、空気を押し潰すような轟音が響いた。
タナトスがそちらへ視線を向ける。
ほんの一瞬だった。
烏廻は〈インドラ〉を投げた。
回転する白い剣が、タナトスの胸へ真っ直ぐ飛ぶ。
「――っ」
大鎌が跳ね上がり、〈インドラ〉を弾いた。
白い剣が暗い杉林へ飛んでいく。
その時には、烏廻はタナトスの懐へ入っていた。
左手にあった〈ヴリトラ〉を手放す。
落ちかけた柄を右手で掴み、逆袈裟に振り上げた。
狙いは胴ではない。
逃げるたびに間合いを外してきた、黒い翼。
タナトスが大鎌を戻そうとする。
だが、〈インドラ〉を弾いた刃はまだ外へ流れていた。
「今度は逃がさねえよ」
漆黒の刃が、黒い翼へ振り抜かれた。

