魔力の少ない魔法使い二年生編

 桜色の矢が、狼型の魔獣の前脚を射抜いた。
 体勢を崩した魔獣が床へ転がる。その脇を抜けようとした蜘蛛型へ二射目が飛び、長い脚の付け根へ突き刺さった。
 それでも、魔獣たちの足は止まらない。
「はぁ……っ、はぁ……」
 橘の呼吸は、少し前より明らかに荒くなっていた。
 黒い亀裂から現れる魔獣を、ずっと一人で抑え続けている。肩口の裂けた制服には血が滲み、弓を引く指も僅かに震えていた。それでも狙いだけは外さず、こちらへ近づく個体から順に矢を放っている。
 けれど、一射で止められるのは一匹だけだ。
 前方から二匹の狼型が距離を詰め、右手の柱を伝って蜘蛛型が回り込む。さらに頭上では、骨のような翼を持つ鳥型が旋回していた。
「――【散華】!」
 放たれた一本の矢が途中で分かれ、扇状に広がりながら迫る魔獣たちへ殺到する。狼型の肩や蜘蛛型の脚に光の矢が突き刺さり、群れの動きが一度は乱れた。
 だが、最初に放った時ほど深くは刺さっていない。矢を受けた狼型の一匹が、僅かによろめいただけで再び床を蹴った。
(アース、橘が!)
『見えてる』
 アースも助けに向かおうとした。俺の身体が橘の方へ半歩踏み出す。
 その行く手を、ハデスが塞いだ。
「どこへ行くつもりじゃ?」
「邪魔だ」
 アースが振るった拳を、ハデスは首を傾けるだけでかわす。続けて腹部へ打ち込んだ左も、着物の袖を翻して後ろへ退かれた。
「余との戦いの最中に、他へ気を取られるのは感心せんのう」
「だったら、そこどけ」
「嫌じゃと言うておろう」
 ハデスの掌がこちらへ向く。
 アースはすぐさま身体を沈め、頭上を通り過ぎた衝撃を避けた。背後で床石が砕ける。低い姿勢から足を払ったものの、ハデスは軽く跳んでそれもかわし、俺たちと橘の間へ着地した。
 こいつは、アースを橘の方へ行かせるつもりがない。
 ほんの僅かな時間でいい。魔獣を押し戻し、橘が態勢を整えるまでの時間さえ作れれば――そう思っても、ハデスから目を離して動く隙がなかった。
 橘の正面では、二匹の狼型が左右へ分かれている。
 片方へ矢を放てば、もう片方を止められない。橘は後ろへ下がろうとしたが、柱を回り込んだ蜘蛛型が退路を塞いだ。頭上の鳥型も翼を畳み、橘目掛けて降下を始める。
「くっ……!」
 橘が狼型の一匹へ矢を放つ。
 肩を射抜かれた狼型が横へ倒れる一方で、もう一匹が大きく跳び上がった。橘は次の矢を作ろうとしたが、間に合わない。
(橘!)
 乾いた破裂音が、大広間に響いた。
 橘へ飛びかかっていた狼型の頭が横へ弾かれ、その巨体が狙いを外して床へ落ちる。間を置かず、二発目の音が鳴った。上空から迫っていた鳥型の翼を何かが貫き、勢いを失った身体が橘の手前を滑っていく。
「……え?」
 橘だけでなく、俺も音のした方へ意識を向けた。
 大広間の入口。その奥に続く廊下で、黒崎が長大な狙撃銃を構えていた。銃口から細い煙が上がっている。
「……立てるか、橘」
「黒崎君……?」
「話は後だ。まだ来る」
 黒崎の視線はスコープから外れない。
 蜘蛛型が橘へ脚を伸ばす。それより先に、入口から飛び出した人影が両者の間へ滑り込んだ。
「させない!」
 五十嵐が両手の〈猫又〉を交差させ、振り下ろされた脚を受け止める。爪と硬い外殻が擦れ合い、耳障りな音が響いた。
「このっ……!」
 力任せには押し返さない。五十嵐は身体を横へずらしながら脚を受け流すと、空いた胴へ爪を振り抜いた。蜘蛛型の身体が傾き、橘から離れる。
 そこへ淡い光を放つ魔法陣が広がった。
「【アクア・ランス】」
 静かな声とともに、水の槍が横合いから蜘蛛型へ突き刺さる。巨体はそのまま床を滑り、後続の狼型を巻き込んで止まった。
 入口近くに立つティオナが、大杖〈ケルキオン〉を両手で構えていた。小さな身体とは釣り合わないほど大きな杖だが、その先端は少しも揺れていない。
「凛ちゃん、ティオナちゃんまで……」
 橘が呆然と二人の名を呼ぶ。
「遅くなってごめん。大丈夫?」
 五十嵐は魔獣から視線を外さず、橘の前へ立った。
「う、うん。でも、どうしてみんなが……」
「ルイ君から連絡をもらったの。サラが危ないって」
 サラの名前を口にした時だけ、五十嵐の声から明るさが消えた。
「詳しい話は聞いてないけど、助けに来たんでしょ?」
「……うん」
「だったら、私たちも手伝う」
 五十嵐が〈猫又〉を構え直す。
 橘は何か言おうとしたものの、すぐに前を向いた。黒い亀裂は今も閉じていない。そこから新たな狼型が姿を現し、先ほど倒れた魔獣たちも起き上がろうとしている。
「……右から来る」
 ティオナの短い声が飛ぶ。
 橘が右へ弓を向けると、柱の陰から鳥型が飛び出した。同時に黒崎の銃声が響き、鳥型の片翼が跳ね上がる。飛ぶ力を失って落ちてきたところへ、橘の矢が突き刺さった。
「助かった、黒崎君!」
「……次が来る」
 礼への返事よりも早く、黒崎は銃口を左へ動かしていた。
 三発目の弾丸が狼型の前脚を撃ち抜く。走る勢いのまま床へ倒れ込んだ魔獣を、五十嵐が跳び越えた。
「まずは、前の数を減らす!」
 五十嵐は着地と同時に身体を捻り、立ち上がろうとした狼型の肩へ〈猫又〉を叩き込む。深追いはせず、別の一匹が横から迫るとすぐに爪を引き抜いて距離を取った。
 その退路を追わせないように、ティオナが杖を振る。
「【アイス・ニードル】」
 幾本もの氷の針が床すれすれを走り、狼型の足元へ突き刺さった。動きを止めたところへ橘の矢が飛び、肩口を正確に射抜く。
 三人が来たからといって、魔獣の群れが急に弱くなったわけではない。
 五十嵐が前へ出過ぎれば、左右から囲まれる。ティオナの魔法も、味方を巻き込まないよう範囲を絞る必要がある。黒崎は後方から狙える位置を保っているが、柱や動き回る仲間が射線を塞ぐこともあった。
 それでも、橘一人の時とは違う。
 正面を五十嵐が引き受け、抜けようとする魔獣を橘が射る。頭上や死角から迫る個体は黒崎が止め、その間にティオナが次の魔法を放つ場所を選んでいた。
「橘さん、少し下がって!」
 五十嵐が狼型の爪を〈猫又〉で受けながら叫ぶ。
「でも、凛ちゃんが――」
「大丈夫! ずっと一人で戦ってたんでしょ。少しくらい頼ってよ!」
「……分かった」
 橘は迷いながらも二歩下がり、乱れていた呼吸を整えた。弓は下ろさない。五十嵐の肩越しに狙いをつけ、踏み込もうとした蜘蛛型の脚を射抜いた。
「ありがとう!」
「こっちこそ!」
 五十嵐は蜘蛛型の内側へ潜り込み、低い姿勢から爪を振り上げる。外殻を裂くには至らなかったが、脚の一本を大きく跳ね上げ、その場に留めた。
「……離れて」
 ティオナの声を聞くと、五十嵐はすぐさま後ろへ跳ぶ。
「【ライトニング】」
 杖の先から放たれた雷が蜘蛛型へ走り、触れた脚を伝って全身を包んだ。魔獣が動きを止めた隙に、橘が二本の矢を続けて放つ。
 まだ倒し切れてはいない。それでも、こちらへ押し寄せていた魔獣の流れは確かに止まっていた。
「ほう。また増えたか」
 ハデスが、どこか楽しそうに三人を眺める。
「余所見すんなって言ったよな」
 アースの拳が顔の横を掠めた。ハデスは一歩退き、乱れた前髪を指で払う。
「お主も見ておったではないか」
「オレはいいんだよ」
「勝手な奴じゃのう」
 そう言いながらも、ハデスは不機嫌そうには見えなかった。むしろ増えた相手を眺めて、何が起きるのか待っているようにも見える。
 アースが小さく舌打ちした。
(どうした?)
『……やっぱり妙だな』
(何が?)
『まだ分からねえ。今はこいつに集中する』
 今度も、それ以上は話さなかった。
 ハデスの考えていることは俺にも分からない。増援が現れたというのに、焦るどころか戦況を面白がっているようにしか見えなかった。
 ただ、今はその理由を考えている場合ではない。
「桐宮君!」
 背後から橘の声が届く。
「こっちは大丈夫! 私たちで抑えるから!」
 アースが一瞬だけ後方へ目を向けた。
 五十嵐が二匹の狼型を引きつけ、橘がその間を抜けようとする個体へ矢を放っている。ティオナは全体を見渡せる位置から杖を構え、黒崎の銃声が一定の間隔で響いていた。
 押し返せてはいない。黒い亀裂も残っており、魔獣の数が尽きたわけでもなかった。
 それでも、橘が一人で崩れかけていたさっきまでとは違う。四人が役割を分けた今なら、すぐに押し切られることはない。
『だそうだ』
(ああ)
 アースがハデスへ向き直る。
 今まで僅かに残していた、背後へ動くための意識が消えた。肩の力を抜き、両手を下げる。構えを解いたようにも見えたが、違う。どこへでも動けるように、余計な力を抜いただけだ。
 その変化を見て、ハデスが目を細めた。
「これで、余だけを見ていられるというわけか」
「最初から、そのつもりだったんだけどな」
「嘘をつけ。先ほどまで、何度も後ろを気にしておったじゃろう」
「あいつらが来たんだ。もう気にする必要はねえよ」
「随分と信用しておるのう」
「オレじゃなくて、こいつがな」
 アースが自分の胸元を親指で指す。
 勝手に俺のせいにされたような気もするが、否定するつもりはなかった。
 五十嵐も、ティオナも、黒崎も、サラを助けるためにここまで来てくれた。橘だって、限界が近い中で一度も逃げようとしなかった。
 今度は俺たちが、目の前の相手をどうにかする番だ。
「さて、どうする?」
 ハデスが両手を緩く広げた。
「余を捕まえるのではなかったか?」
「言われなくてもやる」
 アースが床を蹴る。
 これまでと同じ、正面からの踏み込みに見えた。ハデスもそう判断したのか、右拳の軌道から外れるように身体を左へ流す。
 だが、アースは拳を最後まで振らなかった。
 右足を踏み込んだまま急停止し、逃げたハデスの方へ左肩をぶつける。予想より近い位置からの攻撃に、ハデスの反応が僅かに遅れた。
「むっ」
 肩が胸元へ当たり、ハデスの身体が一歩分だけ後ろへ押される。
 アースは離れず、そのまま右の拳を振り上げた。
 今度は、ハデスも避けなかった。
 小さな掌が拳を正面から受け止める。衝撃で二人の足元に細い亀裂が走ったが、ハデスの身体はそれ以上下がらない。
「ようやく捕まえたな」
「捕まったのではない」
 サラの顔で、ハデスが楽しそうに笑う。
「この身体にも、そろそろ馴染んできたところじゃ」
 受け止められた拳を通して、先ほどまでとは違う力が返ってきた。
 ハデスはもう、避け続けるだけではない。
 アースもそれを理解したのだろう。押し返されるより先に拳を引き、間近から次の一撃を放つ。
 ハデスの掌がそれを迎え撃った。
 背後では、矢と銃声、魔法の弾ける音が途切れずに響いている。
 魔獣を抑える四人と、ハデスへ攻め込む俺たち。膠着していた大広間の戦いが、再び大きく動き始めた。