魔力の少ない魔法使い二年生編

 外で、何かが崩れる音がした。
 地鳴りのような響きが床を伝ってくる。烏迴さんが飛び出していった方角だ。
 だが、確かめる余裕はなかった。
 俺の目の前では、アースとハデスが再び交錯している。
 二つの影が中央でぶつかるたび、大広間の空気が破裂したような音を立てた。柱が削れ、天井から瓦礫が絶えず落ちてくる。もう建物として保っているのが不思議なくらいだ。
「――ちっ」
 アースが後方へ跳んだ。着地した床石が、その重みで陥没する。
「逃げてばっかりだな」
「そうか?」
 ハデスは着物の袖を軽く払った。
「余は避けておるだけじゃ。当たれば痛いからの」
「同じことだろ」
 アースは肩を回した。
 俺は意識の奥から、その動きを見ていた。
 速度は落ちていない。掠り傷は今も瞬きの間に塞がっている。
 問題は、そこじゃなかった。
 ――当たらない。
 さっきまでは、三発に一発は入っていた。今は十発に一発も入らない。
(アース)
『分かってる』
 俺が呼びかけるより先に、アースが答えた。
『あいつ、殴り合う気がなくなってきてる』
(避けに徹してるってことか)
『ああ。厄介な判断をしやがる』
 その通りだった。
 ハデスは最初、正面から打ち合ってきた。だからアースの拳が入った。三度目の打撃で膝もついた。
 だが、今は違う。
 あの神は、自分が押し負けると理解した瞬間から、勝ち方を変えたのだ。
「ほう」
 ハデスが、拳を掻い潜りながら首を傾げた。
「面白いのう。お主、先ほどより速いのに、当たらぬ」
「余裕こいてんじゃねえよ」
「余裕ではない。感心しておるのじゃ」
 ハデスは軽やかに後退した。
「余の身体が、勝手に避けておる。これがなかなか、心地よい」
 その言葉に、俺は背筋が冷えた。
 ――慣れてきてる。
 さっきこいつが言っていた通りだ。時間をかければかけるほど、器に馴染んでいく。
 最初は三度動けば砕けるはずだった人間の身体が、今や神の反射速度についてきている。
 しかも、まずい。
 アースの動きを分析してきている。さっきまで通じていた左からのフェイントが、今はもう読まれている。打つ手が一枚ずつ潰されていく感覚だった。
「――そら」
 ハデスが軽く指を弾いた。
 アースの足元の床石が、内側から爆ぜる。
「ちっ」
 アースが跳び退る。その着地点に、既にハデスの掌が待っていた。
「がっ……!」
 鈍い音。アースの身体が横へ吹き飛び、柱に叩きつけられた。
 柱が半ばから折れ、天井の一部が崩落する。
「桐宮君!」
 橘の悲鳴が飛んだ。
「……問題ない」
 アースは瓦礫を押しのけて立ち上がった。腹部の傷は、既に塞がりかけている。
「痛えのは痛えがな」
「ほう、もう治ったか」
 ハデスは感心したように目を細めた。
「便利じゃな、それは」
「便利だが、面倒でもある」
 アースは埃を払った。
「治るってのは、当たり続けるって意味だからな」
「なるほど」
 ハデスは、その言葉を噛みしめるように頷いた。
 そして、また距離を取る。
 打ち合わない。仕掛けてこない。ただ、時間だけが過ぎていく。
(……この野郎)
 アースの苛立ちが、俺の中まで伝わってきた。
 拳を握る。
 今すぐ俺自身が身体を動かせるなら、何かできるかもしれない。
 だが、今の俺には何もできない。
 アースに任せるしかなかった。
「ふむ」
 ハデスが首を傾げた。
「そろそろ、退屈になってきたかの」
「あ?」
「いや、お主との殴り合いは楽しい。それは本当じゃ」
 ハデスは、サラの顔で笑った。
「じゃが、余は先ほどから、ずっと同じことをしておるだけじゃからな」
 その言葉と同時に、彼女が指を鳴らした。
 ――空気が、裂けた。
「またかよ……芸のねえ野郎だ」
 アースが吐き捨てる。
「芸はなくとも効くじゃろ?」
 ハデスがニヤリとする。
 大広間のあちこちに、黒い亀裂が走る。最初に魔獣が出てきた時と同じだ。だが、数が違った。
 一つ、二つ、三つ――数えるのも馬鹿らしくなるほど。壁という壁、床という床に、穴が開いていく。
 そこから、次々と這い出てくる。
 狼型。蜘蛛型。骨の翼を持つ鳥型。人型に近い何か。
 床を這う爪の音が、あちこちから重なった。
 低い唸り声が大広間を満たし、逃げ場を探すように魔獣たちの赤い瞳が動く。
「桐宮君……!」
 壁際から、橘の声が飛んだ。
 弓を構えている。だが、その手は震えていた。当然だ。数が多すぎる。
「小娘」
 アースが叫んだ。
「そっちは任せた」
「え……!?」
「俺はこいつから手が離せん。悪いが、やってくれ」
「で、でも――」
「できるだろう」
 アースは、ハデスから目を離さずに言った。
「お前、あの矢は速かったぞ」
 その一言に、橘の表情が変わった。
 震えが、止まったわけじゃない。だが、彼女は弓を引き絞った。
「……はい」
 ――橘。
 俺は叫んだ。声にならない声で。
 無茶だ。あの数を一人でなんて。
『言うな』
 アースが、また遮った。
『あいつは分かってる。分かった上で引き受けた』
(けど――)
『お前が信じずにどうする。それにお前にできることは、今はない』
 その通りだった。
 俺は身体の主導権を持っていない。声も出せない。ただ、見ていることしかできない。
 ――くそっ。
「【散華(さんげ)】!」
 橘の声が響いた。
 放たれた一射が空中で無数に枝分かれし、花弁が散るように広がって魔獣の群れへ殺到する。
 一本だった矢が、十本、二十本、さらにその数を増していく。
 桜色の光が大広間を駆け抜け、まるで無数の花弁が舞い散るように魔獣たちへ襲いかかった。
 狼型が三匹、頭を撃ち抜かれて倒れた。蜘蛛型の脚が次々と射抜かれ、動きが止まる。
「……ほう」
 ハデスが、初めて橘の方を見た。
「あの小娘、なかなかやるではないか」
「余所見してんじゃねえよ」
 アースの拳が、その頬を掠める。
 ハデスは首の動きだけでそれを避けた。
「怖い怖い」
 だが、その顔は笑っている。
 橘の方は、二射目を放っていた。
 三射目。四射目。
 速い。信じられないほど速い。一射ごとに数匹ずつ確実に減らしている。
 弓を引くたび、肩の傷が軋む。
 それでも、橘は止まらない。
 足元には既に、折れた矢や魔獣の血が散らばっている。
 呼吸は徐々に荒くなり、額には汗が浮かんでいた。
 それでも、橘は次の矢を番える。
 だが。
 ――追いつかない。
 倒した数より、穴から出てくる数の方が多い。
 いくら射抜いても、次から次へと魔獣が這い出してくる。
「くっ……」
 橘が後退した。壁際に追い詰められている。
 一匹の狼型が、彼女の側面から飛びかかった。
「――っ!」
 橘は咄嗟に弓で受けた。だが、体格差がありすぎる。押し倒され、床に背中を打ちつける。
 狼型の顎が、彼女の喉元へ迫った。
 ――橘!!
 俺は叫んだ。
 アースが動こうとするのが分かった。だが、ハデスがそれを許さない。掌が、アースの動きを正面から押さえている。
「よそ見はいかんぞ」
「てめえ……!」
 間に合わない。
 ――そう思った瞬間。
 橘は、弓を捨てた。
 空いた両手で狼型の顎を掴み、喉元への軌道を強引に逸らす。牙が彼女の肩を掠め、制服が裂けた。
「――っ、ぁ!」
 彼女は膝を折り曲げ、狼型の腹を全力で蹴り上げた。
 巨体が僅かに浮く。
 その一瞬で、橘は身体を捻って転がり、狼型の下から抜け出した。
「はぁっ、はぁっ……」
 落ちていた弓を拾い、振り向きざまに矢を放つ。
 零距離。
 魔力を纏った矢が狼型の眼窩を貫き、その巨体が横倒しに崩れた。
「……まだ」
 橘は立ち上がった。肩から血が滴っている。
 呼吸は荒い。
 足も僅かに震えている。
 それでも、弓を握る手だけは緩んでいなかった。
「まだ、いけます」
 その声は震えていた。
 だが、その瞳から戦意は消えていない。
 ――橘。
 俺は、それを見ていることしかできなかった。
 だが。
 あいつは、諦めていない。
「……ふん」
 アースが鼻を鳴らした。
『見たか』
(ああ)
 アースは、少しだけ笑ったようだった。
『ああいう奴は、最後まで立ってやがる』
 だが、その笑いが、不意に止まった。
 視線が、ハデスに向いている。
 俺には、何を見ているのか分からなかった。
 ただ、アースの纏う空気が、一瞬だけ変わったのは分かった。
「……お前」
 アースが、低く呟いた。
「なんじゃ」
「……いや」
 アースは、それ以上続けなかった。
「なんじゃ、気味の悪い」
「なんでもねえよ」
 アースは拳を握り直した。
(アース?)
『気にするな』
 その答えは短かった。
『それより、こっちも急ぐぞ』
 二つの影が、再び交錯した。
 橘の矢が、その背後で夜を裂き続けていた。