「……なんで」
声が、掠れた。
「なんで、そんなこと言うんだよ」
「言わなきゃ、隼人君はまた来るでしょ」
サラは静かに答えた。
「一回で諦めるような人じゃないもん。知ってるよ、そのくらい」
「……」
「だから、はっきり言っとくね」
サラは、真っ直ぐに俺を見た。
「あたしは、隼人君に来てほしくない」
その言葉が、胸の真ん中を貫いた。
――違う。
こいつは、そんなことを言う奴じゃない。
だが、目の前にいるのは間違いなくサラだ。
声も、顔も、笑い方も、全部あいつのものだ。
「……嘘だ」
俺は、それだけを繰り返した。
「嘘じゃないよ」
「嘘だ! お前は――」
「桐宮」
烏迴さんの手が、俺の肩に置かれた。
「離してください」
「時間だ」
「まだ話は――」
「時間だと言っている」
その声は、静かだった。
だからこそ、逆らえなかった。
「……サラ」
俺は、最後に一つだけ聞いた。
「本当に、それでいいのか」
サラは、少しだけ黙った。
そして。
「うん」
迷いのない返事だった。
サラが、ゆっくりと立ち上がる。
白い着物の裾が、畳を擦る音がした。
襖が開き、案内の男が姿を現す。
その表情は、相変わらず何も語らなかった。
「……あのね、隼人君」
サラが、口を開いた。
「なんだよ」
「……ううん」
サラは、そこで一度言葉を止めた。
何かを言いかけて、飲み込むように。
その顔は、いつだったか――夏の夜に見た気がする。
思い出せない。
あの時も、確か何か言いかけて。
「なんだよ、はっきり言えよ」
「なんでもない」
サラは首を横に振った。
そして、笑った。
「元気でね、隼人君」
その声が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
だが、確かめる間もなかった。
「……瑞希も。烏迴先生も」
「サラちゃん――」
橘が立ち上がりかけた。
「ばいばい」
その一言で、全部が終わった。
サラは、男に促されるまま襖の向こうへ消えていった。
振り返らなかった。
一度も。
襖が閉まる。
軽い足音が、廊下の奥へ遠ざかっていく。
やがて、それも聞こえなくなった。
俺は、拳を握りしめたまま立ち尽くしていた。
殴りたかった。
この畳を、この柱を、この家の全部を。
だが、そんなことをしても意味がない。
意味がないことくらい、分かっていた。
「……行くぞ」
烏迴さんが言った。
俺は、何も言わずに従った。
部屋を出る直前、一度だけ振り返る。
さっきまでサラが座っていた場所には、もう誰もいない。
畳に、僅かな窪みだけが残っていた。
広間を出ると、廊下にはあの案内の男が立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
足音も、気配もしなかった。
「お帰りでございますね」
男は静かに頭を下げた。
「門までお送りいたします」
俺は何も答えなかった。
答える気力がなかった。
庭に出ると、日が傾き始めていた。
来た時は薄曇りだったが、今は雲が切れて西日が差している。
砂利が、やけに白く光って見えた。
「烏迴様」
男が歩きながら言った。
「当主より、伝言を預かっております」
「……何でしょう」
「本日はご足労いただき、ありがとうございました。以後、お越しになる必要はございません」
「……」
「そのようにお伝えするようにと」
「そうですか」
烏迴さんは短く答えた。
それだけだった。
言い返しもしなければ、食い下がりもしない。
――なんでだよ。
喉まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。
この人は、何も間違っていない。
あれ以上できることが、なかっただけだ。
門をくぐる。
石畳の道を、来た時と同じように下っていく。
家々の障子は、相変わらず閉まっていた。
視線は感じる。
だが、誰も出てこない。
あの女の子の家の前を通った時、俺は思わず足を止めた。
垣根の向こうに、人影はない。
――もうあそべないんだって。
あの子は、そう言っていた。
その意味を、俺はまだ知らない。
「桐宮君」
橘が、小さく呼んだ。
「行こう」
「……ああ」
俺は歩き出した。
門まで来ると、案内の男が足を止めた。
「こちらまでで失礼いたします」
そう言って、深く頭を下げる。
「どうぞ、お気をつけて」
その言葉に、嫌味はなかった。
最初から最後まで、この男は礼儀正しかった。
それが、余計に腹立たしかった。
「……あんたは」
俺は、思わず口を開いていた。
「桐宮」
「一つだけ聞かせてください」
烏迴さんの制止を無視して、俺は続けた。
「あんたは、サラのことをどう思ってるんですか」
男は、僅かに顔を上げた。
「……と、申されますと」
「あいつは、この里の人間なんでしょう。あんたたちの仲間なんでしょう」
「はい」
「それが、あんな顔してるのに」
俺は拳を握った。
「誰も、何も言わないんですか」
男は、しばらく黙っていた。
その表情は、変わらない。
だが。
「……サラ様は」
やがて、男は静かに言った。
「我らにとって、誇りでございます」
「……誇り?」
「はい」
男は深く頭を下げた。
「あの方は、我らが長く待ち望んだお方です」
その言葉に、背筋が冷えた。
――待ち望んだ。
何を。
誰が。
「どういう意味ですか」
「……お気をつけて、お帰りください」
男は答えなかった。
ただ、もう一度頭を下げただけだった。
門が、ゆっくりと閉まっていく。
石が擦れる重い音が、山の中に響いた。
やがて、完全に閉じた。
石垣の向こうは、もう何も見えない。
あの家々も、あの子供も、サラも。
全部、この壁の向こう側だ。
「……行くぞ」
烏迴さんが言った。
俺は、最後に一度だけ門を振り返って、それから歩き出した。
山道を下る間、誰も口を開かなかった。
来た時よりも足が重い。
傾斜が下りだというのに、一歩ごとに疲れが溜まっていく気がした。
三十分ほど歩いた頃だろうか。
「……桐宮君」
橘が、ぽつりと言った。
「なんだ」
「サラちゃん、痩せてたね」
「……ああ」
「顔色も悪かった」
「そうだな」
「元気だって言ってたけど」
橘の声が、微かに震えた。
「あんなの、元気じゃないよ」
「……分かってる」
分かっている。
あの場にいた全員が分かっていた。
だが、それを指摘したところで、あいつは笑って誤魔化しただけだろう。
「烏迴さん」
俺は前を歩く背中に声をかけた。
「なんだ」
「あれ、本人の意思だと思いますか」
烏迴さんは、すぐには答えなかった。
しばらく歩いてから、ようやく口を開く。
「……本人の意思ではあるだろうな」
「じゃあ――」
「だが、それが自由な意思かどうかは別だ」
俺は足を止めかけた。
「どういう意味ですか」
「選択肢がなければ、人は選ぶしかない」
烏迴さんは、前を向いたまま言った。
「一つしかない道を歩くことを、自分で決めたと言い張ることはできる。だが、それは選んだとは言わん」
「……」
「あいつは、たぶんそれだ」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
――あたしが決めた。
サラは、確かにそう言った。
誰にも言われてない、誰にも強制されてないと。
だが、もし最初から一つしか道がなかったのなら。
それは、決めたと言えるのか。
「じゃあ、どうすれば」
「分からん」
烏迴さんは正直に答えた。
「今の俺たちには、何も分からん」
「……」
「だが、一つだけ確かなことがある」
烏迴さんは、そこで初めて振り返った。
「あの家は、何かを隠している」
その目には、明確な確信があった。
「隠す必要があるということは、隠さなければならない何かがあるということだ」
「……はい」
「学園に戻ったら、学園長に報告する」
烏迴さんは再び歩き出した。
「その先どうするかは、それからだ」
バス停に着いた頃には、日が沈みかけていた。
最終のバスは、あと二十分後だという。
俺たちは、来た時と同じベンチに腰を下ろした。
三人とも、何も言わなかった。
山の稜線が、赤く染まっている。
その上に、月はなかった。
昨夜はまだ細く残っていたはずなのに、今日はどこにも見当たらない。
――もう、消えたのか。
その事実に、なぜか胸がざわついた。
その向こうに、あの里がある。
サラがいる。
あと数時間もすれば、俺は学園の寮に戻っているだろう。
温かい飯を食って、風呂に入って、ベッドで眠る。
その間も、あいつはあそこにいる。
白い着物を着て、あの部屋で。
――何の支度だ。
当主はそう言っていた。
支度がある、と。
何のための支度なのか、あの人は最後まで言わなかった。
「……くそ」
思わず、声が漏れた。
橘が、こちらを見た。
だが、何も言わなかった。
言葉が意味を持たないことを、たぶん分かっていた。
やがて、遠くからバスのライトが見えてきた。
俺は立ち上がる。
膝が、少しだけ笑っていた。
電車に乗り込んでからも、俺はずっと窓の外を見ていた。
山が遠ざかっていく。
一つ、また一つ。
やがて建物が増え、街の灯が見え始めた。
人の声がして、電車が混み始める。
当たり前の世界が、戻ってきた。
あの場所だけが、切り離されている気がした。
「桐宮、橘」
烏迴さんが、隣の席から声をかけてきた。
「明日は休め」
「……え?」
「学園長と橘の担任には俺から言っておく。二人とも、明日は休みだ」
「でも」
「顔を見れば分かる」
烏迴さんは、こちらを見ずに言った。
「今のお前らを教室に座らせても、何の意味もない」
「……」
「休んで、寝ろ。話はそれからだ」
俺は、それ以上何も言えなかった。
窓に映る自分の顔は、確かにひどいものだった。
やがて、電車が減速する。
学園の最寄り駅だった。
外はもう、すっかり暗い。
時計を見ると、夜の八時を回っていた。
――朝の八時に出て、十二時間。
たった一日で、こんなにも変わってしまった。
昨日までは、会えば何とかなると思っていた。
会いさえすれば、連れ帰れると。
だが、会った。
会って、断られた。
本人の口から、はっきりと。
――もう来ないで。
あの言葉が、まだ耳に残っている。
俺は寮への道を歩きながら、ずっとそれを反芻していた。
部屋に戻り、明かりもつけずにベッドへ倒れ込む。
天井が、暗くて見えない。
目を閉じる。
あいつの顔が浮かんだ。
笑っていた。
最後まで、ずっと笑っていた。
――なんで、泣きそうな顔してるんだよ。
俺がそう言った時、あいつは一瞬だけ、崩れた。
あれは見間違いなんかじゃない。
絶対に違う。
「……サラ」
誰もいない部屋で、俺は呟いた。
答えは、返ってこなかった。
その代わりに、疲れが一気に押し寄せてきた。
考えなければいけないことは山ほどあるはずなのに、頭が回らない。
俺は服を着たまま、意識を手放した。
声が、掠れた。
「なんで、そんなこと言うんだよ」
「言わなきゃ、隼人君はまた来るでしょ」
サラは静かに答えた。
「一回で諦めるような人じゃないもん。知ってるよ、そのくらい」
「……」
「だから、はっきり言っとくね」
サラは、真っ直ぐに俺を見た。
「あたしは、隼人君に来てほしくない」
その言葉が、胸の真ん中を貫いた。
――違う。
こいつは、そんなことを言う奴じゃない。
だが、目の前にいるのは間違いなくサラだ。
声も、顔も、笑い方も、全部あいつのものだ。
「……嘘だ」
俺は、それだけを繰り返した。
「嘘じゃないよ」
「嘘だ! お前は――」
「桐宮」
烏迴さんの手が、俺の肩に置かれた。
「離してください」
「時間だ」
「まだ話は――」
「時間だと言っている」
その声は、静かだった。
だからこそ、逆らえなかった。
「……サラ」
俺は、最後に一つだけ聞いた。
「本当に、それでいいのか」
サラは、少しだけ黙った。
そして。
「うん」
迷いのない返事だった。
サラが、ゆっくりと立ち上がる。
白い着物の裾が、畳を擦る音がした。
襖が開き、案内の男が姿を現す。
その表情は、相変わらず何も語らなかった。
「……あのね、隼人君」
サラが、口を開いた。
「なんだよ」
「……ううん」
サラは、そこで一度言葉を止めた。
何かを言いかけて、飲み込むように。
その顔は、いつだったか――夏の夜に見た気がする。
思い出せない。
あの時も、確か何か言いかけて。
「なんだよ、はっきり言えよ」
「なんでもない」
サラは首を横に振った。
そして、笑った。
「元気でね、隼人君」
その声が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
だが、確かめる間もなかった。
「……瑞希も。烏迴先生も」
「サラちゃん――」
橘が立ち上がりかけた。
「ばいばい」
その一言で、全部が終わった。
サラは、男に促されるまま襖の向こうへ消えていった。
振り返らなかった。
一度も。
襖が閉まる。
軽い足音が、廊下の奥へ遠ざかっていく。
やがて、それも聞こえなくなった。
俺は、拳を握りしめたまま立ち尽くしていた。
殴りたかった。
この畳を、この柱を、この家の全部を。
だが、そんなことをしても意味がない。
意味がないことくらい、分かっていた。
「……行くぞ」
烏迴さんが言った。
俺は、何も言わずに従った。
部屋を出る直前、一度だけ振り返る。
さっきまでサラが座っていた場所には、もう誰もいない。
畳に、僅かな窪みだけが残っていた。
広間を出ると、廊下にはあの案内の男が立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
足音も、気配もしなかった。
「お帰りでございますね」
男は静かに頭を下げた。
「門までお送りいたします」
俺は何も答えなかった。
答える気力がなかった。
庭に出ると、日が傾き始めていた。
来た時は薄曇りだったが、今は雲が切れて西日が差している。
砂利が、やけに白く光って見えた。
「烏迴様」
男が歩きながら言った。
「当主より、伝言を預かっております」
「……何でしょう」
「本日はご足労いただき、ありがとうございました。以後、お越しになる必要はございません」
「……」
「そのようにお伝えするようにと」
「そうですか」
烏迴さんは短く答えた。
それだけだった。
言い返しもしなければ、食い下がりもしない。
――なんでだよ。
喉まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。
この人は、何も間違っていない。
あれ以上できることが、なかっただけだ。
門をくぐる。
石畳の道を、来た時と同じように下っていく。
家々の障子は、相変わらず閉まっていた。
視線は感じる。
だが、誰も出てこない。
あの女の子の家の前を通った時、俺は思わず足を止めた。
垣根の向こうに、人影はない。
――もうあそべないんだって。
あの子は、そう言っていた。
その意味を、俺はまだ知らない。
「桐宮君」
橘が、小さく呼んだ。
「行こう」
「……ああ」
俺は歩き出した。
門まで来ると、案内の男が足を止めた。
「こちらまでで失礼いたします」
そう言って、深く頭を下げる。
「どうぞ、お気をつけて」
その言葉に、嫌味はなかった。
最初から最後まで、この男は礼儀正しかった。
それが、余計に腹立たしかった。
「……あんたは」
俺は、思わず口を開いていた。
「桐宮」
「一つだけ聞かせてください」
烏迴さんの制止を無視して、俺は続けた。
「あんたは、サラのことをどう思ってるんですか」
男は、僅かに顔を上げた。
「……と、申されますと」
「あいつは、この里の人間なんでしょう。あんたたちの仲間なんでしょう」
「はい」
「それが、あんな顔してるのに」
俺は拳を握った。
「誰も、何も言わないんですか」
男は、しばらく黙っていた。
その表情は、変わらない。
だが。
「……サラ様は」
やがて、男は静かに言った。
「我らにとって、誇りでございます」
「……誇り?」
「はい」
男は深く頭を下げた。
「あの方は、我らが長く待ち望んだお方です」
その言葉に、背筋が冷えた。
――待ち望んだ。
何を。
誰が。
「どういう意味ですか」
「……お気をつけて、お帰りください」
男は答えなかった。
ただ、もう一度頭を下げただけだった。
門が、ゆっくりと閉まっていく。
石が擦れる重い音が、山の中に響いた。
やがて、完全に閉じた。
石垣の向こうは、もう何も見えない。
あの家々も、あの子供も、サラも。
全部、この壁の向こう側だ。
「……行くぞ」
烏迴さんが言った。
俺は、最後に一度だけ門を振り返って、それから歩き出した。
山道を下る間、誰も口を開かなかった。
来た時よりも足が重い。
傾斜が下りだというのに、一歩ごとに疲れが溜まっていく気がした。
三十分ほど歩いた頃だろうか。
「……桐宮君」
橘が、ぽつりと言った。
「なんだ」
「サラちゃん、痩せてたね」
「……ああ」
「顔色も悪かった」
「そうだな」
「元気だって言ってたけど」
橘の声が、微かに震えた。
「あんなの、元気じゃないよ」
「……分かってる」
分かっている。
あの場にいた全員が分かっていた。
だが、それを指摘したところで、あいつは笑って誤魔化しただけだろう。
「烏迴さん」
俺は前を歩く背中に声をかけた。
「なんだ」
「あれ、本人の意思だと思いますか」
烏迴さんは、すぐには答えなかった。
しばらく歩いてから、ようやく口を開く。
「……本人の意思ではあるだろうな」
「じゃあ――」
「だが、それが自由な意思かどうかは別だ」
俺は足を止めかけた。
「どういう意味ですか」
「選択肢がなければ、人は選ぶしかない」
烏迴さんは、前を向いたまま言った。
「一つしかない道を歩くことを、自分で決めたと言い張ることはできる。だが、それは選んだとは言わん」
「……」
「あいつは、たぶんそれだ」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
――あたしが決めた。
サラは、確かにそう言った。
誰にも言われてない、誰にも強制されてないと。
だが、もし最初から一つしか道がなかったのなら。
それは、決めたと言えるのか。
「じゃあ、どうすれば」
「分からん」
烏迴さんは正直に答えた。
「今の俺たちには、何も分からん」
「……」
「だが、一つだけ確かなことがある」
烏迴さんは、そこで初めて振り返った。
「あの家は、何かを隠している」
その目には、明確な確信があった。
「隠す必要があるということは、隠さなければならない何かがあるということだ」
「……はい」
「学園に戻ったら、学園長に報告する」
烏迴さんは再び歩き出した。
「その先どうするかは、それからだ」
バス停に着いた頃には、日が沈みかけていた。
最終のバスは、あと二十分後だという。
俺たちは、来た時と同じベンチに腰を下ろした。
三人とも、何も言わなかった。
山の稜線が、赤く染まっている。
その上に、月はなかった。
昨夜はまだ細く残っていたはずなのに、今日はどこにも見当たらない。
――もう、消えたのか。
その事実に、なぜか胸がざわついた。
その向こうに、あの里がある。
サラがいる。
あと数時間もすれば、俺は学園の寮に戻っているだろう。
温かい飯を食って、風呂に入って、ベッドで眠る。
その間も、あいつはあそこにいる。
白い着物を着て、あの部屋で。
――何の支度だ。
当主はそう言っていた。
支度がある、と。
何のための支度なのか、あの人は最後まで言わなかった。
「……くそ」
思わず、声が漏れた。
橘が、こちらを見た。
だが、何も言わなかった。
言葉が意味を持たないことを、たぶん分かっていた。
やがて、遠くからバスのライトが見えてきた。
俺は立ち上がる。
膝が、少しだけ笑っていた。
電車に乗り込んでからも、俺はずっと窓の外を見ていた。
山が遠ざかっていく。
一つ、また一つ。
やがて建物が増え、街の灯が見え始めた。
人の声がして、電車が混み始める。
当たり前の世界が、戻ってきた。
あの場所だけが、切り離されている気がした。
「桐宮、橘」
烏迴さんが、隣の席から声をかけてきた。
「明日は休め」
「……え?」
「学園長と橘の担任には俺から言っておく。二人とも、明日は休みだ」
「でも」
「顔を見れば分かる」
烏迴さんは、こちらを見ずに言った。
「今のお前らを教室に座らせても、何の意味もない」
「……」
「休んで、寝ろ。話はそれからだ」
俺は、それ以上何も言えなかった。
窓に映る自分の顔は、確かにひどいものだった。
やがて、電車が減速する。
学園の最寄り駅だった。
外はもう、すっかり暗い。
時計を見ると、夜の八時を回っていた。
――朝の八時に出て、十二時間。
たった一日で、こんなにも変わってしまった。
昨日までは、会えば何とかなると思っていた。
会いさえすれば、連れ帰れると。
だが、会った。
会って、断られた。
本人の口から、はっきりと。
――もう来ないで。
あの言葉が、まだ耳に残っている。
俺は寮への道を歩きながら、ずっとそれを反芻していた。
部屋に戻り、明かりもつけずにベッドへ倒れ込む。
天井が、暗くて見えない。
目を閉じる。
あいつの顔が浮かんだ。
笑っていた。
最後まで、ずっと笑っていた。
――なんで、泣きそうな顔してるんだよ。
俺がそう言った時、あいつは一瞬だけ、崩れた。
あれは見間違いなんかじゃない。
絶対に違う。
「……サラ」
誰もいない部屋で、俺は呟いた。
答えは、返ってこなかった。
その代わりに、疲れが一気に押し寄せてきた。
考えなければいけないことは山ほどあるはずなのに、頭が回らない。
俺は服を着たまま、意識を手放した。

