魔力の少ない魔法使い二年生編

 重厚な木製の扉の前に立つ。
 小さく息を吐き、ドアをノックする。
「入りなさい」
 中から、よく知る母さんの凛とした声が響いた。
 扉を開けると、広々とした執務室の奥で、学園長である母さんが書類から顔を上げた。
 母さんの視線が、俺、そして隣に立つ橘へと移る。
「……来ると思っていました」
 その一言で、こちらの用件を察していることが分かった。
「どうぞ、そこへ掛けてください」
 促されたソファには座らず、俺は母さんのデスクの前に真っ直ぐ立った。
「座りに来たわけじゃない。単刀直入に聞くよ、母さん」
「……ここでは学園長と呼びなさい、桐宮君」
「っ……」
 俺は言葉を飲み込む。
 この人がその線を引く時は、決まって話をこじらせたくない時だ。
 ――上等だ。
「……分かりました」
 俺は一度だけ息を整え、母さんの目を真っ直ぐに見据えた。
「学園長。サラに何があったんですか」
「烏廻先生から聞いたでしょう。それ以上でも以下でもありません」
 母さんは表情を一切変えず、淡々と答える。
「彼女は自主退学を希望しました」
「本人が……?」
「ええ」
「嘘だ!!」
 俺は思わずデスクに両手をつき、声を荒げた。
「昨日まで普通に連絡が取れてたんだぞ! 本人はもう少しで戻るって言ってた! なのに、いきなり退学になって、アカウントまで消されるなんて異常だろ!」
「桐宮君、落ち着いて」
 橘が俺の腕を軽く引き、一歩前へ出た。
「学園長。桐宮君の言う通り、あまりにも不自然です。サラちゃんは昨日まで、学園に戻る意思を明確に示していました。それが一夜にして自主退学に至るなど、何らかの事情があったとしか考えられません」
 橘は冷静な口調で、けれど鋭く問いかける。
「学園長は、サラちゃんの身に何が起きているのか、ご存知なのではないですか?」
 母さんは、静かに橘を見つめ返した。
 しばらくの沈黙のあと、小さくため息をつく。
「……一つだけ、話しておきましょう」
 母さんは引き出しから、一通の封筒を取り出した。
 白い、飾り気のない封筒。
 差出人の名を見て、俺は息を呑んだ。
 ――サラ・クロイツ。
「昨夜、退学届と一緒に届いたものです」
「昨夜……?」
 俺は思わず声を上げた。
「昨日の夕方には、まだ普通にメッセージが来てたんだぞ! 『みんなは気にせず学校楽しんでて』って!」
「……ええ」
 母さんは目を伏せた。
「私も、それは引っかかっています」
「じゃあ――」
「ですが、届いたものが本人からのものであることも事実です」
 母さんは封筒に視線を落としたまま、続ける。
「書かれていたことの一部なら話せます。家の事情で学園を続けられなくなったこと。突然のことで申し訳ないということ。そして――」
 一度、言葉を切る。
「自分のことは探さないでほしい、と」
「……探さないで?」
「ええ」
 橘の顔から、すっと血の気が引いた。
「そんな……」
「彼女の筆跡でした。文面も、彼女らしい書き方をしていました」
 母さんの声には、感情を押し殺したような響きがあった。
「――ふざけるな!」
 俺は叫んでいた。
「そんな手紙一枚で納得できるわけないだろ! 書かされたのかもしれない! 脅されてたのかもしれない! それを確かめもしないで――」
「桐宮君」
 母さんの声が、俺の言葉を断ち切った。
「私が、そう考えなかったとでも思いますか?」
「……っ」
 初めて、母さんの声に感情が滲んだ。
「学園長として、私は彼女を三年間預かるつもりでいました。それが一年で、こんな形で終わる。納得できるわけがないでしょう」
 母さんは目を伏せる。
「だから、確認はしました。今朝一番にクロイツ家へ問い合わせも入れています」
「それで?」
「返ってきたのは、『家の事情』という一言だけです。それ以上のことは何も」
「その家の事情ってのはなんだったんですか」
 俺は身を乗り出した。
「学園長は、それを聞き出せなかったんですか?」
「ええ」
「なんでだよ! 生徒が一人いなくなるんだぞ!?」
「学園には、生徒の家庭に対して強制力がありません」
 母さんは静かに、けれど有無を言わせぬ口調で言った。
「本人が退学を届け出て、探さないでほしいと書き添えている。その状況で学園にできることは限られています」
「そんなの、ただの建前だろ!」
「建前であっても、それが今の私に許されている範囲です」
 母さんの手が、僅かに震えているのが見えた。
 ――ああ、そうか。
 この人も、悔しいのか。
 その事実に気づいて、俺は一瞬言葉を失った。
 だが、それでも。
「……一つ、聞いてもいいですか」
 少しだけ声を落として、俺は口を開いた。
「サラは前に、実家が落ち着かないって言ってたんです」
 サラが以前、病室で口にしていた言葉が頭をよぎる。
『いや〜……実家、ちょっと落ち着かないんだよね』
 あの時は、ただの愚痴だと思っていた。
 けれど、『家の事情』という言葉と重ねれば、意味が変わってくる。
「あれは、こういうことだったんじゃないんですか?」
 母さんの表情が、ほんの僅かに揺れた。
 ほんの一瞬だった。
 けれど、俺は見逃さなかった。
「学園長は、クロイツ家について何か知ってるんですか?」
 沈黙が落ちた。
 やがて、母さんはゆっくりと口を開いた。
「……詳しいことは知りません。古い家系ではあります。表舞台にはほとんど出てきませんが、魔術師の世界ではあまりいい噂を聞かない家です」
「……『呪われた一族』か」
 俺が呟くと、母さんの視線がこちらへ向いた。
「知っていたのですか?」
「呼び名だけは知ってます」
 いつだったか、どこかで耳にした。
 クロイツ――呪われた一族。あるいは、死の一族。
「なんでそう呼ばれてるんですか?」
「……分かりません」
 母さんは首を横に振った。
「私が知っているのも、その呼び名までです。由来までは知りません」
 嘘をついているようには見えなかった。
 この人が本当に何かを隠している時、俺には分かる。
 今の母さんは、隠しているというより――知らないことに、苛立っているように見えた。
「……だからこそ、あなたたちを行かせるわけにはいきません」
 母さんは顔を上げ、俺を真っ直ぐに見た。
「相手が何をする家なのかも分からない。何が危険なのかも分からない。これでは備えようがありません」
「それでも――」
「去年、この学園がどうなったか、忘れたのですか?」
 その一言に、俺は言葉を詰まらせた。
「守られた場所ですら、あれだけのことが起きました。ましてや、素性の知れない家の敷地で何かが起これば、私はすぐに助けに行くこともできません」
「っ……」
「これ以上、この件について探ることは学園長として禁じます。もし勝手な行動に出るようなら……あなたたちにも相応の処分を下さなければなりません」
 それは、明確な拒絶であり、警告だった。
 俺は拳を強く握りしめた。
「……忘れるわけないだろ」
 絞り出すように、俺は言った。
「あいつは、俺たちの友達だ。同じ教室で、一年間ずっと隣にいた奴なんだよ」
 俺の言葉に、母さんは僅かに目を伏せた。
 その表情の奥に、烏廻さんと同じような微かな葛藤が見えた気がした。
「……分かっています」
 母さんは静かに答えた。
「あなたたちがどれだけあの子を大切に思っているかも、知っているつもりです」
「だったら――」
「だからこそです」
 母さんが顔を上げる。
「あなたに何かあったら、私は――」
 そこで、母さんは言葉を飲み込んだ。
 学園長の顔から、一瞬だけ母親の顔が覗いた気がした。
 だが、それもすぐに消える。
「……今日はもう帰りなさい」
「まだ話は――」
「帰りなさい」
 母さんは、それ以上の言葉を許さなかった。
 俺は拳を握り締めたまま、母さんを見つめる。
 結局、答えらしい答えは得られなかった。
 ――いや。
 一つだけ、分かったことがある。
 母さんも、真相を知らない。
 この人は、俺たちと同じように何かがおかしいと感じている。
 ただ、学園長という立場では、これ以上踏み込むことができないだけだ。
 だったら、俺たちがやるしかない。
「……行こう、橘」
「うん」
 俺は橘とともに学園長室を後にする。
 廊下へ出た瞬間、橘が静かに口を開いた。
「……桐宮君」
「分かってる」
 俺は歩みを止めなかった。
「サラの実家について、詳しく調べよう」
「うん。でも、どうやって?」
「まずはクロイツ家がどんな家なのかだ」
 学園長ですら詳しい実態を知らない家。
 魔術師の世界で避けられている家。
 その正体さえ掴めれば、母さんを説得する材料にもなる。
「玲奈たちと合流しよう。あっちも何か掴んでるかもしれない」
「そうだね」
 窓の外、桜の花びらが風に流されていく。
 ――こうして俺たちは、サラの失踪の真相を追い始めた。