魔力の少ない魔法使い二年生編

 どれくらい打ち合っただろうか。
 庭園の白砂は既に原型を留めていない。庭石は残らず砕け、生垣は薙ぎ倒され、地面には無数の抉り跡が走っている。
 その中央で、雨宮は肩で息をしていた。
「はぁ……はぁ……」
 制服は肩から胸にかけて裂け、そこから流れた血が乾いて黒く固まっている。眼鏡のレンズには罅が入り、右目の視界が僅かに歪んでいた。
 それでも、〈リヴァイアサン〉を握る手は緩んでいない。
「……しつこいのね」
 ティシポネが、数歩先に立っていた。
 衣服こそ切り裂かれているが、その下の肌には傷一つない。何度斬っても、何度貫いても、そのたびに塞がっていく。
「……そりゃ、どうも」
 雨宮は血の混じった唾を吐いた。
「褒め言葉として受け取っとくぜ」
「褒めていないわ」
 ティシポネは鞭を軽く鳴らした。
「呆れているの。もう三十分よ? あなた、いつまで付き合わせる気?」
「そっちが終わらせられねえだけだろ」
 雨宮は剣を構え直した。
「俺は最初から、ここから動く気はねえよ」
 ティシポネの真紅の目が、僅かに細まった。
 三十分。彼女はそう言った。
 雨宮にとっては、それが唯一の成果だった。あの女をこの庭から一歩も動かさず、三十分。麓へ下る石段には、まだ触れさせていない。
(……だが、そろそろまずいな)
 彼は内心で計算した。
 魔力は残り少ない。属性付加はもう一度張れるかどうか。腕の感覚も鈍り始めている。
 あと十分。持って十五分。
 その間に何かが変わらなければ、押し切られる。
「……もう一回だ」
 雨宮は両手で剣を構え直した。
「本当にしつこい」
 ティシポネが一歩、踏み出した。
 その瞬間、鞭が唸った。
 左右から、挟み込むように。避けるには足が重い。雨宮は〈リヴァイアサン〉を横に構え、正面から受けようとした。
 ――だが。
「【ウォーター・ウォール】ですわッ!」
 声が、庭の外から響いた。
 雨宮とティシポネの間に、分厚い水の壁が立ち上がる。
 鞭が激突した。棘が水を裂き、それでも完全には貫けず、勢いが殺される。
「……なに?」
 ティシポネが振り返った。
 崩れた生垣の向こう。
 二つの人影が、月明かりの中に立っていた。
「……嘘だろ」
 雨宮の口から、掠れた声が漏れた。
「俊! 無事!?」
「無事なわけないですわ、あの怪我を見なさい京子!」
 水無京子と、水無涼子。
「引き裂きなさい、〈スキュラ〉!」
「呑み込みなさい、〈カリュブディス〉!」
 二つの光が弾け、京子の手に牙のような長剣が、涼子の手に大渦を模した杖が握られる。
「お前ら……なんで、ここに」
「なんでって」
 京子が眉を吊り上げた。
「あんたが帰ってこないからでしょ!」
「連絡もなしに山奥へ行って、そのまま音信不通ですわよ? 心配して当然ですわ」
「いや、そうじゃなくて」
 雨宮は頭を掻きむしった。
「どうやってここまで来たんだよ! ここ、クロイツの里だぞ!」
「それは後で説明しますわ」
 涼子が杖を構えたまま答えた。
「今はそれどころではないでしょう?」
 その視線の先で、ティシポネが水の壁を打ち破った。
 飛沫が舞い、月光を弾いて散る。
「……増えたわね」
 真紅の目が、姉妹を捉えた。
「新しい玩具かしら」
「……っ」
 京子の肩が、僅かに震えた。
 当然だ。あの目を正面から浴びて、平然としていられる人間はいない。
「京子、下がれ!」
 雨宮が叫んだ。
「涼子もだ! こいつはお前らの手に負える相手じゃねえ!」
「またそれですの?」
 涼子が、呆れたように息を吐いた。
「……あ?」
「あの時も同じことを言いましたわね。『お前らを守りながらじゃ無理だ』と」
「そりゃ、事実だったからな」
「ええ、事実でしたわ」
 涼子は杖を掲げた。
「ですが、あの時とは違いますのよ」
 その瞬間、ティシポネの背後の空間が歪んだ。
「――【アクア・ランス】」
 死角からの水の槍。
 ティシポネは振り返りもせず、鞭を後ろへ薙いで叩き落とした。
「へえ」
 彼女は初めて感心したように言った。
「見えないところから撃つのね」
「ええ。私の目が届く場所なら、どこからでも」
 涼子は微笑んだ。だが、その額には汗が滲んでいる。
「……効いてませんわね」
「当たり前でしょ、あんな細い槍」
 京子が〈スキュラ〉を構え直した。
「俊、あいつの弱点は?」
「弱点は……」
 雨宮は歯を食いしばった。
「……ねえよ」
「はぁ!?」
「斬っても治る。刺しても治る。骨を折っても治る」
 彼は自分の言葉に苛立ちながら続けた。
「同じ場所を三回抉ったが、それでも治りやがった」
「……それ、詰んでません?」
「詰んでねえよ」
 雨宮は、そこで初めて笑った。
「治るまでに、時間がかかるようになってきてる」
「……え?」
「最初は一秒だった。今は三秒だ」
 彼はティシポネを睨んだ。
「無限じゃねえんだよ、あいつの再生も」
 その言葉に、ティシポネの表情が変わった。
 初めて、笑みが消えた。
「……よく見ているわね」
「三十分も付き合ってりゃな」
 雨宮は剣を構え直した。
 腕は重い。魔力も残り少ない。それでも、目だけは死んでいなかった。
「涼子、京子」
「なによ」
「悪いけど、力を貸してくれ」
 その言葉に、姉妹が同時に目を見開いた。
「……」
「……」
「な、なんだよ」
「いえ」
 涼子が、口元を手で隠した。
「あなたが素直に頼るなんて、雨でも降るのかと」
「うるせえ」
「でも、いいわ」
 京子が、にやりと笑った。
「主人として、命令してあげる」
「……あ?」
「勝つわよ、俊」
「……ああ」
 雨宮は頷いた。
「勝つ」
 三人が、同時に構えた。
 ティシポネは、その様子を静かに見ていた。
「……いいわ」
 彼女の鞭が、地を這った。
「三人まとめて、遊んであげる」

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 ――時間は、少し遡る。
 星雲魔術師学園、正門前。
 夜の帳が落ちた校舎に、一人の生徒が戻ってきていた。
「……ふう。ようやく充電できました」
 水色の髪を揺らし、ルイ・エスクードがスマートフォンの電源を入れる。
 朝から切れたままだった。用事で遠出をしていたため、充電する機会がなかったのだ。
 起動と同時に、通知が雪崩のように流れ込んでくる。
「……おや」
 その数が、明らかに異常だった。
 差出人は、桐宮隼人。それに九条絋弥。着信も何件か入っている。
 一番古いものは、夕方頃だった。
「……」
 文面に目を通したルイの指が、ぴたりと止まった。
 その表情から、笑みが消えていく。
「涼子、こっちにもいないわよ!」
「一体何処にいるんですの!」
 声が近づいてきた。
 顔を上げると、二人の少女が向こうから歩いてくる。
「水無さん」
 ルイが声をかけると、姉妹が同時に振り返った。
「エスクード君!」
「ちょうど良かったですわ。俊を……雨宮君を見ませんでした?」
「いえ」
 ルイは首を横に振った。
「ですが、居場所なら分かります」
「え?」
「あれ?みんなも人探し?」
 その時、もう一つの声がした。
 黒髪をお団子にまとめた少女――一ノ瀬雫が現れる。
「一ノ瀬さんも、どなたかお探しで?」
「焔よ。あの馬鹿、放課後から姿が見えないの」
 一ノ瀬は腕を組み、深いため息をついた。
「八雲君もいないの?まさか二人で何かやってるんじゃ……」
「……そのまさかみたいですよ」
 ルイは、スマートフォンの画面を三人に向けた。
「サラさんが、クロイツの里で儀式にかけられているそうです」
 三人の間に、沈黙が落ちた。
「……儀式?」
「詳しくは書かれていません。ですが、隼人君たちは既に向かっています。烏迴先生も、絋弥君も、西園寺さんも」
「雨宮君も?」
「おそらくは」
「焔も、ね」
 一ノ瀬が、目を細めた。
「連絡は、放課後に来ていました」
 ルイの声が、僅かに硬くなった。
「私が気づかなかっただけです。……申し訳ありません」
「そんなの、後でいいわよ」
 一ノ瀬は即座に言い切った。
「行くわ」
「私たちもですわ」
 涼子が続いた。
「俊てば、また『守りながらじゃ無理だ』とか言って一人で無茶をするに決まってますもの」
「言わせないわよ、今度は」
 京子が拳を握った。
「ですが」
 ルイが、静かに指摘した。
「クロイツの里は、かなり遠方になります。確か片道五時間かかるとか」
「……」
 三人の顔が曇る。
 だが。
「……ですが、ありますよ道は」
 ルイは、そう言った。
 その声には、いつもの穏やかさとは違う、どこか冷たい響きがあった。
「昔、使っていたものが」
「昔って……」
 一ノ瀬が言いかけて、口をつぐんだ。
 この少年の過去について、彼女は詳しく知らない。だが、知ってはいけない何かがあることだけは察していた。
「人目につかず、最短で移動するための経路です。全国に張り巡らされています」
 ルイは歩き出した。
「恐らくまだ潰されていない。使えるはずです」
「……あんた、本当に何者なの」
「しがない学生ですよ」
 彼は振り返らずに答えた。
「――ああ、それから」
 ルイは足を止め、思い出したように付け加えた。
「もう何人か、声をかけましょう。手は多い方がいい」
「誰に?」
「元クラスメイトですよ」
 ルイは微笑んだ。
「あの三人なら、間違いなく来ますから」