烏廻が足を止めたのは、里の外れに広がる杉林だった。
月明かりは枝葉に遮られ、地面まで届く光は僅かしかない。湿った土と苔の匂いが漂い、少し離れた場所には焼け落ちた鳥居の残骸が転がっていた。
その暗がりの中に、二つの気配がある。
一つは頭上。
タナトスが黒い翼を広げ、太い枝の上から烏廻を見下ろしていた。手には、月光を鈍く返す巨大な鎌。
もう一つは正面。
三つの首を持つ巨獣――ケルベロス。
低く唸りながら身を沈め、六つの赤黒い瞳を烏廻へ向けている。
「……面倒な組み合わせだな」
烏廻は右手の純白の剣〈インドラ〉と、左手の漆黒の剣〈ヴリトラ〉を軽く持ち上げた。
「そうか?」
タナトスの声には、ほとんど抑揚がない。
「二対一だぞ。少しくらい申し訳なさそうにしろよ」
「必要ない」
「冗談の通じねえ奴だな」
烏廻は肩をすくめる。
その視線は、既に二体の動きを捉えていた。
正面のケルベロス。
上方のタナトス。
片方だけに意識を寄せれば、もう片方が動く。
まともに付き合えば厄介な相手だ。
だからといって、焦るほどではない。
「来ないなら、こっちから――」
言い終える前に、ケルベロスが地を蹴った。
三つの首が同時に動く。
中央が真正面から噛みつき、左右の首は挟み込むように別方向へ回り込んだ。
「せっかちだな」
烏廻は半歩だけ前へ出る。
中央の顎を〈インドラ〉で外側へ流し、その勢いを使って身体を回転させた。
左から迫った牙を〈ヴリトラ〉で受け止める。
硬質な音が響く。
だが、力比べはしない。
刃を僅かに傾けて牙を滑らせ、そのまま巨体の横へ抜ける。
残った右の首が大きく口を開いた。
白い靄が、その奥へ集まっていく。
「そいつは食らいたくねえな」
烏廻が横へ跳ぶ。
直後、白い息が地面を薙いだ。
触れた苔が一瞬で白く染まり、周囲へ霜が広がっていく。近くの杉の幹にも薄い氷が張りついた。
(冷気系か)
着地しながら視線を上げる。
タナトスがいない。
「上ばかり見るな」
「見てねえよ」
背後から振り下ろされた鎌を、烏廻は振り返りざまに〈ヴリトラ〉で受けた。
重い金属音。
腕へ衝撃が伝わる。
だが、足は動かない。
「……」
「どうした? もっと重いと思ったか?」
烏廻が口元を吊り上げる。
タナトスは無言のまま鎌を押し込んだ。
烏廻は力の向きを横へずらし、その刃を滑らせる。
空いた〈インドラ〉がタナトスの脇腹へ走った。
タナトスが後退する。
白い剣先が黒衣を浅く裂いた。
「なるほど」
着地したタナトスが、自分の外套を見る。
「何がだ?」
「先ほど大広間で見た時より、近くで見る方が分かりやすい」
「だから何が」
「強いな、お前」
「今さらかよ」
烏廻が呆れたように返す。
直後、背後で地面を踏み砕く音がした。
振り返らない。
右へ一歩。
ケルベロスの中央の頭部が、烏廻の左側を通過する。
その鼻先へ〈インドラ〉を振り抜いた。
「四神流・白虎ノ型――【蓮牙】」
二振りの剣が、ほとんど同時に走る。
横へ交差した二つの斬撃がケルベロスの顔を捉え、巨獣の頭を横へ弾いた。
「――グアアッ!」
三つの喉から重なるように声が漏れる。
烏廻は追撃しない。
一歩引いた。
その直後、先ほどまでいた場所をタナトスの鎌が横切る。
「連携は悪くねえな」
「褒め言葉として受け取ろう」
「別に褒めてねえよ」
タナトスが再び間合いを詰める。
鎌。
受けない。
烏廻は身体を沈め、刃の下を潜り抜けた。
そのまま懐へ入る。
「――っ」
タナトスが柄を引き戻すより早く、〈ヴリトラ〉がその手元を狙う。
タナトスは鎌を手放さず、柄を立てて受けた。
刃と柄がぶつかる。
押し合ったのは一瞬。
烏廻はすぐに引き、今度は〈インドラ〉で斜め下から斬り上げる。
タナトスも後方へ跳んだ。
「忙しいな、お前」
「お前が休ませないからだ」
「そりゃ悪かった」
軽口を交わしている間にも、烏廻の意識はケルベロスへ向いていた。
三つの首。
それぞれ動きが違う。
中央は正面から押し潰すような攻撃が多い。
左は噛みつき。
右は先ほどの息。
さらに、その隙間へタナトスが割り込んでくる。
(面倒ではある)
ただし、それだけだ。
動き自体が見えないわけではない。
対応できないほど速くもない。
問題は、いつまで付き合うかだった。
屋敷の中には隼人たちがいる。
他の連中も、それぞれハデスの配下を追って散っている。
ここで時間をかける意味はない。
「――ギャウッ!」
ケルベロスが再び襲いかかる。
烏廻は中央の首を避け、左から来た牙を〈ヴリトラ〉で弾いた。
右の首が息を吐こうと口を開く。
「二度目はねえよ」
踏み込む。
呼吸を整える暇すら与えず、〈インドラ〉の柄頭を顎へ叩き込んだ。
ケルベロスの頭が上を向く。
白い息が空へ漏れた。
そのまま烏廻は巨体の懐へ潜る。
「四神流・玄武ノ型――【羅生門】」
二本の剣を異なる軌道から振るう。
迫ってきた前肢を〈インドラ〉で外へ流し、〈ヴリトラ〉を関節へ滑り込ませた。
巨体が大きく傾く。
烏廻は刃を引く。
その背後。
風切り音。
「そこか」
振り返る。
タナトスの鎌が迫っていた。
〈インドラ〉で受ける。
だが、タナトスはそこで軌道を変えた。
柄を回転させ、鎌の刃が反対側から返ってくる。
「おっと」
烏廻が首を傾ける。
完全には避けきれなかった。
刃先が左腕の袖を浅く裂いた。
皮膚へ細い傷が走る。
「……」
烏廻は数歩離れ、自分の左腕へ視線を落とした。
傷は浅い。だが、左腕に力が入りにくい。
痺れているわけではない、感覚もある。
それなのに、腕そのものから力だけを抜き取られたようだった。
「なるほどな」
「気づいたか」
タナトスが鎌を肩へ乗せる。
「あんたの鎌……斬った相手の力を削るのか」
「斬られた分だけ、生は死へ近づく……結果として、感覚や力が薄れる。それだけだ」
「それだけって言うには、性格悪い能力だな」
「私の性格とは関係ない」
「そこ真面目に返すなよ」
烏廻は左手を軽く開閉する。
動く。
剣も問題なく握れる。
だが、効果が重なる可能性はある。
何度も受ける理由はない。
「その程度で終わりか?」
タナトスが尋ねる。
「あ?」
「もう少し警戒するかと思った」
「してるさ」
烏廻は〈インドラ〉を握り直す。
「だから次から当たらねえようにする」
「簡単に言う」
「簡単だからな」
タナトスが僅かに目を細めた。
次に動いたのはケルベロスだった。
負傷した前肢を引きずる様子はない。
先ほど〈ヴリトラ〉を入れた関節部分を、黒い靄が覆っている。
その下で傷がゆっくりと閉じていった。
「……再生まで持ってんのか」
「番犬だからな」
「説明になってねえよ」
「私が呼び戻せば、何度でも立つ」
タナトスが淡々と告げる。
「便利な犬だな」
「犬扱いすると怒るぞ」
「もう唸ってるだろ」
三つの首が同時に牙を剥いた。
烏廻は小さく息を吐く。
ケルベロスの再生。
タナトスの鎌。
どちらも、放っておけば面倒になる能力だ。
それでも二体を倒すこと自体が難しいとは思わない。
問題は時間。
この場で二体の能力を一つずつ確かめながら、丁寧に削る必要はない。
「……最近、多いな」
烏廻がぽつりと呟いた。
「何がだ」
「こっちの話だ」
去年の襲撃でも、結局あれを使った。
インヴィとの戦い。
相手の能力を見極めた末に、自分へ課していた枷を一つ外した。
今回も同じだ。
追い詰められたからではない。
外した方が早い。
ただ、それだけだった。
「こいつら相手に長々付き合ってる暇もねえしな」
烏廻は二本の剣を下げた。
タナトスが鎌を構える。
ケルベロスも腰を落とした。
「何をする」
「時短だよ」
烏廻は笑う。
そして、短く告げた。
「【人封印・解】」
変化は、派手なものではなかった。
光が噴き上がるわけでも、周囲の木々が吹き飛ぶわけでもない。
ただ、烏廻の身体から漏れる魔力の密度が、一段階変わった。
先ほどまで意図的に押さえ込まれていたものが解放され、静かに全身へ巡っていく。
タナトスが初めて、明確に反応した。
「……なるほど」
「何がだよ」
「先ほどまで、抑えていたのか」
「まあな」
「なぜ」
「特訓」
「……?」
「昔、師匠に言われたんだよ。才能に怠けるなってな」
烏廻は〈インドラ〉を軽く振る。
左腕に残っている違和感そのものが消えたわけではない。
傷もある。
ただ、それを補って余りある力が全身へ巡っている。
「だから普段は、自分に枷をかけてる」
「奇妙なことをする」
「俺もそう思う」
ケルベロスが吠えた。
三つの首が一斉に烏廻へ向かう。
「まあ――」
烏廻は腰を落とす。
「今は外した方が早い」
踏み込んだ。
一歩。
それだけで、ケルベロスとの距離が一気に縮まる。
中央の首が噛みつく。
烏廻は横へ流れるように避け、その鼻先を〈インドラ〉で打ち払った。
左の首。
〈ヴリトラ〉で牙を受け、手首を返して外へ逸らす。
右の首が口を開く。
白い息が溜まるより先に、烏廻の蹴りが下顎へ入った。
三つの攻撃が、ほとんど同時に潰される。
「――」
タナトスが背後から鎌を振るった。
今度は掠りもしない。
烏廻は頭を僅かに傾けただけで刃をかわし、振り向きざまに〈ヴリトラ〉を返す。
タナトスが鎌の柄で防ぐ。
「重いな」
「さっきお前が言ってただろ」
烏廻が笑う。
「軽く感じられても困るって」
「……覚えていたか」
「記憶力はいい方なんだよ」
剣を弾く。
タナトスが距離を取る。
追わない。
烏廻が狙うのは、先にケルベロスだ。
再生するなら、一度で再生が追いつかない状態まで持っていく。
ただし、殺す必要はない。
動けなくすれば十分だ。
「さて」
烏廻が二振りの剣を交差させる。
「まずはお前から休んでろ」
ケルベロスの三つの首が同時に吠えた。
巨体が真正面から迫る。
烏廻は逃げない。
「四神流・朱雀ノ型――」
〈インドラ〉と〈ヴリトラ〉へ魔力が集まる。
赤い光が二本の刃へ薄く宿った。
「【郝翼之刃】」
交差した二条の斬撃が放たれる。
狙いは首ではない。
巨体を支える前肢と、その進行方向。
斬撃が地面すれすれを走り、ケルベロスの前脚を深く捉えた。
「――ガアアッ!」
勢いを殺しきれなかった巨体が前へ崩れる。
烏廻はその横を抜けた。
倒れ込んできた三つの頭を避け、そのまま背後へ回る。
黒い靄が再び傷口へ集まり始めている。
「やっぱ治るか」
「言ったはずだ」
タナトスが背後へ降り立つ。
「私が呼び戻す限り、何度でも――」
「だったら」
烏廻は振り返った。
「先にお前を止めりゃいいだけだな」
「……」
初めて、タナトスが言葉を止めた。
烏廻の視線が真っ直ぐに向けられる。
ケルベロスへ割いていた意識が、完全に自分へ移った。
「さっきまで二対一だっただろ?」
〈インドラ〉と〈ヴリトラ〉を構え直す。
「今度は、お前の番だ」
タナトスもゆっくりと鎌を持ち上げた。
「面白い」
「そうか?」
「ああ」
フードの奥で、朱の瞳が烏廻を捉える。
「王が相手を任せた理由が、少し分かった」
「そいつはどうも」
烏廻は軽く息を吐いた。
左腕には、まだ僅かな痺れが残っている。
背後ではケルベロスの傷が再生を始めている。
長引かせるつもりはなかった。
「じゃあ、さっさと終わらせるぞ」
「やってみろ」
二人が同時に地を蹴る。
白と黒の双剣。
銀色の大鎌。
杉林の中央で、三つの刃が再び交錯した。
月明かりは枝葉に遮られ、地面まで届く光は僅かしかない。湿った土と苔の匂いが漂い、少し離れた場所には焼け落ちた鳥居の残骸が転がっていた。
その暗がりの中に、二つの気配がある。
一つは頭上。
タナトスが黒い翼を広げ、太い枝の上から烏廻を見下ろしていた。手には、月光を鈍く返す巨大な鎌。
もう一つは正面。
三つの首を持つ巨獣――ケルベロス。
低く唸りながら身を沈め、六つの赤黒い瞳を烏廻へ向けている。
「……面倒な組み合わせだな」
烏廻は右手の純白の剣〈インドラ〉と、左手の漆黒の剣〈ヴリトラ〉を軽く持ち上げた。
「そうか?」
タナトスの声には、ほとんど抑揚がない。
「二対一だぞ。少しくらい申し訳なさそうにしろよ」
「必要ない」
「冗談の通じねえ奴だな」
烏廻は肩をすくめる。
その視線は、既に二体の動きを捉えていた。
正面のケルベロス。
上方のタナトス。
片方だけに意識を寄せれば、もう片方が動く。
まともに付き合えば厄介な相手だ。
だからといって、焦るほどではない。
「来ないなら、こっちから――」
言い終える前に、ケルベロスが地を蹴った。
三つの首が同時に動く。
中央が真正面から噛みつき、左右の首は挟み込むように別方向へ回り込んだ。
「せっかちだな」
烏廻は半歩だけ前へ出る。
中央の顎を〈インドラ〉で外側へ流し、その勢いを使って身体を回転させた。
左から迫った牙を〈ヴリトラ〉で受け止める。
硬質な音が響く。
だが、力比べはしない。
刃を僅かに傾けて牙を滑らせ、そのまま巨体の横へ抜ける。
残った右の首が大きく口を開いた。
白い靄が、その奥へ集まっていく。
「そいつは食らいたくねえな」
烏廻が横へ跳ぶ。
直後、白い息が地面を薙いだ。
触れた苔が一瞬で白く染まり、周囲へ霜が広がっていく。近くの杉の幹にも薄い氷が張りついた。
(冷気系か)
着地しながら視線を上げる。
タナトスがいない。
「上ばかり見るな」
「見てねえよ」
背後から振り下ろされた鎌を、烏廻は振り返りざまに〈ヴリトラ〉で受けた。
重い金属音。
腕へ衝撃が伝わる。
だが、足は動かない。
「……」
「どうした? もっと重いと思ったか?」
烏廻が口元を吊り上げる。
タナトスは無言のまま鎌を押し込んだ。
烏廻は力の向きを横へずらし、その刃を滑らせる。
空いた〈インドラ〉がタナトスの脇腹へ走った。
タナトスが後退する。
白い剣先が黒衣を浅く裂いた。
「なるほど」
着地したタナトスが、自分の外套を見る。
「何がだ?」
「先ほど大広間で見た時より、近くで見る方が分かりやすい」
「だから何が」
「強いな、お前」
「今さらかよ」
烏廻が呆れたように返す。
直後、背後で地面を踏み砕く音がした。
振り返らない。
右へ一歩。
ケルベロスの中央の頭部が、烏廻の左側を通過する。
その鼻先へ〈インドラ〉を振り抜いた。
「四神流・白虎ノ型――【蓮牙】」
二振りの剣が、ほとんど同時に走る。
横へ交差した二つの斬撃がケルベロスの顔を捉え、巨獣の頭を横へ弾いた。
「――グアアッ!」
三つの喉から重なるように声が漏れる。
烏廻は追撃しない。
一歩引いた。
その直後、先ほどまでいた場所をタナトスの鎌が横切る。
「連携は悪くねえな」
「褒め言葉として受け取ろう」
「別に褒めてねえよ」
タナトスが再び間合いを詰める。
鎌。
受けない。
烏廻は身体を沈め、刃の下を潜り抜けた。
そのまま懐へ入る。
「――っ」
タナトスが柄を引き戻すより早く、〈ヴリトラ〉がその手元を狙う。
タナトスは鎌を手放さず、柄を立てて受けた。
刃と柄がぶつかる。
押し合ったのは一瞬。
烏廻はすぐに引き、今度は〈インドラ〉で斜め下から斬り上げる。
タナトスも後方へ跳んだ。
「忙しいな、お前」
「お前が休ませないからだ」
「そりゃ悪かった」
軽口を交わしている間にも、烏廻の意識はケルベロスへ向いていた。
三つの首。
それぞれ動きが違う。
中央は正面から押し潰すような攻撃が多い。
左は噛みつき。
右は先ほどの息。
さらに、その隙間へタナトスが割り込んでくる。
(面倒ではある)
ただし、それだけだ。
動き自体が見えないわけではない。
対応できないほど速くもない。
問題は、いつまで付き合うかだった。
屋敷の中には隼人たちがいる。
他の連中も、それぞれハデスの配下を追って散っている。
ここで時間をかける意味はない。
「――ギャウッ!」
ケルベロスが再び襲いかかる。
烏廻は中央の首を避け、左から来た牙を〈ヴリトラ〉で弾いた。
右の首が息を吐こうと口を開く。
「二度目はねえよ」
踏み込む。
呼吸を整える暇すら与えず、〈インドラ〉の柄頭を顎へ叩き込んだ。
ケルベロスの頭が上を向く。
白い息が空へ漏れた。
そのまま烏廻は巨体の懐へ潜る。
「四神流・玄武ノ型――【羅生門】」
二本の剣を異なる軌道から振るう。
迫ってきた前肢を〈インドラ〉で外へ流し、〈ヴリトラ〉を関節へ滑り込ませた。
巨体が大きく傾く。
烏廻は刃を引く。
その背後。
風切り音。
「そこか」
振り返る。
タナトスの鎌が迫っていた。
〈インドラ〉で受ける。
だが、タナトスはそこで軌道を変えた。
柄を回転させ、鎌の刃が反対側から返ってくる。
「おっと」
烏廻が首を傾ける。
完全には避けきれなかった。
刃先が左腕の袖を浅く裂いた。
皮膚へ細い傷が走る。
「……」
烏廻は数歩離れ、自分の左腕へ視線を落とした。
傷は浅い。だが、左腕に力が入りにくい。
痺れているわけではない、感覚もある。
それなのに、腕そのものから力だけを抜き取られたようだった。
「なるほどな」
「気づいたか」
タナトスが鎌を肩へ乗せる。
「あんたの鎌……斬った相手の力を削るのか」
「斬られた分だけ、生は死へ近づく……結果として、感覚や力が薄れる。それだけだ」
「それだけって言うには、性格悪い能力だな」
「私の性格とは関係ない」
「そこ真面目に返すなよ」
烏廻は左手を軽く開閉する。
動く。
剣も問題なく握れる。
だが、効果が重なる可能性はある。
何度も受ける理由はない。
「その程度で終わりか?」
タナトスが尋ねる。
「あ?」
「もう少し警戒するかと思った」
「してるさ」
烏廻は〈インドラ〉を握り直す。
「だから次から当たらねえようにする」
「簡単に言う」
「簡単だからな」
タナトスが僅かに目を細めた。
次に動いたのはケルベロスだった。
負傷した前肢を引きずる様子はない。
先ほど〈ヴリトラ〉を入れた関節部分を、黒い靄が覆っている。
その下で傷がゆっくりと閉じていった。
「……再生まで持ってんのか」
「番犬だからな」
「説明になってねえよ」
「私が呼び戻せば、何度でも立つ」
タナトスが淡々と告げる。
「便利な犬だな」
「犬扱いすると怒るぞ」
「もう唸ってるだろ」
三つの首が同時に牙を剥いた。
烏廻は小さく息を吐く。
ケルベロスの再生。
タナトスの鎌。
どちらも、放っておけば面倒になる能力だ。
それでも二体を倒すこと自体が難しいとは思わない。
問題は時間。
この場で二体の能力を一つずつ確かめながら、丁寧に削る必要はない。
「……最近、多いな」
烏廻がぽつりと呟いた。
「何がだ」
「こっちの話だ」
去年の襲撃でも、結局あれを使った。
インヴィとの戦い。
相手の能力を見極めた末に、自分へ課していた枷を一つ外した。
今回も同じだ。
追い詰められたからではない。
外した方が早い。
ただ、それだけだった。
「こいつら相手に長々付き合ってる暇もねえしな」
烏廻は二本の剣を下げた。
タナトスが鎌を構える。
ケルベロスも腰を落とした。
「何をする」
「時短だよ」
烏廻は笑う。
そして、短く告げた。
「【人封印・解】」
変化は、派手なものではなかった。
光が噴き上がるわけでも、周囲の木々が吹き飛ぶわけでもない。
ただ、烏廻の身体から漏れる魔力の密度が、一段階変わった。
先ほどまで意図的に押さえ込まれていたものが解放され、静かに全身へ巡っていく。
タナトスが初めて、明確に反応した。
「……なるほど」
「何がだよ」
「先ほどまで、抑えていたのか」
「まあな」
「なぜ」
「特訓」
「……?」
「昔、師匠に言われたんだよ。才能に怠けるなってな」
烏廻は〈インドラ〉を軽く振る。
左腕に残っている違和感そのものが消えたわけではない。
傷もある。
ただ、それを補って余りある力が全身へ巡っている。
「だから普段は、自分に枷をかけてる」
「奇妙なことをする」
「俺もそう思う」
ケルベロスが吠えた。
三つの首が一斉に烏廻へ向かう。
「まあ――」
烏廻は腰を落とす。
「今は外した方が早い」
踏み込んだ。
一歩。
それだけで、ケルベロスとの距離が一気に縮まる。
中央の首が噛みつく。
烏廻は横へ流れるように避け、その鼻先を〈インドラ〉で打ち払った。
左の首。
〈ヴリトラ〉で牙を受け、手首を返して外へ逸らす。
右の首が口を開く。
白い息が溜まるより先に、烏廻の蹴りが下顎へ入った。
三つの攻撃が、ほとんど同時に潰される。
「――」
タナトスが背後から鎌を振るった。
今度は掠りもしない。
烏廻は頭を僅かに傾けただけで刃をかわし、振り向きざまに〈ヴリトラ〉を返す。
タナトスが鎌の柄で防ぐ。
「重いな」
「さっきお前が言ってただろ」
烏廻が笑う。
「軽く感じられても困るって」
「……覚えていたか」
「記憶力はいい方なんだよ」
剣を弾く。
タナトスが距離を取る。
追わない。
烏廻が狙うのは、先にケルベロスだ。
再生するなら、一度で再生が追いつかない状態まで持っていく。
ただし、殺す必要はない。
動けなくすれば十分だ。
「さて」
烏廻が二振りの剣を交差させる。
「まずはお前から休んでろ」
ケルベロスの三つの首が同時に吠えた。
巨体が真正面から迫る。
烏廻は逃げない。
「四神流・朱雀ノ型――」
〈インドラ〉と〈ヴリトラ〉へ魔力が集まる。
赤い光が二本の刃へ薄く宿った。
「【郝翼之刃】」
交差した二条の斬撃が放たれる。
狙いは首ではない。
巨体を支える前肢と、その進行方向。
斬撃が地面すれすれを走り、ケルベロスの前脚を深く捉えた。
「――ガアアッ!」
勢いを殺しきれなかった巨体が前へ崩れる。
烏廻はその横を抜けた。
倒れ込んできた三つの頭を避け、そのまま背後へ回る。
黒い靄が再び傷口へ集まり始めている。
「やっぱ治るか」
「言ったはずだ」
タナトスが背後へ降り立つ。
「私が呼び戻す限り、何度でも――」
「だったら」
烏廻は振り返った。
「先にお前を止めりゃいいだけだな」
「……」
初めて、タナトスが言葉を止めた。
烏廻の視線が真っ直ぐに向けられる。
ケルベロスへ割いていた意識が、完全に自分へ移った。
「さっきまで二対一だっただろ?」
〈インドラ〉と〈ヴリトラ〉を構え直す。
「今度は、お前の番だ」
タナトスもゆっくりと鎌を持ち上げた。
「面白い」
「そうか?」
「ああ」
フードの奥で、朱の瞳が烏廻を捉える。
「王が相手を任せた理由が、少し分かった」
「そいつはどうも」
烏廻は軽く息を吐いた。
左腕には、まだ僅かな痺れが残っている。
背後ではケルベロスの傷が再生を始めている。
長引かせるつもりはなかった。
「じゃあ、さっさと終わらせるぞ」
「やってみろ」
二人が同時に地を蹴る。
白と黒の双剣。
銀色の大鎌。
杉林の中央で、三つの刃が再び交錯した。

