どれくらい戦っただろう。
剣を振るう腕の感覚が、既に麻痺し始めていた。
だが、その甲斐はあった。
「桐宮君!」
橘の声が響いた。
「最後の一人、出た!」
「……本当か!」
俺は振り返った。
入口から、最後の一人が転がるように大広間を出ていくのが見えた。
残ったのは、俺と橘。
そして、まだ数匹の魔獣。
祭壇の上には、変わらずハデスが座っている。
「……終わったな」
俺は息を吐いた。
全身が重い。
腕も脚も、既に悲鳴を上げている。
だが、これで守るものは減った。
あとは、目の前のことだけに集中できる。
「ほう」
ハデスが、ゆっくりと立ち上がった。
「全員逃がしたか」
「悪いか」
「いや」
ハデスは首を横に振った。
「大したものじゃ。あの数を、二人でな」
その言葉には、皮肉が含まれていなかった。
純粋な感心。
それが余計に気味が悪い。
「あいつらを追う気はないんだな」
「追う、とな」
ハデスは可笑しそうに笑った。
「別に、あの者たちに用はない」
「……なんだと」
「余を呼んだのは、あの者たちの都合じゃ。呼ばれた側が、いちいち付き合ってやる義理もあるまい」
ハデスは、ひらりと祭壇から降りた。
「何百年ぶりの現世じゃ。少しくらい好きにさせてもらう」
「……ふざけるな」
「ふざけておらん」
ハデスは、こちらへ歩いてくる。
残っていた魔獣たちが、道を空けるように後ずさった。
「さて、そろそろ本題といこうか」
「……本題?」
「お主じゃ」
ハデスの視線が、俺を捉えた。
「さっきから気になっておったが、お主、身体の中に妙なものを抱えておるな」
背筋が凍った。
(アース……気づかれている)
『……らしいな』
アースの声は、いつになく硬かった。
「隠すな。分かっておる」
ハデスは足を止めた。
「余からすれば、一つの器に二つの魂が入っておるなど、一目で分かる」
「……」
「そういう歪な形をしたものは、遠目にも目立つのじゃ」
ハデスは、俺の胸のあたりを指した。
「しかも、片方は人ではない。……ずいぶんと珍しい取り合わせじゃな」
「……関係ないだろ」
「関係ある」
ハデスは僅かに笑った。
「余が退屈せずに済むかどうかの話じゃからな」
その瞬間。
ハデスの姿が揺らいだ。
「――っ!」
考えるより先に、俺は〈レーヴァテイン〉を横へ振った。
甲高い音。
視界の右側で火花が散った。
「ほう?」
ハデスの掌と剣の腹がぶつかっていた。
腕に重い衝撃が走る。
「ぐっ……!」
足が石畳を滑る。
だが――吹き飛ばされてはいない。
「桐宮君!」
「大丈夫だ!」
俺は踏みとどまり、そのまま剣を返した。
ハデスの首元へ炎を纏った刃を走らせる。
ハデスが僅かに身を反らす。
切っ先が、ピンク色の髪を数本散らした。
「……ほう」
「まだだ!」
踏み込む。
上段から振り下ろし、受けられた瞬間に刃を滑らせる。
そのまま手首を返し、脇腹へ。
ハデスが一歩下がった。
初めてだった。
こいつが俺の攻撃に合わせて、明確に距離を取ったのは。
「いいのう」
「余裕ぶってんな!」
さらに一歩。
右から薙ぐ。
避けられる。
だが、そこまでは読んでいた。
「橘!」
「分かってる!」
三本の魔力矢が、俺の脇を抜けて飛ぶ。
正面ではない。
左右と背後。
俺から距離を取ったハデスの逃げ道を塞ぐように矢が走った。
「なるほど」
ハデスの目が僅かに細まる。
俺は正面から踏み込んだ。
「はああっ!」
振り下ろす。
今度は、ハデスも掌では受けなかった。
半身になって斬撃をかわし、そのまま俺の懐へ潜り込んでくる。
「――っ!」
膝が来る。
俺は咄嗟に剣の柄を下げた。
衝撃が腕を貫いた。
「ぐっ……!」
押し負ける。
それでも、柄で受けたことで直撃だけは避けた。
後ろへ二歩、三歩と下がりながら体勢を立て直す。
「……今のを防ぐか」
「伊達に化け物みたいな奴らと戦ってきてねえよ」
短く返し、剣を握り直す。
ハデスが笑った。
「よい。先ほどより面白くなってきた」
「そりゃどうも」
強い。
間違いなく、今まで戦ってきた相手とは格が違う。
速度も、力も、魔力も。
それでも――見えないわけじゃない。
全てを防げないわけでもない。
なら、まだ戦える。
俺は息を整える。
足元へ魔力を流し、一気に踏み込んだ。
炎を纏う刃を斜めに振り上げる。
ハデスが腕を上げた。
その瞬間、俺は刃の軌道を変える。
「なに?」
寸前で手首を返し、肩口へ。
ザッ――。
浅い。
それでも確かに刃が入った。
純白の着物が裂け、その下に薄い傷が走る。
「……当たった」
自分でも驚いていた。
ハデスは傷口を見下ろす。
すぐに塞がっていく。
「ほう……」
怒る様子はない。
むしろ、嬉しそうだった。
「今のは悪くない」
「褒められても嬉しくねえよ!」
俺は追撃に入る。
横薙ぎ。
切り返し。
突き。
ハデスは避け、弾き、時折こちらの間合いへ入り込んでくる。
拳が肩を掠めた。
鈍い痛み。
だが、構わず剣を振るう。
次の一撃を受け流す。
さらに踏み込む。
何度目かの斬撃を、ハデスが片手で掴んだ。
ジュッ、と肉の焼ける音がする。
掌から白い煙が立ち上った。
「熱いのう」
「だったら離せ!」
俺は剣を強引に引き抜いた。
ハデスの掌から刃が抜け、僅かに血が滲む。
間髪入れず、横薙ぎ。
今度はハデスが後方へ跳んだ。
「桐宮君!」
橘の矢が飛ぶ。
三本。
着地地点を狙った射撃。
ハデスは一歩だけ横へずれ、一本をかわす。
二本目を指先で弾き、三本目だけが肩口を掠めた。
「……ほう」
着物に、小さな裂け目が増えた。
橘が目を見開く。
「当たった……」
「その調子だ!」
俺は再び踏み込む。
いける。
倒せるなんて思っていない。
でも、全く届かないわけじゃない。
こいつにだって、避けさせることはできる。
攻撃を受けさせることもできる。
「ふむ」
ハデスが、僅かに感心したように言った。
「思ったより粘るのう」
「まだまだこれからだ!」
「その身体で、よくもまあ」
ハデスは俺の斬撃を身を捻ってかわしながら、ふと自分の腕を眺めた。
「……しかし、驚いたのはこちらじゃ」
「何が」
「この身体じゃ」
ハデスは空いた方の手を開いた。
「人の器に余を入れれば、普通は保たん。三度もまともに力を振るえば、砕けるのが道理じゃ。前の器も、長くは保たなんだ」
――七、八百年前の儀式のことか。
「じゃが、この娘は違う」
その言葉に、俺の動きが僅かに鈍った。
そこを狙って、ハデスの掌底が飛んでくる。
「っ!」
剣を盾にする。
衝撃。
今度は耐え切れず、数メートル後方へ吹き飛ばされた。
背中から床へ転がる。
「桐宮君!」
「……大丈夫だ」
すぐに片膝をつく。
痛い。
けど、動ける。
「先ほどから、それなりに力を使うておる。それでも、罅一つ入らん」
ハデスは、心底愉快そうに笑った。
「よほど余と相性が良いらしい」
「相性……?」
「魂の質、と言うたら分かるか」
ハデスは首を傾げた。
「器としての格が、余の想定を上回っておる。もう少し力を出しても問題はなさそうじゃ」
背筋が冷えた。
これまでだって、決して余裕があったわけじゃない。
全力で食らいついて、ようやく何度か届いた程度だ。
それなのに。
こいつには、まだ余力がある。
「桐宮君……」
橘の声が震えていた。
「大丈夫だ」
俺は立ち上がる。
「まだやれる」
自分に言い聞かせるように、そう続けた。
「さて」
ハデスは俺たちから距離を取った。
「少し試させてもらおうか」
「……何を」
「この器で、どこまで力を扱えるかをじゃ」
ハデスが右手を持ち上げた。
その瞬間、大広間の空気が変わった。
「……っ」
風が、逆巻く。
いや、違う。
周囲の空気そのものが、ハデスの手元へ引き寄せられている。
掌の上に、黒い球体が生まれた。
拳ほどの大きさ。
だが、見た目に反して、とんでもなく重い圧力を感じる。
周囲の畳がめくれ上がる。
砕けた木片や瓦礫が宙を滑り、黒い球体へ吸い寄せられていく。
柱が軋み、天井から細かな砂埃が降ってきた。
「桐宮君、あれ……!」
「分かってる」
俺は〈レーヴァテイン〉を構える。
だが、足が一瞬止まった。
――怖い。
さっきまでとは、明らかに違う。
あれをまともに撃たれれば、この大広間はただでは済まない。
俺と橘が巻き込まれるのはもちろん、屋敷そのものにもどれだけ被害が出るか分からない。
「……待て」
俺は掠れた声を絞り出した。
「そんなもん、ここで撃つ気か」
「そのつもりじゃが?」
「屋敷ごとぶっ壊れるかもしれねえぞ」
「さてな」
ハデスはあっさりと答えた。
「久しぶりすぎての。どの程度になるか、余にも分からんのじゃ」
「……なんだと」
「だから試すと言うておる」
その言葉に、俺は絶句した。
――こいつは、本当に分かっていない。
いや、分かっていて気にしていないのか。
悪意すらない。
ただ、自分の力を試したい。
その結果、周りがどうなるかなど二の次なのだ。
「ふざけんな……!」
俺は叫んだ。
「そんな理由で――」
『桐宮隼人』
脳内に、アースの声が響いた。
いつになく静かな声だった。
『変われ』
「……は?」
思わず、声に出していた。
『聞こえなかったか』
アースは繰り返す。
『変われと言った』
「何言って――」
『あれはお前の手に負えん』
その一言に、俺は口を閉ざした。
アースが、こんなことを言うのは初めてだ。
こいつはいつも、俺を突き放してきた。
自分でやれと。
甘えるなと。
それが。
『ここまで食らいついたのは悪くねえ』
「……」
『だが、あいつが今から撃とうとしているものは別だ』
黒い球体が、少しずつ膨らんでいく。
圧力がさらに増した。
『正面から受ければ、お前だけじゃない。後ろの小娘まで巻き込まれる』
「……お前なら、防げるってのか」
『そうだ』
「……」
『時間がねえ。四の五の言うな』
悔しい。
まだやれると思っていた。
実際、何度か攻撃は届いた。
あいつを下がらせることだってできた。
それでも――。
今、目の前にあるものだけは。
俺一人でどうにかできるとは思えなかった。
「……本気か」
『本気だ』
アースは即答した。
『お前が意地を張って、後ろの奴まで巻き込むつもりなら止めねえがな』
「……そんなわけないだろ」
『なら決まりだ』
――くそ。
俺は奥歯を噛み締めた。
でも、選ぶべきものは分かっている。
「……分かった」
俺は答えた。
「頼む」
『よく言った』
その瞬間。
視界が白く弾けた。
いや――違う。
俺の意識が、後ろへ引き下がっていく。
身体の主導権が、するりと手から抜けていく。
最後に見えたのは。
ハデスの掌の上で、黒い球体がさらに膨れ上がる瞬間だった。
剣を振るう腕の感覚が、既に麻痺し始めていた。
だが、その甲斐はあった。
「桐宮君!」
橘の声が響いた。
「最後の一人、出た!」
「……本当か!」
俺は振り返った。
入口から、最後の一人が転がるように大広間を出ていくのが見えた。
残ったのは、俺と橘。
そして、まだ数匹の魔獣。
祭壇の上には、変わらずハデスが座っている。
「……終わったな」
俺は息を吐いた。
全身が重い。
腕も脚も、既に悲鳴を上げている。
だが、これで守るものは減った。
あとは、目の前のことだけに集中できる。
「ほう」
ハデスが、ゆっくりと立ち上がった。
「全員逃がしたか」
「悪いか」
「いや」
ハデスは首を横に振った。
「大したものじゃ。あの数を、二人でな」
その言葉には、皮肉が含まれていなかった。
純粋な感心。
それが余計に気味が悪い。
「あいつらを追う気はないんだな」
「追う、とな」
ハデスは可笑しそうに笑った。
「別に、あの者たちに用はない」
「……なんだと」
「余を呼んだのは、あの者たちの都合じゃ。呼ばれた側が、いちいち付き合ってやる義理もあるまい」
ハデスは、ひらりと祭壇から降りた。
「何百年ぶりの現世じゃ。少しくらい好きにさせてもらう」
「……ふざけるな」
「ふざけておらん」
ハデスは、こちらへ歩いてくる。
残っていた魔獣たちが、道を空けるように後ずさった。
「さて、そろそろ本題といこうか」
「……本題?」
「お主じゃ」
ハデスの視線が、俺を捉えた。
「さっきから気になっておったが、お主、身体の中に妙なものを抱えておるな」
背筋が凍った。
(アース……気づかれている)
『……らしいな』
アースの声は、いつになく硬かった。
「隠すな。分かっておる」
ハデスは足を止めた。
「余からすれば、一つの器に二つの魂が入っておるなど、一目で分かる」
「……」
「そういう歪な形をしたものは、遠目にも目立つのじゃ」
ハデスは、俺の胸のあたりを指した。
「しかも、片方は人ではない。……ずいぶんと珍しい取り合わせじゃな」
「……関係ないだろ」
「関係ある」
ハデスは僅かに笑った。
「余が退屈せずに済むかどうかの話じゃからな」
その瞬間。
ハデスの姿が揺らいだ。
「――っ!」
考えるより先に、俺は〈レーヴァテイン〉を横へ振った。
甲高い音。
視界の右側で火花が散った。
「ほう?」
ハデスの掌と剣の腹がぶつかっていた。
腕に重い衝撃が走る。
「ぐっ……!」
足が石畳を滑る。
だが――吹き飛ばされてはいない。
「桐宮君!」
「大丈夫だ!」
俺は踏みとどまり、そのまま剣を返した。
ハデスの首元へ炎を纏った刃を走らせる。
ハデスが僅かに身を反らす。
切っ先が、ピンク色の髪を数本散らした。
「……ほう」
「まだだ!」
踏み込む。
上段から振り下ろし、受けられた瞬間に刃を滑らせる。
そのまま手首を返し、脇腹へ。
ハデスが一歩下がった。
初めてだった。
こいつが俺の攻撃に合わせて、明確に距離を取ったのは。
「いいのう」
「余裕ぶってんな!」
さらに一歩。
右から薙ぐ。
避けられる。
だが、そこまでは読んでいた。
「橘!」
「分かってる!」
三本の魔力矢が、俺の脇を抜けて飛ぶ。
正面ではない。
左右と背後。
俺から距離を取ったハデスの逃げ道を塞ぐように矢が走った。
「なるほど」
ハデスの目が僅かに細まる。
俺は正面から踏み込んだ。
「はああっ!」
振り下ろす。
今度は、ハデスも掌では受けなかった。
半身になって斬撃をかわし、そのまま俺の懐へ潜り込んでくる。
「――っ!」
膝が来る。
俺は咄嗟に剣の柄を下げた。
衝撃が腕を貫いた。
「ぐっ……!」
押し負ける。
それでも、柄で受けたことで直撃だけは避けた。
後ろへ二歩、三歩と下がりながら体勢を立て直す。
「……今のを防ぐか」
「伊達に化け物みたいな奴らと戦ってきてねえよ」
短く返し、剣を握り直す。
ハデスが笑った。
「よい。先ほどより面白くなってきた」
「そりゃどうも」
強い。
間違いなく、今まで戦ってきた相手とは格が違う。
速度も、力も、魔力も。
それでも――見えないわけじゃない。
全てを防げないわけでもない。
なら、まだ戦える。
俺は息を整える。
足元へ魔力を流し、一気に踏み込んだ。
炎を纏う刃を斜めに振り上げる。
ハデスが腕を上げた。
その瞬間、俺は刃の軌道を変える。
「なに?」
寸前で手首を返し、肩口へ。
ザッ――。
浅い。
それでも確かに刃が入った。
純白の着物が裂け、その下に薄い傷が走る。
「……当たった」
自分でも驚いていた。
ハデスは傷口を見下ろす。
すぐに塞がっていく。
「ほう……」
怒る様子はない。
むしろ、嬉しそうだった。
「今のは悪くない」
「褒められても嬉しくねえよ!」
俺は追撃に入る。
横薙ぎ。
切り返し。
突き。
ハデスは避け、弾き、時折こちらの間合いへ入り込んでくる。
拳が肩を掠めた。
鈍い痛み。
だが、構わず剣を振るう。
次の一撃を受け流す。
さらに踏み込む。
何度目かの斬撃を、ハデスが片手で掴んだ。
ジュッ、と肉の焼ける音がする。
掌から白い煙が立ち上った。
「熱いのう」
「だったら離せ!」
俺は剣を強引に引き抜いた。
ハデスの掌から刃が抜け、僅かに血が滲む。
間髪入れず、横薙ぎ。
今度はハデスが後方へ跳んだ。
「桐宮君!」
橘の矢が飛ぶ。
三本。
着地地点を狙った射撃。
ハデスは一歩だけ横へずれ、一本をかわす。
二本目を指先で弾き、三本目だけが肩口を掠めた。
「……ほう」
着物に、小さな裂け目が増えた。
橘が目を見開く。
「当たった……」
「その調子だ!」
俺は再び踏み込む。
いける。
倒せるなんて思っていない。
でも、全く届かないわけじゃない。
こいつにだって、避けさせることはできる。
攻撃を受けさせることもできる。
「ふむ」
ハデスが、僅かに感心したように言った。
「思ったより粘るのう」
「まだまだこれからだ!」
「その身体で、よくもまあ」
ハデスは俺の斬撃を身を捻ってかわしながら、ふと自分の腕を眺めた。
「……しかし、驚いたのはこちらじゃ」
「何が」
「この身体じゃ」
ハデスは空いた方の手を開いた。
「人の器に余を入れれば、普通は保たん。三度もまともに力を振るえば、砕けるのが道理じゃ。前の器も、長くは保たなんだ」
――七、八百年前の儀式のことか。
「じゃが、この娘は違う」
その言葉に、俺の動きが僅かに鈍った。
そこを狙って、ハデスの掌底が飛んでくる。
「っ!」
剣を盾にする。
衝撃。
今度は耐え切れず、数メートル後方へ吹き飛ばされた。
背中から床へ転がる。
「桐宮君!」
「……大丈夫だ」
すぐに片膝をつく。
痛い。
けど、動ける。
「先ほどから、それなりに力を使うておる。それでも、罅一つ入らん」
ハデスは、心底愉快そうに笑った。
「よほど余と相性が良いらしい」
「相性……?」
「魂の質、と言うたら分かるか」
ハデスは首を傾げた。
「器としての格が、余の想定を上回っておる。もう少し力を出しても問題はなさそうじゃ」
背筋が冷えた。
これまでだって、決して余裕があったわけじゃない。
全力で食らいついて、ようやく何度か届いた程度だ。
それなのに。
こいつには、まだ余力がある。
「桐宮君……」
橘の声が震えていた。
「大丈夫だ」
俺は立ち上がる。
「まだやれる」
自分に言い聞かせるように、そう続けた。
「さて」
ハデスは俺たちから距離を取った。
「少し試させてもらおうか」
「……何を」
「この器で、どこまで力を扱えるかをじゃ」
ハデスが右手を持ち上げた。
その瞬間、大広間の空気が変わった。
「……っ」
風が、逆巻く。
いや、違う。
周囲の空気そのものが、ハデスの手元へ引き寄せられている。
掌の上に、黒い球体が生まれた。
拳ほどの大きさ。
だが、見た目に反して、とんでもなく重い圧力を感じる。
周囲の畳がめくれ上がる。
砕けた木片や瓦礫が宙を滑り、黒い球体へ吸い寄せられていく。
柱が軋み、天井から細かな砂埃が降ってきた。
「桐宮君、あれ……!」
「分かってる」
俺は〈レーヴァテイン〉を構える。
だが、足が一瞬止まった。
――怖い。
さっきまでとは、明らかに違う。
あれをまともに撃たれれば、この大広間はただでは済まない。
俺と橘が巻き込まれるのはもちろん、屋敷そのものにもどれだけ被害が出るか分からない。
「……待て」
俺は掠れた声を絞り出した。
「そんなもん、ここで撃つ気か」
「そのつもりじゃが?」
「屋敷ごとぶっ壊れるかもしれねえぞ」
「さてな」
ハデスはあっさりと答えた。
「久しぶりすぎての。どの程度になるか、余にも分からんのじゃ」
「……なんだと」
「だから試すと言うておる」
その言葉に、俺は絶句した。
――こいつは、本当に分かっていない。
いや、分かっていて気にしていないのか。
悪意すらない。
ただ、自分の力を試したい。
その結果、周りがどうなるかなど二の次なのだ。
「ふざけんな……!」
俺は叫んだ。
「そんな理由で――」
『桐宮隼人』
脳内に、アースの声が響いた。
いつになく静かな声だった。
『変われ』
「……は?」
思わず、声に出していた。
『聞こえなかったか』
アースは繰り返す。
『変われと言った』
「何言って――」
『あれはお前の手に負えん』
その一言に、俺は口を閉ざした。
アースが、こんなことを言うのは初めてだ。
こいつはいつも、俺を突き放してきた。
自分でやれと。
甘えるなと。
それが。
『ここまで食らいついたのは悪くねえ』
「……」
『だが、あいつが今から撃とうとしているものは別だ』
黒い球体が、少しずつ膨らんでいく。
圧力がさらに増した。
『正面から受ければ、お前だけじゃない。後ろの小娘まで巻き込まれる』
「……お前なら、防げるってのか」
『そうだ』
「……」
『時間がねえ。四の五の言うな』
悔しい。
まだやれると思っていた。
実際、何度か攻撃は届いた。
あいつを下がらせることだってできた。
それでも――。
今、目の前にあるものだけは。
俺一人でどうにかできるとは思えなかった。
「……本気か」
『本気だ』
アースは即答した。
『お前が意地を張って、後ろの奴まで巻き込むつもりなら止めねえがな』
「……そんなわけないだろ」
『なら決まりだ』
――くそ。
俺は奥歯を噛み締めた。
でも、選ぶべきものは分かっている。
「……分かった」
俺は答えた。
「頼む」
『よく言った』
その瞬間。
視界が白く弾けた。
いや――違う。
俺の意識が、後ろへ引き下がっていく。
身体の主導権が、するりと手から抜けていく。
最後に見えたのは。
ハデスの掌の上で、黒い球体がさらに膨れ上がる瞬間だった。

