魔力の少ない魔法使い二年生編

 外で何かが崩れる音がした。床を伝って微かな振動が届く。烏廻さんたちが飛び出していった方角だ。向こうでも戦闘が続いているのだろうが、それを確かめている余裕はない。
 俺の身体は今、俺の意思では動かない。主導権を握っているアースが目の前のハデスへ踏み込み、右の拳を振り抜いた。ハデスは上体を僅かに反らしてかわし、続く左拳も半歩退いただけで避ける。さらに肘、踏み込みからの蹴りと攻撃を重ねても、どれ一つまともには届かなかった。
「――ちっ。逃げてばっかりだな」
「そうか?」
 ハデスは着物の袖を軽く払う。
「余は避けておるだけじゃ。当たれば痛いからの」
「同じようなもんだろ」
「随分と雑な括り方をするのう」
 楽しそうに笑うハデスへ、アースが再び間合いを詰める。速度が落ちているわけではない。動きにも迷いはなく、ハデスの反撃でできた傷も今のところすぐに塞がっている。それでも、明らかにさっきまでとは違っていた。
 当たらない。
 少し前までのハデスは、アースと正面から殴り合っていた。だからこそ拳も入ったし、三度目の打撃では膝までつかせている。けれど今は、まともに受けようとすらしない。
(アース)
『分かってる。完全に避ける方へ切り替えやがった』
(時間を稼いでるのか?)
『それもあるだろうな。だが、それだけじゃねえ』
 アースが右を見せてから左拳へ切り替える。以前なら反応が僅かに遅れていたはずなのに、ハデスは最初から分かっていたように外側へ身体を逃がした。
『こいつ、この身体の動かし方を覚えてやがる』
 その言葉に、胸の奥が重くなる。
 ハデス自身が言っていた。まだサラの身体に慣れていない、と。最初は数度動いただけで器が壊れるはずだったのに、今ではアースの攻撃を見て避け、すぐさま次の動作へ移っている。動くたびにぎこちなさが消えているのが、俺から見ても分かった。
「ほう」
 ハデスが拳をかわしながら目を細めた。
「やはり面白いのう。先ほどまでより、この身体がよく動く」
「わざわざ実況すんな」
「嬉しくての。お主の動きも少しずつ分かってきたぞ」
「余計なお世話だ」
 アースがさらに一歩踏み込む。右拳を見せて肩を落とし、左へ切り替えたが、それすら届かない。
「今のも分かる。右から左へ変える時、ほんの僅かに右肩が沈む」
「解説まで始めやがったか」
「親切じゃろ?」
「いらねえよ」
 ハデスが小さく笑った直後、指先が床へ向いた。それを見たアースはすぐに横へ跳び、内側から砕けた床石を避ける。ところが着地点には、もうハデスが回り込んでいた。
 掌が腹部へ触れると同時に強い衝撃が走り、アースの身体が床を滑って押し戻される。
「桐宮君!」
 壁際から橘の声が飛んできた。
「問題ねえ」
 アースはすぐに立ち上がる。腹部には赤い跡が残っていたが、それも少しずつ薄れていった。
「それ、まだ治るのじゃな」
「見りゃ分かるだろ」
「便利なものよ」
「便利なだけなら苦労しねえ。治すたびに減るもんは減る」
「やはりそうか」
 ハデスは納得したように頷くと、また距離を取った。
 アースの再生が無限ではないと理解したのだろう。このまま正面から打ち合う必要はない。避けながら時間を使えば、こちらが先に削れていく。そのうえ、時間が経つほどハデスはサラの身体へ馴染んでいく。
(このままだとまずいな)
『分かってるって言ってんだろ』
 返ってきた声には苛立ちが混じっていた。
 だからといって、焦って無理に攻撃を当てようとすれば、それこそハデスの思う壺だ。戦い方を変えたのは、ただ逃げたいからじゃない。アースが焦れて大きな隙を見せるのを待っている。
「どうした?」
 ハデスが首を傾げた。
「先ほどより口数が減ったのう」
「お前の相手すんのが面倒になっただけだ」
「それは悲しい」
「顔が笑ってんぞ」
「ばれたか」
 袖口で口元を隠しながら笑ったあと、ハデスはふと大広間の中へ視線を巡らせた。
「……なんだ?」
「いや。少し飽きた」
「あ?」
「お主との戦いは楽しいぞ。ただ、同じことばかりでは味気ない」
「だったら真正面から来い」
「それでは余が不利じゃろう」
「分かってて言ってんだよ」
「嫌じゃ」
 子供のように返しながら、ハデスが右手を上げて指を鳴らす。
 乾いた音とともに大広間の空間へ黒い亀裂が走り、床や壁際、柱の陰から黒い靄が溢れ始めた。
「またそれかよ」
「使えるものを使って何が悪い」
 亀裂の奥から、異形の魔獣たちが次々と姿を現す。狼に似た四足の獣、長い脚を持つ蜘蛛型、骨のような翼を広げる鳥型。数は一度に把握できる程度ではなく、大広間のあちこちへ散らばると低い唸り声を上げた。
 その赤い瞳が、アースだけでなく壁際にいる橘へも向く。
「……っ」
 橘が〈天ノ桜〉を構えた。
「小娘」
 アースはハデスから視線を外さないまま呼びかける。
「そっちは頼む。オレはこいつから離れられねえ」
「え……?」
 橘が周囲を見回し、僅かに顔を強張らせた。
「でも、この数を私一人で……」
「できねえか?」
 問われた橘が言葉を止める。
(アース、無茶だ!)
『うるせえ。オレが行けば、その隙にハデスが何するか分からねえだろ』
 それは俺にも分かっていた。今のハデスからアースが目を離す方が危険だ。
『それに、あの小娘は弱くねえ。さっきの矢も見ただろ』
 以前、橘がハデスへ向けて放った矢は、足元を正確に狙って動きを止めようとしていた。アースもそれを見ている。
「一人で全部倒せとは言わねえ。こっちへ来させんな」
 橘はしばらく黙っていたが、やがて〈天ノ桜〉へ矢を番えた。
「……分かりました。やります」
 最初に動いた狼型の前脚へ矢が突き刺さる。体勢を崩したところへ二射目が入り、続いて蜘蛛型の脚の付け根、鳥型の翼へと狙いを移す。不用意に撃ち散らすのではなく、こちらへ近づく個体から順番に動きを止めていた。
「ほう。器用なものじゃな」
 ハデスが橘へ目を向ける。
「余所見すんな」
 アースの拳が頬へ迫り、ハデスは首を倒してかわした。
「危ないではないか」
「戦ってんだから当たり前だろ」
「余所見くらいさせてくれてもよかろう」
「嫌だね」
 アースが攻撃を重ねる背後で、橘も一人で魔獣の群れを抑え続けている。ただ、数が多い。一匹を止めても別の個体が左右から回り込み、さらに上から鳥型が距離を詰めてくる。橘は少しずつ後退しながら射線を作り、矢を放ち続けた。
 やがて前方から複数の魔獣が一度に動く。狼型が二匹、その後ろに蜘蛛型、さらに上空には鳥型。このまま一本ずつ狙っていては間に合わないと判断したのか、橘は一度だけ大きく息を吸った。
「――【散華】!」
 〈天ノ桜〉から放たれた一本の矢が、魔獣の群れへ向かって真っ直ぐ飛ぶ。途中で桜色の光が弾けると、矢は花弁が散るように幾筋もの光へ分かれ、扇状に広がりながら前方の魔獣たちへ殺到した。
 これは【流星】とは違う。【流星】は上空へ矢を放ち、分裂させた矢を頭上から降らせる技だ。今の【散華】は、正面に集まった複数の相手を一度に崩すための射撃だった。
 分かれた矢が狼型の脚や蜘蛛型の関節、鳥型の翼へ次々と突き刺さり、迫っていた群れの動きが一斉に乱れる。橘はその隙を逃さず、動きを止めた個体へさらに矢を重ねた。
(すげえ……)
『見る余裕あるならハデス見とけ』
(俺は身体動かしてないだろ!)
『……そうだったな』
(適当だな!?)
 こんな状況なのに一瞬だけ力が抜けそうになる。もっとも、身体を動かしているのはアースなので、俺が力を抜いたところで何も変わらない。
「楽しそうじゃの」
「どこがだ」
「今、一瞬気が緩んだ」
「気のせいだ」
 ハデスの掌を外側へ流し、アースがすれ違いざまに肘を返す。今度は脇腹へ僅かに触れた。
「む」
「やっと一発だ」
「浅いのう」
「当たったことに変わりねえ」
 数歩離れたハデスの顔から笑みは消えていない。ただ、目だけは先ほどより鋭くなっていた。また一つ、アースへの警戒を上げたのだろう。
 橘の方も、一度群れを崩したとはいえ余裕はなかった。黒い亀裂はまだ閉じておらず、その奥から新しい魔獣が姿を現している。
「……まだ出てくるんですか」
 橘の声が僅かに掠れる。額には汗が浮かび、弓を引く指にも疲労が見え始めていた。それでも矢を止めず、近づく狼型の脚を射抜き、続いて上から来た鳥型の翼を狙う。
 鳥型が床へ落ちた、その陰から別の狼型が飛び出した。
「っ!」
 間に合わないと判断した橘は、〈天ノ桜〉を横に構えて前脚を受ける。体格差で押され、片膝をついた橘へ狼型がさらに身体を寄せてきた。
(橘!)
 アースの身体が僅かに反応したが、その前へハデスが入る。
「よそ見はいかんぞ」
「どけ」
「嫌じゃ」
「てめえ……!」
 アースの拳をハデスがかわす。その間にも、橘は弓を支えながら狼型の力を受け止めていた。牙を剥いた顔が近づいてくるが、橘は身体を横へずらし、前脚が床へ落ちた隙に転がるように抜け出した。
 すぐには立ち上がらず、距離が近いまま矢を番える。
「っ……!」
 至近距離から放たれた矢が狼型の肩へ突き刺さり、巨体の向きを逸らした。橘はそのまま後ろへ距離を取り、立ち上がって〈天ノ桜〉を構え直す。
「はぁ……はぁ……」
 呼吸は荒く、制服の肩口も先ほど前脚を受けた際に裂けている。それでも弓を下ろそうとはしなかった。
「……まだ、いけます」
 声には疲労が滲んでいる。それでも視線は目の前の魔獣から外れない。
(橘……)
『見ただろ』
(……ああ)
『勝手に弱いと決めつけんな』
 乱暴な言い方だが、その通りだった。
 危なくなれば助けるべきなのは当然だ。それでも橘自身も、戦うためにここへ来ている。今だって一人で立ち、こちらへ魔獣を近づけないよう戦っている。
 アースが小さく鼻を鳴らしたところで、その雰囲気が僅かに変わった。
(……アース?)
 返事はない。
 アースは目の前のハデスを見ていた。ハデスは先ほどと変わらず笑い、こちらの出方を窺っている。
「……お前」
「なんじゃ?」
 アースはすぐには続きを口にしなかった。
「……いや。なんでもねえ」
「気味の悪い奴じゃな」
「うるせえ」
(アース、何だよ)
『今はいい』
(でも)
『まだ確信がねえ』
 それ以上は答えてくれなかった。
 何に気づいたのか、俺には分からない。ただ、アースがハデスだけでなく、さっきの橘とのやり取りまで含めて何かを見ていたことだけは感じ取れた。
『それより、急ぐぞ』
(……分かった)
 長引けば長引くほど、こちらが不利になる。アースの再生にも限界があり、橘にも疲労が溜まり続けている。それに対してハデスは、時間が経つほどサラの身体を自在に扱えるようになっている。
「随分と怖い顔になったのう」
 楽しそうに笑うハデスへ、アースが腰を落とした。
「今さら怖がんなよ」
「余が?」
「だったら来い。今度こそ捕まえてやる」
「やってみるがよい」
 ハデスも構えを取り、二人がほぼ同時に床を蹴る。拳と掌が交差し、互いの身体がすれ違った背後では、橘が再び〈天ノ桜〉を引き絞っていた。
 桜色の矢が放たれ、迫る魔獣の群れへ真っ直ぐ飛んでいく。大広間では二つの戦いが、まだ終わる気配もなく続いていた。