寮を飛び出し、校舎まで全力で走った。
時計は午後四時を過ぎている。
授業は終わっているはずだ。
昇降口を抜け、廊下を駆ける。
すれ違った生徒が驚いた顔をしたが、構っていられなかった。
職員室の扉を、俺はノックもせずに開けた。
「烏迴さん!」
室内の教師が全員こちらを見る。
その中で、烏迴さんだけが顔をしかめた。
「……桐宮。何度言えば分かる。今日は休めと――」
「今夜です」
俺は言った。
「……何?」
「儀式が、今夜行われます」
烏迴さんの表情が、変わった。
椅子を蹴るようにして立ち上がる。
「来い」
烏迴さんは俺の腕を掴み、そのまま職員室を出た。
周りの視線が集まっていたが、この人は気にも留めなかった。
連れて行かれたのは、廊下の突き当たりにある空き教室だった。
扉を閉めるなり、烏迴さんは口を開いた。
「話せ」
俺は、アースから聞いたことを全て話した。
七百年前、クロイツの一族が行っていた儀式のこと。
冥王ハデスを現世に永遠に留めようとしていたこと。
そのために「依代」が必要だったこと。
依代には、一族の中でも特異な魔力と血を持つ者が選ばれていたこと。
儀式は失敗し、一族は没落したこと。
そして――儀式が行われるのは、新月の夜だということ。
話す間、烏迴さんは一度も口を挟まなかった。
話し終えると、長い沈黙が落ちた。
「……新月か」
やがて、烏迴さんが低く呟いた。
「はい」
「昨日の帰り、空を見たか」
「見ました」
俺は答えた。
「月が、なかった」
「ああ」
烏迴さんは窓の外へ視線を向けた。
「俺も気づいていた。だが、それだけのことだと思っていた」
「……」
「暦は確認したのか」
「しました」
俺はスマホを差し出した。
画面には、暦のアプリが開かれたままだ。
烏迴さんはそれを一瞥し、それから深く息を吐いた。
「……今夜、か」
「はい」
「白い着物」
烏迴さんが低く呟く。
「あれを見た時から、妙だとは思っていた。だが、まさかそこまでとはな」
烏迴さんは、しばらく黙り込んでいた。
窓から差し込む夕日が、その横顔を照らしている。
やがて、こちらを振り返った。
「桐宮」
「はい」
「お前は、どうしたい」
その問いに、俺は即答した。
「助けに行きます」
「学園長は止めるぞ」
「それでも行きます」
「一人でか」
「……」
俺は答えられなかった。
一人で行って、何ができる。
昨日、三人で行っても門前払いだったのに。
「行くぞ」
烏迴さんが歩き出した。
「え?」
「学園長のところだ」
「でも、止められるって」
「止められるかどうかは、行ってみないと分からん」
烏迴さんは扉に手をかけた。
「それに、通さなきゃならん筋がある」
学園長室の扉を、烏迴さんはノックもせずに開けた。
「失礼します」
「……先生?」
母さんが顔を上げる。
そのデスクには、書類の山があった。
「今、取り込み中で――」
「時間がありません」
烏迴さんは遮った。
「桐宮、話せ」
「はい」
俺は、もう一度全てを話した。
母さんは、途中で一度も口を挟まなかった。
ただ、指を組んだ手が、話が進むにつれて強く握られていくのが分かった。
話し終えると、部屋には重い沈黙が落ちた。
「……冥王ハデス」
やがて、母さんが低く呟いた。
「そして、依代」
「学園長。心当たりは」
「ありません」
母さんは首を横に振った。
「ただ――『死の一族』という呼び名の意味が、ようやく分かった気がします」
その声には、抑えきれない苦さがあった。
「死を扱う一族。あまりに直接的な呼び名だと思っていました」
「母さん」
俺は身を乗り出した。
「今夜なんだ。今すぐ動かないと――」
「隼人」
母さんが、俺の言葉を遮った。
「……」
「一つ、確認させて」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
「アースの話は、どこまで確実なの」
「え?」
「七百年前の記憶よ。それが正確である保証は?」
「……ない」
俺は正直に答えた。
「アース自身も、可能性の話だって言ってた」
「そう」
「けど――」
「分かっているわ」
母さんは目を閉じた。
「私も、同じ結論に至っています」
「……!」
「昨日、先生から報告を受けた時から」
母さんは目を開けた。
「白い着物も、様付けも、支度という言葉も。全部、あの子が何かの役割を負わされている証拠だと思っていました」
「じゃあ――」
「ですが、それを根拠に学園は動けません」
その一言が、部屋の空気を凍らせた。
「……なんでだよ」
「証拠がないからです」
母さんは静かに答えた。
「白い着物を着ていた。それだけで、他家の敷地に踏み込むことはできない」
「人が死ぬかもしれないんだぞ!」
「かもしれない、では動けないの」
母さんの声が、僅かに震えた。
「学園長として、私が動かせるのは教師と生徒だけ。他家の土地に武装した人間を送り込めば、それは襲撃よ」
「そんなの――」
「魔術師協会に照会をかけるという手もあります」
母さんは続けた。
「ただし、正式な手続きには最低でも一週間。緊急案件として扱われても、二日は必要です」
「二日って……今夜なんだぞ!」
「ええ」
母さんは頷いた。
「だから、間に合いません」
絶望的な言葉だった。
だが、母さんの表情は諦めているようには見えなかった。
むしろ――何かを、こらえているような。
「……学園長」
烏迴さんが口を開いた。
「あなたのお立場は理解しています」
「……」
「学園長が動けば、学園そのものが責任を負う。それは避けなければならない」
「烏迴先生」
「ですから」
烏迴さんは、上着の内ポケットから一枚の紙を取り出した。
そして、それを母さんのデスクに置いた。
「……これは」
「退職願です」
部屋が、静まり返った。
俺は、思わず烏迴さんを見た。
「……は?」
「昨日の夜のうちに書いておきました」
烏迴さんは、何でもないことのように言った。
「使うかどうかは分かりませんでしたが、こういう時のためにと思いまして」
「先生、あなた――」
「学園の教師でなければ、学園は関係ありません」
烏迴さんは静かに言った。
「一個人が、勝手に他家の土地へ足を踏み入れた。それだけの話です」
「……そんな屁理屈が」
「屁理屈で結構」
烏迴さんは即答した。
「学園長。今、学園が守るべきものは何ですか」
「……」
「生徒でしょう」
その言葉に、母さんが顔を上げた。
「サラ・クロイツは、まだこの学園の生徒です。退学届は受理されていない」
「……ええ」
「なら、迎えに行くのが担任の仕事だ」
烏迴さんは、そこで初めて僅かに笑った。
「もっとも、その時にはもう担任じゃありませんがね」
母さんは、長い間黙っていた。
その視線が、デスクに置かれた紙に落ちている。
窓の外では、日が沈みかけていた。
部屋が、少しずつ暗くなっていく。
「……先生」
やがて、母さんが口を開いた。
「はい」
「あなた、この学園に来て何年になりますか」
「さて。数えたこともありませんが」
「私は覚えています」
母さんは、静かに言った。
「あなたが来た年のことも、最初に担任を持った時のことも」
「……」
「あの時、あなたは言いましたね。教師なんて柄じゃないと」
「言いましたか、そんなこと」
「言いました」
母さんは僅かに目を細めた。
「それが、今はどうです」
烏迴さんは答えなかった。
ただ、僅かに顔を背けた。
「……受理は、明日にします」
母さんは、静かにそう言った。
「学園長?」
「今日はまだ、あなたは本校の教師です」
母さんは顔を上げた。
「事務手続きの都合上、そうなります」
「……なるほど」
「その上で、一つだけ命じます」
母さんの目が、烏迴さんを捉えた。
「生徒を、一人も失わないこと」
「……了解しました」
烏迴さんが、深く頭を下げた。
「隼人」
母さんが、俺を見た。
「……はい」
「これは学園の決定ではありません。私は何も許可していないし、何も知らない」
「……ああ」
「その上で言うわ」
母さんは、僅かに目を伏せた。
その手が、微かに震えているのが見えた。
「あの子を、連れて帰ってきなさい」
その一言で、俺は全部を理解した。
この人は、最初から。
昨日、報告を聞いた時から、こうするつもりだったんだ。
ただ、学園長という立場が、それを言わせなかっただけで。
俺は頷いた。
「必ず、連れて帰る」
「隼人」
部屋を出ようとした俺を、母さんが呼び止めた。
「なんだ」
「……あなたも、無事に帰ってきなさい」
その声は、もう学園長のものではなかった。
「ああ、分かってる母さん、行ってくる」
俺は、振り返らずに答えた。
振り返ったら、決意が鈍る気がした。
廊下に出ると、外はもう薄暗くなっていた。
窓の向こう、西の空だけが僅かに赤い。
夜が来る。
月のない夜が。
「桐宮」
烏迴さんが言った。
「はい」
「人を集めろ」
「……いいんですか」
「一人で行かせるわけにはいかん」
烏迴さんは歩き出した。
「だが、誰でもいいわけじゃない。戦力になって、事情を知っていて、そして――」
そこで一度、言葉を切る。
「命を懸けられる奴だけだ」
「……はい」
俺は頷いた。
顔が、既に何人か浮かんでいた。
「三十分だ」
烏迴さんは言った。
「三十分後、校門前に集合。それ以上は待たん」
「分かりました」
俺は駆け出した。
時間がない。
だが、やることは決まっている。
時計は午後四時を過ぎている。
授業は終わっているはずだ。
昇降口を抜け、廊下を駆ける。
すれ違った生徒が驚いた顔をしたが、構っていられなかった。
職員室の扉を、俺はノックもせずに開けた。
「烏迴さん!」
室内の教師が全員こちらを見る。
その中で、烏迴さんだけが顔をしかめた。
「……桐宮。何度言えば分かる。今日は休めと――」
「今夜です」
俺は言った。
「……何?」
「儀式が、今夜行われます」
烏迴さんの表情が、変わった。
椅子を蹴るようにして立ち上がる。
「来い」
烏迴さんは俺の腕を掴み、そのまま職員室を出た。
周りの視線が集まっていたが、この人は気にも留めなかった。
連れて行かれたのは、廊下の突き当たりにある空き教室だった。
扉を閉めるなり、烏迴さんは口を開いた。
「話せ」
俺は、アースから聞いたことを全て話した。
七百年前、クロイツの一族が行っていた儀式のこと。
冥王ハデスを現世に永遠に留めようとしていたこと。
そのために「依代」が必要だったこと。
依代には、一族の中でも特異な魔力と血を持つ者が選ばれていたこと。
儀式は失敗し、一族は没落したこと。
そして――儀式が行われるのは、新月の夜だということ。
話す間、烏迴さんは一度も口を挟まなかった。
話し終えると、長い沈黙が落ちた。
「……新月か」
やがて、烏迴さんが低く呟いた。
「はい」
「昨日の帰り、空を見たか」
「見ました」
俺は答えた。
「月が、なかった」
「ああ」
烏迴さんは窓の外へ視線を向けた。
「俺も気づいていた。だが、それだけのことだと思っていた」
「……」
「暦は確認したのか」
「しました」
俺はスマホを差し出した。
画面には、暦のアプリが開かれたままだ。
烏迴さんはそれを一瞥し、それから深く息を吐いた。
「……今夜、か」
「はい」
「白い着物」
烏迴さんが低く呟く。
「あれを見た時から、妙だとは思っていた。だが、まさかそこまでとはな」
烏迴さんは、しばらく黙り込んでいた。
窓から差し込む夕日が、その横顔を照らしている。
やがて、こちらを振り返った。
「桐宮」
「はい」
「お前は、どうしたい」
その問いに、俺は即答した。
「助けに行きます」
「学園長は止めるぞ」
「それでも行きます」
「一人でか」
「……」
俺は答えられなかった。
一人で行って、何ができる。
昨日、三人で行っても門前払いだったのに。
「行くぞ」
烏迴さんが歩き出した。
「え?」
「学園長のところだ」
「でも、止められるって」
「止められるかどうかは、行ってみないと分からん」
烏迴さんは扉に手をかけた。
「それに、通さなきゃならん筋がある」
学園長室の扉を、烏迴さんはノックもせずに開けた。
「失礼します」
「……先生?」
母さんが顔を上げる。
そのデスクには、書類の山があった。
「今、取り込み中で――」
「時間がありません」
烏迴さんは遮った。
「桐宮、話せ」
「はい」
俺は、もう一度全てを話した。
母さんは、途中で一度も口を挟まなかった。
ただ、指を組んだ手が、話が進むにつれて強く握られていくのが分かった。
話し終えると、部屋には重い沈黙が落ちた。
「……冥王ハデス」
やがて、母さんが低く呟いた。
「そして、依代」
「学園長。心当たりは」
「ありません」
母さんは首を横に振った。
「ただ――『死の一族』という呼び名の意味が、ようやく分かった気がします」
その声には、抑えきれない苦さがあった。
「死を扱う一族。あまりに直接的な呼び名だと思っていました」
「母さん」
俺は身を乗り出した。
「今夜なんだ。今すぐ動かないと――」
「隼人」
母さんが、俺の言葉を遮った。
「……」
「一つ、確認させて」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
「アースの話は、どこまで確実なの」
「え?」
「七百年前の記憶よ。それが正確である保証は?」
「……ない」
俺は正直に答えた。
「アース自身も、可能性の話だって言ってた」
「そう」
「けど――」
「分かっているわ」
母さんは目を閉じた。
「私も、同じ結論に至っています」
「……!」
「昨日、先生から報告を受けた時から」
母さんは目を開けた。
「白い着物も、様付けも、支度という言葉も。全部、あの子が何かの役割を負わされている証拠だと思っていました」
「じゃあ――」
「ですが、それを根拠に学園は動けません」
その一言が、部屋の空気を凍らせた。
「……なんでだよ」
「証拠がないからです」
母さんは静かに答えた。
「白い着物を着ていた。それだけで、他家の敷地に踏み込むことはできない」
「人が死ぬかもしれないんだぞ!」
「かもしれない、では動けないの」
母さんの声が、僅かに震えた。
「学園長として、私が動かせるのは教師と生徒だけ。他家の土地に武装した人間を送り込めば、それは襲撃よ」
「そんなの――」
「魔術師協会に照会をかけるという手もあります」
母さんは続けた。
「ただし、正式な手続きには最低でも一週間。緊急案件として扱われても、二日は必要です」
「二日って……今夜なんだぞ!」
「ええ」
母さんは頷いた。
「だから、間に合いません」
絶望的な言葉だった。
だが、母さんの表情は諦めているようには見えなかった。
むしろ――何かを、こらえているような。
「……学園長」
烏迴さんが口を開いた。
「あなたのお立場は理解しています」
「……」
「学園長が動けば、学園そのものが責任を負う。それは避けなければならない」
「烏迴先生」
「ですから」
烏迴さんは、上着の内ポケットから一枚の紙を取り出した。
そして、それを母さんのデスクに置いた。
「……これは」
「退職願です」
部屋が、静まり返った。
俺は、思わず烏迴さんを見た。
「……は?」
「昨日の夜のうちに書いておきました」
烏迴さんは、何でもないことのように言った。
「使うかどうかは分かりませんでしたが、こういう時のためにと思いまして」
「先生、あなた――」
「学園の教師でなければ、学園は関係ありません」
烏迴さんは静かに言った。
「一個人が、勝手に他家の土地へ足を踏み入れた。それだけの話です」
「……そんな屁理屈が」
「屁理屈で結構」
烏迴さんは即答した。
「学園長。今、学園が守るべきものは何ですか」
「……」
「生徒でしょう」
その言葉に、母さんが顔を上げた。
「サラ・クロイツは、まだこの学園の生徒です。退学届は受理されていない」
「……ええ」
「なら、迎えに行くのが担任の仕事だ」
烏迴さんは、そこで初めて僅かに笑った。
「もっとも、その時にはもう担任じゃありませんがね」
母さんは、長い間黙っていた。
その視線が、デスクに置かれた紙に落ちている。
窓の外では、日が沈みかけていた。
部屋が、少しずつ暗くなっていく。
「……先生」
やがて、母さんが口を開いた。
「はい」
「あなた、この学園に来て何年になりますか」
「さて。数えたこともありませんが」
「私は覚えています」
母さんは、静かに言った。
「あなたが来た年のことも、最初に担任を持った時のことも」
「……」
「あの時、あなたは言いましたね。教師なんて柄じゃないと」
「言いましたか、そんなこと」
「言いました」
母さんは僅かに目を細めた。
「それが、今はどうです」
烏迴さんは答えなかった。
ただ、僅かに顔を背けた。
「……受理は、明日にします」
母さんは、静かにそう言った。
「学園長?」
「今日はまだ、あなたは本校の教師です」
母さんは顔を上げた。
「事務手続きの都合上、そうなります」
「……なるほど」
「その上で、一つだけ命じます」
母さんの目が、烏迴さんを捉えた。
「生徒を、一人も失わないこと」
「……了解しました」
烏迴さんが、深く頭を下げた。
「隼人」
母さんが、俺を見た。
「……はい」
「これは学園の決定ではありません。私は何も許可していないし、何も知らない」
「……ああ」
「その上で言うわ」
母さんは、僅かに目を伏せた。
その手が、微かに震えているのが見えた。
「あの子を、連れて帰ってきなさい」
その一言で、俺は全部を理解した。
この人は、最初から。
昨日、報告を聞いた時から、こうするつもりだったんだ。
ただ、学園長という立場が、それを言わせなかっただけで。
俺は頷いた。
「必ず、連れて帰る」
「隼人」
部屋を出ようとした俺を、母さんが呼び止めた。
「なんだ」
「……あなたも、無事に帰ってきなさい」
その声は、もう学園長のものではなかった。
「ああ、分かってる母さん、行ってくる」
俺は、振り返らずに答えた。
振り返ったら、決意が鈍る気がした。
廊下に出ると、外はもう薄暗くなっていた。
窓の向こう、西の空だけが僅かに赤い。
夜が来る。
月のない夜が。
「桐宮」
烏迴さんが言った。
「はい」
「人を集めろ」
「……いいんですか」
「一人で行かせるわけにはいかん」
烏迴さんは歩き出した。
「だが、誰でもいいわけじゃない。戦力になって、事情を知っていて、そして――」
そこで一度、言葉を切る。
「命を懸けられる奴だけだ」
「……はい」
俺は頷いた。
顔が、既に何人か浮かんでいた。
「三十分だ」
烏迴さんは言った。
「三十分後、校門前に集合。それ以上は待たん」
「分かりました」
俺は駆け出した。
時間がない。
だが、やることは決まっている。

