生垣の裏は、想像以上に歩きにくかった。
枝が服に引っかかり、足元には石が転がっている。
それでも、道を使うよりはましだ。
背後では、断続的に爆発音が響いていた。
烏迴さんが戦っている音だ。
時折、閃光が夜空を照らす。
そのたびに、俺たちの影が地面に伸びた。
「……すげえな、あの人」
絋弥が、走りながら呻いた。
「十人以上相手にして、まだ持ちこたえてる」
「持ちこたえてるどころじゃないわよ」
玲奈が言った。
「押してるわ、あれ」
確かに、音の位置が変わっていない。
押し込まれていれば、こちらへ近づいてくるはずだ。
だが、烏迴さんは同じ場所で戦い続けている。
――それでも、時間の問題だ。
相手は里の人間だ。
この先も、いくらでも湧いてくる。
「あの人、いつもあんな感じなの?」
八雲が、意外そうに言った。
「あんな感じって?」
「俺の担任なんか、寝てるだけだぞ」
「……烏迴さんも、普段は寝てる」
「嘘だろ」
「本当だ」
絋弥が口を挟んだ。
「ホームルームの時なんか、目が半分閉じてる」
「なのに、あれか」
八雲は背後を振り返った。
「化けもんじゃねえか」
その言い方には、隠しきれない敬意が混じっていた。
俺も、同じことを思っていた。
去年の襲撃の時も、この人は前線に立っていた。
だが、その時は他にも大人がいた。
今夜は、一人だ。
「桐宮」
雨宮が、隣で言った。
「屋敷まで、あとどのくらいだ?」
「……分からない」
俺は正直に答えた。
昨日は道を歩いたから、距離の感覚がある。
だが、こうして生垣の裏を進んでいると、どこまで来たのか掴めない。
「見えたよ」
その時、橘が前方を指差した。
木々の間から、黒い影が見える。
――塀だ。
昨日、俺たちが通された屋敷を囲んでいた、あの低い塀。
「近いな」
八雲が呟いた。
「あと二百メートルってとこか」
俺は、思わず足を速めた。
あそこに、サラがいる。
だが。
「止まれ」
雨宮が、鋭く言った。
全員が、その場に伏せる。
「どうした」
「見ろ」
雨宮が示した先。
塀の正面――門のあたりに、明かりが灯っていた。
松明だ。
それも、一つや二つじゃない。
目を凝らすと、人影が見えた。
門の前に、四人。
塀に沿って、さらに何人か。
「……見張りか」
「そうだな」
雨宮は頷いた。
「昨日と同じ配置だが、数が違う」
「昨日は二人だったな」
「今夜は倍以上だ」
俺は唇を噛んだ。
屋敷まで、あと少し。
なのに、そこが一番厚い。
「裏に回れないか」
絋弥が言った。
「昨日、裏手はどうだった」
「……見ていない」
俺は答えた。
昨日は正面から通されて、正面から帰った。
裏がどうなっているかは、確認していない。
「なら、賭けになるな」
雨宮が言った。
「裏に人がいなければ入れる。いたら、そこで終わりだ」
「……賭けるしかないでしょ」
玲奈が言った。
「正面は無理よ。あの人数を抜けるのは不可能」
その時だった。
背後で、一際大きな爆発音が響いた。
全員が、振り返る。
閃光。
そして――静寂。
「……先生?」
橘が、小さく呟いた。
音が、止まっていた。
さっきまで絶え間なく響いていた戦闘音が、嘘のように消えている。
「烏迴さん……」
俺は、思わず立ち上がりかけた。
「動くな」
雨宮が俺の腕を掴んだ。
「けど!」
「あの人が負けたなら、今頃こっちに向かってきてる」
雨宮は冷静に言った。
「静かってことは、まだ動いてるってことだ」
「……」
「それに」
雨宮は前を見た。
「向こうも気づいてる」
その言葉通りだった。
門の前の男たちが、こちらの方向を見ていた。
いや、正確には、爆発音の方向を。
そのうち数人が、門を離れて走り出す。
「……援軍か」
「そうだな」
雨宮は頷いた。
「門の守りが薄くなる」
確かに、門の前に残ったのは二人だけになった。
塀沿いにいた者も、半分ほどが減っている。
――チャンスだ。
だが、それは烏迴さんが作ったものだ。
あの人が、身体を張って作った時間。
「……行くぞ」
俺は言った。
その時、雨宮が動きを止めた。
「桐宮」
「なんだ」
「今、何か聞こえなかったか」
「え?」
俺は耳を澄ませた。
――音がする。
背後だ。
だが、爆発音ではない。
もっと軽い、規則的な。
――足音。
複数。
こちらへ、近づいてくる。
「……嘘だろ」
絋弥が呻いた。
「別動隊だ」
雨宮が低く言った。
「俺たちを探してる。烏迴先生が一人じゃないと踏んだんだろう」
「くそっ」
挟まれた。
前には門の見張り。
後ろには追手。
しかも、この場所は生垣の裏だ。
狭い。
逃げ場がない。
「……何人だ」
「足音からして、十人前後か」
雨宮は淡々と答えた。
「厄介だな。この暗さじゃ正確には測れん」
「引き返せないの?」
橘が言った。
「無理だ」
雨宮は首を横に振った。
「引き返せば、烏迴先生のところへ戻ることになる。それじゃ意味がない」
「じゃあ、どうすんだよ」
「……なるほどな」
その時、八雲が笑った。
「ちょうどいい」
「は?」
「おい雨宮」
「ああ」
雨宮は、既に理解しているようだった。
二人は、同時に立ち上がった。
「……おい、待て」
俺は嫌な予感がした。
「まさか」
「桐宮」
雨宮が振り返った。
「ここは俺たちがやる」
「――ふざけんな!」
俺は思わず声を上げた。
「二人だけで、何人相手にする気だよ!」
「桐宮」
雨宮が、俺を真っ直ぐに見た。
「お前らがここに残って、誰があいつを連れ戻す」
「……っ」
「俺たちじゃ駄目なんだ」
雨宮は静かに言った。
「あいつを説得できるのは、お前らだけだろ」
「……」
「昨日、会ってきたんだよな」
「ああ」
「なら、話は早い」
雨宮は前を向いた。
足音は、既にすぐそこまで来ている。
「一つだけ、聞いていいか」
俺は言った。
「なんだ」
「なんで、そこまでする」
その問いに、雨宮は少しだけ黙った。
「……前に言っただろ」
「え?」
「同じクラスだからだ」
雨宮は、こちらを見ずに答えた。
「それに、あいつには一つ借りがある」
「借り?」
「去年、俺がお嬢様方に振り回されてる時にな」
雨宮は、僅かに笑った。
「クロイツが大変だねって助けてくれた」
「……」
「他の連中は、みんな笑って見てるだけだった」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
あいつらしい。
どうしようもなく、あいつらしい。
雨宮はふっと口元を緩め、前方を走る玲奈の背中へと視線を向けた。
「あと、ここでクロイツを助けられなかったら、西園寺嬢が悲しむだろ? そうなるとうちのお嬢様達が悲しむんでね……ああ見えて、うちの連中も西園寺嬢のこと好きなんだぜ?」
「え……」
俺が意外な事実に目を丸くすると、雨宮は悪戯っぽく片目を閉じてみせた。
「……っと、今のはあの二人には内緒にしてくれよ?」
軽口を叩くようなその響きには、彼なりの不器用な気遣いが滲んでいた。
「八雲は?」
俺は、もう一人の男に尋ねた。
「お前は、あいつと大して喋ったこともないだろ」
「ねえな」
八雲は首の後ろを掻きながら、あっさりと認めた。
「じゃあ、なんで」
「俺は雨宮に呼ばれただけだ」
「それだけか?」
「それだけだ」
八雲は肩をすくめた。
だが、少しだけ気まずそうに視線を彷徨わせた後、ボソッと小さく付け加えた。
「……ただ、まあ。あいつ、一ノ瀬と仲が良いんだよ」
「一ノ瀬と……?」
「ああ。一ノ瀬が落ち込んだツラしてんのを見るのは、どうにも気分が悪りィ。……そういうわけだから、さっさと連れ戻してこい」
照れ隠しのように乱暴に言い捨てる八雲の赤い髪が、夜風に揺れた。
こいつら……。
「だから、行け」
雨宮が、その空気を断ち切るように鋭く言った。
「門の見張りは減ってる。今なら抜けられる」
「……分かった」
俺は深く頷いた。
「絶対に、無事でいろ」
「言われるまでもねえ」
「八雲」
「あん?」
「……ありがとう」
「礼はいらねえって言っただろ」
八雲は前を見据えたまま答えた。
その手の中に、いつの間にか炎が渦巻いている。
赤黒い、荒々しい炎だった。
「さっさと行け。目障りだ」
「……ああ」
俺は走り出した。
橘が、玲奈が、絋弥が続く。
背後で、爆発音が響いた。
振り返ると、生垣が炎で塞がれているのが見えた。
その炎の向こうに、二人の背中が立っている。
――絶対に、無駄にしない。
俺は前を向いて、走った。
枝が服に引っかかり、足元には石が転がっている。
それでも、道を使うよりはましだ。
背後では、断続的に爆発音が響いていた。
烏迴さんが戦っている音だ。
時折、閃光が夜空を照らす。
そのたびに、俺たちの影が地面に伸びた。
「……すげえな、あの人」
絋弥が、走りながら呻いた。
「十人以上相手にして、まだ持ちこたえてる」
「持ちこたえてるどころじゃないわよ」
玲奈が言った。
「押してるわ、あれ」
確かに、音の位置が変わっていない。
押し込まれていれば、こちらへ近づいてくるはずだ。
だが、烏迴さんは同じ場所で戦い続けている。
――それでも、時間の問題だ。
相手は里の人間だ。
この先も、いくらでも湧いてくる。
「あの人、いつもあんな感じなの?」
八雲が、意外そうに言った。
「あんな感じって?」
「俺の担任なんか、寝てるだけだぞ」
「……烏迴さんも、普段は寝てる」
「嘘だろ」
「本当だ」
絋弥が口を挟んだ。
「ホームルームの時なんか、目が半分閉じてる」
「なのに、あれか」
八雲は背後を振り返った。
「化けもんじゃねえか」
その言い方には、隠しきれない敬意が混じっていた。
俺も、同じことを思っていた。
去年の襲撃の時も、この人は前線に立っていた。
だが、その時は他にも大人がいた。
今夜は、一人だ。
「桐宮」
雨宮が、隣で言った。
「屋敷まで、あとどのくらいだ?」
「……分からない」
俺は正直に答えた。
昨日は道を歩いたから、距離の感覚がある。
だが、こうして生垣の裏を進んでいると、どこまで来たのか掴めない。
「見えたよ」
その時、橘が前方を指差した。
木々の間から、黒い影が見える。
――塀だ。
昨日、俺たちが通された屋敷を囲んでいた、あの低い塀。
「近いな」
八雲が呟いた。
「あと二百メートルってとこか」
俺は、思わず足を速めた。
あそこに、サラがいる。
だが。
「止まれ」
雨宮が、鋭く言った。
全員が、その場に伏せる。
「どうした」
「見ろ」
雨宮が示した先。
塀の正面――門のあたりに、明かりが灯っていた。
松明だ。
それも、一つや二つじゃない。
目を凝らすと、人影が見えた。
門の前に、四人。
塀に沿って、さらに何人か。
「……見張りか」
「そうだな」
雨宮は頷いた。
「昨日と同じ配置だが、数が違う」
「昨日は二人だったな」
「今夜は倍以上だ」
俺は唇を噛んだ。
屋敷まで、あと少し。
なのに、そこが一番厚い。
「裏に回れないか」
絋弥が言った。
「昨日、裏手はどうだった」
「……見ていない」
俺は答えた。
昨日は正面から通されて、正面から帰った。
裏がどうなっているかは、確認していない。
「なら、賭けになるな」
雨宮が言った。
「裏に人がいなければ入れる。いたら、そこで終わりだ」
「……賭けるしかないでしょ」
玲奈が言った。
「正面は無理よ。あの人数を抜けるのは不可能」
その時だった。
背後で、一際大きな爆発音が響いた。
全員が、振り返る。
閃光。
そして――静寂。
「……先生?」
橘が、小さく呟いた。
音が、止まっていた。
さっきまで絶え間なく響いていた戦闘音が、嘘のように消えている。
「烏迴さん……」
俺は、思わず立ち上がりかけた。
「動くな」
雨宮が俺の腕を掴んだ。
「けど!」
「あの人が負けたなら、今頃こっちに向かってきてる」
雨宮は冷静に言った。
「静かってことは、まだ動いてるってことだ」
「……」
「それに」
雨宮は前を見た。
「向こうも気づいてる」
その言葉通りだった。
門の前の男たちが、こちらの方向を見ていた。
いや、正確には、爆発音の方向を。
そのうち数人が、門を離れて走り出す。
「……援軍か」
「そうだな」
雨宮は頷いた。
「門の守りが薄くなる」
確かに、門の前に残ったのは二人だけになった。
塀沿いにいた者も、半分ほどが減っている。
――チャンスだ。
だが、それは烏迴さんが作ったものだ。
あの人が、身体を張って作った時間。
「……行くぞ」
俺は言った。
その時、雨宮が動きを止めた。
「桐宮」
「なんだ」
「今、何か聞こえなかったか」
「え?」
俺は耳を澄ませた。
――音がする。
背後だ。
だが、爆発音ではない。
もっと軽い、規則的な。
――足音。
複数。
こちらへ、近づいてくる。
「……嘘だろ」
絋弥が呻いた。
「別動隊だ」
雨宮が低く言った。
「俺たちを探してる。烏迴先生が一人じゃないと踏んだんだろう」
「くそっ」
挟まれた。
前には門の見張り。
後ろには追手。
しかも、この場所は生垣の裏だ。
狭い。
逃げ場がない。
「……何人だ」
「足音からして、十人前後か」
雨宮は淡々と答えた。
「厄介だな。この暗さじゃ正確には測れん」
「引き返せないの?」
橘が言った。
「無理だ」
雨宮は首を横に振った。
「引き返せば、烏迴先生のところへ戻ることになる。それじゃ意味がない」
「じゃあ、どうすんだよ」
「……なるほどな」
その時、八雲が笑った。
「ちょうどいい」
「は?」
「おい雨宮」
「ああ」
雨宮は、既に理解しているようだった。
二人は、同時に立ち上がった。
「……おい、待て」
俺は嫌な予感がした。
「まさか」
「桐宮」
雨宮が振り返った。
「ここは俺たちがやる」
「――ふざけんな!」
俺は思わず声を上げた。
「二人だけで、何人相手にする気だよ!」
「桐宮」
雨宮が、俺を真っ直ぐに見た。
「お前らがここに残って、誰があいつを連れ戻す」
「……っ」
「俺たちじゃ駄目なんだ」
雨宮は静かに言った。
「あいつを説得できるのは、お前らだけだろ」
「……」
「昨日、会ってきたんだよな」
「ああ」
「なら、話は早い」
雨宮は前を向いた。
足音は、既にすぐそこまで来ている。
「一つだけ、聞いていいか」
俺は言った。
「なんだ」
「なんで、そこまでする」
その問いに、雨宮は少しだけ黙った。
「……前に言っただろ」
「え?」
「同じクラスだからだ」
雨宮は、こちらを見ずに答えた。
「それに、あいつには一つ借りがある」
「借り?」
「去年、俺がお嬢様方に振り回されてる時にな」
雨宮は、僅かに笑った。
「クロイツが大変だねって助けてくれた」
「……」
「他の連中は、みんな笑って見てるだけだった」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
あいつらしい。
どうしようもなく、あいつらしい。
雨宮はふっと口元を緩め、前方を走る玲奈の背中へと視線を向けた。
「あと、ここでクロイツを助けられなかったら、西園寺嬢が悲しむだろ? そうなるとうちのお嬢様達が悲しむんでね……ああ見えて、うちの連中も西園寺嬢のこと好きなんだぜ?」
「え……」
俺が意外な事実に目を丸くすると、雨宮は悪戯っぽく片目を閉じてみせた。
「……っと、今のはあの二人には内緒にしてくれよ?」
軽口を叩くようなその響きには、彼なりの不器用な気遣いが滲んでいた。
「八雲は?」
俺は、もう一人の男に尋ねた。
「お前は、あいつと大して喋ったこともないだろ」
「ねえな」
八雲は首の後ろを掻きながら、あっさりと認めた。
「じゃあ、なんで」
「俺は雨宮に呼ばれただけだ」
「それだけか?」
「それだけだ」
八雲は肩をすくめた。
だが、少しだけ気まずそうに視線を彷徨わせた後、ボソッと小さく付け加えた。
「……ただ、まあ。あいつ、一ノ瀬と仲が良いんだよ」
「一ノ瀬と……?」
「ああ。一ノ瀬が落ち込んだツラしてんのを見るのは、どうにも気分が悪りィ。……そういうわけだから、さっさと連れ戻してこい」
照れ隠しのように乱暴に言い捨てる八雲の赤い髪が、夜風に揺れた。
こいつら……。
「だから、行け」
雨宮が、その空気を断ち切るように鋭く言った。
「門の見張りは減ってる。今なら抜けられる」
「……分かった」
俺は深く頷いた。
「絶対に、無事でいろ」
「言われるまでもねえ」
「八雲」
「あん?」
「……ありがとう」
「礼はいらねえって言っただろ」
八雲は前を見据えたまま答えた。
その手の中に、いつの間にか炎が渦巻いている。
赤黒い、荒々しい炎だった。
「さっさと行け。目障りだ」
「……ああ」
俺は走り出した。
橘が、玲奈が、絋弥が続く。
背後で、爆発音が響いた。
振り返ると、生垣が炎で塞がれているのが見えた。
その炎の向こうに、二人の背中が立っている。
――絶対に、無駄にしない。
俺は前を向いて、走った。

