魔力の少ない魔法使い二年生編

「クロイツ家当主、エルフリーデ・クロイツと申します」
 顔を上げた女性の目が、俺たちを順に見た。
「サラの、母でございます」
「……星雲魔術師学園で担任をしております、烏迴と申します」
 烏迴さんが頭を下げた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「いえ。娘がお世話になりました」
 エルフリーデさんは静かに微笑んだ。
 ――娘がお世話になりました。
 過去形だ。
「そちらのお二人は」
「同じクラスの生徒です。サラさんと親しくしておりました」
「まあ」
 その目が、こちらに向いた。
「桐宮隼人です」
「橘瑞希です」
 俺たちが名乗ると、エルフリーデさんは少しだけ目を細めた。
「桐宮さんと、橘さん」
 その名前を、確かめるように繰り返す。
「サラから聞いております」
「……え?」
「手紙をくれるのですよ、あの子は」
 エルフリーデさんは穏やかに言った。
「学園でのこと、友人のこと。桐宮という子は無鉄砲で困ると、そう書いてありました」
「……あいつ」
 思わず声が出た。
「橘さんのことは、一番の友達だと」
「……」
 橘が、膝の上で手を握りしめた。
「他の方のお名前も存じております。九条さん、西園寺さん。それから、エスクードさんという方も」
 エルフリーデさんは指を折るように挙げていく。
 その口調は、どこにでもいる母親のものだった。
 娘の手紙を繰り返し読み、その内容を覚えている人間の口ぶり。
「楽しそうでしたよ、あの子」
 エルフリーデさんは目を伏せる。
「ここにいた頃は、あまり笑わない子でしたから」
「……あまり、笑わない?」
 橘が思わずといった様子で聞き返した。
 俺も同じことを思っていた。
 あいつが笑わないところなんて、想像もつかない。
「ええ」
 エルフリーデさんは頷いた。
「この里には、同じ年頃の子がおりませんでしたから。ずっと一人で本を読んでいるような子でした」
「……」
「学園に行きたいと言い出した時は、驚きましたよ」
 その声には、確かに懐かしむ響きがあった。
 ――嘘をついているようには見えなかった。
 この人は本当に、娘の話を懐かしんでいる。
 だからこそ、分からない。
「あの」
 俺は口を開いた。
「桐宮」
 烏迴さんが制する。
 だが、俺は続けた。
「だったら、なんでサラを辞めさせたんですか」
 部屋が、静かになった。
 エルフリーデさんは、少しも表情を変えなかった。
「あの子が望んだからです」
「嘘だ」
「嘘ではございません」
 その声には、苛立ちも動揺もなかった。
「サラは自分で決めました。学園を辞め、ここへ戻ると」
「そんなわけない! あいつは学園が好きで――」
「ええ、好きだったでしょうね」
 あっさりと、認められた。
「……え?」
「あの子は学園を気に入っていました。友人にも恵まれた。それは私も嬉しく思っております」
「じゃあ、どうして」
「好きなものを諦めるということは、誰にでもございましょう」
 エルフリーデさんは静かに言った。
「サラは、それを選んだのです」
「選ばされたんじゃないんですか」
 俺の声が、僅かに震えた。
「本当は帰りたくなかったのに、この家のために――」
「桐宮さん」
 初めて、エルフリーデさんが俺の名を呼んだ。
「あなたは、サラのことをどれくらいご存知ですか」
「……どういう意味ですか」
「言葉の通りです」
 その目が、真っ直ぐに俺を見た。
「あの子が何を背負って生まれてきたのか。何を知った上で学園へ行ったのか。あなたはご存知ですか」
「……」
 答えられなかった。
 知らない。
 何も知らない。
 それが、この四日間で分かったことの全部だ。
「サラは、すべて知っております」
 エルフリーデさんは続けた。
「知った上で、学園へ行きました。知った上で、戻ってまいりました」
「……何を知ってるって言うんですか」
「それは、私からお話しすることではございません」
 やんわりと、しかし完全に遮られた。
「では、失礼を承知で一つ伺わせてください」
 烏迴さんが口を開いた。
「なんでしょう」
「サラさんの退学届は、確かに受け取りました。ですが、学園としてはまだ受理しておりません」
「存じております」
「では、なぜ受理を待っているとお思いですか」
「……さあ」
 エルフリーデさんは首を傾げた。
「学園には学園のご事情がおありでしょう」
「本人の意思を確認していないからです」
 烏迴さんは、はっきりと言った。
「書面は届きました。ですが、我々は本人の口から一言も聞いていない。この状態で退学を認めれば、それは学園の怠慢です」
「……」
「それに、この二人がサラさんに続き退学すると言い出しました。担任として、三人の間に何があったのかを確かめないわけにはいきません」
 烏迴さんは、そこで一度言葉を切った。
「――サラさんに、会わせていただけませんか」
 その一言に、部屋の空気が張り詰めた。
 エルフリーデさんは、少しの間だけ黙った。
 そして。
「申し訳ございません」
 深く、頭を下げた。
「それはできかねます」
「理由をお聞かせ願えますか」
「今は、人に会える状態ではございませんので」
「……状態?」
 俺は身を乗り出した。
「サラに何かあったんですか!?」
「桐宮」
「答えてください!」
「桐宮!」
 烏迴さんの声が鋭く飛んだ。
 俺は、そこでようやく口を閉じた。
 ――勝手に動くな。
 約束したはずだった。
 なのに、この人の言葉を聞いていると、どうしても抑えが利かない。
「……失礼しました」
 烏迴さんが頭を下げる。
「いえ。心配してくださっているのですね」
 エルフリーデさんは、俺を見て小さく微笑んだ。
「ご心配なさらずとも、サラは元気にしております」
「じゃあ、なんで会えないんですか」
「支度がございますので」
「支度……?」
「ええ」
 何の支度か、とは言わなかった。
 聞いても答えないだろうと、なぜか確信できた。
「……あの」
 それまで黙っていた橘が、静かに口を開いた。
「橘さん、でしたね」
「はい」
 橘は一度深く息を吸い、それから顔を上げた。
「私、サラちゃんに謝りたいんです」
「謝る?」
「私、サラちゃんのこと何も知りませんでした」
 橘の声は、震えていなかった。
「一年間、一番近くにいたつもりでした。でも、家族のことも、ここのことも、何も聞いていなかった」
「……」
「サラちゃんが話したがらないのが分かっていたから、聞かなかったんです。それを思いやりだと思っていました」
 橘は、真っ直ぐにエルフリーデさんを見た。
「でも、違いました。私はただ、踏み込むのが怖かっただけです」
 エルフリーデさんは、黙って聞いていた。
「だから、会って謝りたいんです。一言でいいんです」
「……」
「お願いします」
 橘が、深く頭を下げた。
 畳に額がつきそうなほどに。
 俺も、慌ててそれに倣った。
 しばらく、誰も何も言わなかった。
 庭で、鹿威しが一つ鳴った。
 やがて。
「……お顔を上げてください」
 エルフリーデさんの声がした。
 顔を上げる。
 その表情は――僅かに、変わっていた。
 何かを言いかけて、飲み込んだような。
 ほんの一瞬だった。
 だが、確かにあった。

「橘さん」
「はい」
「あなたのような方がいてくださって、あの子は幸せでした」
 過去形だった。
「……でしたら」
「それでも、会わせることはできません」
 その声は、再び平坦に戻っていた。
「なぜですか」
 俺は食い下がった。
「一言でいいんです。俺たちは、それを聞きに来ただけなんだ」
「申し訳ございません」
 エルフリーデさんは、静かに首を横に振った。
「では、こうしましょう」
 そして、変わらぬ調子で続けた。
「本日はお引き取りください。そして、二度とお越しにならないでください」
「……!」
「これは拒絶ではございません。お願いでございます」
 その声は、どこまでも柔らかかった。
「あなた方に、悪いことは何一つ起きてほしくないのです」
 ――ぞくり、とした。
 脅しではない。
 この人は本当に、そう思っている。
 だからこそ、恐ろしかった。
 その時だった。
 廊下の方から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
 襖の向こうで、その足音が止まる。
「……当主様」
 案内をしてくれた男の声だった。
 だが、その声には明らかな困惑があった。
「なんですか」
「サラ様が」
 その名前に、俺は思わず顔を上げた。
「サラ様が、お客人にお会いしたいと」
 部屋の空気が、止まった。
 エルフリーデさんの表情が、初めて明確に変わった。
 驚き、ではない。
 もっと別の――苦いものを噛んだような顔だった。
「……あの子が、そう言ったのですか」
「はい」
「どこで聞きつけたのです」
「分かりかねます。ですが、ご自分で歩いて廊下まで」
「……」
 エルフリーデさんは、しばらく黙っていた。
 俺は、思わず身を乗り出しかけた。
 あいつが。
 あいつが、会いたいと言っている。
「サラ!」
「桐宮」
 烏迴さんが低く制した。
 だが、廊下からは何の反応もない。
 襖一枚隔てた向こうに、あいつがいるのかもしれない。
 なのに、返事はなかった。
「……お引き取りいただくところでした」
 エルフリーデさんが、静かに言った。
「サラ様には、そのようにお伝えいたしますか」
「……いえ」
 その声には、僅かな諦めが混じっていた。
「あの子が自分で決めたのなら、私が止めるものではありません」
 エルフリーデさんは、ゆっくりと立ち上がった。
「四半刻です」
「……!」
「それ以上はご遠慮願います。それと」
 その目が、俺を見た。
「無理に連れ出そうとなさらないこと」
「……分かりました」
「お約束いただけますね」
「はい」
 俺は即答した。
 会えるなら、それでいい。
 今はそれだけでいい。
「では、支度をさせますので、少々お待ちを」
 エルフリーデさんは襖の前で足を止め、一度だけ振り返った。
「桐宮さん」
「……はい」
「あなたは、あの子の言葉を信じてくださいますか」
「……どういう意味ですか」
「言葉の通りでございます」
 エルフリーデさんは、静かに微笑んだ。
「サラが何を言おうと、それがあの子の言葉であると、信じてくださいますか」
「……」
 答えられなかった。
 この人は今、何を言っている。
 まるで――サラが何を言うか、既に知っているかのような。
「失礼いたします」
 襖が閉まる。
 足音が遠ざかっていく。