黒い球体が、放たれた。
いや、放たれたという表現は正しくない。膨れ上がったそれは砲弾のように飛んだのではなく、そこにあった空間そのものを塗り替えるようにして前方へ広がったのだ。畳が、柱が、床石が、輪郭を保ったまま音もなく削り取られ、闇の内側へ吸い込まれて消えていく。破壊というより、消去に近かった。
既に身体の主導権はない。俺の意識は、自分の内側の奥深くへ押し下げられている。そこから曇りガラス越しに眺めるような感覚で、外の光景を見ていた。音も、匂いも、皮膚を炙る熱も、すべてが一枚隔てた向こう側にある。
黒が、迫る。
橘の悲鳴が、どこか遠くで聞こえた気がした。
その時。
俺の身体が、動いた。俺の意志とは、まるで無関係に。
「――鎮まれ」
その声は、確かに俺の喉から出ていた。だが、俺の声じゃない。低く、乾いて、ひどく古い響き。何百年も鳴らされていなかった鐘を、久しぶりに一度だけ叩いたような声だった。
次の瞬間、目の前に光の壁が生まれた。
白でもない。金でもない。強いて言うなら――何もない色だった。そこに何かがあるという事実だけが、視覚を素通りして脳へ直接叩き込まれてくる。
黒い奔流が、その壁に激突した。
轟音。衝撃。大広間の壁が、天井が、床が、揃って悲鳴を上げた。柱が軋み、梁から剥がれた砂埃が滝のように降り注ぐ。踏みしめた床石は蜘蛛の巣状に罅割れ、俺の足元から放射状に亀裂が走っていった。
だが、俺の身体は一歩も引かなかった。両足を踏ん張り、両腕を前へ突き出したまま、微動だにしない。
やがて、黒が薄れていく。
消えたわけじゃない。押し返され、押し潰され、行き場を失って、最後には霧のように散った。
静寂。舞い上がった砂埃が、ゆっくりと落ちていく。
「……ほう」
ハデスの声が、その静寂を破った。
「防いだか」
俺の身体が、ゆっくりと腕を下ろす。
その動きは、俺のものとはまるで違った。もっと無駄がなく、もっと静かで、そして――重い。関節の一つ一つが、動くべき順番を最初から知っているような、そんな挙動だった。
「……久しぶりに肩が凝るような真似をしたな」
俺の声で、そいつは言った。
「桐宮、君……?」
背後から、橘の声がした。震えている。当然だ。目の前で、俺が俺じゃなくなったのだから。
「無事か、小娘」
「……え?」
「立てるかと聞いている」
その口調に、橘が息を呑む音が聞こえた。俺の身体が、砂埃の中でゆっくりと振り返る。
「……あなた、誰ですか?」
「アースだ」
こともなげに、そいつは答えた。
「その体の中にいる、もう一人の方だ」
「アース……?」
橘が、恐る恐る俺の顔を覗き込んだ。そして、目を見開いた。
「……髪」
「ん?」
「髪が、白い……」
俺は、意識の奥からその言葉を聞いていた。
髪が白い。言われてみれば、視界の端に映る前髪が、いつもの黒じゃない。雪みたいな、混じり気のない白だ。
「ああ、これか」
アースは面倒くさそうに前髪を摘み、指の間で軽くひねった。
「俺が表に出ると、こうなる。目も金色になってるはずだ」
「……」
「気にするな。中身は変わらん。……いや、変わってるか」
アースは、僅かに笑ったようだった。喉の奥で一度だけ息を鳴らす、それだけの笑い方だ。
「まあ、悪いようにはしない」
「桐宮君は……無事なんですか?」
「奥で寝てる」
アースは短く答えた。
「話は聞こえてるはずだがな。おい、隼人」
(……ああ)
俺は答えた。声には出せない。ただ、水底から水面へ向かって手を伸ばすように、意識をそちらへ押し上げただけだ。
だが、伝わったらしい。
「起きてるとよ」
「良かった……」
橘は、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。それでも、弓を握る手はまだ震えている。
「……ありがとうございます、助けてくれて」
「礼はいらん」
アースは前を向いた。
「俺は俺の器を守っただけだ」
その視線の先で、ハデスがこちらを見ていた。サラの小さな顔が、僅かに傾いでいる。
「なるほどな」
ハデスが言った。
「そちらが本体か」
「本体じゃない」
アースは即答した。
「間借りしてるだけだ」
「面白いことを言う」
ハデスは笑った。
「して、名は」
「……アースだ」
「アース、か」
ハデスは、その名を舌の上で転がすように繰り返した。記憶の索引をひとつずつ辿るような、僅かな間があった。
「聞かん名じゃな」
「そりゃそうだ。お前らのような存在じゃない」
「ふむ。……まあ、よい」
ハデスは、両手を軽く広げた。
「久方ぶりに、まともに殴り合えそうな相手が出てきた。それだけで十分じゃ」
(アース)
俺は、意識の奥から呼びかけた。
(一つだけ頼む)
『なんだ』
(あの身体、サラのだ)
俺は言った。
(できるだけ、傷つけないでくれ)
『……はぁ』
アースが、盛大にため息をついた。それは実際に俺の肺から吐き出され、大広間の冷えた空気の中で白く濁った。
『あのな、隼人』
(分かってる。無茶言ってるのは)
『分かってるならいい』
アースは短く答えた。
『善処はする。だが、期待するな』
(頼む)
『……ちっ』
舌打ちの後、アースは前を向いた。
「おいハデス……中の馬鹿が、その身体を大事にしろとさ」
「ほう?」
ハデスが、可笑しそうに目を細めた。
「余の身体を気遣われるとは思わなんだ」
「お前の身体じゃない」
アースは即座に返した。
「借り物だ」
「言うではないか……借り物のくせに」
次の瞬間、アースが地を蹴った。
ハデスも同時に動く。
二つの影が、大広間の中央で交差した。
衝撃波が走り、床の畳が捲れ上がって宙を舞う。俺の視界が、殴りつけられたように激しく揺れた。
速い。さっきまでの俺とは、比べ物にならない。
ハデスの掌が、アースの顔面を捉える。だが、アースはそれを首の動きだけで避け、頬の産毛を焼くような距離で流した。そのまま踏み込みを殺さず、返す肘をハデスの脇腹へ叩き込む。
「ぐっ……!」
ハデスの身体が、後ろへ流れた。着物の裾が翻り、床石を擦って甲高い音を立てる。
「ほう」
だが、その顔は笑っている。
「やるではないか」
「言っただろう。丁寧に扱えってな」
アースは肩をすくめた。
「今のも、寸止めしてる」
「なるほど、手加減か」
「そうだ」
「余に、手加減とはな」
ハデスは体勢を立て直した。その目が、僅かに鋭くなる。
「舐められたものじゃな」
「事実を言っただけだ」
二人が、再び動いた。
今度は、さっきより速い。俺の目には、もう影が飛び交っているようにしか見えなかった。時折、二つの影が中空で交差する。そのたびに、大広間の空気が破裂したような音を立てた。
壁が削れ、天井から瓦礫が落ちてくる。壁際では、橘が必死にそれを避けていた。
「小娘」
アースの声が、戦闘の合間に飛んだ。
「壁際まで下がれ。中央は危ない」
「はい……!」
橘が壁際へ走る。その隙を、ハデスは狙わなかった。興味がないらしい。今の関心は、完全にアースへ向いている。
俺は、意識の奥からその光景を眺めていた。
――速い。だが、それだけじゃない。
アースの動きには、一切の無駄がなかった。避ける時は最小限、打つ時は最短。まるで、相手の動きを先に知っているかのように。
実際、ハデスの攻撃はほとんど当たっていない。逆に、アースの打撃は的確に入り続けている。
「ぐっ……!」
三度目の打撃で、ハデスが片膝をついた。床石が、その重みで小さく陥没する。
「……ふむ」
ハデスは、口の端を親指で拭った。サラの白い指先に、赤いものが薄く伸びる。
「思ったより、差があるのう」
「そうだな」
アースは、あっさりと認めた。
「お前、まだその身体に慣れてないだろ」
「よく分かるな」
「見りゃ分かる」
アースは首を鳴らした。
「力の出し方が雑だ」
「……なるほど」
ハデスは立ち上がった。その顔は、まだ笑っている。
「これは、なかなか手厳しい」
――勝てる。
俺は、意識の奥でそう思った。アースの方が、明らかに上だ。このまま押し切れば――。
「じゃが」
その時、ハデスが言った。
「そちらにも、限りがあるのじゃろう?」
「……なに?」
「その治癒じゃ。何の代償もなしに働いておるわけではあるまい」
ハデスは、アースの腕を指した。先ほど掠めた傷は、既に跡形もなく塞がっている。
「肉を繋ぐにも、血を戻すにも、力がいる。……尽きれば、もう治せまいよ」
「……よく見てるな」
「余は死を司る者じゃぞ」
ハデスは笑った。
「生きているものの状態を測るのは、得意分野じゃ」
「……」
「その身体、無限には持つまい」
アースは、答えなかった。
だが、俺には分かった。
――当たっている。
今はまだ、いくらでも治る。掠り傷など、瞬きの間に消えていく。塞がる速度が鈍った気配もない。
だが、それは無尽蔵という意味じゃない。動くたび、治すたび、確実に何かが引かれていく。ただ、その減りが目に見えるほどには減っていない、それだけの話だ。
いずれ、底が来る。
それを、こいつは一目で見抜いた。
(アース……大丈夫か)
『問題ない』
アースは短く答えた。
『力量差は明らかにこっちが上だ。押し切れる』
(でも、いつまでも保つわけじゃないんだろ)
『……だから、長引かせたくないと言ってる』
その時、ハデスが両手を広げた。
「では、こうしよう」
「……何をする気だ」
「時を稼ぐ」
ハデスは、あっさりと言った。
「余は、この身体にまだ慣れておらぬ。ならば、慣れるまで待てばよい」
「……ちっ」
「そちらは減る一方じゃ。こちらは増える一方じゃ」
ハデスは笑った。
「どちらが有利か、分かるな?」
アースが、舌打ちをした。
「随分と弱者らしい考え方をするな」
アースがハデスを煽る。
「余は、負けたくないだけじゃ」
しかし、それを全く意に介さずハデスは首を傾げた。その仕草だけは、教室でノートを覗き込んでいたサラそのもので、俺の胸を余計に抉った。
「せっかく出てきたのじゃ。すぐに終わっては、つまらんじゃろう」
その言葉と同時に、ハデスが右手を持ち上げた。
だが、その指先が向いたのは――アースではなかった。
「……っ!」
壁際。橘の立っている方向だ。
「え――」
橘が、自分に向けられた指先に気づいた。
その瞬間には、既に黒い光が収束していた。
さっきの球体とは違う。小さく、鋭く、そして――速い。針の先に世界の重さを全部押し込んだような、そんな密度だった。
「お主が本気を出すには、これが一番早かろう」
ハデスは、あっさりとそう言った。
「――やめろ!」
アースが跳んだ。
速い。俺の目にも留まらない速度だ。
だが。
――届かない。
分かってしまった。アースはハデスの正面にいる。橘は、そこから十メートル以上離れた壁際だ。
間に合うはずがない。
――橘っ!!
俺は叫んだ。声にならない声で。
黒い光が、放たれた。
いや、放たれたという表現は正しくない。膨れ上がったそれは砲弾のように飛んだのではなく、そこにあった空間そのものを塗り替えるようにして前方へ広がったのだ。畳が、柱が、床石が、輪郭を保ったまま音もなく削り取られ、闇の内側へ吸い込まれて消えていく。破壊というより、消去に近かった。
既に身体の主導権はない。俺の意識は、自分の内側の奥深くへ押し下げられている。そこから曇りガラス越しに眺めるような感覚で、外の光景を見ていた。音も、匂いも、皮膚を炙る熱も、すべてが一枚隔てた向こう側にある。
黒が、迫る。
橘の悲鳴が、どこか遠くで聞こえた気がした。
その時。
俺の身体が、動いた。俺の意志とは、まるで無関係に。
「――鎮まれ」
その声は、確かに俺の喉から出ていた。だが、俺の声じゃない。低く、乾いて、ひどく古い響き。何百年も鳴らされていなかった鐘を、久しぶりに一度だけ叩いたような声だった。
次の瞬間、目の前に光の壁が生まれた。
白でもない。金でもない。強いて言うなら――何もない色だった。そこに何かがあるという事実だけが、視覚を素通りして脳へ直接叩き込まれてくる。
黒い奔流が、その壁に激突した。
轟音。衝撃。大広間の壁が、天井が、床が、揃って悲鳴を上げた。柱が軋み、梁から剥がれた砂埃が滝のように降り注ぐ。踏みしめた床石は蜘蛛の巣状に罅割れ、俺の足元から放射状に亀裂が走っていった。
だが、俺の身体は一歩も引かなかった。両足を踏ん張り、両腕を前へ突き出したまま、微動だにしない。
やがて、黒が薄れていく。
消えたわけじゃない。押し返され、押し潰され、行き場を失って、最後には霧のように散った。
静寂。舞い上がった砂埃が、ゆっくりと落ちていく。
「……ほう」
ハデスの声が、その静寂を破った。
「防いだか」
俺の身体が、ゆっくりと腕を下ろす。
その動きは、俺のものとはまるで違った。もっと無駄がなく、もっと静かで、そして――重い。関節の一つ一つが、動くべき順番を最初から知っているような、そんな挙動だった。
「……久しぶりに肩が凝るような真似をしたな」
俺の声で、そいつは言った。
「桐宮、君……?」
背後から、橘の声がした。震えている。当然だ。目の前で、俺が俺じゃなくなったのだから。
「無事か、小娘」
「……え?」
「立てるかと聞いている」
その口調に、橘が息を呑む音が聞こえた。俺の身体が、砂埃の中でゆっくりと振り返る。
「……あなた、誰ですか?」
「アースだ」
こともなげに、そいつは答えた。
「その体の中にいる、もう一人の方だ」
「アース……?」
橘が、恐る恐る俺の顔を覗き込んだ。そして、目を見開いた。
「……髪」
「ん?」
「髪が、白い……」
俺は、意識の奥からその言葉を聞いていた。
髪が白い。言われてみれば、視界の端に映る前髪が、いつもの黒じゃない。雪みたいな、混じり気のない白だ。
「ああ、これか」
アースは面倒くさそうに前髪を摘み、指の間で軽くひねった。
「俺が表に出ると、こうなる。目も金色になってるはずだ」
「……」
「気にするな。中身は変わらん。……いや、変わってるか」
アースは、僅かに笑ったようだった。喉の奥で一度だけ息を鳴らす、それだけの笑い方だ。
「まあ、悪いようにはしない」
「桐宮君は……無事なんですか?」
「奥で寝てる」
アースは短く答えた。
「話は聞こえてるはずだがな。おい、隼人」
(……ああ)
俺は答えた。声には出せない。ただ、水底から水面へ向かって手を伸ばすように、意識をそちらへ押し上げただけだ。
だが、伝わったらしい。
「起きてるとよ」
「良かった……」
橘は、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。それでも、弓を握る手はまだ震えている。
「……ありがとうございます、助けてくれて」
「礼はいらん」
アースは前を向いた。
「俺は俺の器を守っただけだ」
その視線の先で、ハデスがこちらを見ていた。サラの小さな顔が、僅かに傾いでいる。
「なるほどな」
ハデスが言った。
「そちらが本体か」
「本体じゃない」
アースは即答した。
「間借りしてるだけだ」
「面白いことを言う」
ハデスは笑った。
「して、名は」
「……アースだ」
「アース、か」
ハデスは、その名を舌の上で転がすように繰り返した。記憶の索引をひとつずつ辿るような、僅かな間があった。
「聞かん名じゃな」
「そりゃそうだ。お前らのような存在じゃない」
「ふむ。……まあ、よい」
ハデスは、両手を軽く広げた。
「久方ぶりに、まともに殴り合えそうな相手が出てきた。それだけで十分じゃ」
(アース)
俺は、意識の奥から呼びかけた。
(一つだけ頼む)
『なんだ』
(あの身体、サラのだ)
俺は言った。
(できるだけ、傷つけないでくれ)
『……はぁ』
アースが、盛大にため息をついた。それは実際に俺の肺から吐き出され、大広間の冷えた空気の中で白く濁った。
『あのな、隼人』
(分かってる。無茶言ってるのは)
『分かってるならいい』
アースは短く答えた。
『善処はする。だが、期待するな』
(頼む)
『……ちっ』
舌打ちの後、アースは前を向いた。
「おいハデス……中の馬鹿が、その身体を大事にしろとさ」
「ほう?」
ハデスが、可笑しそうに目を細めた。
「余の身体を気遣われるとは思わなんだ」
「お前の身体じゃない」
アースは即座に返した。
「借り物だ」
「言うではないか……借り物のくせに」
次の瞬間、アースが地を蹴った。
ハデスも同時に動く。
二つの影が、大広間の中央で交差した。
衝撃波が走り、床の畳が捲れ上がって宙を舞う。俺の視界が、殴りつけられたように激しく揺れた。
速い。さっきまでの俺とは、比べ物にならない。
ハデスの掌が、アースの顔面を捉える。だが、アースはそれを首の動きだけで避け、頬の産毛を焼くような距離で流した。そのまま踏み込みを殺さず、返す肘をハデスの脇腹へ叩き込む。
「ぐっ……!」
ハデスの身体が、後ろへ流れた。着物の裾が翻り、床石を擦って甲高い音を立てる。
「ほう」
だが、その顔は笑っている。
「やるではないか」
「言っただろう。丁寧に扱えってな」
アースは肩をすくめた。
「今のも、寸止めしてる」
「なるほど、手加減か」
「そうだ」
「余に、手加減とはな」
ハデスは体勢を立て直した。その目が、僅かに鋭くなる。
「舐められたものじゃな」
「事実を言っただけだ」
二人が、再び動いた。
今度は、さっきより速い。俺の目には、もう影が飛び交っているようにしか見えなかった。時折、二つの影が中空で交差する。そのたびに、大広間の空気が破裂したような音を立てた。
壁が削れ、天井から瓦礫が落ちてくる。壁際では、橘が必死にそれを避けていた。
「小娘」
アースの声が、戦闘の合間に飛んだ。
「壁際まで下がれ。中央は危ない」
「はい……!」
橘が壁際へ走る。その隙を、ハデスは狙わなかった。興味がないらしい。今の関心は、完全にアースへ向いている。
俺は、意識の奥からその光景を眺めていた。
――速い。だが、それだけじゃない。
アースの動きには、一切の無駄がなかった。避ける時は最小限、打つ時は最短。まるで、相手の動きを先に知っているかのように。
実際、ハデスの攻撃はほとんど当たっていない。逆に、アースの打撃は的確に入り続けている。
「ぐっ……!」
三度目の打撃で、ハデスが片膝をついた。床石が、その重みで小さく陥没する。
「……ふむ」
ハデスは、口の端を親指で拭った。サラの白い指先に、赤いものが薄く伸びる。
「思ったより、差があるのう」
「そうだな」
アースは、あっさりと認めた。
「お前、まだその身体に慣れてないだろ」
「よく分かるな」
「見りゃ分かる」
アースは首を鳴らした。
「力の出し方が雑だ」
「……なるほど」
ハデスは立ち上がった。その顔は、まだ笑っている。
「これは、なかなか手厳しい」
――勝てる。
俺は、意識の奥でそう思った。アースの方が、明らかに上だ。このまま押し切れば――。
「じゃが」
その時、ハデスが言った。
「そちらにも、限りがあるのじゃろう?」
「……なに?」
「その治癒じゃ。何の代償もなしに働いておるわけではあるまい」
ハデスは、アースの腕を指した。先ほど掠めた傷は、既に跡形もなく塞がっている。
「肉を繋ぐにも、血を戻すにも、力がいる。……尽きれば、もう治せまいよ」
「……よく見てるな」
「余は死を司る者じゃぞ」
ハデスは笑った。
「生きているものの状態を測るのは、得意分野じゃ」
「……」
「その身体、無限には持つまい」
アースは、答えなかった。
だが、俺には分かった。
――当たっている。
今はまだ、いくらでも治る。掠り傷など、瞬きの間に消えていく。塞がる速度が鈍った気配もない。
だが、それは無尽蔵という意味じゃない。動くたび、治すたび、確実に何かが引かれていく。ただ、その減りが目に見えるほどには減っていない、それだけの話だ。
いずれ、底が来る。
それを、こいつは一目で見抜いた。
(アース……大丈夫か)
『問題ない』
アースは短く答えた。
『力量差は明らかにこっちが上だ。押し切れる』
(でも、いつまでも保つわけじゃないんだろ)
『……だから、長引かせたくないと言ってる』
その時、ハデスが両手を広げた。
「では、こうしよう」
「……何をする気だ」
「時を稼ぐ」
ハデスは、あっさりと言った。
「余は、この身体にまだ慣れておらぬ。ならば、慣れるまで待てばよい」
「……ちっ」
「そちらは減る一方じゃ。こちらは増える一方じゃ」
ハデスは笑った。
「どちらが有利か、分かるな?」
アースが、舌打ちをした。
「随分と弱者らしい考え方をするな」
アースがハデスを煽る。
「余は、負けたくないだけじゃ」
しかし、それを全く意に介さずハデスは首を傾げた。その仕草だけは、教室でノートを覗き込んでいたサラそのもので、俺の胸を余計に抉った。
「せっかく出てきたのじゃ。すぐに終わっては、つまらんじゃろう」
その言葉と同時に、ハデスが右手を持ち上げた。
だが、その指先が向いたのは――アースではなかった。
「……っ!」
壁際。橘の立っている方向だ。
「え――」
橘が、自分に向けられた指先に気づいた。
その瞬間には、既に黒い光が収束していた。
さっきの球体とは違う。小さく、鋭く、そして――速い。針の先に世界の重さを全部押し込んだような、そんな密度だった。
「お主が本気を出すには、これが一番早かろう」
ハデスは、あっさりとそう言った。
「――やめろ!」
アースが跳んだ。
速い。俺の目にも留まらない速度だ。
だが。
――届かない。
分かってしまった。アースはハデスの正面にいる。橘は、そこから十メートル以上離れた壁際だ。
間に合うはずがない。
――橘っ!!
俺は叫んだ。声にならない声で。
黒い光が、放たれた。

