魔力の少ない魔法使い二年生編

 襖が開いた。
 最初に入ってきたのは、案内の男だった。
 その後ろに。
 ――サラがいた。
「サラ!」
 俺は思わず立ち上がった。
 だが、その姿を見た瞬間、言葉が続かなくなった。
 着物を着ていた。
 白い、飾りのない着物。
 あの騒がしい姿しか見たことがなかった俺には、まるで別人のように見えた。
 短い髪だけが、いつも通りの淡い桃色をしている。
 それが、かえって不釣り合いだった。
 そして。
 顔色が、悪い。
 化粧か何かで隠しているのかもしれないが、それでも分かる。
 頬が、少しこけていた。
「……やっほー」
 サラが笑った。
 いつもの、あの笑い方で。
「久しぶり、二人とも」
「サラちゃん!」
 橘が立ち上がろうとして、案内の男に視線で制された。
 サラは部屋の入口近くに膝をついた。
 こちらへは来ない。
 畳三枚分ほどの距離を空けたまま、そこに座った。
 その距離が、妙に遠く感じられた。
「烏廻先生も、わざわざすみません」
「……いや」
 烏廻さんが短く答える。
「元気そうだな」
「はい! ぴんぴんしてます」
 サラは胸を張ってみせた。
 その仕草も、いつも通りだった。
 だからこそ、おかしい。
「そっちこそ、こんな山奥まで大変だったでしょ」
「まあな」
「電車とバスと、あと歩き?」
「そうだ」
「うわー、お疲れさま」
 サラは大げさに顔をしかめてみせた。
「あたしも毎回それだったんだよね。帰るたびに一日潰れるの」
「……サラ」
 俺は口を開いた。
「ん?」
「なんで、何も言わずにいなくなったんだ」
 単刀直入に聞いた。
 三十分しかない。
 遠回しな話をしている時間はなかった。
「……あー」
 サラは、少しだけ視線を逸らした。
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃない」
「うん、そうだよね」
 サラは、また笑った。
「でもさ、言えなかったんだよ。言ったら、絶対止められるじゃん」
「当たり前だろ」
「でしょ? だから言わなかったの」
「……」
 会話は噛み合っている。
 なのに、届いていない気がした。
 まるで、何度も自分に言い聞かせてきた言葉を聞かされているような。
「サラちゃん」
 橘が口を開いた。
 その声は、微かに震えている。
「ん、瑞希?」
「私、謝りたくて来たの」
「え? なんで?」
「何も知らなかったから」
 橘は、真っ直ぐにサラを見た。
「一番の友達だって言ってくれてたのに、私、サラちゃんのこと何も知らなかった。家のことも、ここのことも」
「……」
「聞かないのが優しさだと思ってた。それも嘘じゃなかったと思う。でも……それだけじゃなかったの」
 橘は膝の上で手を握りしめた。
「私自身、踏み込むのが怖かったんだと思う。聞いてしまったら、今までと同じようにはいられない気がして」
 橘の言葉に、サラの笑みが少しだけ薄れた。
「そんなことないよ」
「あるよ」
「ないって」
 サラは首を横に振った。
「あたしが言わなかっただけ。瑞希は何も悪くない」
「じゃあ、今からでも聞かせて」
 橘が身を乗り出した。
「何があったの。どうして帰らなきゃいけなかったの」
「……」
 サラは答えなかった。
 視線が、畳に落ちる。
「一つだけでいいの」
 橘は引かなかった。
「全部じゃなくていい。一つだけ、本当のことを教えて」
「……瑞希」
「私、サラちゃんに嘘をつかれるのが一番嫌」
 その一言に、サラの肩が僅かに動いた。
「言えないなら、言えないって言って。でも、嘘だけはつかないで」
 しばらく、誰も何も言わなかった。
 やがて、サラが小さく息を吐いた。
「……言えない」
「……そっか」
「ごめんね」
「ううん」
 橘は静かに首を横に振った。
「ちゃんと言ってくれて、ありがとう」
 その返しに、サラの表情が一瞬歪んだ。
 だが、すぐに笑みが戻る。
「相変わらずだね、瑞希は」
「サラちゃんもね」
「あたし、変わってないかな」
「うん」
 橘は頷いた。
「変わってないよ」
 サラは、それには答えなかった。
「サラ」
 俺も続けた。
「学園長には、自分の意思で辞めるって手紙を送ったらしいな」
「うん」
「本当か?」
「本当だよ」
 即答だった。
「嘘だろ」
「嘘じゃないってば」
「じゃあ、なんで顔を上げない」
 俺の言葉に、サラの肩が僅かに揺れた。
 そして、ゆっくりと顔を上げる。
「上げてるよ?」
「……」
「ねえ、隼人君。あたし、ちゃんと自分で決めたんだよ」
 サラは言った。
「家のことで、どうしても戻らなきゃいけなくなって。それで、学園は辞めることにしたの」
「戻らなきゃいけないって、何のためにだよ」
「それは言えない」
「なんで!」
「言えないの」
 サラの声が、初めて少しだけ硬くなった。
「隼人君には関係ないことだから」
「――ふざけんな!」
 俺は叫んでいた。
「関係ないわけないだろ! 一年間一緒にいたんだぞ!」
「うん、楽しかったね」
「過去形にすんな!」
「だって、過去になっちゃったもん」
 サラは、あっさりと言った。
 その一言が、腹の底に重く落ちた。
「……サラ」
「あのね、隼人君」
 サラは静かに続けた。
「あたし、学園に行けて本当によかったと思ってる。みんなに会えて、魔闘祭も出て、いろんなことがあって」
「……」
「一年もあったんだよ。あたしには、それで十分だった」
 十分。
 その言葉が、引っかかった。
 まるで、いつかこうなることを最初から知っていたような言い方だ。
「……お前」
 俺は、思わず口にしていた。
「最初から、こうなるって知ってたのか」
 サラの表情が、初めて止まった。
 ほんの一瞬。
 だが、確かに。
「……なんで、そう思うの?」
「今の言い方だ」
「……」
「一年で十分だったなんて、最初からいつかここに戻るって分かってたみたいな言い方じゃねえか」
 沈黙が落ちた。
 サラは何も言わなかった。
 庭で、鹿威しが鳴った。
「……隼人君ってさ」
 やがて、サラが小さく笑った。
「結構鋭いよね」
「答えろ」
「答えないよ」
 サラは首を横に振った。
「言ったでしょ。隼人君には関係ないって」
「サラ!」
「桐宮」
 烏廻さんが低く制した。
 そして、代わりに口を開く。
「クロイツ」
「はい」
「一つだけ確認させてくれ」
 烏廻さんの声は、いつもと変わらなかった。
「お前の退学届は、まだ受理していない」
「……はい」
「今からでも撤回できる。学園長も、そのつもりで待っている」
「……」
「これは俺の私情じゃない。担任として、正式に伝えている」
 烏廻さんは、真っ直ぐにサラを見た。
「戻る気があるなら言え。手続きは俺がやる」
 サラは、しばらく黙っていた。
 その視線が、僅かに揺れた気がした。
 ――いや。
 気のせいかもしれない。
「……ありがとうございます」
 やがて、サラは深く頭を下げた。
「でも、いいんです」
「……そうか」
「はい」
 烏廻さんは、それ以上何も言わなかった。
 だが、俺は納得できなかった。
「よくねえよ」
「隼人君」
「一緒に帰るぞ」
「……え?」
「帰ろう、サラ。学園に」
 俺は真っ直ぐにサラを見た。
「何があったのか知らないけど、何とかする。母さんにも頼む。学園長として、できることがあるはずだ」
「……」
「玲奈も紘弥も待ってる。ルイもだ。みんな心配してる」
「……そっか」
 サラは、そこで初めて目を伏せた。
「みんな、心配してくれてるんだ」
「当たり前だろ」
「……ありがとう」
 その声は、少しだけ掠れていた。
 ――いける。
 俺は、そう思った。
 こいつは揺れている。
 あと一押しで――。
「玲奈ちゃん、怒ってた?」
「え?」
「あたしが黙っていなくなったこと」
「……ああ。めちゃくちゃ怒ってた」
「あはは、だよねー」
 サラは肩を揺らして笑った。
「あと、『みんな待ってる』って」
「そっか……紘弥君は?」
「机蹴り飛ばしてた」
「うわ、それは怒られたでしょ」
「まあ、普通に釘刺されてた」
「あー、想像つく」
 サラは、心底おかしそうに笑った。
 その笑顔は、いつもの教室のものと何も変わらなかった。
 ――だから。
 だから、余計に。
「……ありがとね、教えてくれて」
 サラはそう言って、笑うのをやめた。
「でも、ごめんね」
 その表情に、もうさっきまでの笑みはなかった。
「帰れないよ」
「サラ――」
「ううん、違うね」
 サラは首を横に振った。
 そして、はっきりと言った。
「帰らないの」
 その言葉が、部屋に落ちた。
「……なんだって?」
「あたしは、ここに残るって決めたの」
 サラは真っ直ぐに俺を見ていた。
「誰にも言われてない。誰にも強制されてない。あたしが決めた」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘だ!」
 俺は畳を叩いていた。
「じゃあ、なんで泣きそうな顔してるんだよ!」
 その瞬間。
 サラの表情が崩れた。
 ほんの一瞬。
 泣き出す寸前のような、そんな顔になって。
 ――だが、すぐに元に戻った。
「してないよ、そんな顔」
 サラは、また笑った。
「隼人君の見間違い」
「……っ」
「ねえ、隼人君」
 サラは静かに言った。
「もう来ないで」