魔力の少ない魔法使い二年生編

 追いつくまで、それほど時間はかからなかった。
「……派手にやってくれる」
 雨宮は足を止め、ずれた眼鏡を中指で押し上げた。
 目の前に広がる庭園には、一本の傷跡が奥まで続いている。
 枯山水を模していたはずの白砂は大きく乱れ、深く抉られた地面には砕けた庭石が転がっていた。生垣の一部も薙ぎ倒され、その先にある土塀には新しい亀裂が走っている。
 ティシポネが通った跡だ。
 庭の向こうは山の斜面へ続いている。
 里の住民たちは、まだ避難している途中のはずだった。どこまで離れられたのかまでは分からない。
 なら、これ以上先へ行かせるわけにはいかない。
「おい」
 雨宮は声を張った。
「そこの、目つきの悪い姉さん」
 庭の奥。
 崩れた土塀の上で、一つの影が止まった。
 ティシポネがゆっくりと振り返る。
 濡れたような黒髪が夜風に流れ、白目も黒目もない真紅の眼球がぎょろりと動いて雨宮を捉えた。
「……あら」
 初めて、その口から声が漏れた。
 見た目から想像していたものとは違う。澄んだ、若い女の声だった。
「一匹、ついてきたのね」
「一匹言うな。俺にも名前くらいあんだよ」
「いらないわ、そんなもの」
 ティシポネは土塀から降りた。
 裸足の足が白砂へ触れる。
「どうせ覚えないもの」
「……傷つくねえ」
 雨宮は肩をすくめ、右手を前へ差し出した。
「深淵へ沈め、〈リヴァイアサン〉」
 解号とともに、深海を思わせる蒼い剣がその手に顕現する。
 雨宮はそのまま全身へ魔力を巡らせた。
 身体の表面に滲み出した蒼い水が、四肢を包み込むように広がっていく。やがてそれは衣のように全身へまとわりつき、静かに波打ち始めた。
 ティシポネの真紅の目が、僅かに細まる。
「……へえ」
「悪いけど、これ以上は行かせねえよ」
「あなたが決めることかしら」
「ああ。俺が決めた」
 雨宮が〈リヴァイアサン〉を構える。
 金属音が鳴った。
 鞭が来る。
 雨宮はそれを見た瞬間、横へ跳んだ。
 直後、たった今まで立っていた場所へ棘だらけの鞭が叩き込まれる。白砂が弾け、細かな砂利と土が周囲へ飛び散った。
 着地した雨宮の視線は、ティシポネから一度も外れていない。
 二撃目。
 今度は横薙ぎ。
 上体を伏せてかわす。
 三撃目は、一撃目より僅かに遅れて逆側から飛んできた。
 後方へ跳び、間合いを外す。
(……速い。けど、見えないほどじゃねえ)
 鞭そのものを追う必要はない。
 振る直前の肩、腕、重心。
 相手の身体を見ていれば、次にどこへ飛んでくるかはある程度読める。
 三度見れば、十分だった。
「【アクア・ブレット】」
 空いた左手から、水の弾丸が連続して放たれる。
 狙ったのはティシポネ本人ではない。
 その足元だ。
 水弾が白砂へ次々と着弾し、大量の砂を巻き上げた。
「……小賢しい」
 白く濁った視界の中で、鞭が空を薙ぐ。
 だが、雨宮はもう正面にはいなかった。
 砂が舞い上がった直後に大きく回り込み、ティシポネの側面へ出る。
「【水狐】!」
 〈リヴァイアサン〉を振り抜く。
 圧縮された水の斬撃が横合いからティシポネの脇腹を捉えた。
 布が裂け、その下の肌から黒に近い赤が散る。
「――ッ」
 ティシポネの身体が横へ流れた。
「まだだ!」
 雨宮が踏み込む。
 蒼い水を纏った身体が白砂を蹴り、距離を一気に詰める。
 振り抜かれた〈リヴァイアサン〉が、ティシポネへ迫った。
 だが、刃が届く直前。
 女の身体が真上へ跳ぶ。
「逃がすかよ!」
 雨宮は剣を止めない。
 空中にいる相手の動きを見定めながら、左手を上げた。
「【アクア・ランス】!」
 複数の水槍が、斜め下から空中のティシポネへ射出される。
 ティシポネは鞭を振るい、一本目を叩き落とした。
 二本目。
 三本目。
 続けざまに打ち落としていく。
 すべてを防いだことで、落下位置がずれた。
「そこだ!」
 雨宮は既に先回りしている。
 〈リヴァイアサン〉を下段に構え、落ちてくる身体を待ち構えた。
 しかし、ティシポネは地面へ降りなかった。
 空中で鞭を振り、庭石へ巻きつける。そのまま身体を横へ引き、着地点を強引に変えた。
「――外した」
 雨宮の斬り上げが空を切る。
「上手ね」
 声は、もう後ろから聞こえた。
「……っ!」
 振り向くより先に、雨宮は地面を転がった。
 直後、鞭が振り下ろされる。
 白砂が縦に裂け、土が舞い上がった。
「本当に上手」
 ティシポネは笑っていた。
 先ほど【水狐】で裂いた脇腹からは、まだ血が流れている。
「久しぶりよ。こんなに動く子」
「そりゃどうも。褒められて伸びるタイプでね」
 雨宮は膝をついたまま眼鏡を押し上げた。
 呼吸が少し速い。
 全身を覆う水の衣を維持しながら、立て続けに魔法も使っている。消耗を無視して戦えるほど余裕はない。
 もう一度ティシポネを見る。
「……は?」
 雨宮の眉が寄った。
 脇腹の傷が、塞がり始めている。
 流れていた血が止まり、裂けた皮膚が徐々に元へ戻っていく。
 数秒後には、傷そのものがほとんど見えなくなっていた。
「……マジかよ」
 雨宮は口元を歪める。
「それは面倒くせえな」
「そう?」
 ティシポネは自分の脇腹へ一度だけ視線を落とした。
「これくらいなら、何度でも」
「嬉しくねえ情報をどうも」
 雨宮は立ち上がる。
 再生する。
 普通に斬り続けているだけでは埒が明かない。
(……無限って決めつけるのは早い)
 何かを消費している可能性はある。
 傷をつける。
 治させる。
 それを繰り返せば、いずれ変化が出るかもしれない。
 もちろん、こちらの魔力が先に尽きる可能性もある。
(……それでも、やるしかねえな)
 倒せなくてもいい。
 少なくとも、この女をここから動かさない。
 それだけでも、避難している住民たちが逃げる時間は増える。
「どうしたの?」
「いや」
 雨宮は〈リヴァイアサン〉を構え直した。
「どうやったら嫌がるか考えてただけだ」
「あら」
「斬って治るなら、また斬ればいいだろ」
 ティシポネの笑みが僅かに深くなる。
「面白い子」
「その言葉、あとで撤回させてやるよ」
 雨宮が地を蹴った。
 同時に、二本の鞭が左右から迫る。
「【水狐】!」
 正面から放たれた水圧の斬撃が一本目を弾き、軌道を逸らす。
 二本目は身体を沈めて潜り抜けた。
 そのまま間合いを詰めようとするが、ティシポネも後ろへ下がる。
 鞭の間合いを維持するつもりらしい。
「だったら――【アクア・ランス】!」
 水の槍を正面から放つ。
 ティシポネは避けなかった。
 二本の鞭を回転させ、飛んできた槍を次々と叩き落としていく。
 狙い通りだ。
 雨宮はその隙に庭石を踏み台にして跳んでいた。
 ティシポネの頭上を取る。
「〈瀑〉!」
 〈リヴァイアサン〉を上段から振り下ろす。
 刃に纏った大量の水ごと叩きつけるような一撃。
 ティシポネは咄嗟に腕と鞭を上げて受けた。
 重い水圧に押され、両膝が白砂へ沈む。
「……っ」
 初めて、その顔から余裕が僅かに消えた。
 雨宮は着地すると、すぐに距離を取る。
「今のは効いたみたいだな」
「少しだけね」
「十分だ」
 ティシポネが立ち上がった。
 直後、左右の鞭が同時に走る。
 一撃目を屈んでかわす。
 二撃目を〈リヴァイアサン〉で受け止めた。
「ぐっ……!」
 衝撃が腕を伝う。
 受け切れない。
 鞭の棘が水の衣を削り、そのまま肩口を浅く裂いた。
 血が制服へ滲む。
 雨宮の体勢が崩れた。
 そこへ、ティシポネが踏み込んでくる。
「近づくのもありかよ……!」
 雨宮が剣を引き戻すより早く、白い手が伸びた。
 首を掴まれる。
 次いで、身体が持ち上げられた。
「――っ」
 そのまま背中から白砂へ叩きつけられる。
「がっ……!」
 肺の空気が一気に押し出された。
 全身を包んでいた水の衣が激しく揺らぐ。
 視界の端で、ティシポネが腰を落とした。
 真紅の目が、間近から雨宮を覗き込んでいる。
「ねえ」
 笑っていた。
「今、どんな気分?」
「……最悪、だよ」
「そう」
 首を掴んだ指に力が込められる。
 呼吸が苦しくなる。
 雨宮は空いた左手でその腕を掴み、引き剥がそうとした。
 びくともしない。
(……力が違いすぎる)
 それでも、どこか妙だった。
 鞭を使わない。
 首を掴んだまま、さらに追撃を重ねる様子もない。
 ティシポネはただ、雨宮がどう動くのかを眺めるように笑っている。
 何を考えているのかは分からない。
 だが、こちらが動けるうちに仕掛けるしかない。
「……趣味、悪いな」
「そう?」
「そうだよ……」
 雨宮は苦しげに口元を歪める。
 ティシポネが僅かに首を傾げた。
「だったら、もっと楽しませて」
「誰が……!」
 雨宮は左手を持ち上げた。
 掌を、ティシポネの顔へ向ける。
「【アクア・ブレット】!」
 零距離から放たれた水弾が顔面で炸裂した。
「――ッ!」
 ティシポネの身体が仰け反り、首を掴んでいた手が離れる。
「かはっ……!」
 空気が一気に肺へ流れ込んだ。
 雨宮は咳き込みながら身体を転がし、すぐに距離を取る。
 膝をつき、乱れた呼吸を無理やり整えた。
 首が痛む。
 肩からも血が流れている。
 身体を包んでいた水の衣も、先ほどより明らかに薄くなっていた。
 それでも、立つ。
「言っとくけどな」
 〈リヴァイアサン〉を杖代わりにして身体を起こす。
「まだ終わる気はねえぞ」
 ティシポネがゆっくりと立ち上がった。
 濡れた前髪を掻き上げ、真紅の目を雨宮へ向ける。
「下には、逃げてる人間がいる」
 雨宮は剣を構え直した。
「後ろには、まだ戦ってる奴らがいる」
 足は重い。
 魔力も確実に減っている。
 それでも、一歩前へ出る。
「だから、ここは通さねえ」
 ティシポネの笑みは消えない。
 むしろ、先ほどより楽しそうだった。
「……まだやるの?」
「当たり前だろ」
「あなた、変ね」
「よく言われる」
 雨宮は眼鏡を押し上げる。
 レンズの向こうの目は、まだ戦意を失っていなかった。
「来いよ」
 全身を覆う水が、再び強く波打つ。
「何回来ても、ここで止めてやる」
「いいわ」
 ティシポネが二本の鞭を持ち上げた。
「もっと遊びましょう」
 鞭が夜気を裂く。
 雨宮も同時に白砂を蹴った。