魔力の少ない魔法使い二年生編

 崩れた壁の穴を抜けた先は、屋敷の裏庭にある古い池だった。
 石造りの小さな橋が、濁った水面に架かっている。周囲には枯れかけた蓮が浮かび、水面はほとんど動いていない。まるで、時間そのものが澱んでいるような場所だった。夜風が吹くたびに、蓮の葉が力なく揺れ、乾いた音を立てる。
 その橋の中央に、カロンは立っていた。
 黒い外套。フードの奥に、ぼんやりとした二つの光だけが揺れている。手にした長い櫂の先が、静かに水面を撫でていた。
「……逃がさねえぞ」
 絋弥が着地と同時に双銃を構えた。
「轟け――〈麒麟〉」
 解号と同時に、彼の両手へ銀色の双銃が顕現する。銃身の側面に走る雷の紋様が、月光を受けて青白く光った。
 玲奈は無言のまま、隣に並んだ。
「凍てつけ、〈ニヴルヘイム〉」
 冷気を纏った氷細剣が、彼女の手に生まれる。刃が触れた橋の欄干が、瞬く間に白い霜を吹いた。
「……お前ら」
 カロンが、初めて口を開いた。
 声は、しわがれていた。何百年も同じ言葉しか発してこなかったような、乾いた響き。
「渡りたいのか」
「は?」
「この橋は、渡し賃を払った者しか渡れぬ」
 カロンは、櫂を軽く持ち上げた。
「お前らに、それがあるか」
「……何言ってんだこいつ」
 絋弥が眉を寄せた。
「渡し賃も何も、お前をとっ捕まえに来ただけなんだが」
「そうか」
 カロンは、それだけ言った。
「では、渡し賃の代わりに、命をもらう」
「――ッ!」
 言葉が終わるより早く、カロンの姿が動いた。
 櫂が、橋の石畳を薙ぐ。
 石が爆ぜ、破片が散弾のように飛んだ。
「危な……!」
 玲奈が絋弥の前へ滑り込み、氷の刃で破片を弾く。金属と石がぶつかる硬質な音が連続した。
「サンキュ」
「礼はいい。前を見なさい」
 カロンは、既に間合いを詰めていた。
 櫂の先端が、玲奈の胸元へ真っ直ぐに伸びる。
「――【アイス・ウォール】!」
 玲奈は氷の壁を割り込ませた。だが、櫂はそれを紙のように貫いた。
 止まらない。
「――っ!」
 玲奈は身をひねって回避した。頬を、乾いた木の匂いが掠める。
「速い」
 彼女は距離を取りながら、冷静に呟いた。
「見た目に反して」
「渡し守は、急がぬように見えて、待たせぬ」
 カロンは淡々と言った。
「この役目、ハデス様が生まれるより前からのものだ」
「知らねえよ、そんな役目」
 絋弥が横から割り込んだ。
 カロンが即座に間合いを詰め、櫂の柄で絋弥の胴を突こうとする。
 銃の間合いを潰しにきた動きだ。だが、絋弥はそれを読んでいた。
「はらよっ!」
 鋭い踏み込みに合わせた、目にも止まらぬ回し蹴り。
 カロンの櫂の軌道を蹴り上げて逸らし、体勢を大きく崩させる。
「――なっ」
「逃がさねぇよ」
 崩れた懐へ、双銃の銃口が突きつけられた。
 連射。
 青白い雷弾が、立て続けにカロンの胴を撃ち抜く。銃声が池に反響し、水面が波紋を幾重にも広げた。撃たれるたびに、カロンの外套から白い煙のようなものが立ち上る。
「……当たっている」
 カロンは静かに言った。
「だが、私に、痛みという概念は薄い」
「マジかよ」
 絋弥が舌打ちする。
「じゃあ、これはどうだ」
 絋弥は距離を取り直し、双銃を構え直した。
 銃身の表面を、青白い光が這い始める。
「本気か」
 カロンの声が、僅かに変わった。
「……ああ、本気だ」
 絋弥は不敵に笑った。バチバチと音を立てて雷が全身を包み、髪の先まで青白く帯電していく。
「なるほどな」
 カロンは、櫂を両手で構え直した。
「では、私も相応に」
 その瞬間、彼の櫂の先端に、黒い霧のようなものが渦を巻き始めた。
「西園寺、下がれ!」
「言われなくても」
 二人は同時に跳んだ。
 直後、カロンの薙いだ櫂が、橋の中央を一撃で崩壊させた。石が水音を立てて池へ落ちていく。飛沫が舞い、月明かりを弾いて銀色に散った。
「……渡し守が、船を沈めるとはな」
「橋ではない」
 カロンは池の上に、重力を無視して佇んでいた。
「渡れぬ場所を、作っているだけだ」
「……回りくどい野郎だ」
 絋弥は雷を纏った身体で地を蹴った。
 一瞬で間合いが消える。双銃の銃口が、至近距離からカロンの外套へ突きつけられた。
「――ッ!」
 連射。
 カロンは櫂で払おうとしたが、絋弥の速度がそれを上回った。銃弾が外套を穿ち、その下から覗く肌に触れるたび、じゅっと音を立てて何かが焼ける。
「重いな、これは」
 カロンの声に、初めて僅かな驚きが滲んだ。
「久しく感じていなかった」
「そりゃどうも」
 絋弥は距離を保ったまま、周囲を高速で旋回し始めた。
 カロンの視線が追いきれないほどの速さで、右へ、左へ、橋の残骸を蹴って弧を描く。
「動きが単調じゃ、あんたに当てらんねえからな」
 絋弥は旋回しながら銃口を振った。
 その隙を、玲奈は見逃さなかった。
「――【アイス・レイ】」
 背後から放たれた冷気の光線が、カロンの脇腹を捉えた。外套が凍りつき、白い霜が広がっていく。触れた部分だけでなく、その周囲の空気ごと凍らせていくような、密度の高い冷気だった。池の水面にまで薄氷が這い、蓮の葉が音を立てて縁から凍りついていく。
「……」
 カロンは、初めて僅かに体勢を崩した。
「二人がかりか」
「悪いか」
 玲奈は冷たく言った。
「一人よりましだと言っただけ」
「言っておくが」
 絋弥が旋回しながら続けた。
「あんたが渡し守だろうが何だろうが、俺たちにゃ関係ねえ」
「……そうか」
 カロンの櫂が、氷を割って動いた。
 絋弥の軌道を読み切ったように、その進路上へ先回りする。
「――っ!」
 辛うじて身をひねった絋弥の頬を、櫂の先が掠めた。
 薄く裂けた皮膚から、赤いものが滲む。
 だが、それだけではなかった。
 傷口の周囲が、じわりと色を失っていく。
「……なんだ、これ」
 絋弥は自分の頬に触れた。
 感覚が、鈍い。指先が、氷を触っているような冷たさを伝えてくる。掠めた程度の傷のはずなのに、痛みよりも先に、感覚そのものが遠のいていく。
「九条、頬が白くなってるわよ」
 玲奈が鋭く言った。
「……あ?」
 絋弥は自分では見えない頬を、もう一度擦った。見えない以上、確かめようがない。
「そうかよ。……感覚がねえのは分かってたけどな」
「触れれば、渡る」
 カロンは、静かに告げた。
「少しずつだ。慌てることはない」
「……嫌な能力しやがって」
 絋弥は顔をしかめた。
 傷は浅い。だが、明らかに普通の傷とは違う何かが、そこから染み込んでくる。色まで変わっているとなれば、進行はこちらが思うより早いのかもしれない。
「無理はしないで」
「するかよ、そんなもん」
 絋弥は双銃を握り直した。頬に触れた指先を一瞥し、それを気にしないふりで振り払う。
「けどな、西園寺。お前も、あの櫂には触れんなよ」
「言われなくても分かってる」
 カロンは、その二人のやり取りを、フードの奥から静かに見ていた。
「……面白い」
「は?」
「この役目は、長く一人でやってきた。だが、こう言い合いながら向かってくる者を、私は久しく見ていない」
 カロンの声に、初めて感情めいたものが混じった。
「大抵の者は、一人で来る。一人で怯え、一人で渡っていく」
「知らねえよ、そんな昔話……今は俺たちの番だ」
 絋弥は、それでも笑って見せた。
 玲奈も同時に踏み込む。
 雷を纏った双銃と、氷を纏った剣が、左右からカロンへ迫った。
 カロンは、櫂を構え直した。
 池の水面が、月光を受けて静かに揺れていた。凍りついた蓮の葉が、風もないのに小さく軋んだ音を立てる。