魔力の少ない魔法使い二年生編

 灼熱の魔力を纏った〈レーヴァテイン〉の刃が、見えない障壁に激突した。
「おおおおおっ!!」
 刀身から爆炎が巻き起こり、大広間の空気を焦がす。剣を通じて両腕の骨が軋むほどの反発力が伝わってくるが、俺は歯を食いしばり、さらに魔力を注ぎ込んだ。
「無駄だと言ったはずです、桐宮さん」
 炎の向こう側で、エルフリーデはまるで夜風でも受けるかのように涼しい顔で立っていた。彼女の指先から供給される魔力が、障壁をさらに分厚く、強固にしていく。
「あの子の言葉を信じてくださいますかと、私はあの日、あなたに尋ねましたね」
「ッ……!」
「あの子はすべて知った上で、自らこれを選んだのです。あなた方がどれほど足掻こうと、サラの運命を変えることはできません」
「知るかよ……! 俺は、サラが学園に帰りたいって思ってるって、そう信じてるんだよ!!」
 炎の斬撃が弾かれ、俺は再び後方へと吹き飛ばされた。
「桐宮君!」
 橘がすかさず〈天ノ桜〉から三筋の魔力矢を放つ。矢は障壁に突き刺さったが、ヒビ一つ入れることなく霧散してしまった。
「……くそっ、なんて硬さだ」
 焦りが胸を焼く。祭壇の上では、サラの頭上にある空間の渦がいよいよ臨界点に達しようとしていた。どす黒い泥のような瘴気が滝のように降り注ぎ、サラの身体を覆い尽くそうとしている。
「サラ!」
 橘の悲痛な叫びが大広間に響き渡った。
 その声が届いたのか。
 虚空を見つめ、一切の生気を失っていたサラの瞳に、ほんの一瞬だけ光が戻った。
「……」
 ゆっくりと、縛り付けられたような姿勢のまま、サラの顔が下を向く。
 ピンク色の髪の間から覗くその目が、結界の外で傷つきながら立ち上がる俺と、必死に弓を構える橘を捉えた。
「サラ……!」
 サラの唇が微かに動いた。
 声は出なかった。だが、その表情は、学園でいつも見せていた、少しだけ困ったような、それでも温かい微笑みだった。
『ごめんね。ありがとう』
 読唇術など知らなくても、痛いほどに伝わってきた。
 あの日、母親が言った「あの子は幸せでした」という言葉。サラは本当に、俺たちと過ごした時間を愛してくれていた。
 だからこそ、自分を犠牲にしてでも、これ以上俺たちを巻き込みたくなかったのだ。
「やめろ……サラ、諦めるな! 今すぐ助けてやるから!」
 俺は再び〈レーヴァテイン〉を構え、地を蹴ろうとした。
 だが、遅かった。
 サラがふわりと目を閉じた次の瞬間、頭上の渦から溢れ出した極大の瘴気が、彼女の口、鼻、そして全身の毛穴から一気に体内へと侵入した。
 音のない絶叫。
 サラの身体が弓なりに反り返り、大広間の空気が一瞬にして凍りついたように静まり返った。
 読経の声すら止んだ。
 赤く発光していた魔法陣が、どす黒い闇の色へと反転する。
 空間が歪み、重力が狂ったかのように周囲の畳が浮き上がり、砕け散った。
「……あ……」
 橘が、弓を構えたまま震える声で漏らした。
 宙に浮いていたサラの身体が、ゆっくりと、音もなく祭壇の上に降り立った。
 純白の着物。特徴的なピンク色の髪。
 見た目は、先ほどまでと何も変わらない、俺たちの知るサラ・クロイツそのものだった。
 だが、纏う空気が全く違う。
「――誰だ、お前は」
 俺は、無意識のうちに一歩、また一歩と後ずさっていた。
 本能が、全身の細胞が、目の前にいる少女の姿をした『それ』を猛烈に拒絶していた。息をするだけで肺が凍りつきそうなほどの、圧倒的な『死』の気配。
「おお……おおおお……!!」
 エルフリーデが、障壁を解き、歓喜の涙を流しながら祭壇へと歩み寄った。彼女はその場に崩れ落ちるように膝をつき、祈るように両手を組み合わせる。
「冥王ハデス様……! お待ちしておりました。我がクロイツ家、七百年の悲願が、今ここに結実いたしました……! さあ、この現世に災禍を、そして我らに永遠の安息を……!」
 狂信に染まった百近い黒装束たちも、一斉に平伏し、額を床に擦り付けた。
 ――だが。
 祭壇の上に立つ少女……冥王ハデスは、頭を垂れる人間たちを見下ろし、呆れ果てたようにやれやれと首を振った。
「……相変わらず、人間の考えることは分からんのう」
 それはサラの愛らしい声でありながら、響きは億千の年月を生きた古き王のそれだった。ハデスは気怠げに片手を腰に当て、自分の小さな両手をひらひらと眺めてみせる。
「こんな面倒な仕掛けを組んでまで余を呼び出して、何をありがたがっておるのやら」
「は……?」
 歓喜に酔いしれていたエルフリーデが、わずかに顔を上げて硬直した。彼女の想定していた「神々しい救済者の降臨」とは似ても似つかない、あまりにも気安い物言いだったからだ。
「まあいい。七百年か、八百年か……ずいぶん久しぶりに嗅ぐ現世の空気じゃ」
 ハデスは大きく息を吸い込み、それから満足そうに目を細めた。
「この娘の体はちと窮屈で勝手が違うが、文句ばかり言うてもはじまらん。せっかくこうして面白そうな場に放り出されたのじゃ、しばらくはこの世界とやらを存分に楽しませてもらうとしようかの」
 ハデスは不敵に、妖しく口角を吊り上げた。その表情には、神としての威厳よりも、退屈を嫌う者が面白いものを見つけた時のそれに似た、底知れない悪戯っぽさが滲んでいた。
「さて、それじゃあ……まずはそうじゃな」
 ハデスは、足元に平伏する人間たちを見下ろした。
「これだけ大袈裟に余を呼んだのじゃ。何か一つくらいは、応えてやらねば失礼というものかの」
「ひっ……!?」
 ハデスがスッと、何気ない動作で右手を伸ばした。
 ドチュッ。
 ひどく生々しい音が大広間に響いた。
「…………え?」
 エルフリーデの顔から、歓喜の表情がすっぽりと抜け落ちた。
 サラの細く白い右腕が、母親であるエルフリーデの胸の中央を、まるで紙でも突き破るかのように何の抵抗もなく貫通し、背中から指先を覗かせていたのだ。
 エルフリーデの唇が、僅かに動いた。
 だが、そこから先は声にならなかった。
 信じられないものを見る目で、自分の胸元と、目の前の「神」を見つめている。
「安心せい。これも余興のうちじゃ」
 ハデスは表情一つ変えず、無造作にその腕を引き抜いた。
 支えを失ったエルフリーデの身体が、どさりと音を立てて祭壇の前に倒れ伏し、動かなくなった。
「当主様ァッ!?」
「ば、馬鹿な……こんな、神のお導きが……!」
 周囲の黒装束たちが、絶叫と共に顔を上げる。信仰の対象に我が身を捧げた結果がこれでは、狂信者たちの心もさすがに耐えられるはずがなかった。恐怖と混乱が、瞬く間に大広間を支配していく。
 その余りにも理不尽な光景に、俺は剣を握る手が怒りと恐怖で激しく震えるのを止められなかった。
「てめぇ……! 自分の依代になった人間の親を、よくもそんな平気な顔で……!」
「母親、か」
 ハデスは、自分の右手を興味深そうに眺めながら呟いた。
「人間というのは分からんな。血の繋がりだの絆だのという鎖で互いを縛り合い、勝手に期待し、勝手に絶望する」
「……ふざけるな」
「ふざけてなどおらん」
 ハデスは、あっさりと言った。
「本当に、分からんのじゃ」
 その言い方には、嘲りも悪意もなかった。
 ただ、心底不思議そうな響きだけがあった。
 それが、余計に恐ろしかった。
 サラの姿をした存在は、深淵の闇を宿した瞳を、ゆっくりとこちらへと向けた。その圧倒的な眼光に、足がすくみそうになる。
「さて、そこの二人」
「……っ」
「この場で唯一、余を睨みつけておる人間じゃ」
 ハデスは、僅かに笑った。
「少しは楽しませてくれるのじゃろうな?」