「少しは楽しませてくれるのじゃろうな?」
その言葉と同時に、大広間の空気が変わった。
いや、変わったなんてものじゃない。
――重い。
肺が押し潰されるような感覚。
イーラと戦った時と同等かそれ以上だ。
「桐宮君……!」
橘の声も、震えていた。
「大丈夫だ」
俺は嘘をついた。
大丈夫なわけがない。
だが、ここで折れれば終わりだ。
「ふむ」
ハデスは、祭壇の上から俺たちを見下ろしていた。
サラの顔で。
サラの声で。
だが、その目の奥には、俺の知らない何かがいる。
「お主ら、この娘の知り合いか」
「……ああ」
「そうか」
ハデスは、少しだけ興味深そうに首を傾げた。
「この娘の中に、お主らの記憶がある。ずいぶんと騒がしい思い出じゃな」
「サラの記憶を、覗いたのか」
「覗くも何も、この体の中におるのじゃ。嫌でも流れ込んでくる」
ハデスは、自分の胸に手を当てた。
「――教室、とやらか。飯を食い、くだらん話をして、笑っておる。楽しそうにしておるが、何が楽しいのか、余にはさっぱり分からんが」
「……サラは、どこにいる」
俺は、剣を握り直した。
「あいつを返せ」
「返せ、とな」
ハデスは、可笑しそうに笑った。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「……悪いが、それは無理じゃな」
「なに?」
「儀式が成った時点で、この娘の意識は消えておる」
ハデスは淡々と言った。
「消えた……?」
「器となった人格が余の力に耐えきれんからの」
ハデスは、自分の掌を眺めた。
「……嘘だ」
「嘘ではない」
ハデスは首を横に振った。
「記憶は残っておる。だが、それだけじゃ」
「……」
記憶はある。
だが、サラはいない。
「……そんなわけ、あるか」
「諦めよ、と言うておるのじゃ」
ハデスは、静かに言った。
「――ふざけるな!」
「ふざけておらん」
ハデスは肩をすくめた。
「まあ、そう怒るな。せっかくの余興が台無しじゃ」
その言葉と同時に、ハデスが軽く指を鳴らした。
――空気が、裂けた。
「なっ……!」
大広間のあちこちに、黒い亀裂が走る。
いや、亀裂ではない。
――穴だ。
どこか別の場所へ繋がる、真っ黒な穴。
その中から、何かが這い出てきた。
最初に見えたのは、鉤爪だった。
次に、頭。
狼のような形をしているが、大きさが違う。
馬ほどもある巨体が、次々と穴から現れる。
一匹、二匹、三匹。
それだけじゃない。
蜘蛛のような形をしたもの。
鳥に似た、しかし翼が骨だけのもの。
人型に近いが、明らかに人ではないもの。
「こ、これは……」
一体なんなんだこいつら。
「こやつらは冥界の魔獣じゃ。知能は低く、目の前におるものを誰彼構わず襲う」
「ひっ……!」
「こ、こっちにくるな……!」
平伏していた黒装束たちが、悲鳴を上げた。
当然だ。
彼らにとって、これは想定外のはずだ。
救済を願って呼んだ神が、当主を貫き、今度は魔獣を呼び出している。
「さて」
ハデスは、祭壇に腰を下ろした。
まるで、これから芝居でも見物するかのように。
「こやつらと遊んでやってくれ。余は少し見物させてもらう」
「――ふざけんな!」
俺は叫んだ。
だが、魔獣たちは既に動き出していた。
狼型の一匹が、床を蹴る。
狙いは――俺ではない。
平伏していた黒装束の一人だった。
「うわああああっ!」
「くそっ!」
俺は考えるより先に走り出していた。
あいつらは敵だ。
サラをこんな目に遭わせた連中だ。
だが。
――目の前で見殺しにできるか。
「どけっ!」
俺は男を突き飛ばし、代わりに剣を掲げた。
狼型の顎が、刃に噛みつく。
衝撃。
腕が痺れる。
重い。
「うおおおおっ!」
俺は全力で剣を振り抜いた。
狼型の巨体が、横へ吹き飛ぶ。
そのまま壁に激突し、動かなくなった。
「桐宮君! こっち!」
橘の声。
振り返ると、橘が弓を構えていた。
その視線の先には、蜘蛛型の魔獣が三匹。
それぞれが、逃げ惑う黒装束たちに迫っている。
「散れ――!」
橘の矢が放たれた。
空中で枝分かれし、魔獣たちの脚を的確に射抜く。
動きが止まった。
だが、倒れはしない。
「浅い……!」
「橘、下がれ!」
俺は駆け寄り、動きの止まった三匹をまとめて薙ぎ払った。
炎が走り、蜘蛛型の身体が焼け焦げる。
それでも、まだ動いている。
「くそっ、しつこい」
背後で、また悲鳴が上がった。
振り返ると、鳥型の魔獣が老人の一人に迫っていた。
距離がある。
間に合わない。
「――っ!」
俺は剣を投げた。
回転しながら飛んだ〈レーヴァテイン〉が、鳥型の胴を捉える。
炎が爆ぜ、魔獣が横へ吹き飛んだ。
「じいさん、逃げろ!」
老人は、腰を抜かしたまま動けずにいた。
俺は駆け寄り、その腕を掴んで引き起こす。
「あ、あなたは……」
「話は後だ!」
俺は老人を入口の方へ押しやり、床に落ちた剣を拾い上げた。
――このままじゃ、駄目だ。
魔獣の数が多すぎる。
そして、この場にいる里の人間たちは、戦う術を持たない者がほとんどだ。
子供も、老人もいる。
「橘!」
「なに?」
「あいつらを逃がすぞ!」
「……え?」
橘が目を見開いた。
「でも、あの人たちは――」
「分かってる」
俺は答えた。
「けど、放っておいたら死ぬ」
「……」
「サラの家族だ」
その一言で、橘の表情が変わった。
「……うん」
橘は頷いた。
「そうだね」
俺たちは、同時に走り出した。
「おい、そこのあんたら!」
俺は叫んだ。
「入口はあっちだ! 走れ!」
黒装束たちが、こちらを見た。
その顔には、困惑があった。
当然だ。
ついさっき、儀式を邪魔しに来た侵入者に助けられているのだから。
「な、なぜ……」
「いいから走れ!」
俺は、迫ってきた魔獣を斬り払った。
「四の五の言ってる場合か!」
「……っ」
男の一人が、ようやく動いた。
「みんな、こちらへ!」
その声を皮切りに、黒装束たちが一斉に入口へ向かって走り出す。
だが、魔獣たちがそれを追う。
「橘、右!」
「うん!」
橘の矢が、追いすがる魔獣の足を止める。
俺はその隙に、別の一匹を斬り伏せた。
「桐宮君、後ろ!」
「分かってる!」
振り向きざまに剣を薙ぐ。
狼型の一匹が、鼻先を焼かれて後退した。
剣を振るうたび、体力が削られていく。
息が上がる。
腕が重い。
だが、止まるわけにはいかない。
――何人逃げた。
まだ半分も出ていない。
しかも、入口が狭い。
一度に通れるのは、二人か三人だ。
「押すな! 順番に!」
誰かが叫んでいる。
混乱している。
当然だ。
この人たちは、ついさっきまで祈っていたのだ。
救いが来ると信じて。
「くそ、多すぎる……!」
その時だった。
「ほう」
祭壇の上から、声がした。
「助けるのか」
ハデスは、心底意外そうな顔をしていた。
「そやつらは、この娘をこんな目に遭わせた連中じゃぞ」
「知ってる!」
俺は叫び返した。
「それでも見殺しにはできねえ!」
「なぜじゃ」
「そんなの――」
俺は、魔獣を薙ぎ払いながら答えた。
「サラが、悲しむからだ!」
その瞬間。
ハデスの表情が、僅かに変わった気がした。
ほんの一瞬だ。
だが、確かに。
「……なるほど」
ハデスは、静かに呟いた。
「そうかそうか……やはり、お主らは面白いのう」
その声には、さっきまでの気安さとは違う何かが混じっていた。
だが、確かめる余裕はなかった。
俺の目の前には、まだ十を超える魔獣がいる。
背後には、逃げ切れていない人たちがいる。
「橘、あと何人だ」
「……三十人くらい、かな」
橘が息を切らしながら答えた。
「まだそんなにいるのか」
「入口が詰まってるの」
「……くそ」
このままじゃ、もたない。
俺は歯を食いしばった。
――だが。
まだだ。
まだ、諦めるには早い。
その言葉と同時に、大広間の空気が変わった。
いや、変わったなんてものじゃない。
――重い。
肺が押し潰されるような感覚。
イーラと戦った時と同等かそれ以上だ。
「桐宮君……!」
橘の声も、震えていた。
「大丈夫だ」
俺は嘘をついた。
大丈夫なわけがない。
だが、ここで折れれば終わりだ。
「ふむ」
ハデスは、祭壇の上から俺たちを見下ろしていた。
サラの顔で。
サラの声で。
だが、その目の奥には、俺の知らない何かがいる。
「お主ら、この娘の知り合いか」
「……ああ」
「そうか」
ハデスは、少しだけ興味深そうに首を傾げた。
「この娘の中に、お主らの記憶がある。ずいぶんと騒がしい思い出じゃな」
「サラの記憶を、覗いたのか」
「覗くも何も、この体の中におるのじゃ。嫌でも流れ込んでくる」
ハデスは、自分の胸に手を当てた。
「――教室、とやらか。飯を食い、くだらん話をして、笑っておる。楽しそうにしておるが、何が楽しいのか、余にはさっぱり分からんが」
「……サラは、どこにいる」
俺は、剣を握り直した。
「あいつを返せ」
「返せ、とな」
ハデスは、可笑しそうに笑った。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「……悪いが、それは無理じゃな」
「なに?」
「儀式が成った時点で、この娘の意識は消えておる」
ハデスは淡々と言った。
「消えた……?」
「器となった人格が余の力に耐えきれんからの」
ハデスは、自分の掌を眺めた。
「……嘘だ」
「嘘ではない」
ハデスは首を横に振った。
「記憶は残っておる。だが、それだけじゃ」
「……」
記憶はある。
だが、サラはいない。
「……そんなわけ、あるか」
「諦めよ、と言うておるのじゃ」
ハデスは、静かに言った。
「――ふざけるな!」
「ふざけておらん」
ハデスは肩をすくめた。
「まあ、そう怒るな。せっかくの余興が台無しじゃ」
その言葉と同時に、ハデスが軽く指を鳴らした。
――空気が、裂けた。
「なっ……!」
大広間のあちこちに、黒い亀裂が走る。
いや、亀裂ではない。
――穴だ。
どこか別の場所へ繋がる、真っ黒な穴。
その中から、何かが這い出てきた。
最初に見えたのは、鉤爪だった。
次に、頭。
狼のような形をしているが、大きさが違う。
馬ほどもある巨体が、次々と穴から現れる。
一匹、二匹、三匹。
それだけじゃない。
蜘蛛のような形をしたもの。
鳥に似た、しかし翼が骨だけのもの。
人型に近いが、明らかに人ではないもの。
「こ、これは……」
一体なんなんだこいつら。
「こやつらは冥界の魔獣じゃ。知能は低く、目の前におるものを誰彼構わず襲う」
「ひっ……!」
「こ、こっちにくるな……!」
平伏していた黒装束たちが、悲鳴を上げた。
当然だ。
彼らにとって、これは想定外のはずだ。
救済を願って呼んだ神が、当主を貫き、今度は魔獣を呼び出している。
「さて」
ハデスは、祭壇に腰を下ろした。
まるで、これから芝居でも見物するかのように。
「こやつらと遊んでやってくれ。余は少し見物させてもらう」
「――ふざけんな!」
俺は叫んだ。
だが、魔獣たちは既に動き出していた。
狼型の一匹が、床を蹴る。
狙いは――俺ではない。
平伏していた黒装束の一人だった。
「うわああああっ!」
「くそっ!」
俺は考えるより先に走り出していた。
あいつらは敵だ。
サラをこんな目に遭わせた連中だ。
だが。
――目の前で見殺しにできるか。
「どけっ!」
俺は男を突き飛ばし、代わりに剣を掲げた。
狼型の顎が、刃に噛みつく。
衝撃。
腕が痺れる。
重い。
「うおおおおっ!」
俺は全力で剣を振り抜いた。
狼型の巨体が、横へ吹き飛ぶ。
そのまま壁に激突し、動かなくなった。
「桐宮君! こっち!」
橘の声。
振り返ると、橘が弓を構えていた。
その視線の先には、蜘蛛型の魔獣が三匹。
それぞれが、逃げ惑う黒装束たちに迫っている。
「散れ――!」
橘の矢が放たれた。
空中で枝分かれし、魔獣たちの脚を的確に射抜く。
動きが止まった。
だが、倒れはしない。
「浅い……!」
「橘、下がれ!」
俺は駆け寄り、動きの止まった三匹をまとめて薙ぎ払った。
炎が走り、蜘蛛型の身体が焼け焦げる。
それでも、まだ動いている。
「くそっ、しつこい」
背後で、また悲鳴が上がった。
振り返ると、鳥型の魔獣が老人の一人に迫っていた。
距離がある。
間に合わない。
「――っ!」
俺は剣を投げた。
回転しながら飛んだ〈レーヴァテイン〉が、鳥型の胴を捉える。
炎が爆ぜ、魔獣が横へ吹き飛んだ。
「じいさん、逃げろ!」
老人は、腰を抜かしたまま動けずにいた。
俺は駆け寄り、その腕を掴んで引き起こす。
「あ、あなたは……」
「話は後だ!」
俺は老人を入口の方へ押しやり、床に落ちた剣を拾い上げた。
――このままじゃ、駄目だ。
魔獣の数が多すぎる。
そして、この場にいる里の人間たちは、戦う術を持たない者がほとんどだ。
子供も、老人もいる。
「橘!」
「なに?」
「あいつらを逃がすぞ!」
「……え?」
橘が目を見開いた。
「でも、あの人たちは――」
「分かってる」
俺は答えた。
「けど、放っておいたら死ぬ」
「……」
「サラの家族だ」
その一言で、橘の表情が変わった。
「……うん」
橘は頷いた。
「そうだね」
俺たちは、同時に走り出した。
「おい、そこのあんたら!」
俺は叫んだ。
「入口はあっちだ! 走れ!」
黒装束たちが、こちらを見た。
その顔には、困惑があった。
当然だ。
ついさっき、儀式を邪魔しに来た侵入者に助けられているのだから。
「な、なぜ……」
「いいから走れ!」
俺は、迫ってきた魔獣を斬り払った。
「四の五の言ってる場合か!」
「……っ」
男の一人が、ようやく動いた。
「みんな、こちらへ!」
その声を皮切りに、黒装束たちが一斉に入口へ向かって走り出す。
だが、魔獣たちがそれを追う。
「橘、右!」
「うん!」
橘の矢が、追いすがる魔獣の足を止める。
俺はその隙に、別の一匹を斬り伏せた。
「桐宮君、後ろ!」
「分かってる!」
振り向きざまに剣を薙ぐ。
狼型の一匹が、鼻先を焼かれて後退した。
剣を振るうたび、体力が削られていく。
息が上がる。
腕が重い。
だが、止まるわけにはいかない。
――何人逃げた。
まだ半分も出ていない。
しかも、入口が狭い。
一度に通れるのは、二人か三人だ。
「押すな! 順番に!」
誰かが叫んでいる。
混乱している。
当然だ。
この人たちは、ついさっきまで祈っていたのだ。
救いが来ると信じて。
「くそ、多すぎる……!」
その時だった。
「ほう」
祭壇の上から、声がした。
「助けるのか」
ハデスは、心底意外そうな顔をしていた。
「そやつらは、この娘をこんな目に遭わせた連中じゃぞ」
「知ってる!」
俺は叫び返した。
「それでも見殺しにはできねえ!」
「なぜじゃ」
「そんなの――」
俺は、魔獣を薙ぎ払いながら答えた。
「サラが、悲しむからだ!」
その瞬間。
ハデスの表情が、僅かに変わった気がした。
ほんの一瞬だ。
だが、確かに。
「……なるほど」
ハデスは、静かに呟いた。
「そうかそうか……やはり、お主らは面白いのう」
その声には、さっきまでの気安さとは違う何かが混じっていた。
だが、確かめる余裕はなかった。
俺の目の前には、まだ十を超える魔獣がいる。
背後には、逃げ切れていない人たちがいる。
「橘、あと何人だ」
「……三十人くらい、かな」
橘が息を切らしながら答えた。
「まだそんなにいるのか」
「入口が詰まってるの」
「……くそ」
このままじゃ、もたない。
俺は歯を食いしばった。
――だが。
まだだ。
まだ、諦めるには早い。

