橘へ迫った黒い光の前に、二つの刃が割り込んだ。
純白と漆黒。交差するように振り抜かれた二振りの剣が閃光を左右へ弾き、大広間の壁を穿つ。
轟音とともに砂埃が舞い上がったが、橘には掠りもしなかった。
「……ほう」
ハデスが、感心したように目を細める。
「あれを防ぐか」
砂埃の向こうに、一人の男が立っていた。
両手には、純白と漆黒の剣。その背中を見間違えるはずがない。
(……烏廻さん)
胸の奥に張りつめていたものが、ほんの僅かに緩んだ。
自分の身体を動かしているのはアースだ。それでも、烏廻さんの姿を見た瞬間にそう感じた。
この人が来た。
それだけで、状況が少しだけ好転したような気がしてしまう。
「いいタイミングだな、クソガキ」
アースが言った。
「悪いな、遅くなった。思ったより数が多くてな」
「烏廻先生……!」
緊張の糸が切れたのか、橘がその場に膝をついた。
「立てるか」
「……はい、たぶん」
「なら、今はそれでいい。下がってろ」
烏廻さんは前を向いたまま言う。
服には多少の汚れが付いていたが、烏廻さん自身に疲れた様子はない。
右手の〈ヴリトラ〉と左手の〈インドラ〉も、今すぐ次の一撃を放てる位置で構えられていた。
「先生、他のみんなは……」
「後から来る。全員無事だ」
「……よかった」
橘が、胸の奥に溜め込んでいた息を吐き出した。
その声を聞いて、俺も少しだけ安堵する。
玲奈も、紘弥も、雨宮も、八雲も。
ここまで来た全員が無事らしい。
だが、安心していられるのはそこまでだった。
烏廻さんの視線が、ゆっくりとこちらへ向いた。
「……おい」
正確には、俺の身体へ。
髪は白く、目は金色になっている。見慣れた俺の姿とはかけ離れている以上、警戒されるのも当然だった。
「なんでお前が表に出てやがる。桐宮はどうした」
声に混じる緊張は、隠そうともしていない。
「中にいる。無事だ」
アースは短く答えた。
「……本当か」
「言っておくが、乗っ取ったわけじゃない。あいつの了承は取ってある」
「……」
烏廻さんは答えず、じっとこちらを見ている。
何を見ているのかは分からない。ただ、その目は普段教室で見せる気怠そうなものとは違っていた。
「あ、あの……」
沈黙に耐えかねたように、橘が口を挟む。
「私もさっき助けてもらいました。桐宮君も中にいるみたいですし、その……信用していいと思います」
「……そうか」
烏廻さんはアースをしばらく見据えていたが、それ以上は追及しなかった。
「後で説明しろよ」
「気が向いたらな」
「気が向かなくても喋らせる」
「随分と面倒な教師だな」
「生徒の身体を使ってる奴に言われたくねえよ」
短いやり取りのあと、アースは再び前を向いた。
烏廻さんも同じ方向へ視線を戻す。
「……で、あれがそうか」
「ああ」
祭壇の前に立つサラ――ハデスを見て、烏廻さんの目が僅かに細まった。
今まで何度も強敵と対峙してきたこの人が、一目見ただけで表情を変えた。
「なるほどな」
「分かるか」
「見りゃ分かる。あれは格が違う」
「その通りだ」
アースは頷いた。
「だから手伝え」
「……あ?」
「聞こえなかったか。手伝えと言った」
アースは面倒くさそうに繰り返す。
「今なら一人でも押し切れる。だが、時間がかかる」
「……」
「長引けば、あいつは器に慣れていく。そうなれば少し面倒だ」
烏廻さんはしばらくハデスを見ていた。
サラの身体を使っている以上、好き勝手に攻撃できないことも理解しているのだろう。
「どこまでやっていい」
「殺すな」
「それは分かってる」
「なら、動きを止めろ。俺が隙を作る」
「随分と雑な作戦だな」
「細かく決めても、あいつ相手じゃ意味がない」
「……それもそうか」
烏廻さんが肩を軽く回した。
「分かった。合わせる」
「話が早くて助かる」
アースが前へ出ようとした時、ふと思い出したように続けた。
「……あと、斬りすぎるなよ」
「分かってる。あれはクロイツの身体だ」
その言葉に、胸の奥が僅かに痛んだ。
見た目は確かにサラだ。
ピンク色の髪も、小柄な身体も、見慣れた顔も全部そのまま。
それなのに、その中にいるのはサラじゃない。
ハデスはその身体を借りて、まるで自分のもののように立っている。
「話は終わったか」
ハデスが小さく笑った。
「ああ」
アースが向き直る。
「待たせて悪かったな。二人で行く」
「ほう」
ハデスの目が僅かに輝いた。
「二人がかりか」
「不満か」
「……不満というほどではない。じゃが、余ばかりが不利というのも面白くない」
その視線が烏廻さんへ移る。
「そちらの男もなかなか強そうだからのう」
「……分かるのか」
「当然じゃ。先ほどの一撃を防いだのを見た。人の身であれを斬るとは、大したものよ」
「……ちっ。褒められても嬉しくねえよ」
「そうか? 余は本気で言うておるのじゃがな」
ハデスは心底不思議そうに首を傾げた。
その仕草だけなら、本当にサラと変わらない。
だからこそ、余計に気持ちが悪かった。
そこへ、大広間の入口から複数の足音が響いてきた。
「隼人!」
「桐宮!」
振り返らなくても声で分かる。
紘弥、玲奈、雨宮、八雲。
四人とも息を切らしてはいるが、見たところ大きな傷は負っていない。
「無事か、お前ら――」
紘弥が言いかけ、そのまま固まった。
視線は俺の髪へ釘付けになっている。
「……は?」
「……隼人、その髪」
玲奈も目を見開いていた。
無理もない。
昨日まで黒かった髪が白くなり、目の色まで変わっているのだから。
「あー、これはだな」
アースが面倒くさそうに口を開く。
「説明は後だ。今は前を見ろ」
「いや待て、お前誰だよ!」
「アースだ」
「アースって、あの――」
「そうだ。話は後にしろと言っている」
「本人の了承済みだ」
烏廻さんが横から補足した。
「疑うなら後で殴れ。今は時間がない」
「いや、でも――」
「九条」
玲奈が紘弥の肩を掴んだ。
「あれ、見て」
玲奈の声が、途中から妙に小さくなった。
その指が示している先。
祭壇の前に立つ少女を見た瞬間、紘弥の表情から困惑が消えた。
「……サラ?」
声が掠れている。
「あれ、サラだよな。なんで……」
紘弥が一歩だけ前に出る。
だが、その横で玲奈は動かなかった。
「違う」
「……は?」
「あれ……サラじゃない」
玲奈の声は震えていた。
俺たちよりも先に何かを感じ取ったわけじゃない。ただ、長く一緒にいたからこそ分かったのだろう。
姿は同じでも、立ち方も、目も、表情も違う。
サラなら、あんな目で俺たちを見ることはない。
「何言ってんだよ。どう見てもサラだろ」
「見た目はそうよ。でも……違う」
玲奈は胸元を押さえた。
「サラなら、あんな顔しない」
その一言に、紘弥も黙った。
アースが短く告げる。
「あれは、お前らが知っているサラ・クロイツじゃない。中身が違う」
「……は?」
「冥王ハデス、数百年前、ここの連中が呼ぼうとして失敗したものが、今夜ようやく出てきた」
その一言で、全員の顔から血の気が引いた。
「じゃあ……サラは」
玲奈の声が震える。
「中にいるはずだ。ハデスは意識が消えたと言っていた」
「そんな……」
玲奈が唇を噛んだ。
紘弥は何も言わない。
ただ拳だけが震えている。
雨宮も、いつもの飄々とした表情を消していた。
八雲ですら笑っていない。
俺は意識の奥から呼びかける。
(玲奈。紘弥)
当然、声にはならない。
それでも何か伝えたかった。
あいつらが今どんな顔をしているのか、見ているだけしかできない自分が腹立たしかった。
その思いを拾ったのは、目の前の二人ではなくアースだった。
「おい、お前ら」
アースが俺の代わりに口を開く。
「中の馬鹿が、伝えろとよ」
「……なんだよ」
「まだ諦めてない、だとさ」
紘弥が俯いたまま拳を握りしめた。
「……当たり前だろ」
短く吐き出してから、顔を上げる。
「ここまで来て、諦められるかよ」
「そうね」
玲奈も迷わず頷いた。
目元には涙が滲んでいたが、拭おうとはしなかった。
「私たちだって、諦めてない。サラを連れて帰るために来たんだから」
(……ああ)
俺は、奥で一人頷いた。
アースも何も言わなかった。
ただ、僅かに口元を緩めたように感じた。
「なら下がってろ」
次に出た言葉は、ひどく現実的だった。
「ここから先は、お前らの領分じゃない」
「けどよ!」
「九条」
烏廻さんが遮る。
「言う通りにしろ。あれは、お前らが手を出せる相手じゃない」
「……っ」
「悔しいのは分かる。だが、無駄死にするな」
「……くそっ」
紘弥が悔しげに拳を握る。
「西園寺、お前もそれでいいのかよ」
「よくないわよ」
玲奈は即答した。
その返事があまりにも早くて、紘弥が一瞬黙る。
「今すぐサラのところまで走っていきたい。でも、今の私たちじゃ足手まといになる。それくらいは分かるでしょ」
平静を装ってはいるが、その声には隠しきれない悔しさが滲んでいた。
「……ああ」
「だから今は任せるしかない。悔しいけど」
玲奈がサラを見つめる。
「絶対に、連れて帰るために」
その言葉を聞きながら、俺は胸の奥で強く頷いた。
「ほう」
それまで黙って眺めていたハデスが、初めて興味を示したように声を上げる。
「ずいぶんと増えたのう」
心底楽しそうな声だった。
こちらの焦りも、悔しさも、あいつには何の意味もないらしい。
「一人、二人、三人……七人か。よいよい。これは、なかなか面白くなってきたではないか」
「ふざけるな」
アースが低く言った。
「こいつらは戦力じゃない。手を出すな」
「そうもいくまい」
ハデスは首を横に振る。
「余の目の前に立っておるのじゃぞ。放っておけと言う方が無理じゃ」
「……」
「それに、じゃ」
ハデスは両手を大きく広げた。
「せっかくこれだけ集まったのじゃ。余とお主らだけで遊ぶのも惜しいじゃろう」
その言葉と同時に、大広間の空気が異様に歪んだ。
最初に変化したのは音だった。
遠くで続いていた戦闘音が、急に薄くなる。
誰かの息遣いさえ妙に遠く感じられた。
次いで、肌を撫でていた空気が冷えていく。寒いというより、体温だけを少しずつ奪われていくような嫌な冷たさだった。
「……なんだ?」
紘弥が周囲を見回す。
アースだけが、すぐに表情を変えた。
「下がれ」
「え?」
「全員、中央から離れろ」
低い声に、迷いがなかった。
烏廻さんも何かを察したらしい。
「聞こえたな。下がれ!」
全員が動き始めた、その直後。
布を強引に引き裂くような音が四方から響いた。
空間そのものに、細い黒い亀裂が走る。
一本だった裂け目が縦へ伸び、その両側へさらに亀裂を広げていく。黒い闇の向こう側には何も見えない。ただ、見ているだけで胸の奥がざわつく何かが、そこにある。
やがて亀裂は、大きな門の形を作り上げた。
四つ。
大広間を囲むように現れた黒い門は、どれも天井近くまで届く高さがあった。
表面には見覚えのない文字がびっしりと刻まれている。それなのに、不思議と見てはいけないものだということだけは分かった。
「なんだ、あれ……」
紘弥が呻く。
誰も答えない。
門の向こうから、低い音が聞こえた。
獣の唸り声にも、何か巨大なものが地面を引きずる音にも聞こえる。
一つではない。
二つでもない。
いくつもの気配が、扉の向こうで蠢いている。
「まずいな」
アースの声に、初めて明確な緊張が混じった。
「あれは、さっきの魔獣を出した穴とは違う」
「じゃあ、何なんだよ」
紘弥が問う。
アースは黒い門から目を離さない。
「……門だ」
「見りゃ分かるだろ」
「そういう意味じゃねえ」
アースの声が僅かに低くなる。
「あれは、向こう側と直接繋がってる」
「向こう側?」
玲奈が聞き返す。
答えを聞く前から嫌な予感がした。
「冥界だ」
その一言で、その場にいた全員が息を呑んだ。
門の向こうから吹き込んできた冷たい風が、大広間に残っていた砂埃を巻き上げる。
ハデスはその中心で、楽しそうに笑っていた。
「さて」
まるでこれから宴でも始めるような口調だった。
「余の眷属どもを、少しばかり呼ばせてもらおうかの」
純白と漆黒。交差するように振り抜かれた二振りの剣が閃光を左右へ弾き、大広間の壁を穿つ。
轟音とともに砂埃が舞い上がったが、橘には掠りもしなかった。
「……ほう」
ハデスが、感心したように目を細める。
「あれを防ぐか」
砂埃の向こうに、一人の男が立っていた。
両手には、純白と漆黒の剣。その背中を見間違えるはずがない。
(……烏廻さん)
胸の奥に張りつめていたものが、ほんの僅かに緩んだ。
自分の身体を動かしているのはアースだ。それでも、烏廻さんの姿を見た瞬間にそう感じた。
この人が来た。
それだけで、状況が少しだけ好転したような気がしてしまう。
「いいタイミングだな、クソガキ」
アースが言った。
「悪いな、遅くなった。思ったより数が多くてな」
「烏廻先生……!」
緊張の糸が切れたのか、橘がその場に膝をついた。
「立てるか」
「……はい、たぶん」
「なら、今はそれでいい。下がってろ」
烏廻さんは前を向いたまま言う。
服には多少の汚れが付いていたが、烏廻さん自身に疲れた様子はない。
右手の〈ヴリトラ〉と左手の〈インドラ〉も、今すぐ次の一撃を放てる位置で構えられていた。
「先生、他のみんなは……」
「後から来る。全員無事だ」
「……よかった」
橘が、胸の奥に溜め込んでいた息を吐き出した。
その声を聞いて、俺も少しだけ安堵する。
玲奈も、紘弥も、雨宮も、八雲も。
ここまで来た全員が無事らしい。
だが、安心していられるのはそこまでだった。
烏廻さんの視線が、ゆっくりとこちらへ向いた。
「……おい」
正確には、俺の身体へ。
髪は白く、目は金色になっている。見慣れた俺の姿とはかけ離れている以上、警戒されるのも当然だった。
「なんでお前が表に出てやがる。桐宮はどうした」
声に混じる緊張は、隠そうともしていない。
「中にいる。無事だ」
アースは短く答えた。
「……本当か」
「言っておくが、乗っ取ったわけじゃない。あいつの了承は取ってある」
「……」
烏廻さんは答えず、じっとこちらを見ている。
何を見ているのかは分からない。ただ、その目は普段教室で見せる気怠そうなものとは違っていた。
「あ、あの……」
沈黙に耐えかねたように、橘が口を挟む。
「私もさっき助けてもらいました。桐宮君も中にいるみたいですし、その……信用していいと思います」
「……そうか」
烏廻さんはアースをしばらく見据えていたが、それ以上は追及しなかった。
「後で説明しろよ」
「気が向いたらな」
「気が向かなくても喋らせる」
「随分と面倒な教師だな」
「生徒の身体を使ってる奴に言われたくねえよ」
短いやり取りのあと、アースは再び前を向いた。
烏廻さんも同じ方向へ視線を戻す。
「……で、あれがそうか」
「ああ」
祭壇の前に立つサラ――ハデスを見て、烏廻さんの目が僅かに細まった。
今まで何度も強敵と対峙してきたこの人が、一目見ただけで表情を変えた。
「なるほどな」
「分かるか」
「見りゃ分かる。あれは格が違う」
「その通りだ」
アースは頷いた。
「だから手伝え」
「……あ?」
「聞こえなかったか。手伝えと言った」
アースは面倒くさそうに繰り返す。
「今なら一人でも押し切れる。だが、時間がかかる」
「……」
「長引けば、あいつは器に慣れていく。そうなれば少し面倒だ」
烏廻さんはしばらくハデスを見ていた。
サラの身体を使っている以上、好き勝手に攻撃できないことも理解しているのだろう。
「どこまでやっていい」
「殺すな」
「それは分かってる」
「なら、動きを止めろ。俺が隙を作る」
「随分と雑な作戦だな」
「細かく決めても、あいつ相手じゃ意味がない」
「……それもそうか」
烏廻さんが肩を軽く回した。
「分かった。合わせる」
「話が早くて助かる」
アースが前へ出ようとした時、ふと思い出したように続けた。
「……あと、斬りすぎるなよ」
「分かってる。あれはクロイツの身体だ」
その言葉に、胸の奥が僅かに痛んだ。
見た目は確かにサラだ。
ピンク色の髪も、小柄な身体も、見慣れた顔も全部そのまま。
それなのに、その中にいるのはサラじゃない。
ハデスはその身体を借りて、まるで自分のもののように立っている。
「話は終わったか」
ハデスが小さく笑った。
「ああ」
アースが向き直る。
「待たせて悪かったな。二人で行く」
「ほう」
ハデスの目が僅かに輝いた。
「二人がかりか」
「不満か」
「……不満というほどではない。じゃが、余ばかりが不利というのも面白くない」
その視線が烏廻さんへ移る。
「そちらの男もなかなか強そうだからのう」
「……分かるのか」
「当然じゃ。先ほどの一撃を防いだのを見た。人の身であれを斬るとは、大したものよ」
「……ちっ。褒められても嬉しくねえよ」
「そうか? 余は本気で言うておるのじゃがな」
ハデスは心底不思議そうに首を傾げた。
その仕草だけなら、本当にサラと変わらない。
だからこそ、余計に気持ちが悪かった。
そこへ、大広間の入口から複数の足音が響いてきた。
「隼人!」
「桐宮!」
振り返らなくても声で分かる。
紘弥、玲奈、雨宮、八雲。
四人とも息を切らしてはいるが、見たところ大きな傷は負っていない。
「無事か、お前ら――」
紘弥が言いかけ、そのまま固まった。
視線は俺の髪へ釘付けになっている。
「……は?」
「……隼人、その髪」
玲奈も目を見開いていた。
無理もない。
昨日まで黒かった髪が白くなり、目の色まで変わっているのだから。
「あー、これはだな」
アースが面倒くさそうに口を開く。
「説明は後だ。今は前を見ろ」
「いや待て、お前誰だよ!」
「アースだ」
「アースって、あの――」
「そうだ。話は後にしろと言っている」
「本人の了承済みだ」
烏廻さんが横から補足した。
「疑うなら後で殴れ。今は時間がない」
「いや、でも――」
「九条」
玲奈が紘弥の肩を掴んだ。
「あれ、見て」
玲奈の声が、途中から妙に小さくなった。
その指が示している先。
祭壇の前に立つ少女を見た瞬間、紘弥の表情から困惑が消えた。
「……サラ?」
声が掠れている。
「あれ、サラだよな。なんで……」
紘弥が一歩だけ前に出る。
だが、その横で玲奈は動かなかった。
「違う」
「……は?」
「あれ……サラじゃない」
玲奈の声は震えていた。
俺たちよりも先に何かを感じ取ったわけじゃない。ただ、長く一緒にいたからこそ分かったのだろう。
姿は同じでも、立ち方も、目も、表情も違う。
サラなら、あんな目で俺たちを見ることはない。
「何言ってんだよ。どう見てもサラだろ」
「見た目はそうよ。でも……違う」
玲奈は胸元を押さえた。
「サラなら、あんな顔しない」
その一言に、紘弥も黙った。
アースが短く告げる。
「あれは、お前らが知っているサラ・クロイツじゃない。中身が違う」
「……は?」
「冥王ハデス、数百年前、ここの連中が呼ぼうとして失敗したものが、今夜ようやく出てきた」
その一言で、全員の顔から血の気が引いた。
「じゃあ……サラは」
玲奈の声が震える。
「中にいるはずだ。ハデスは意識が消えたと言っていた」
「そんな……」
玲奈が唇を噛んだ。
紘弥は何も言わない。
ただ拳だけが震えている。
雨宮も、いつもの飄々とした表情を消していた。
八雲ですら笑っていない。
俺は意識の奥から呼びかける。
(玲奈。紘弥)
当然、声にはならない。
それでも何か伝えたかった。
あいつらが今どんな顔をしているのか、見ているだけしかできない自分が腹立たしかった。
その思いを拾ったのは、目の前の二人ではなくアースだった。
「おい、お前ら」
アースが俺の代わりに口を開く。
「中の馬鹿が、伝えろとよ」
「……なんだよ」
「まだ諦めてない、だとさ」
紘弥が俯いたまま拳を握りしめた。
「……当たり前だろ」
短く吐き出してから、顔を上げる。
「ここまで来て、諦められるかよ」
「そうね」
玲奈も迷わず頷いた。
目元には涙が滲んでいたが、拭おうとはしなかった。
「私たちだって、諦めてない。サラを連れて帰るために来たんだから」
(……ああ)
俺は、奥で一人頷いた。
アースも何も言わなかった。
ただ、僅かに口元を緩めたように感じた。
「なら下がってろ」
次に出た言葉は、ひどく現実的だった。
「ここから先は、お前らの領分じゃない」
「けどよ!」
「九条」
烏廻さんが遮る。
「言う通りにしろ。あれは、お前らが手を出せる相手じゃない」
「……っ」
「悔しいのは分かる。だが、無駄死にするな」
「……くそっ」
紘弥が悔しげに拳を握る。
「西園寺、お前もそれでいいのかよ」
「よくないわよ」
玲奈は即答した。
その返事があまりにも早くて、紘弥が一瞬黙る。
「今すぐサラのところまで走っていきたい。でも、今の私たちじゃ足手まといになる。それくらいは分かるでしょ」
平静を装ってはいるが、その声には隠しきれない悔しさが滲んでいた。
「……ああ」
「だから今は任せるしかない。悔しいけど」
玲奈がサラを見つめる。
「絶対に、連れて帰るために」
その言葉を聞きながら、俺は胸の奥で強く頷いた。
「ほう」
それまで黙って眺めていたハデスが、初めて興味を示したように声を上げる。
「ずいぶんと増えたのう」
心底楽しそうな声だった。
こちらの焦りも、悔しさも、あいつには何の意味もないらしい。
「一人、二人、三人……七人か。よいよい。これは、なかなか面白くなってきたではないか」
「ふざけるな」
アースが低く言った。
「こいつらは戦力じゃない。手を出すな」
「そうもいくまい」
ハデスは首を横に振る。
「余の目の前に立っておるのじゃぞ。放っておけと言う方が無理じゃ」
「……」
「それに、じゃ」
ハデスは両手を大きく広げた。
「せっかくこれだけ集まったのじゃ。余とお主らだけで遊ぶのも惜しいじゃろう」
その言葉と同時に、大広間の空気が異様に歪んだ。
最初に変化したのは音だった。
遠くで続いていた戦闘音が、急に薄くなる。
誰かの息遣いさえ妙に遠く感じられた。
次いで、肌を撫でていた空気が冷えていく。寒いというより、体温だけを少しずつ奪われていくような嫌な冷たさだった。
「……なんだ?」
紘弥が周囲を見回す。
アースだけが、すぐに表情を変えた。
「下がれ」
「え?」
「全員、中央から離れろ」
低い声に、迷いがなかった。
烏廻さんも何かを察したらしい。
「聞こえたな。下がれ!」
全員が動き始めた、その直後。
布を強引に引き裂くような音が四方から響いた。
空間そのものに、細い黒い亀裂が走る。
一本だった裂け目が縦へ伸び、その両側へさらに亀裂を広げていく。黒い闇の向こう側には何も見えない。ただ、見ているだけで胸の奥がざわつく何かが、そこにある。
やがて亀裂は、大きな門の形を作り上げた。
四つ。
大広間を囲むように現れた黒い門は、どれも天井近くまで届く高さがあった。
表面には見覚えのない文字がびっしりと刻まれている。それなのに、不思議と見てはいけないものだということだけは分かった。
「なんだ、あれ……」
紘弥が呻く。
誰も答えない。
門の向こうから、低い音が聞こえた。
獣の唸り声にも、何か巨大なものが地面を引きずる音にも聞こえる。
一つではない。
二つでもない。
いくつもの気配が、扉の向こうで蠢いている。
「まずいな」
アースの声に、初めて明確な緊張が混じった。
「あれは、さっきの魔獣を出した穴とは違う」
「じゃあ、何なんだよ」
紘弥が問う。
アースは黒い門から目を離さない。
「……門だ」
「見りゃ分かるだろ」
「そういう意味じゃねえ」
アースの声が僅かに低くなる。
「あれは、向こう側と直接繋がってる」
「向こう側?」
玲奈が聞き返す。
答えを聞く前から嫌な予感がした。
「冥界だ」
その一言で、その場にいた全員が息を呑んだ。
門の向こうから吹き込んできた冷たい風が、大広間に残っていた砂埃を巻き上げる。
ハデスはその中心で、楽しそうに笑っていた。
「さて」
まるでこれから宴でも始めるような口調だった。
「余の眷属どもを、少しばかり呼ばせてもらおうかの」

