魔力の少ない魔法使い二年生編

 四つの門が、同時に開いた。
 軋むような音とともに、底冷えする空気が大広間へ流れ込んでくる。
 その向こうに広がっているのは、ただの闇ではなかった。光さえ届かない、奥行きの分からない漆黒。その中から、最初の一体がゆっくりと姿を現す。
 ――大きい。
 俺は意識の奥で、思わずそう呟いた。
 馬や牛とは比べものにならないほどの巨体。全身を黒い毛皮に覆われ、その胴体から三つの首が伸びている。背後では太い蛇の尾が床を擦り、重い音を響かせていた。
「……マジかよ」
 紘弥が呻く。
「あれ、絵本で見たことあるぞ」
「ケルベロスね」
 玲奈が答えた。
「冥界の番犬。……本物なの?」
「そうじゃ」
 ハデスが、まるで自分の飼い犬でも紹介するかのように答える。
「よく知っておるな」
 ケルベロスの三つの頭が、ほとんど同時にこちらを向いた。
 六つの赤黒い瞳が薄暗い大広間の中で光り、牙の隙間から荒い息が漏れている。低い唸り声が響くたび、腹の奥まで細かな振動が伝わってきた。
 続いて、二つ目の門から人影が現れる。
 背の高い、痩せた男。全身を黒い外套で覆い、手には長い櫂を持っている。顔は深く被ったフードの奥に隠れ、そこから二つの淡い光だけが覗いていた。
 三つ目の門から出てきたのは、古びた甲冑を纏った男だった。
 腰には長剣。重そうな鎧姿だというのに足取りは静かで、門を抜けると周囲に目もくれずハデスの前まで進んでいく。
 そして、四つ目。
 最後に姿を現したのは、一人の女だった。
 濡れたような黒い長髪。両手には、無数の棘が生えた金属製の鞭が握られている。
 ゆっくりと上げられた顔を見て、思わず目が止まった。
 眼球が、すべて赤い。
 白目も黒目もない。血を流し込んだような赤だけがそこにあり、その目が大広間にいる俺たちを順番に確かめるように動いていく。
 四体が揃う。
 ハデス一人でも、俺たちとは明らかに格が違う。
 そこへ、さらに四体。
 どいつも見ただけでまともな相手ではないことくらいは分かった。
 橘も壁際で〈天ノ桜〉を握ったまま動かない。紘弥たちも言葉を失い、それぞれ門から現れた存在へ警戒の目を向けている。
 その中央で、ハデスだけが楽しそうに笑っていた。
「カロン、ラダマンテュス、ティシポネ……そしてケルベロスよ。よく来た、お前たち」
 呼びかけを受け、四体が頭を垂れる。
「呼びに応じ、参上いたしました」
 鎧の男――ラダマンテュスが答えた。
「して、ご命令は」
「命令などない」
 ハデスはあっさりと言った。
「好きにせよ」
「……は?」
 ラダマンテュスが僅かに顔を上げる。
「ここは現世じゃ」
 ハデスは大広間を見回した。
「お前たちは来たことがなかろう」
「……ええ」
「ならば、見て回るがよい。冥界とは何から何まで違っておろう」
「はあ……」
「余はここでこやつらと遊ぶ。お前たちは好きに歩き、好きに見て、好きに楽しめ」
「……我らへの命は」
「ないと言うておろう。いちいち聞くでない」
 面倒そうに手を振られ、ラダマンテュスはしばらく沈黙した。
 やがて、諦めたように頭を下げる。
「……承知いたしました」
 真っ先に動いたのはティシポネだった。
 真紅の目が大広間の外へ向き、その口元が僅かに歪む。
 次いで、両手の鞭が振るわれた。
 甲高い音とともに壁へ深い亀裂が走り、石材の一部が崩れ落ちる。
 ティシポネはもう一度鞭を振るって隙間を広げると、そこから外へ身体を滑り込ませ、そのまま夜の闇へ消えていった。
「おい!」
 雨宮が声を上げる。
 カロンも動いた。
 黒い外套を揺らしながら別の壁際へ向かい、手にした櫂を横薙ぎに振るう。鈍い衝撃音が響き、崩れた壁に人一人が通れるほどの穴が開いた。
 カロンは一度もこちらを振り返ることなく、その穴から外へ抜けていく。
 ラダマンテュスだけは、進む方向すら変えなかった。
 正面に壁があっても足を止めず、腰の長剣を抜く。
 一閃。
 石材が切り崩され、その先へ真っ直ぐ道が開いた。
「……道を選ぶって発想がねえのかよ」
 雨宮が、呆れたように呟く。
 大広間の壁にはいくつもの穴が開き、そこから冷たい夜風が吹き込んでいた。
 さっきまでの戦闘で傷んでいた建物に、さらに被害が増えている。このまま暴れられれば、屋敷がいつまで保つかも分からない。
「くそっ、外に出やがった!」
 紘弥が叫んだ。
「追わねえと、下に人がいるんだぞ!」
 その通りだった。
 里の住民たちは、俺たちがここへ来る途中で避難させたばかりだ。どこまで離れられたのかは分からない。
 このまま好き勝手に歩き回られれば、避難途中の村人たちと遭遇する可能性がある。
「行くぞ、西園寺!」
「言われなくても分かってる!」
 紘弥と玲奈が、カロンの消えた穴へ向かって走り出す。
 止める暇もなかった。
 二人の姿は、そのまま夜の闇の向こうへ消えていく。
「雨宮!」
 今度は八雲が声を張った。
「あっちだ!」
 二人の視線の先では、ラダマンテュスとティシポネがそれぞれ別の方向へ離れていこうとしていた。
「どっちをやる!」
 走りながら雨宮が問いかける。
「決まってんだろ、俺が鎧だ!」
 八雲は迷いなく答えた。
「女とやり合うのは俺のルールに反するからな。曲げる気はねえ!」
「……相変わらずブレねえな!」
「悪いか!」
「褒めてねえよ!」
「なら鞭の女は任せた!」
「分かった!」
 二人もそれぞれの相手を追って、大広間から飛び出していった。
 さっきまでいた仲間たちが、一気にいなくなる。
 大広間に残ったのは、俺の身体を動かしているアースと橘、烏廻さん。
 そして、祭壇の前に立つハデス。
 ケルベロスだけは、他の三体とは違ってその場から動いていなかった。
 三つの首が低い唸り声を上げながら、ハデスの方を見ている。
「……あの犬は、どうする気だ」
 烏廻さんが低く呟く。
 だが、ハデスは答えなかった。
 その時だった。
 まだ完全に閉じきっていなかった門の奥で、何かが動く。
 最初に見えたのは、漆黒の翼だった。
 雪のように白い髪。
 朱色の瞳。
 そして、手には身の丈を優に超える長大な鎌が握られている。
 男は大広間へ降り立つと、俺たちには目もくれずハデスへ視線を向けた。
「……久しいな、ハデス様」
 低く、静かな声だった。
「呼ばれたからには、馳せ参じましょう」
「うむ。よくぞ来た、タナトス」
 ハデスが満足そうに頷く。
(タナトス……)
 俺は意識の奥で、その名前を繰り返した。
 ハデスは顎の先で烏廻さんを示す。
「タナトスよ、ちょうどよい。あれの相手を任せる」
「……ほう」
 タナトスの朱い瞳が、初めて烏廻さんへ向いた。
 頭から足元までゆっくりと眺め、その視線が〈インドラ〉と〈ヴリトラ〉で止まる。
「そこの男」
「……あ?」
「お前、なかなか強いな。ハデス様がわざわざ私の相手に選ぶだけのことはあるらしい」
 烏廻さんの眉が僅かに動く。
「見ただけで分かんのかよ」
「ある程度はな」
 タナトスが鎌を持ち上げた。
「ここでは狭い。場所を移そう」
「勝手に決めんな」
 烏廻さんは面倒そうに吐き捨てながらも、二振りの剣を握り直す。
 タナトスは傍らにいるケルベロスへ目を向けた。
「行くぞ」
 三つの頭が一斉に持ち上がった。
 直後、ケルベロスが腹の底まで響く咆哮を上げる。
 巨体が床を蹴り、ティシポネが開けた壁の隙間へ向かって走り出した。
 残っていた石材をその巨体で押し退け、そのまま外へ抜けていく。
 続いて、タナトスの翼が大きく開いた。
 身体が宙へ浮かび、ケルベロスの後を追って夜の闇へ向かう。
「待ちやがれ!」
 烏廻さんが地を蹴ろうとしたところで、アースが声を飛ばした。
「おい」
 烏廻さんが一瞬だけ顔をこちらへ向ける。
「死ぬなよ」
「誰に言ってやがる」
 烏廻さんは鼻で笑った。
「そっちこそ、分かってんだろうな」
「ああ」
「ならいい」
 それだけ言い残し、烏廻さんも二体を追って外へ飛び出していった。
 崩れた壁の向こうへ、その背中が消える。
 俺には、その先を見ることはできない。
 身体を動かしているのはアースだ。そして今いる場所は、この大広間。
 外へ出た烏廻さんたちがどうなったのかは、ここからでは分からなかった。
 大広間に残った橘は〈天ノ桜〉を握ったまま、ハデスから目を離していない。
 俺も意識の奥から、祭壇の前を見据える。
 ハデスは、仲間たちが散っていった方角を順番に眺めると、やがてこちらへ視線を戻した。
「随分と静かになったのう」
 その声は、相変わらず楽しそうだった。
「お前が呼んだ連中のせいだろ」
 アースが返す。
「そうじゃったかの」
「とぼけんな」
 ハデスが小さく笑った。
 その目が、改めてアースを捉える。
「まあよい。客もそれぞれ楽しんでおるようじゃし、余も続きを楽しむとしよう」
「オレは遊びに付き合ってるつもりはねえぞ」
「そう言うな。せっかく久方ぶりに会えた、まともな相手なのじゃ」
 アースが一歩前へ出る。
 その両手には何もない。
 ただ静かに腰を落とし、ハデスの動きを見据えていた。
(アース)
『分かってる』
 俺が言葉を続けるより先に、声が返ってくる。
 ハデスの身体はサラのものだ。
 時間をかければかけるほど、あいつはその身体に慣れていく。
 それは、さっきアース自身が言っていたことでもある。
 ハデスも同じことを理解しているはずだ。
 だからこそ、ここで長引かせるわけにはいかない。
 アースが僅かに重心を前へ移した。
 それを見たハデスの笑みが、少しだけ深くなる。
「では、続きを始めようかの」
「ああ」
 アースの声が低くなる。
「今度は、逃がさねえ」