魔力の少ない魔法使い二年生編

 どれくらい戦っただろう。
 剣を振るう腕の感覚が、既に麻痺し始めていた。
 だが、その甲斐はあった。
「桐宮君!」
 橘の声が響いた。
「最後の一人、出た!」
「……本当か!」
 俺は振り返った。
 入口から、最後の一人が転がるように大広間を出ていくのが見えた。
 残ったのは、俺と橘。
 そして、まだ数匹の魔獣。
 祭壇の上には、変わらずハデスが座っている。
「……終わったな」
 俺は息を吐いた。
 全身が重い。
 だが、これで守るものは減った。
 あとは、目の前のことだけに集中できる。
「ほう」
 ハデスが、ゆっくりと立ち上がった。
「全員逃がしたか」
「悪いか」
「いや」
 ハデスは首を横に振った。
「大したものじゃ。あの数を、二人でな」
 その言葉には、皮肉が含まれていなかった。
 純粋な感心。
 それが余計に気味悪い。
「あいつらを追う気はないんだな」
「追う、とな」
 ハデスは可笑しそうに笑った。
「別に、あの者たちに用はない」
「……なんだと」
「余を呼んだのは、あの者たちの都合じゃ。呼ばれた側が、いちいち付き合ってやる義理もあるまい」
 ハデスは、ひらりと祭壇から降りた。
 その動きは、あまりに軽い。
 人間の身体で出せる速度じゃなかった。
「何百年ぶりの現世じゃ。少しくらい好きにさせてもらう」
「……ふざけるな」
「ふざけておらん」
 ハデスは、こちらへ歩いてくる。
 残っていた魔獣たちが、道を空けるように後ずさった。
「さて、そろそろ本題といこうか」
「……本題?」
「お主じゃ」
 ハデスの視線が、俺を捉えた。
「さっきから気になっておったが、お主、身体の中に妙なものを抱えておるな」
 背筋が凍った。
(アース……気づかれている)
『……らしいな』
 アースの声は、いつになく硬かった。
「隠すな。分かっておる」
 ハデスは、足を止めた。
「余からすれば、一つの器に二つの魂が入っておるなど、一目で分かる」
「……」
「そういう歪な形をしたものは、遠目にも目立つのじゃ」
 ハデスは、俺の胸のあたりを指した。
「しかも、片方は人ではない。……ずいぶんと珍しい取り合わせじゃな」
「……関係ないだろ」
「関係ある」
 ハデスは、僅かに笑った。
「余が退屈せずに済むかどうかの話じゃからな」
 次の瞬間だった。
 ――消えた。
「なっ――」
 視界からハデスが消えた。
 いや、消えたんじゃない。
 速すぎて、追えなかっただけだ。
「桐宮君、後ろ!」
 橘の悲鳴で、俺は反射的に振り返った。
 目の前に、サラの顔があった。
「――っ!」
 俺は咄嗟に剣を掲げた。
 衝撃。
 ハデスの掌が、剣の腹を打っていた。
 ただ、それだけだ。
 武器も、魔術も使っていない。
 なのに。
「がっ……!」
 俺の身体が、宙を舞った。
 大広間の壁に叩きつけられ、そのまま床へ落ちる。
 肺の中の空気が、全部押し出された。
「桐宮君!」
「来るな!」
 俺は叫んだ。
 まだ動ける。
 まだ、立てる。
「……っ、はぁ……」
 俺はよろめきながら立ち上がった。
「ほう。立つか」
 ハデスは、その場から動いていなかった。
 こちらを見て、僅かに笑っている。
「いい目じゃ」
「……うるせえ」
 俺は剣を握り直した。
 まだ終わってない。
 届かないなら、届くまでやるだけだ。
 刀身に、全力の魔力を注ぎ込む。
 炎が、天井まで届きそうなほど吹き上がった。
 俺は地を蹴った。
 最短距離。
 迷いなく、真っ直ぐに。
「そう来るか」
 ハデスは、今度は避けなかった。
 斬撃が、その肩口を捉える。
 ――手応え。
 だが。
「軽いのう」
 剣が、止まっていた。
 肉を斬った感触はある。
 なのに、それ以上進まない。
 ハデスは、片手で刀身を掴んでいた。
 掌から煙が上がっているが、表情は変わらない。
「熱いことは熱い。じゃが、それだけじゃ」
「――っ!」
 俺は剣を引き戻し、そのまま横薙ぎに振るった。
 ハデスが、後ろへ跳ぶ。
 空を切った刃が、床の畳を焼き裂いた。
「桐宮君!」
 橘の矢が飛んだ。
 三本。
 着地したハデスの足元を狙った、動きを止めるための射撃だ。
「……ほう」
 ハデスは、その場から動かなかった。
 矢が届く直前、空中で霧散する。
「そんな……」
「悪くない判断じゃ。だが、届かん」
 俺は歯を食いしばった。
 ――届かない。
 全力の一撃が、掌で止められた。
 橘の矢は触れることすらできない。
 それでも。
「まだだ……!」
 俺は再び踏み込んだ。
 連撃。
 上段から、返す刀で下段へ。
 さらに突き。
 全部が、避けられるか受け流される。
 だが、俺は止まらなかった。
 止まれば、そこで終わる。
「ふむ」
 ハデスが、僅かに感心したように言った。
「粘るのう」
「うるせえ!」
「その身体で、よくもまあ」
 ハデスは、俺の斬撃を掌で受け流しながら続けた。
「……しかし、驚いたのはこちらじゃ」
「何が」
「この身体じゃ」
 ハデスは、空いた方の手を眺めた。
「人の器に余を入れれば、普通は保たん。三度も動けば砕けるのが道理じゃ……前回も器が保たずすぐに砕けた」
 アースが言ってた七、八百年前の話か。
「……」
「じゃが、この娘は違う」
 その言葉に、俺は動きを止めそうになった。
「先ほどから、そこそこの力を使うておる。それでも、罅一つ入らん」
 ハデスは、心底愉快そうに笑った。
「よほど、余と相性が良いらしい」
「相性……?」
「魂の質、と言うたら分かるか」
 ハデスは首を傾げた。
「器としての格が、余の想定を遥かに上回っておる。……これなら、本来の力の何割かは出せそうじゃ」
 その言葉に、背筋が凍った。
 ――今のが、本気じゃない。
 それどころか、まだ何割も出していない。
「桐宮君……」
 橘の声が、震えていた。
「大丈夫だ」
 俺は答えた。
 自分でも、説得力がないと分かっていた。
「さて」
 ハデスは、俺から距離を取った。
「試させてもらおうか」
「……何を」
「この器で、どこまで出せるのかをじゃ」
 ハデスが、右手を持ち上げた。
 その瞬間、大広間の空気が――止まった。
 いや、違う。
 空気が、ハデスの手元へ吸い寄せられている。
「……なんだ、これ」
 俺は思わず後ずさった。
 ハデスの掌の上に、黒い球体が生まれていた。
 拳ほどの大きさ。
 だが、そこから伝わってくる密度が、明らかに異常だった。
 周囲の畳が浮き上がり、砕けた破片が球体へ吸い込まれていく。
 壁が軋む。
 天井から、砂が降ってくる。
「桐宮君、あれ……!」
「分かってる」
 俺は剣を構えた。
 だが、身体が動かない。
 いや、動かないんじゃない。
 ――怖い。
 本能が、逃げろと叫んでいる。
 あれが放たれれば、この大広間ごと消える。
 俺も、橘も、屋敷も、この山ごと。
「……待て」
 俺は、掠れた声で言った。
「そんなもん撃ったら、どうなるか分かってんのか」
「さてな」
 ハデスはあっさりと答えた。
「久しぶりすぎての。どの程度になるか、余にも分からんのじゃ」
「……なんだと」
「だから試すと言うておる」
 その言葉に、俺は絶句した。
 ――こいつは、本気で分かっていない。
 悪意すらない。
 ただ、試したいだけだ。
 その結果どうなるかを、想像すらしていない。
「ふざけんな……!」
 俺は叫んだ。
「そんな理由で――」
『桐宮隼人』
 脳内に、アースの声が響いた。
 いつになく、静かな声だった。
『変われ』
「……は?」
 俺は、思わず声に出していた。
『聞こえなかったか』
 アースは繰り返した。
『変われと言った』
「何言って――」
『あれはお前の手に負えん』
 その一言に、俺は動きを止めそうになった。
 アースが、こんなことを言うのは初めてだ。
 こいつはいつも、俺を突き放してきた。
 自分でやれと。
 お人よしじゃないと。
 それが。
『あれは、防げなければ後ろにいる小娘もろとも死ぬぞ』
 アースは言った。
『お前じゃ無理だ』
「……お前なら、防げるってのか」
『そうだ』
「……」
『時間がねえ。四の五の言うな』
「……本気か」
『本気だ』
 アースは即答した。
『それとも、ここで全員纏めて消えるか』
 ――ふざけるな。
 そんな選択肢があるか。
「……分かった」
 俺は答えた。
「頼む」
『よく言った』
 その瞬間。
 視界が、白く弾けた。
 いや――違う。
 俺の意識が、後ろへ引き下がっていく感覚。
 身体の主導権が、するりと手から抜けていく。
 最後に見えたのは。
 ハデスの掌の上で、黒い球体が膨れ上がる瞬間だった。​​​​​​​​​​​​​​​​