石畳を踏む。
昨日と同じ道のはずなのに、まるで別の場所のようだった。
闇が濃い。
月がないせいだ。
星明かりだけでは、足元がやっと見える程度でしかない。
「明かりは?」
絋弥が小声で尋ねた。
「駄目だ」
烏迴さんが即座に答える。
「灯り一つで、こっちの位置が全部知れる」
「けど、これじゃ何も――」
「目を慣らせ」
烏迴さんは短く言った。
「十分もすれば、それなりに見えるようになる」
実際、その通りだった。
しばらく歩くうちに、両脇に並ぶ家々の輪郭が見えてくる。
だが、それが余計に不気味だった。
昨日、あれだけ視線を感じた家々に、今は何の気配もない。
障子は閉まっている。
だが、その向こうに人がいる感じがしない。
空っぽの箱が並んでいるようだった。
「……なあ」
絋弥が、俺の隣で囁いた。
「なんだ」
「本当に誰もいねえのか、ここ」
「分からない」
「昨日は?」
「いた」
俺は答えた。
「いたのに、誰も出てこなかった」
「……気味わりぃな」
その通りだった。
だが、今の方がもっと悪い。
いる気配すら、消えている。
俺は、あの女の子の家の前を通り過ぎた。
垣根の向こうは、真っ暗だった。
昨日、あの子はここで「およめさん?」と俺たちに聞いてきた。
母親らしき女が慌てて連れ戻したのも、この場所だ。
どこへ行ったんだ。
全員、どこへ。
「……ここ、昨日の」
橘が、小さく呟いた。
「ああ」
「あの子、どうしてるかな」
「……分からない」
俺は答えるしかなかった。
あの子は、サラと遊んだと言っていた。
もう遊べないんだ、とも。
それを誰が教えたのか。
今夜、あの子はどこにいるのか。
考えても、答えは出なかった。
『……気をつけろ』
脳内で、アースの声がした。
久しぶりに聞く、明確な緊張の混じった声だった。
(何かあるのか)
『空気が濁ってる』
(濁ってる?)
『魔力の流れが、一方向に吸い込まれてる』
アースは低く言った。
『こういうのは、大がかりな術が動いてる時の兆候だ』
背筋が冷えた。
(もう始まってるってことか)
『そうだろうな。だが、まだ終わっちゃいねえ』
(どうして分かる)
『終わってたら、こんなもんじゃ済まねえ』
アースは断言した。
『あの手の儀式は段階を踏む。今はまだ、場を整えてる途中だ』
(どのくらい猶予がある)
『知るか。だが、長くはねえぞ』
(流れは、どっちへ向かってる)
『この道の先、あの屋敷の方角だ』
俺は前を見た。
闇の中、道は緩やかに登っている。
その先に、昨日通された屋敷がある。
やはり、あそこか。
俺は無意識に足を速めていた。
その肩を、烏迴さんが掴んだ。
「落ち着け」
「でも――」
「顔に出てるぞ」
烏迴さんは低く言った。
「アースのやつから、何か聞いたな」
「……はい」
俺は頷いた。
「もう始まってるそうです。ただ、まだ準備の段階だと」
「……そうか」
「それと、魔力の流れが屋敷の方へ向かってるって」
「なるほどな……そこにクロイツがいる可能性が1番高いか」
その言葉に、俺は拳を握った。
――あの屋敷に答えがある。
「だが、焦るな」
烏迴さんが付け加えた。
「焦って見つかれば、全部が終わる」
「……はい」
俺は深呼吸をして、足の速度を戻した。
道が、さらに登っていく。
斜面に沿って、家々が段々に並んでいる。
昨日は十分ほどで屋敷に着いた。
だが、今夜は違う。
闇の中、足音を殺しながら進むせいで、その倍はかかっていた。
「……先生」
玲奈が口を開いた。
「一つ、確認させてください」
「なんだ」
「向こうと、話し合いの余地はありますか」
その問いに、烏迴さんは足を止めた。
「……どういう意味だ」
「昨日、当主と話したんですよね」
玲奈は続けた。
「その時の感じで、説得できる相手だと思いましたか」
「無理だな」
烏迴さんは即答した。
「あの人は、こちらの言葉を全部理解した上で、それでも変わらなかった」
「……そうですか」
「聞き分けのない相手なら、まだやりようがある」
烏迴さんは前を向いた。
「だが、あの人は違う。全部分かった上で、あれを選んでる」
「……」
「今夜、話し合いで解決する目はない」
その言葉に、全員が黙った。
覚悟はしていた。
だが、改めて言われると重い。
「一つだけ言っておく」
烏迴さんが続けた。
「向こうにいるのは、悪人じゃない」
「……え?」
「少なくとも、自分たちが悪事を働いていると思っている人間は一人もいない」
烏迴さんは言った。
「連中にとって、今夜は七百年待った日だ。神聖な儀式だ」
「……」
「その邪魔をしに来た俺たちの方が、向こうから見れば悪だ」
「そんな理屈――」
「理屈じゃない」
烏迴さんは遮った。
「事実の話だ。そして、そういう相手は一番厄介だ」
その通りかもしれない。
悪いことをしていると分かっている人間なら、罪悪感で手が緩む。
だが、正しいと信じている人間は緩まない。
「だから、油断するな」
烏迴さんは全員を見回した。
「向こうは、迷わず本気で来る」
その時だった。
前方で、光が揺れた。
橙色。
――松明だ。
「伏せろ」
烏迴さんが鋭く囁いた。
全員が、道端の生垣に身を伏せる。
道の先。
屋敷へ続く曲がり角の向こうから、黒い装束の男たちが現れた。
三人。
いや、その後ろにもいる。
五人。六人。
次々と、闇の中から姿を現す。
「……十人以上いるぞ」
その中の一人が口を開いた。
「まだ見つからんのか」
「東側は探した。誰もいない」
「奥に入られたら厄介だぞ」
「分かっている」
声が、風に乗って届く。
「あの若造、どこから入った」
「門だ。開いていた」
「……なぜ開いていた」
「知らん。誰かが閉め忘れたのだろう」
「当主様には報告したのか」
「まだだ。今夜に限って、余計な心配をかけるわけにはいかん」
「……それもそうだな」
俺たちは、身動きせずにそれを聞いていた。
「……先生」
雨宮が囁いた。
「今の、聞きましたか」
「ああ」
「若造、って言ってましたね」
「門の足跡の主だ」
烏迴さんが低く答えた。
「既に見つかって、追われている」
「……誰なんだよ、そいつ」
絋弥が呻いた。
「分からん」
烏迴さんは首を横に振った。
「だが、この人数を割いてるということは、まだ捕まっていないんだろう」
男たちは、こちらへ向かって歩いてくる。
まだ気づかれてはいない。
だが、この道は一本だ。
隠れる場所も限られている。
「……先生」
雨宮が囁いた。
「見つかりますよ、これ」
「ああ」
烏迴さんは、僅かに笑った。
「なら、見つかってやろう」
「え?」
次の瞬間、烏迴さんが立ち上がった。
「先生!?」
俺が制止する間もなかった。
烏迴さんは、生垣から道の中央へ歩み出た。
男たちの動きが、止まる。
「……何者だ」
先頭の男が誰何した。
烏迴さんは、答えなかった。
ただ、ゆっくりと男たちの方へ歩いていく。
「答えろ! 何者だと聞いている!」
「さあな」
烏迴さんは、面倒くさそうに首を鳴らした。
「ただの通りすがりだ」
「ふざけるな!」
男の一人が叫んだ。
「この里に、通りすがりなどおらん!」
「そうか」
烏迴さんは肩をすくめた。
「なら、迷子だ」
「貴様――」
「どちらでも構わんだろう」
烏迴さんは、そこで初めて足を止めた。
その周囲の空気が、変わる。
肌がひりつくような、圧倒的な魔力。
男たちが、一斉に杖を構えた。
「今夜は誰も通さん! 当主様の命だ!」
「そいつは残念だ」
烏迴さんは、こちらを見ずに言った。
「俺も、通してもらわないと困る」
「桐宮」
その声は、俺にだけ届く程度の小ささだった。
「……はい」
「生垣沿いに回り込め。ここから先は、道を外れて進んだ方が早い」
「でも――」
「行け」
その声には、有無を言わせない重さがあった。
「こいつらは俺が引き受ける。お前らは先へ進め」
「烏迴さん!」
「言っただろう」
烏迴さんは、僅かに振り返った。
その顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「これでも一応、お前らの担任だぞ」
次の瞬間、烏迴さんが地を蹴った。
同時に、男たちの杖が一斉に光る。
轟音。
閃光。
道の上で、爆発が起きた。
「行くぞ!」
雨宮が俺の腕を引いた。
俺たちは生垣の裏を回り込み、屋敷の方向へ走り出した。
背後で、烏迴さんの気配が膨れ上がるのを感じた。
振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる。
昨日と同じ道のはずなのに、まるで別の場所のようだった。
闇が濃い。
月がないせいだ。
星明かりだけでは、足元がやっと見える程度でしかない。
「明かりは?」
絋弥が小声で尋ねた。
「駄目だ」
烏迴さんが即座に答える。
「灯り一つで、こっちの位置が全部知れる」
「けど、これじゃ何も――」
「目を慣らせ」
烏迴さんは短く言った。
「十分もすれば、それなりに見えるようになる」
実際、その通りだった。
しばらく歩くうちに、両脇に並ぶ家々の輪郭が見えてくる。
だが、それが余計に不気味だった。
昨日、あれだけ視線を感じた家々に、今は何の気配もない。
障子は閉まっている。
だが、その向こうに人がいる感じがしない。
空っぽの箱が並んでいるようだった。
「……なあ」
絋弥が、俺の隣で囁いた。
「なんだ」
「本当に誰もいねえのか、ここ」
「分からない」
「昨日は?」
「いた」
俺は答えた。
「いたのに、誰も出てこなかった」
「……気味わりぃな」
その通りだった。
だが、今の方がもっと悪い。
いる気配すら、消えている。
俺は、あの女の子の家の前を通り過ぎた。
垣根の向こうは、真っ暗だった。
昨日、あの子はここで「およめさん?」と俺たちに聞いてきた。
母親らしき女が慌てて連れ戻したのも、この場所だ。
どこへ行ったんだ。
全員、どこへ。
「……ここ、昨日の」
橘が、小さく呟いた。
「ああ」
「あの子、どうしてるかな」
「……分からない」
俺は答えるしかなかった。
あの子は、サラと遊んだと言っていた。
もう遊べないんだ、とも。
それを誰が教えたのか。
今夜、あの子はどこにいるのか。
考えても、答えは出なかった。
『……気をつけろ』
脳内で、アースの声がした。
久しぶりに聞く、明確な緊張の混じった声だった。
(何かあるのか)
『空気が濁ってる』
(濁ってる?)
『魔力の流れが、一方向に吸い込まれてる』
アースは低く言った。
『こういうのは、大がかりな術が動いてる時の兆候だ』
背筋が冷えた。
(もう始まってるってことか)
『そうだろうな。だが、まだ終わっちゃいねえ』
(どうして分かる)
『終わってたら、こんなもんじゃ済まねえ』
アースは断言した。
『あの手の儀式は段階を踏む。今はまだ、場を整えてる途中だ』
(どのくらい猶予がある)
『知るか。だが、長くはねえぞ』
(流れは、どっちへ向かってる)
『この道の先、あの屋敷の方角だ』
俺は前を見た。
闇の中、道は緩やかに登っている。
その先に、昨日通された屋敷がある。
やはり、あそこか。
俺は無意識に足を速めていた。
その肩を、烏迴さんが掴んだ。
「落ち着け」
「でも――」
「顔に出てるぞ」
烏迴さんは低く言った。
「アースのやつから、何か聞いたな」
「……はい」
俺は頷いた。
「もう始まってるそうです。ただ、まだ準備の段階だと」
「……そうか」
「それと、魔力の流れが屋敷の方へ向かってるって」
「なるほどな……そこにクロイツがいる可能性が1番高いか」
その言葉に、俺は拳を握った。
――あの屋敷に答えがある。
「だが、焦るな」
烏迴さんが付け加えた。
「焦って見つかれば、全部が終わる」
「……はい」
俺は深呼吸をして、足の速度を戻した。
道が、さらに登っていく。
斜面に沿って、家々が段々に並んでいる。
昨日は十分ほどで屋敷に着いた。
だが、今夜は違う。
闇の中、足音を殺しながら進むせいで、その倍はかかっていた。
「……先生」
玲奈が口を開いた。
「一つ、確認させてください」
「なんだ」
「向こうと、話し合いの余地はありますか」
その問いに、烏迴さんは足を止めた。
「……どういう意味だ」
「昨日、当主と話したんですよね」
玲奈は続けた。
「その時の感じで、説得できる相手だと思いましたか」
「無理だな」
烏迴さんは即答した。
「あの人は、こちらの言葉を全部理解した上で、それでも変わらなかった」
「……そうですか」
「聞き分けのない相手なら、まだやりようがある」
烏迴さんは前を向いた。
「だが、あの人は違う。全部分かった上で、あれを選んでる」
「……」
「今夜、話し合いで解決する目はない」
その言葉に、全員が黙った。
覚悟はしていた。
だが、改めて言われると重い。
「一つだけ言っておく」
烏迴さんが続けた。
「向こうにいるのは、悪人じゃない」
「……え?」
「少なくとも、自分たちが悪事を働いていると思っている人間は一人もいない」
烏迴さんは言った。
「連中にとって、今夜は七百年待った日だ。神聖な儀式だ」
「……」
「その邪魔をしに来た俺たちの方が、向こうから見れば悪だ」
「そんな理屈――」
「理屈じゃない」
烏迴さんは遮った。
「事実の話だ。そして、そういう相手は一番厄介だ」
その通りかもしれない。
悪いことをしていると分かっている人間なら、罪悪感で手が緩む。
だが、正しいと信じている人間は緩まない。
「だから、油断するな」
烏迴さんは全員を見回した。
「向こうは、迷わず本気で来る」
その時だった。
前方で、光が揺れた。
橙色。
――松明だ。
「伏せろ」
烏迴さんが鋭く囁いた。
全員が、道端の生垣に身を伏せる。
道の先。
屋敷へ続く曲がり角の向こうから、黒い装束の男たちが現れた。
三人。
いや、その後ろにもいる。
五人。六人。
次々と、闇の中から姿を現す。
「……十人以上いるぞ」
その中の一人が口を開いた。
「まだ見つからんのか」
「東側は探した。誰もいない」
「奥に入られたら厄介だぞ」
「分かっている」
声が、風に乗って届く。
「あの若造、どこから入った」
「門だ。開いていた」
「……なぜ開いていた」
「知らん。誰かが閉め忘れたのだろう」
「当主様には報告したのか」
「まだだ。今夜に限って、余計な心配をかけるわけにはいかん」
「……それもそうだな」
俺たちは、身動きせずにそれを聞いていた。
「……先生」
雨宮が囁いた。
「今の、聞きましたか」
「ああ」
「若造、って言ってましたね」
「門の足跡の主だ」
烏迴さんが低く答えた。
「既に見つかって、追われている」
「……誰なんだよ、そいつ」
絋弥が呻いた。
「分からん」
烏迴さんは首を横に振った。
「だが、この人数を割いてるということは、まだ捕まっていないんだろう」
男たちは、こちらへ向かって歩いてくる。
まだ気づかれてはいない。
だが、この道は一本だ。
隠れる場所も限られている。
「……先生」
雨宮が囁いた。
「見つかりますよ、これ」
「ああ」
烏迴さんは、僅かに笑った。
「なら、見つかってやろう」
「え?」
次の瞬間、烏迴さんが立ち上がった。
「先生!?」
俺が制止する間もなかった。
烏迴さんは、生垣から道の中央へ歩み出た。
男たちの動きが、止まる。
「……何者だ」
先頭の男が誰何した。
烏迴さんは、答えなかった。
ただ、ゆっくりと男たちの方へ歩いていく。
「答えろ! 何者だと聞いている!」
「さあな」
烏迴さんは、面倒くさそうに首を鳴らした。
「ただの通りすがりだ」
「ふざけるな!」
男の一人が叫んだ。
「この里に、通りすがりなどおらん!」
「そうか」
烏迴さんは肩をすくめた。
「なら、迷子だ」
「貴様――」
「どちらでも構わんだろう」
烏迴さんは、そこで初めて足を止めた。
その周囲の空気が、変わる。
肌がひりつくような、圧倒的な魔力。
男たちが、一斉に杖を構えた。
「今夜は誰も通さん! 当主様の命だ!」
「そいつは残念だ」
烏迴さんは、こちらを見ずに言った。
「俺も、通してもらわないと困る」
「桐宮」
その声は、俺にだけ届く程度の小ささだった。
「……はい」
「生垣沿いに回り込め。ここから先は、道を外れて進んだ方が早い」
「でも――」
「行け」
その声には、有無を言わせない重さがあった。
「こいつらは俺が引き受ける。お前らは先へ進め」
「烏迴さん!」
「言っただろう」
烏迴さんは、僅かに振り返った。
その顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「これでも一応、お前らの担任だぞ」
次の瞬間、烏迴さんが地を蹴った。
同時に、男たちの杖が一斉に光る。
轟音。
閃光。
道の上で、爆発が起きた。
「行くぞ!」
雨宮が俺の腕を引いた。
俺たちは生垣の裏を回り込み、屋敷の方向へ走り出した。
背後で、烏迴さんの気配が膨れ上がるのを感じた。
振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる。

