屋敷を抜けた先には、古びた池が広がっていた。
濁った水面には枯れかけた蓮が浮かび、その中央を横切るように小さな石橋が架かっている。夜風が吹くたび、蓮の葉が擦れ合って乾いた音を立てた。
橋の中央に、一人の男が立っている。
黒い外套。
深く被ったフードの奥では、二つの光だけがぼんやりと揺れていた。
右手には、自身の背丈ほどもある長い櫂。
大広間から姿を消したカロンだった。
「……見つけたぜ」
紘弥が池の手前で足を止める。
その隣へ玲奈も並んだ。
カロンは逃げようとしない。
二人が追ってきたことなど、最初から分かっていたかのように静かに立っている。
「逃がさねえぞ」
紘弥は右手を前へ出した。
「轟け――〈麒麟〉」
青白い雷が弾け、両手へ銀色の双銃が顕現する。
隣では、玲奈も右手を伸ばした。
「凍てつけ――〈ニヴルヘイム〉」
冷気が集まり、細身の氷剣が形を成す。
周囲の空気が僅かに冷え、足元の草へ白い霜が降り始めた。
「……お前ら」
カロンが初めて口を開いた。
低く、しわがれた声だった。
「渡りたいのか」
「は?」
紘弥が眉を寄せる。
「この橋は、渡し賃を払った者しか渡れぬ」
カロンは手にした櫂を軽く持ち上げた。
「お前らに、それがあるか」
「いや、橋渡りに来たんじゃねえよ」
紘弥は呆れたように双銃を肩へ乗せる。
「お前をとっ捕まえに来たんだ」
「そうか」
カロンはそれだけ答えた。
「ならば、ここは通さぬ」
「話が早くて助かるぜ」
紘弥が銃口を向ける。
その横で、玲奈も〈ニヴルヘイム〉の切っ先をカロンへ合わせた。
「九条」
「ああ」
次の瞬間、カロンが動いた。
「――っ!」
櫂が石橋の上を薙ぎ払う。
先端が石畳へ触れ、砕けた石片が二人へ向かって飛んだ。
玲奈が一歩前へ出る。
「【アイス・ウォール】」
氷の壁がせり上がり、飛来した石片を受け止めた。
硬い音が連続して響き、表面へ細かな亀裂が広がっていく。
「サンキュ!」
「礼を言ってる暇があるなら前を見なさい」
「分かってるって!」
玲奈の声と同時に、氷壁の向こうから櫂が突き出された。
先端が氷を割り、一直線に玲奈へ迫る。
「――!」
玲奈は咄嗟に身体を捻った。
櫂が頬のすぐ横を通過する。
風圧に銀髪が大きく揺れた。
そのまま後ろへ跳び、距離を取る。
「速いわね」
「見た目によらず、だろ?」
「余計なこと言わなくていい」
紘弥が横から飛び込んだ。
双銃が火を噴く。
青白い雷弾が石橋の上を走り、カロンへ殺到した。
カロンは櫂を両手で持ち、目の前で回転させる。
一発。
二発。
雷弾が柄へぶつかるたび、青白い火花が散った。
だが、すべてを防ぎ切れるわけではない。
一発が肩を掠め、外套を焦がす。
「もらった!」
紘弥はさらに踏み込んだ。
銃使いでありながら、接近戦も躊躇しない。
カロンが櫂の柄を突き出してくる。
狙いは腹部。
紘弥は身体を横へずらし、その一撃をかわした。
「はらよっ!」
続けて回し蹴り。
靴底が櫂の側面を蹴り上げ、軌道を強引に逸らす。
「――」
カロンの上体が僅かに崩れた。
その懐へ、二つの銃口が向けられる。
「逃がさねえよ!」
連射。
雷弾が至近距離からカロンの胴を撃ち抜く。
衝撃のたびに黒い外套が揺れ、白い煙が立ち上った。
カロンの身体が後ろへ押し戻される。
「どうだ!」
「悪くない」
「その反応だけかよ!」
紘弥が顔をしかめる。
カロンは焦げた外套へ一度視線を落としただけだった。
「渡し守は、様々な者を見送る」
「……さっきからその渡し守って何なんだよ」
「役目だ」
カロンは静かに答える。
「この役目、ハデス様が生まれるより前からのものだ」
「知らねえよ、そんな大昔の話」
紘弥は双銃を構え直した。
「今はお前をここから動かさなきゃ、それでいい」
「そうか」
「……本当にそれしか言わねえな、お前」
「必要なことは言っている」
「いや、足りてねえよ」
玲奈が小さく息を吐く。
「九条。会話しに来たんじゃないでしょう」
「分かってるって」
「なら集中しなさい」
「はいはい」
カロンのフードの奥で二つの光が揺れる。
「変わった者たちだ」
「よく言われるぜ」
「九条だけよ」
「俺だけかよ!」
その瞬間、カロンが踏み込んだ。
二人との距離が一気に縮まる。
「来るわよ!」
玲奈が〈ニヴルヘイム〉を振るう。
冷気が地面を這い、石橋の表面を瞬く間に凍らせていく。
カロンは足を止めない。
凍結する直前の場所を選びながら、石橋を駆け抜ける。
「器用な真似しやがる!」
紘弥が引き金を絞る。
雷弾。
カロンは身体を傾けてかわす。
そのまま櫂を横薙ぎに振った。
紘弥がしゃがむ。
頭上を太い柄が通過した。
「西園寺!」
「分かってる!」
玲奈が死角へ入る。
「【アイス・レイ】」
冷気の光線が横から放たれた。
カロンは櫂を引き戻す。
完全には間に合わない。
冷気が脇腹を捉え、外套が白く凍りついた。
霜がそこから一気に広がっていく。
「……」
カロンの身体が僅かによろめいた。
「入った!」
「まだよ」
玲奈の言葉通り、カロンは倒れない。
凍りついた外套をものともせず、再び櫂を構えた。
「二人がかりか」
「悪い?」
玲奈が即座に返す。
「一人ずつ相手をしてあげる理由なんてないわ」
「そうか」
「またそれかよ」
紘弥が苦笑する。
その身体から、青白い雷が弾けた。
雷が腕から肩、胴、脚へと広がっていく。
全身へ属性を纏わせる。
髪の先まで電光が走り、紘弥を包む空気が細かく震えた。
わざわざ名を口にする必要はない。
何度も使ってきた技術だ。
「本気でいくぜ」
地面を蹴る。
雷光だけを残し、紘弥の姿が消えた。
「――」
カロンのフードが動く。
右。
紘弥が現れる。
銃声。
カロンが櫂で防ぐ。
直後、左。
二発目。
さらに背後。
三発目。
カロンは身体を回しながら櫂を振るい、次々と雷弾を払っていく。
「速いな」
「余裕ぶってんじゃねえよ!」
紘弥は足を止めない。
石橋の欄干や池の縁を利用し、角度を変えながら撃ち続ける。
カロンの視線を一方向へ固定させない。
「九条、そのまま」
「任せた!」
玲奈も動いた。
冷気が全身を薄く包む。
一歩。
石橋へ踏み込む。
紘弥へ意識を向けていたカロンの側面へ、一瞬で入り込んだ。
〈ニヴルヘイム〉の切っ先が突き出される。
カロンは櫂の柄で弾く。
玲奈は止まらない。
二撃。
三撃。
細剣による高速の刺突が、続けざまにカロンを襲う。
カロンは長い櫂を巧みに持ち替えながら、それらを捌いていった。
「……二人とも速い」
「お褒めに預かり光栄ね」
直後だった。
カロンの櫂が大きく振られる。
「――っ!」
玲奈が後ろへ跳ぶ。
紘弥も反対側へ退いた。
櫂は二人の間を通過し、そのまま石橋の欄干を叩き割った。
石片が池へ落ち、水飛沫を上げる。
橋の一部へ亀裂が走った。
だが、崩れ落ちるほどではない。
「危ねえな……!」
「追ってきたのはお前たちだ」
「だからって遠慮しろとは言わねえけどよ!」
紘弥が再び距離を詰める。
雷を纏った身体が加速する。
カロンの正面。
双銃を向ける。
「そこだ!」
カロンは櫂を振るった。
紘弥が咄嗟に身体を反らす。
先端が鼻先を通過した。
そのまま一歩踏み込み、右の銃口をカロンへ向ける。
だが。
「甘い」
戻ってきた櫂が、今度は紘弥の進行方向へ置かれた。
「――!」
避けきれない。
紘弥は首を捻った。
櫂の先端が頬を掠める。
鋭い痛み。
身体がそのまま横へ流れた。
「九条!」
「平気だ!」
着地する。
頬に熱いものが伝った。
指で触れる。
薄く血がついている。
「こんくらい――」
言いかけて、止まった。
妙だった。
「……なんだ、これ」
傷口の周囲から、じわりと感覚が薄れていく。
痛みが引いたわけではない。
触れているはずなのに、頬そのものが自分の身体ではなくなっていくような感覚。
指先から伝わってくるのは、妙な冷たさだけだった。
「九条」
玲奈の声が変わる。
「頬が白くなってるわよ」
「……あ?」
紘弥はもう一度、自分の頬へ触れた。
当然、自分では見えない。
だが、玲奈が冗談を言っている顔ではないことくらい分かる。
「そうかよ。……感覚がねえのは分かってたけどな」
カロンが櫂を下ろした。
「触れれば、渡る」
静かな声だった。
「少しずつだ。慌てることはない」
「……嫌な能力しやがって」
紘弥は顔をしかめた。
傷そのものは浅い。
それなのに、その周囲だけ明らかに何かがおかしい。
血の量とも、傷の深さとも関係がない。
櫂に触れたこと自体が原因だ。
「どこまで広がるの?」
玲奈がカロンへ尋ねる。
「触れた分だけだ」
「解除方法は?」
「さてな」
「答える気ないって顔ね」
「顔は見えていないはずだ」
「そういうところよ」
玲奈が冷たく返した。
「九条。無理はしないで」
「するかよ」
紘弥は即答した。
「頬がちょっと痺れたくらいで引っ込んでられるか」
「ちょっと、で済むか分からないでしょう」
「だから次から当たらなきゃいい」
「簡単に言うわね」
「その方が俺らしいだろ?」
紘弥は笑って双銃を握り直した。
頬に触れていた手を下ろす。
「ただし、西園寺」
「何?」
「あの櫂には触れんなよ」
「言われなくても分かってる」
カロンは二人のやり取りを黙って見ていた。
やがて、フードの奥の光が僅かに細くなる。
「……面白い」
「は?」
「この役目は、長く一人でやってきた」
カロンは櫂を握り直した。
「だが、こうして言い合いながら向かってくる者は、久しく見ていない」
「そりゃどうも」
「大抵の者は一人で来る。一人で怯え、一人で渡っていく」
「知らねえよ、そんな昔話」
紘弥の身体を包む雷が強く弾ける。
「今は俺たちの番だろ」
玲奈も〈ニヴルヘイム〉を構え直した。
「それに」
玲奈がちらりと紘弥を見る。
「私たちは渡るつもりなんてないわ」
「お前を止めに来ただけだからな」
「そうだったな」
カロンが答える。
その声に、ほんの僅かだが先ほどまでとは違う響きが混じった。
楽しんでいる。
少なくとも、紘弥にはそう聞こえた。
「九条」
「おう」
紘弥は二つの銃口をカロンへ向ける。
「次、俺が前から崩す」
「合わせるわ」
「頼んだ」
「言われなくても」
雷が石橋を照らした。
玲奈の周囲では冷気が渦を巻き、白い霜が足元へ広がっていく。
カロンも櫂を両手で構えた。
「来い」
その一言を合図に、紘弥が踏み込む。
正面。
雷を纏った身体が、一気にカロンとの距離を奪った。
同時に玲奈が反対側へ回り込む。
カロンの視線が紘弥を追う。
「【雷砲】!」
二つの銃口へ集められた雷が、一気に放たれた。
極太の雷光が石橋を走る。
カロンは櫂を正面に構えた。
衝突。
青白い光が夜の池を照らし、水面が大きく揺れた。
「――」
カロンの足が石橋の上を滑る。
押される。
だが、倒れない。
櫂を盾のように使い、正面から雷光を受け止め続けている。
「西園寺!」
「分かってる!」
玲奈が死角へ入った。
「【アイス・レイ】」
冷気の光線が横からカロンを捉える。
雷と氷。
二つの攻撃が同時に襲いかかった。
カロンの外套が凍りつき、その上から雷が走る。
足元の石橋へ霜が広がった。
「……なるほど」
カロンの声が、光の中から聞こえた。
「これは、一人では見られぬものだ」
「だったらよく見とけ!」
紘弥が叫ぶ。
雷光が消える。
白い煙と冷気の向こうで、カロンはまだ立っていた。
外套は焦げ、片側は凍りついている。
それでも櫂は手放していない。
「しぶてえな……!」
「九条、まだよ」
「ああ」
紘弥の頬には、まだ白く変色した部分が残っている。
感覚も戻らない。
だが、身体は動く。
双銃も握れる。
玲奈も隣にいる。
なら、戦える。
「もう一回いくぞ」
「ええ」
カロンがゆっくりと櫂を構え直す。
「何度でも来るといい」
「言ったな」
紘弥が笑う。
「後悔すんなよ!」
雷が再び弾ける。
冷気がそれに重なる。
二人は同時に石橋を蹴り、カロンへ向かって走り出した。
濁った水面には枯れかけた蓮が浮かび、その中央を横切るように小さな石橋が架かっている。夜風が吹くたび、蓮の葉が擦れ合って乾いた音を立てた。
橋の中央に、一人の男が立っている。
黒い外套。
深く被ったフードの奥では、二つの光だけがぼんやりと揺れていた。
右手には、自身の背丈ほどもある長い櫂。
大広間から姿を消したカロンだった。
「……見つけたぜ」
紘弥が池の手前で足を止める。
その隣へ玲奈も並んだ。
カロンは逃げようとしない。
二人が追ってきたことなど、最初から分かっていたかのように静かに立っている。
「逃がさねえぞ」
紘弥は右手を前へ出した。
「轟け――〈麒麟〉」
青白い雷が弾け、両手へ銀色の双銃が顕現する。
隣では、玲奈も右手を伸ばした。
「凍てつけ――〈ニヴルヘイム〉」
冷気が集まり、細身の氷剣が形を成す。
周囲の空気が僅かに冷え、足元の草へ白い霜が降り始めた。
「……お前ら」
カロンが初めて口を開いた。
低く、しわがれた声だった。
「渡りたいのか」
「は?」
紘弥が眉を寄せる。
「この橋は、渡し賃を払った者しか渡れぬ」
カロンは手にした櫂を軽く持ち上げた。
「お前らに、それがあるか」
「いや、橋渡りに来たんじゃねえよ」
紘弥は呆れたように双銃を肩へ乗せる。
「お前をとっ捕まえに来たんだ」
「そうか」
カロンはそれだけ答えた。
「ならば、ここは通さぬ」
「話が早くて助かるぜ」
紘弥が銃口を向ける。
その横で、玲奈も〈ニヴルヘイム〉の切っ先をカロンへ合わせた。
「九条」
「ああ」
次の瞬間、カロンが動いた。
「――っ!」
櫂が石橋の上を薙ぎ払う。
先端が石畳へ触れ、砕けた石片が二人へ向かって飛んだ。
玲奈が一歩前へ出る。
「【アイス・ウォール】」
氷の壁がせり上がり、飛来した石片を受け止めた。
硬い音が連続して響き、表面へ細かな亀裂が広がっていく。
「サンキュ!」
「礼を言ってる暇があるなら前を見なさい」
「分かってるって!」
玲奈の声と同時に、氷壁の向こうから櫂が突き出された。
先端が氷を割り、一直線に玲奈へ迫る。
「――!」
玲奈は咄嗟に身体を捻った。
櫂が頬のすぐ横を通過する。
風圧に銀髪が大きく揺れた。
そのまま後ろへ跳び、距離を取る。
「速いわね」
「見た目によらず、だろ?」
「余計なこと言わなくていい」
紘弥が横から飛び込んだ。
双銃が火を噴く。
青白い雷弾が石橋の上を走り、カロンへ殺到した。
カロンは櫂を両手で持ち、目の前で回転させる。
一発。
二発。
雷弾が柄へぶつかるたび、青白い火花が散った。
だが、すべてを防ぎ切れるわけではない。
一発が肩を掠め、外套を焦がす。
「もらった!」
紘弥はさらに踏み込んだ。
銃使いでありながら、接近戦も躊躇しない。
カロンが櫂の柄を突き出してくる。
狙いは腹部。
紘弥は身体を横へずらし、その一撃をかわした。
「はらよっ!」
続けて回し蹴り。
靴底が櫂の側面を蹴り上げ、軌道を強引に逸らす。
「――」
カロンの上体が僅かに崩れた。
その懐へ、二つの銃口が向けられる。
「逃がさねえよ!」
連射。
雷弾が至近距離からカロンの胴を撃ち抜く。
衝撃のたびに黒い外套が揺れ、白い煙が立ち上った。
カロンの身体が後ろへ押し戻される。
「どうだ!」
「悪くない」
「その反応だけかよ!」
紘弥が顔をしかめる。
カロンは焦げた外套へ一度視線を落としただけだった。
「渡し守は、様々な者を見送る」
「……さっきからその渡し守って何なんだよ」
「役目だ」
カロンは静かに答える。
「この役目、ハデス様が生まれるより前からのものだ」
「知らねえよ、そんな大昔の話」
紘弥は双銃を構え直した。
「今はお前をここから動かさなきゃ、それでいい」
「そうか」
「……本当にそれしか言わねえな、お前」
「必要なことは言っている」
「いや、足りてねえよ」
玲奈が小さく息を吐く。
「九条。会話しに来たんじゃないでしょう」
「分かってるって」
「なら集中しなさい」
「はいはい」
カロンのフードの奥で二つの光が揺れる。
「変わった者たちだ」
「よく言われるぜ」
「九条だけよ」
「俺だけかよ!」
その瞬間、カロンが踏み込んだ。
二人との距離が一気に縮まる。
「来るわよ!」
玲奈が〈ニヴルヘイム〉を振るう。
冷気が地面を這い、石橋の表面を瞬く間に凍らせていく。
カロンは足を止めない。
凍結する直前の場所を選びながら、石橋を駆け抜ける。
「器用な真似しやがる!」
紘弥が引き金を絞る。
雷弾。
カロンは身体を傾けてかわす。
そのまま櫂を横薙ぎに振った。
紘弥がしゃがむ。
頭上を太い柄が通過した。
「西園寺!」
「分かってる!」
玲奈が死角へ入る。
「【アイス・レイ】」
冷気の光線が横から放たれた。
カロンは櫂を引き戻す。
完全には間に合わない。
冷気が脇腹を捉え、外套が白く凍りついた。
霜がそこから一気に広がっていく。
「……」
カロンの身体が僅かによろめいた。
「入った!」
「まだよ」
玲奈の言葉通り、カロンは倒れない。
凍りついた外套をものともせず、再び櫂を構えた。
「二人がかりか」
「悪い?」
玲奈が即座に返す。
「一人ずつ相手をしてあげる理由なんてないわ」
「そうか」
「またそれかよ」
紘弥が苦笑する。
その身体から、青白い雷が弾けた。
雷が腕から肩、胴、脚へと広がっていく。
全身へ属性を纏わせる。
髪の先まで電光が走り、紘弥を包む空気が細かく震えた。
わざわざ名を口にする必要はない。
何度も使ってきた技術だ。
「本気でいくぜ」
地面を蹴る。
雷光だけを残し、紘弥の姿が消えた。
「――」
カロンのフードが動く。
右。
紘弥が現れる。
銃声。
カロンが櫂で防ぐ。
直後、左。
二発目。
さらに背後。
三発目。
カロンは身体を回しながら櫂を振るい、次々と雷弾を払っていく。
「速いな」
「余裕ぶってんじゃねえよ!」
紘弥は足を止めない。
石橋の欄干や池の縁を利用し、角度を変えながら撃ち続ける。
カロンの視線を一方向へ固定させない。
「九条、そのまま」
「任せた!」
玲奈も動いた。
冷気が全身を薄く包む。
一歩。
石橋へ踏み込む。
紘弥へ意識を向けていたカロンの側面へ、一瞬で入り込んだ。
〈ニヴルヘイム〉の切っ先が突き出される。
カロンは櫂の柄で弾く。
玲奈は止まらない。
二撃。
三撃。
細剣による高速の刺突が、続けざまにカロンを襲う。
カロンは長い櫂を巧みに持ち替えながら、それらを捌いていった。
「……二人とも速い」
「お褒めに預かり光栄ね」
直後だった。
カロンの櫂が大きく振られる。
「――っ!」
玲奈が後ろへ跳ぶ。
紘弥も反対側へ退いた。
櫂は二人の間を通過し、そのまま石橋の欄干を叩き割った。
石片が池へ落ち、水飛沫を上げる。
橋の一部へ亀裂が走った。
だが、崩れ落ちるほどではない。
「危ねえな……!」
「追ってきたのはお前たちだ」
「だからって遠慮しろとは言わねえけどよ!」
紘弥が再び距離を詰める。
雷を纏った身体が加速する。
カロンの正面。
双銃を向ける。
「そこだ!」
カロンは櫂を振るった。
紘弥が咄嗟に身体を反らす。
先端が鼻先を通過した。
そのまま一歩踏み込み、右の銃口をカロンへ向ける。
だが。
「甘い」
戻ってきた櫂が、今度は紘弥の進行方向へ置かれた。
「――!」
避けきれない。
紘弥は首を捻った。
櫂の先端が頬を掠める。
鋭い痛み。
身体がそのまま横へ流れた。
「九条!」
「平気だ!」
着地する。
頬に熱いものが伝った。
指で触れる。
薄く血がついている。
「こんくらい――」
言いかけて、止まった。
妙だった。
「……なんだ、これ」
傷口の周囲から、じわりと感覚が薄れていく。
痛みが引いたわけではない。
触れているはずなのに、頬そのものが自分の身体ではなくなっていくような感覚。
指先から伝わってくるのは、妙な冷たさだけだった。
「九条」
玲奈の声が変わる。
「頬が白くなってるわよ」
「……あ?」
紘弥はもう一度、自分の頬へ触れた。
当然、自分では見えない。
だが、玲奈が冗談を言っている顔ではないことくらい分かる。
「そうかよ。……感覚がねえのは分かってたけどな」
カロンが櫂を下ろした。
「触れれば、渡る」
静かな声だった。
「少しずつだ。慌てることはない」
「……嫌な能力しやがって」
紘弥は顔をしかめた。
傷そのものは浅い。
それなのに、その周囲だけ明らかに何かがおかしい。
血の量とも、傷の深さとも関係がない。
櫂に触れたこと自体が原因だ。
「どこまで広がるの?」
玲奈がカロンへ尋ねる。
「触れた分だけだ」
「解除方法は?」
「さてな」
「答える気ないって顔ね」
「顔は見えていないはずだ」
「そういうところよ」
玲奈が冷たく返した。
「九条。無理はしないで」
「するかよ」
紘弥は即答した。
「頬がちょっと痺れたくらいで引っ込んでられるか」
「ちょっと、で済むか分からないでしょう」
「だから次から当たらなきゃいい」
「簡単に言うわね」
「その方が俺らしいだろ?」
紘弥は笑って双銃を握り直した。
頬に触れていた手を下ろす。
「ただし、西園寺」
「何?」
「あの櫂には触れんなよ」
「言われなくても分かってる」
カロンは二人のやり取りを黙って見ていた。
やがて、フードの奥の光が僅かに細くなる。
「……面白い」
「は?」
「この役目は、長く一人でやってきた」
カロンは櫂を握り直した。
「だが、こうして言い合いながら向かってくる者は、久しく見ていない」
「そりゃどうも」
「大抵の者は一人で来る。一人で怯え、一人で渡っていく」
「知らねえよ、そんな昔話」
紘弥の身体を包む雷が強く弾ける。
「今は俺たちの番だろ」
玲奈も〈ニヴルヘイム〉を構え直した。
「それに」
玲奈がちらりと紘弥を見る。
「私たちは渡るつもりなんてないわ」
「お前を止めに来ただけだからな」
「そうだったな」
カロンが答える。
その声に、ほんの僅かだが先ほどまでとは違う響きが混じった。
楽しんでいる。
少なくとも、紘弥にはそう聞こえた。
「九条」
「おう」
紘弥は二つの銃口をカロンへ向ける。
「次、俺が前から崩す」
「合わせるわ」
「頼んだ」
「言われなくても」
雷が石橋を照らした。
玲奈の周囲では冷気が渦を巻き、白い霜が足元へ広がっていく。
カロンも櫂を両手で構えた。
「来い」
その一言を合図に、紘弥が踏み込む。
正面。
雷を纏った身体が、一気にカロンとの距離を奪った。
同時に玲奈が反対側へ回り込む。
カロンの視線が紘弥を追う。
「【雷砲】!」
二つの銃口へ集められた雷が、一気に放たれた。
極太の雷光が石橋を走る。
カロンは櫂を正面に構えた。
衝突。
青白い光が夜の池を照らし、水面が大きく揺れた。
「――」
カロンの足が石橋の上を滑る。
押される。
だが、倒れない。
櫂を盾のように使い、正面から雷光を受け止め続けている。
「西園寺!」
「分かってる!」
玲奈が死角へ入った。
「【アイス・レイ】」
冷気の光線が横からカロンを捉える。
雷と氷。
二つの攻撃が同時に襲いかかった。
カロンの外套が凍りつき、その上から雷が走る。
足元の石橋へ霜が広がった。
「……なるほど」
カロンの声が、光の中から聞こえた。
「これは、一人では見られぬものだ」
「だったらよく見とけ!」
紘弥が叫ぶ。
雷光が消える。
白い煙と冷気の向こうで、カロンはまだ立っていた。
外套は焦げ、片側は凍りついている。
それでも櫂は手放していない。
「しぶてえな……!」
「九条、まだよ」
「ああ」
紘弥の頬には、まだ白く変色した部分が残っている。
感覚も戻らない。
だが、身体は動く。
双銃も握れる。
玲奈も隣にいる。
なら、戦える。
「もう一回いくぞ」
「ええ」
カロンがゆっくりと櫂を構え直す。
「何度でも来るといい」
「言ったな」
紘弥が笑う。
「後悔すんなよ!」
雷が再び弾ける。
冷気がそれに重なる。
二人は同時に石橋を蹴り、カロンへ向かって走り出した。

