魔力の少ない魔法使い二年生編

 橘へ迫った黒い光の前に、二つの刃が割り込んだ。
 純白と漆黒。交差するように振り抜かれた二振りの剣が閃光を左右へ弾き、大広間の壁を穿つ。
 轟音とともに砂埃が舞い上がったが、橘には掠りもしなかった。
「……ほう」
 ハデスが、感心したように目を細める。
「あれを防ぐか」
 砂埃の向こうに、一人の男が立っていた。
 両手には、純白と漆黒の剣。その背中を見間違えるはずがない。
(……烏廻さん)
 胸の奥に張りつめていたものが、ほんの僅かに緩んだ。
 自分の身体を動かしているのはアースだ。それでも、烏廻さんの姿を見た瞬間にそう感じた。
 この人が来た。
 それだけで、状況が少しだけ好転したような気がしてしまう。
「いいタイミングだな、クソガキ」
 アースが言った。
「悪いな、遅くなった。思ったより数が多くてな」
「烏廻先生……!」
 緊張の糸が切れたのか、橘がその場に膝をついた。
「立てるか」
「……はい、たぶん」
「なら、今はそれでいい。下がってろ」
 烏廻さんは前を向いたまま言う。
 服には多少の汚れが付いていたが、烏廻さん自身に疲れた様子はない。
 右手の〈ヴリトラ〉と左手の〈インドラ〉も、今すぐ次の一撃を放てる位置で構えられていた。
「先生、他のみんなは……」
「後から来る。全員無事だ」
「……よかった」
 橘が、胸の奥に溜め込んでいた息を吐き出した。
 その声を聞いて、俺も少しだけ安堵する。
 玲奈も、紘弥も、雨宮も、八雲も。
 ここまで来た全員が無事らしい。
 だが、安心していられるのはそこまでだった。
 烏廻さんの視線が、ゆっくりとこちらへ向いた。
「……おい」
 正確には、俺の身体へ。
 髪は白く、目は金色になっている。見慣れた俺の姿とはかけ離れている以上、警戒されるのも当然だった。
「なんでお前が表に出てやがる。桐宮はどうした」
 声に混じる緊張は、隠そうともしていない。
「中にいる。無事だ」
 アースは短く答えた。
「……本当か」
「言っておくが、乗っ取ったわけじゃない。あいつの了承は取ってある」
「……」
 烏廻さんは答えず、じっとこちらを見ている。
 何を見ているのかは分からない。ただ、その目は普段教室で見せる気怠そうなものとは違っていた。
「あ、あの……」
 沈黙に耐えかねたように、橘が口を挟む。
「私もさっき助けてもらいました。桐宮君も中にいるみたいですし、その……信用していいと思います」
「……そうか」
 烏廻さんはアースをしばらく見据えていたが、それ以上は追及しなかった。
「後で説明しろよ」
「気が向いたらな」
「気が向かなくても喋らせる」
「随分と面倒な教師だな」
「生徒の身体を使ってる奴に言われたくねえよ」
 短いやり取りのあと、アースは再び前を向いた。
 烏廻さんも同じ方向へ視線を戻す。
「……で、あれがそうか」
「ああ」
 祭壇の前に立つサラ――ハデスを見て、烏廻さんの目が僅かに細まった。
 今まで何度も強敵と対峙してきたこの人が、一目見ただけで表情を変えた。
「なるほどな」
「分かるか」
「見りゃ分かる。あれは格が違う」
「その通りだ」
 アースは頷いた。
「だから手伝え」
「……あ?」
「聞こえなかったか。手伝えと言った」
 アースは面倒くさそうに繰り返す。
「今なら一人でも押し切れる。だが、時間がかかる」
「……」
「長引けば、あいつは器に慣れていく。そうなれば少し面倒だ」
 烏廻さんはしばらくハデスを見ていた。
 サラの身体を使っている以上、好き勝手に攻撃できないことも理解しているのだろう。
「どこまでやっていい」
「殺すな」
「それは分かってる」
「なら、動きを止めろ。俺が隙を作る」
「随分と雑な作戦だな」
「細かく決めても、あいつ相手じゃ意味がない」
「……それもそうか」
 烏廻さんが肩を軽く回した。
「分かった。合わせる」
「話が早くて助かる」
 アースが前へ出ようとした時、ふと思い出したように続けた。
「……あと、斬りすぎるなよ」
「分かってる。あれはクロイツの身体だ」
 その言葉に、胸の奥が僅かに痛んだ。
 見た目は確かにサラだ。
 ピンク色の髪も、小柄な身体も、見慣れた顔も全部そのまま。
 それなのに、その中にいるのはサラじゃない。
 ハデスはその身体を借りて、まるで自分のもののように立っている。
「話は終わったか」
 ハデスが小さく笑った。
「ああ」
 アースが向き直る。
「待たせて悪かったな。二人で行く」
「ほう」
 ハデスの目が僅かに輝いた。
「二人がかりか」
「不満か」
「……不満というほどではない。じゃが、余ばかりが不利というのも面白くない」
 その視線が烏廻さんへ移る。
「そちらの男もなかなか強そうだからのう」
「……分かるのか」
「当然じゃ。先ほどの一撃を防いだのを見た。人の身であれを斬るとは、大したものよ」
「……ちっ。褒められても嬉しくねえよ」
「そうか? 余は本気で言うておるのじゃがな」
 ハデスは心底不思議そうに首を傾げた。
 その仕草だけなら、本当にサラと変わらない。
 だからこそ、余計に気持ちが悪かった。
 そこへ、大広間の入口から複数の足音が響いてきた。
「隼人!」
「桐宮!」
 振り返らなくても声で分かる。
 紘弥、玲奈、雨宮、八雲。
 四人とも息を切らしてはいるが、見たところ大きな傷は負っていない。
「無事か、お前ら――」
 紘弥が言いかけ、そのまま固まった。
 視線は俺の髪へ釘付けになっている。
「……は?」
「……隼人、その髪」
 玲奈も目を見開いていた。
 無理もない。
 昨日まで黒かった髪が白くなり、目の色まで変わっているのだから。
「あー、これはだな」
 アースが面倒くさそうに口を開く。
「説明は後だ。今は前を見ろ」
「いや待て、お前誰だよ!」
「アースだ」
「アースって、あの――」
「そうだ。話は後にしろと言っている」
「本人の了承済みだ」
 烏廻さんが横から補足した。
「疑うなら後で殴れ。今は時間がない」
「いや、でも――」
「九条」
 玲奈が紘弥の肩を掴んだ。
「あれ、見て」
 玲奈の声が、途中から妙に小さくなった。
 その指が示している先。
 祭壇の前に立つ少女を見た瞬間、紘弥の表情から困惑が消えた。
「……サラ?」
 声が掠れている。
「あれ、サラだよな。なんで……」
 紘弥が一歩だけ前に出る。
 だが、その横で玲奈は動かなかった。
「違う」
「……は?」
「あれ……サラじゃない」
 玲奈の声は震えていた。
 俺たちよりも先に何かを感じ取ったわけじゃない。ただ、長く一緒にいたからこそ分かったのだろう。
 姿は同じでも、立ち方も、目も、表情も違う。
 サラなら、あんな目で俺たちを見ることはない。
「何言ってんだよ。どう見てもサラだろ」
「見た目はそうよ。でも……違う」
 玲奈は胸元を押さえた。
「サラなら、あんな顔しない」
 その一言に、紘弥も黙った。
 アースが短く告げる。
「あれは、お前らが知っているサラ・クロイツじゃない。中身が違う」
「……は?」
「冥王ハデス、数百年前、ここの連中が呼ぼうとして失敗したものが、今夜ようやく出てきた」
 その一言で、全員の顔から血の気が引いた。
「じゃあ……サラは」
 玲奈の声が震える。
「中にいるはずだ。ハデスは意識が消えたと言っていた」
「そんな……」
 玲奈が唇を噛んだ。
 紘弥は何も言わない。
 ただ拳だけが震えている。
 雨宮も、いつもの飄々とした表情を消していた。
 八雲ですら笑っていない。
 俺は意識の奥から呼びかける。
(玲奈。紘弥)
 当然、声にはならない。
 それでも何か伝えたかった。
 あいつらが今どんな顔をしているのか、見ているだけしかできない自分が腹立たしかった。
 その思いを拾ったのは、目の前の二人ではなくアースだった。
「おい、お前ら」
 アースが俺の代わりに口を開く。
「中の馬鹿が、伝えろとよ」
「……なんだよ」
「まだ諦めてない、だとさ」
 紘弥が俯いたまま拳を握りしめた。
「……当たり前だろ」
 短く吐き出してから、顔を上げる。
「ここまで来て、諦められるかよ」
「そうね」
 玲奈も迷わず頷いた。
 目元には涙が滲んでいたが、拭おうとはしなかった。
「私たちだって、諦めてない。サラを連れて帰るために来たんだから」
(……ああ)
 俺は、奥で一人頷いた。
 アースも何も言わなかった。
 ただ、僅かに口元を緩めたように感じた。
「なら下がってろ」
 次に出た言葉は、ひどく現実的だった。
「ここから先は、お前らの領分じゃない」
「けどよ!」
「九条」
 烏廻さんが遮る。
「言う通りにしろ。あれは、お前らが手を出せる相手じゃない」
「……っ」
「悔しいのは分かる。だが、無駄死にするな」
「……くそっ」
 紘弥が悔しげに拳を握る。
「西園寺、お前もそれでいいのかよ」
「よくないわよ」
 玲奈は即答した。
 その返事があまりにも早くて、紘弥が一瞬黙る。
「今すぐサラのところまで走っていきたい。でも、今の私たちじゃ足手まといになる。それくらいは分かるでしょ」
 平静を装ってはいるが、その声には隠しきれない悔しさが滲んでいた。
「……ああ」
「だから今は任せるしかない。悔しいけど」
 玲奈がサラを見つめる。
「絶対に、連れて帰るために」
 その言葉を聞きながら、俺は胸の奥で強く頷いた。
「ほう」
 それまで黙って眺めていたハデスが、初めて興味を示したように声を上げる。
「ずいぶんと増えたのう」
 心底楽しそうな声だった。
 こちらの焦りも、悔しさも、あいつには何の意味もないらしい。
「一人、二人、三人……七人か。よいよい。これは、なかなか面白くなってきたではないか」
「ふざけるな」
 アースが低く言った。
「こいつらは戦力じゃない。手を出すな」
「そうもいくまい」
 ハデスは首を横に振る。
「余の目の前に立っておるのじゃぞ。放っておけと言う方が無理じゃ」
「……」
「それに、じゃ」
 ハデスは両手を大きく広げた。
「せっかくこれだけ集まったのじゃ。余とお主らだけで遊ぶのも惜しいじゃろう」
 その言葉と同時に、大広間の空気が異様に歪んだ。
 最初に変化したのは音だった。
 遠くで続いていた戦闘音が、急に薄くなる。
 誰かの息遣いさえ妙に遠く感じられた。
 次いで、肌を撫でていた空気が冷えていく。寒いというより、体温だけを少しずつ奪われていくような嫌な冷たさだった。
「……なんだ?」
 紘弥が周囲を見回す。
 アースだけが、すぐに表情を変えた。
「下がれ」
「え?」
「全員、中央から離れろ」
 低い声に、迷いがなかった。
 烏廻さんも何かを察したらしい。
「聞こえたな。下がれ!」
 全員が動き始めた、その直後。
 布を強引に引き裂くような音が四方から響いた。
 空間そのものに、細い黒い亀裂が走る。
 一本だった裂け目が縦へ伸び、その両側へさらに亀裂を広げていく。黒い闇の向こう側には何も見えない。ただ、見ているだけで胸の奥がざわつく何かが、そこにある。
 やがて亀裂は、大きな門の形を作り上げた。
 四つ。
 大広間を囲むように現れた黒い門は、どれも天井近くまで届く高さがあった。
 表面には見覚えのない文字がびっしりと刻まれている。それなのに、不思議と見てはいけないものだということだけは分かった。
「なんだ、あれ……」
 紘弥が呻く。
 誰も答えない。
 門の向こうから、低い音が聞こえた。
 獣の唸り声にも、何か巨大なものが地面を引きずる音にも聞こえる。
 一つではない。
 二つでもない。
 いくつもの気配が、扉の向こうで蠢いている。
「まずいな」
 アースの声に、初めて明確な緊張が混じった。
「あれは、さっきの魔獣を出した穴とは違う」
「じゃあ、何なんだよ」
 紘弥が問う。
 アースは黒い門から目を離さない。
「……門だ」
「見りゃ分かるだろ」
「そういう意味じゃねえ」
 アースの声が僅かに低くなる。
「あれは、向こう側と直接繋がってる」
「向こう側?」
 玲奈が聞き返す。
 答えを聞く前から嫌な予感がした。
「冥界だ」
 その一言で、その場にいた全員が息を呑んだ。
 門の向こうから吹き込んできた冷たい風が、大広間に残っていた砂埃を巻き上げる。
 ハデスはその中心で、楽しそうに笑っていた。
「さて」
 まるでこれから宴でも始めるような口調だった。
「余の眷属どもを、少しばかり呼ばせてもらおうかの」