魔力の少ない魔法使い二年生編

 ティシポネの鞭が、京子の足元を抉った。
 白砂が跳ね上がるより早く、京子は右へ踏み込む。続けて振るわれた二本目を〈スキュラ〉で受け流し、そのままティシポネとの距離を詰めた。
「懐に入れば、その鞭も使えないでしょ!」
「そう思う?」
 ティシポネは短く持った鞭の柄で〈スキュラ〉を受け止める。もう片方の手が京子の肩へ伸びたが、触れる寸前、横合いから水弾が飛んできた。
 顔を狙った一発だけを首を傾けてかわし、残る二発を後ろへ跳んで避ける。
「京子、追いすぎですわ!」
「分かってる!」
 涼子へ言い返しながら、京子もすぐには追わずに足を止めた。
 入れ替わるように雨宮が前へ出る。
「【水狐】!」
 〈リヴァイアサン〉から放たれた水圧の斬撃が、着地したばかりのティシポネへ迫った。一本目の鞭が水の刃を正面から叩き、軌道を逸らす。その間に二本目が雨宮へ向けて伸びてきた。
 雨宮は上体を傾け、頬の横を通り過ぎた鞭をやり過ごす。
 避けたはずの先端が、背後で鋭く曲がった。
「俊、後ろ!」
 京子の声に、雨宮は考えるより先に身を沈めた。頭上を戻ってきた鞭が掠め、眼鏡の端を弾く。
 亀裂の入っていた右のレンズが砕け、細かな破片が白砂へ落ちた。
「……眼鏡まで狙うかね」
 雨宮は残った左のレンズ越しにティシポネを睨む。
「見えない方が楽に終われるでしょう?」
「余計なお世話だ」
 ティシポネが両腕を開く。
 二本の鞭が左右から大きく弧を描き、三人をまとめて囲い込むように迫ってきた。
「【ウォーター・ウォール】!」
 涼子の前に水壁が立ち上がる。正面から迫った鞭が食い込み、表面を大きく波打たせた。
 もう一本は京子が受ける。棘の生えた鞭と〈スキュラ〉が擦れ合い、京子の身体が横へ押された。
「くっ……重いって言ってるでしょ!」
 足を滑らせながらも、剣を離さない。
 ティシポネの注意が二人へ分かれた隙に、雨宮は正面から踏み込んだ。
 脇腹へ一閃。
 刃は届いたが、浅い。
 ティシポネは身体を捻って傷を最小限に抑えると、至近距離から雨宮の胸元を蹴り飛ばした。
「がっ……!」
 雨宮の身体が白砂の上を転がる。
 すぐに起き上がろうとしたものの、腕に力が入らない。何度も地面へ叩きつけられた身体は、とっくに限界を越えていた。
「俊!」
 京子が駆け寄ろうとする。
「来るな!」
 雨宮は〈リヴァイアサン〉を杖代わりにして立ち上がった。
「そっちはそっちの相手をしろ! まだ終わってねえ!」
「でも――」
「一人でどうにかするなんて言ってねえよ」
 雨宮は口元の血を袖で拭い、ティシポネへ剣を向ける。
「俺の分まで前を頼む」
 京子が一瞬だけ目を見開いた。
 以前の雨宮なら、二人を下がらせて自分が前へ出ていた。京子もそれが分かっているのだろう。何も言わず雨宮を見つめたあと、〈スキュラ〉を握り直した。
「……最初から、そう言いなさいよ」
 京子がティシポネへ向き直る。
「涼子。俊が倒れる前に決めるわよ」
「言われるまでもありませんわ」
 涼子も水壁を解き、〈カリュブディス〉を構え直した。
「誰が倒れるって?」
「立っているのがやっとの人ですわ」
「お前ら、あとで覚えてろよ……」
 軽口を交わしている間にも、ティシポネの脇腹では先ほどの傷が塞がり始めていた。
 だが、遅い。
 傷口はまだ残り、黒に近い赤が肌を伝っている。最初なら、もう痕跡すら消えていたはずだ。
 雨宮だけでなく、京子と涼子もそれに気づいた。
「あれが、俊の言っていた……」
「ああ。もう何度でもってわけにはいかねえみたいだ」
「だから何?」
 ティシポネが低く笑う。
「あなたたちより先に力尽きると、本気で思っているの?」
 鞭が鳴る。
 狙われたのは雨宮ではなく、後方にいる涼子だった。
 二本が別々の方向から水無涼子へ迫る。涼子は一方へ水壁を出したが、反対側までは防げない。
「させない!」
 京子が間へ割り込み、もう一本を〈スキュラ〉で受け止めた。
 だが、ティシポネはそのまま腕を振り抜く。鞭に押し切られた京子の身体が宙へ浮き、涼子の前へ投げ出された。
「京子!」
「っ……大丈夫!」
 京子は受け身を取り、片膝をついたまま剣を構える。
 雨宮も一歩踏み出しかけたが、京子の目を見て足を止めた。
 助けに行く必要はない。
 そう判断した直後、ティシポネがこちらへ距離を詰めてきた。
「今度はあなた」
「忙しい奴だな」
 雨宮は最後に残していた魔力を解放した。
 消えかけていた水の衣が再び全身を包み、蒼い流れが四肢に沿って巡る。これを使い切れば、もう一度纏い直す余力はない。
 それでも、今は出し惜しみをしている場合ではなかった。
 ティシポネが右の鞭を振るう。
 雨宮は速度を上げ、正面からその内側へ入った。鞭が届かない距離まで一気に踏み込む。
 だが、ティシポネは慌てない。
 空いた左手が雨宮の首へ伸びる。
 少し前にも、同じように掴まれた。そのまま地面へ叩きつけられ、締め上げられている。
 雨宮は身体を止めなかった。
 白い指が首へ触れる寸前、横から〈スキュラ〉が振り下ろされた。
「同じことを何度もさせると思った?」
 京子の剣を、ティシポネは左の鞭で受ける。
 金属同士がぶつかり、火花が散った。
 雨宮は空いた脇腹へ〈リヴァイアサン〉を振り抜く。先ほどと同じ傷を狙った刃を、ティシポネは身体を反らしてかわした。
 そこへ、水槍が背後から迫る。
「――っ」
 完全には避けられない。
 【アクア・ランス】がティシポネの右肩を貫き、後ろへ押し出した。
「ようやく入りましたわね」
 涼子が杖を向けたまま言う。
 ティシポネは肩に刺さった水槍を鞭で砕いた。傷口がゆっくりと閉じ始めるが、その速度は脇腹よりさらに遅い。
 雨宮は息を吐き、二人へ聞こえる声で言った。
「涼子。一番でかいのを頼めるか」
「……時間が必要ですわ」
「どれくらいだ」
「一分」
「長いな」
「仕方ないでしょう、とっておきですもの」
「分かった。一分だな」
 雨宮は京子を見る。
「聞いたな?」
「この女を一分間、ここに釘付けにすればいいんでしょ」
「できるか?」
 京子は不満そうに眉を寄せた。
「誰に聞いてるのよ」
 涼子が二人から距離を取り、〈カリュブディス〉を両手で握る。杖の先端に青い魔法陣が浮かび、庭園に残る水気が僅かに揺れ始めた。
「……果てなき海よ。巡る潮よ。汝が流れを幾筋にも分かち、我が声に従え――」
 詠唱が始まる。
 ティシポネも、涼子の周囲へ集まる魔力に気づいた。
「させると思う?」
「だろうな」
 雨宮と京子が同時に動く。
 ティシポネは二人を迎え撃たず、後ろへ跳んだ。距離を取りながら鞭を伸ばし、詠唱中の涼子を直接狙う。
 一本目を京子が剣で弾く。
 二本目には雨宮が〈リヴァイアサン〉を差し入れた。鞭が刃へ巻きつき、棘が残っていた水の衣を削る。
 戦場を横切るように、涼子の詠唱が続く。
「――天を渡り、地を這い、六方の虚を満たせ。逃れ得ぬ輪となり、幾重にも巡れ――」
 ティシポネが強く引いた。
 雨宮の身体が前へ持っていかれる。
「俊!」
「構うな、そっちを離すな!」
 京子の方でも、弾いたはずの鞭が〈スキュラ〉へ絡みついていた。二人とも武器ごと引かれ、白砂の上を滑っていく。
 このままでは、ティシポネへ引き寄せられる。
 雨宮は逆らわなかった。
 鞭に引かれる勢いを利用し、自分から大きく踏み込む。
「何――」
 ティシポネの目が僅かに見開かれた。
 雨宮は巻きついた鞭を〈リヴァイアサン〉から外さないまま、その懐へ身体を滑り込ませる。肩からぶつかり、二人まとめて白砂の上へ倒れ込んだ。
 すぐにティシポネの手が雨宮の顔へ伸びる。
 横から飛び込んできた京子が、その腕を〈スキュラ〉の腹で押さえつけた。
「捕まえた!」
「離しなさい!」
 ティシポネが身体を起こそうとする。
 雨宮は残った水の衣を腕へ集め、両手で右腕を押さえ込んだ。京子も反対側から左腕へ体重をかける。
 二人がかりでも、完全には止まらない。
 ティシポネの腕が僅かずつ持ち上がる。鞭の棘が雨宮の腕へ食い込み、水の衣を越えて皮膚を裂いた。
「――重なりし流れよ、深き淵へと変じ、我が示す一点へ集え――」
「俊、京子! 離れてくださいまし!」
 待っていた声が響く。
「今だ、京子!」
 二人は同時にティシポネから手を離し、左右へ飛んだ。
 ティシポネを囲むように、いくつもの青い魔法陣が浮かんでいた。前後左右だけではない。頭上にも、足元にも。涼子が視認するあらゆる場所から、水が溢れ出している。
「――廻れ、廻れ」
 ティシポネが起き上がろうとする。
 その足元へ、雨宮が最後の魔力を叩き込んだ。白砂に染み込んでいた水が絡みつき、両足の動きを一瞬だけ止める。
 魔法陣から放たれた水流が、一斉にティシポネへ押し寄せる。互いにぶつかり合った水はその身体を中心に渦を巻き、瞬く間に巨大な水の塊へ変わった。
「全てを呑み込み、その底へ沈めよ――【メイルストローム】!」
 渦の回転が一気に速まった。
 幾重もの水流がティシポネを巻き込みながら内側へ収束し、激しい水圧を一点へ叩きつける。次の瞬間、耐え切れなくなった水の塊が弾け、白砂を押し流しながら庭園の端まで広がった。
 雨宮と京子も、余波に足を取られて地面へ転がる。
 それでも、雨宮はすぐに顔を上げた。
「……どうだ」
 水飛沫が月明かりの下へ落ちていく。
 抉れた白砂の中央で、ティシポネは片膝をついていた。濡れた黒髪が顔へ張りつき、二本の鞭は手から離れて地面へ落ちている。
 肩や脇腹だけではない。腕にも脚にも傷が残り、どれも塞がる様子はなかった。
 それでも、ティシポネは立ち上がろうとする。
 片足へ力を込めたところで身体が傾き、そのまま両手を地面についた。
「……まだ、やるのかよ」
 雨宮は身体を引きずるようにして近づき、〈リヴァイアサン〉の切っ先をティシポネへ向けた。
 腕が震えている。剣を持ち上げているだけでも、残った力を使い切りそうだった。
 京子も〈スキュラ〉を杖にして立ち、雨宮の横へ並ぶ。魔法を放ち終えた涼子は、〈カリュブディス〉へ寄りかかりながら荒い呼吸を整えていた。
 三人とも、次の一撃をまともに放てる状態ではない。
 だが、ティシポネも同じだった。
 地面へついた指が動く。鞭へ伸ばそうとしたのかもしれない。しかし、腕は数センチ持ち上がっただけで再び落ちた。
「……私の負けね」
 ティシポネが小さく笑った。
「随分、あっさり認めるんだな」
「指一本、まともに動かせないもの。強がっても仕方がないでしょう?」
 真紅の目が、雨宮から京子、涼子へと順番に向けられる。
「一匹ではしつこいだけだったけれど、三匹揃うと厄介ね」
「だから一匹って数えるなって言っただろ」
 雨宮は力の抜けた息を吐き、〈リヴァイアサン〉を下ろした。
「どちらでも同じよ」
「全然違うっての」
 反論した声にも、もう力は残っていなかった。
 涼子が〈カリュブディス〉を小さく振る。庭園に残った水がティシポネの周囲へ集まり、幾重もの輪となって手首と足首を地面へ固定した。
「念のためですわ」
「好きにすれば」
 ティシポネは抵抗する様子もなく、その場へ身体を横たえた。
 雨宮が一歩下がったところで膝が崩れる。倒れる前に、左右から腕を掴まれた。
「ちょっと俊!」
「無茶をしすぎですわ!」
 京子と涼子が、二人がかりで雨宮を支える。
「……助かった」
 雨宮が素直に言うと、二人は一瞬だけ黙った。
「何だよ」
「別に」
 京子が顔を逸らす。
「俊でも、きちんとお礼が言えるのですわね」
「お前ら、俺を何だと思ってんだ」
「勝手に一人で無茶をする馬鹿」
「人のことを守っているつもりで、心配ばかりかける大馬鹿者ですわ」
「……悪かったよ」
 今度こそ、二人とも何も言わなかった。
 離れた屋敷の方角から、低い衝撃音が響いてくる。戦っているのは自分たちだけではない。
 雨宮は二人に支えられながら、音のした方へ顔を向けた。
「戻るぞ」
「その身体で?」
「ここで寝てるよりはいいだろ」
「よくありませんわ。まず傷を――」
「分かってる。歩きながら考える」
「何も分かってないじゃない!」
 京子の声が、荒れ果てた庭園に響いた。
 その声を聞きながら、雨宮は僅かに笑った。
 三十分、一人で守り続けた庭園。その先へティシポネを一歩も通すことなく、三人はようやく戦いを終えた。