「……お前らに、話しておくことがある」
その声には、いつもの気怠さがなかった。
朝のホームルーム。
教壇に立つ烏廻さんの表情は、普段とは明らかに違っていた。
俺は無意識に、教室の後ろへ視線を向ける。
窓際の後ろから二番目。
今日も、サラの席は空いたままだ。
始業式の日から、もう何日も学校に来ていない。
風邪だと聞いていた。
本人からも、『まだ治ってないんだよね〜』『みんなは気にせず学校楽しんでて!』と、いつも通りの明るいメッセージが届いていた。
だから、心配ではあったけれど――もう少しすれば戻ってくる。
そう思っていた。
「サラ・クロイツは――」
嫌な予感がした。
理由なんてない。
ただ、烏廻さんの声を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
「学園を辞めることになった」
「…………え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
教室から音が消えたように感じる。
玲奈も、紘弥も、言葉を失っていた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
気づけば、俺は勢いよく立ち上がっていた。
「サラが……学園を辞める?」
「ああ」
「なんでですか?」
自分でも分かるくらい、声が上ずっていた。
烏廻さんは、すぐには答えなかった。
しばらく俺を見つめたあと、僅かに目を伏せる。
「……詳しいことは、俺からは話せん」
「でも、サラは風邪で休んでるって……」
「ああ」
「昨日だって普通に連絡が来てたんですよ?」
玲奈も椅子から立ち上がった。
「『もう少ししたら戻る』って言ってたのよ。それなのに、急に退学なんて……どういうことなんですか?」
「……」
烏廻さんは答えない。
「烏廻さん!」
思わず声を荒げる。
「お前たちが納得できないのは分かる」
低い声が返ってきた。
「だが、これはすでに決まったことだ。学園長も了承している」
「母さんが……?」
「ああ」
さらに問い詰めようとした。
けれど、烏廻さんの表情を見て、言葉が止まる。
何も知らない顔じゃない。
知っていて、話せない。
そんな顔だった。
「俺から言えるのはそれだけだ」
そう言って、烏廻さんは名簿を閉じた。
「……今は、首を突っ込むな。桐宮、九条、西園寺」
「っ……!」
「それだけだ」
烏廻さんは教壇を離れ、教室の扉へ向かう。
「待ってください!」
俺が呼び止めた、その時だった。
ガンッ!
隣から大きな音が響く。
紘弥が、自分の机を蹴り飛ばすようにして立ち上がっていた。
「納得できるわけねえだろ!」
普段の明るさはどこにもなかった。
握り締めた拳が、小さく震えている。
「あいつが……サラが、俺たちに何も言わずに勝手にいなくなるなんて、そんなことあるわけねえ!」
「……」
烏廻さんは扉の前で足を止めた。
けれど、振り返らない。
「……だから言った。今は首を突っ込むな」
バタン。
扉が閉まる。
誰も答えてくれなかった。
重苦しい沈黙だけが教室を支配していた。
俺は立ったまま、ただ誰もいないサラの空席を見つめる。
春の陽射しが差し込んでいる。
窓から吹き込んだ風に、カーテンが静かに揺れた。
昨日まで、戻ってくると思っていた。
風邪が治れば、またここに座る。
いつものように笑って、くだらない話をして。
そう思っていたのに。
今日になって突然、サラは学園を辞めたと告げられた。
「……隼人」
玲奈の震える声に顔を上げる。
彼女はスマホを握ったまま、青ざめた顔で画面を見ていた。
「どうした?」
「今、サラにメッセージ送ったんだけど……」
玲奈がゆっくりこちらへ画面を向ける。
「……『このアカウントは現在使われていません』って」
「は……?」
スマホを受け取る。
つい昨日まで続いていたはずのトーク履歴。
その先にあるのは、無機質なシステムメッセージだけだった。
通話ボタンを押してみる。
繋がらない。
もう一度。
やはり駄目だ。
「昨日まで、普通に繋がってたのに……」
玲奈が唇を噛む。
俺は画面を遡る。
『まだ治ってないんだよね〜』
『みんなは気にせず学校楽しんでて!』
いつもと変わらない文面だ。
その言葉を送ってきたのは、たった昨日。
それが今日になって、退学。
そして、連絡手段まで消えた。
一晩で何があった?
どうしてサラは何も言わなかった?
「……おかしいだろ」
口から、自然と声が漏れる。
「ああ」
紘弥が低く答えた。
「絶対なんかある」
俺もそう思う。
春休みだって、サラはいつも通りだった。
何度かみんなで顔を合わせた。
最後に会ったのは、学園近くの公園だった。
紘弥がどこからか買ってきた手持ち花火を囲んで、夜になるまでくだらない話をしていた。
サラは誰よりもはしゃいでいた。
線香花火を持ったまま動こうとして玲奈に怒られて、それでも笑っていた。
あの時、これから学園を辞める人間には見えなかった。
少なくとも、俺には。
「紘弥、玲奈」
二人がこちらを見る。
「このまま大人しく引き下がるなんて、無理だ」
「当然だ」
紘弥が即答する。
「辰巳さんが何て言おうが関係ねえ。理由くらい聞かねえと納得できるかよ」
「ええ」
玲奈も強く頷いた。
「サラを見捨てるなんて選択肢、最初からないわ」
俺はもう一度、空席を見る。
春の光に照らされた机。
そこにいるはずの奴だけがいない。
何が起きているのかは分からない。
でも――。
このまま何も知らずに終わらせるつもりはなかった。
一限目が終わった直後の休み時間。
教室の後ろの扉から、慌ただしく駆け込んでくる人影があった。
「桐宮君!」
橘だった。
いつも落ち着いている彼女が、息を切らして俺の席へ真っ直ぐ向かってくる。
「サラちゃんのアカウント、消えてるの」
開口一番、橘はそう言った。
「……」
「昨日の夜まで普通にやり取りしてたのに、今朝メッセージを送ろうとしたら、使われていませんって表示が出て……」
橘の手の中で、スマホの画面が震えている。
「電話も繋がらないの。桐宮君、何か知らない?サラちゃん、風邪はもう治ったの?」
言葉が、途切れなかった。
いつもの橘なら、まず一呼吸置いてから話す。
それだけ、動揺しているのだろう。
だが、俺の顔を見て、橘はようやく口をつぐんだ。
「……桐宮君?」
俺は、どう伝えるべきか迷った。
迷って――結局、そのまま伝えるしかなかった。
「サラが、学園を辞めた」
「え?」
橘の表情が固まる。
「今朝のホームルームで、烏廻さんから聞かされた。もう決まったことだって」
「……そんな」
橘の手から、スマホが滑り落ちそうになった。
慌てて握り直した指先が、白くなっている。
「昨日まで、普通に話してたのよ? 『新学期になったら、また一緒にお昼食べようね』って……」
「……」
橘の声が、微かに震えていた。
一年生の頃から、サラと一番よく仲良くしていたのは橘だった。
休み時間になれば必ずどちらかが相手の教室に顔を出していたし、二人でいる時のサラは、俺たちの前とはまた違う顔で笑っていた。
その橘にすら、何も告げずに消えた。
その事実が、何よりも重い。
「……橘」
「ごめんなさい、少し取り乱したね」
橘は一度深く息を吸い、それからゆっくりと顔を上げた。
その目には、もう動揺の色はなかった。
「桐宮君。私にも、手伝わせて」
「もちろんだ」
俺は即答した。
「昼休み、学食に集まろう。ルイにも声をかけてくれ」
「うん」
その直後だった。
「……桐宮君」
声をかけてきたのは京子だった。その後ろには涼子と雨宮も立っている。
「あなたたち、クロイツさんと仲が良かったのよね」
「ああ」
「あの様子だと、何も聞かされてなかったってこと?」
「……そうだ」
俺が短く答えると、京子は僅かに眉を寄せた。
「そう……」
「まったく、朝から騒々しいですこと」
涼子が腕を組みながら言う。
「机を蹴り飛ばすなんて、はしたないですわね」
「んだと!?」
紘弥が食ってかかろうとするのを、雨宮が手で制した。
「まあまあ、落ち着けって。涼子様も、今のは言葉が過ぎます」
「……分かっていますわよ」
涼子は珍しく素直に引き下がり、それから小さく息を吐いた。
「わたくしとて、あのような形で去られるのは……納得がいきませんもの」
「……涼子」
玲奈が意外そうに目を見開く。
「勘違いしないでくださる? 同じクラスになったばかりですのよ。挨拶のひとつも交わさないうちにいなくなられては、据わりが悪いというだけの話ですわ」
そう言って、涼子はつんと顔を背けた。
相変わらず素直じゃない。
だが、その言葉に含まれたものは、俺にも伝わった。
「もし何か手伝えることがあれば、言ってちょうだい」
京子が静かに言う。
「同じクラスなんだから、それくらいはするわ」
「……ああ。ありがとう」
俺が頷くと、三人は自分の席へ戻っていった。
去年の魔闘祭では、俺たちの前に立ちはだかった相手だ。
それが今は、同じ教室で同じ空席を見ている。
この一年で、確かに何かが変わったのだと思う。
昼休み。
学食の隅のテーブルに、俺たちは集まっていた。
橘の隣には、話を聞かされたばかりのルイが座っている。
「そんな……クロイツさんが、退学」
ルイは信じられないという顔で呟いた。
「昨日まで、連絡は取れていたのですよね」
「ああ」
「それが一夜にして退学、しかもアカウントまで消えている……穏やかではありませんね」
ルイが顎に手を当てる。
「本当に、何の前触れもなかったのですか?」
「強いて言うなら、始業式に来てなかったことくらいだ」
「……そう」
橘の表情が、僅かに曇る。
「春休みは、普通だったのにね」
「……ああ」
その言葉に、全員が黙り込んだ。
春休みの間、俺たちは何度も顔を合わせていた。
最後に会ったのは、学園近くの公園。誰が言い出したのか、紘弥がどこからか手持ち花火を買ってきて、みんなで火をつけた夜だ。
サラは真っ先にはしゃいで、線香花火を持ったまま走り回って玲奈に怒られていた。
最後の一本が落ちるまで、あいつはずっと笑っていた。
あの時、何か言いかけていた気もする。
――いや。
考えすぎか。
もしそんな素振りがあったなら、気づかなかった俺たちが間抜けなだけだ。
「……あの時のサラ、どこかおかしかったか?」
俺が尋ねると、玲奈は首を横に振った。
「ううん。いつも通りだったわ」
「だよなあ」
紘弥も頭を掻く。
「うるさいくらい元気だったぜ」
だからこそ、分からない。
あの数週間で、いったい何があったというんだ。
「そんなの、直接聞くしかねえだろ!」
紘弥が苛立ったように拳を握りしめる。
「今すぐ全員で学園長室に乗り込んで、どういうことか吐かせるしかねえ!」
「ちょっと九条、落ち着きなさいよ。そんなことして、素直に話してくれるわけないじゃない!」
「じゃあ西園寺はどうしろってんだよ! 黙って待ってろってのか!?」
「そんなこと言ってないでしょ!」
玲奈も声を張り上げる。
「私だって悔しいわよ! でも、闇雲に動いて余計に話を聞けなくなったら、それこそ終わりじゃない!」
「っ……」
紘弥が拳を握ったまま、黙り込んだ。
しばらくして、乱暴に頭を掻く。
「……悪い。頭に血が上ってた」
「……いいわよ。私も、言い過ぎたわ」
「……玲奈の言う通りだ」
俺は重い口を開いた。
「相手は学園長――俺の母さんだ。烏廻さんと同じで、そう簡単に口を割るとは思えない」
「じゃあ、どうするんだよ」
「俺が行く。身内である俺になら、少しは話を引き出せるかもしれない」
俺がそう言うと、橘が一歩前に出た。
「私も一緒に行っていい?」
「橘?」
「お願い」
橘の静かな、けれど確かな意志の籠もった瞳。
サラと一番仲が良かった彼女なら、当然のことだった。
「……分かった。放課後、二人で行こう」
「うん、ありがとう」
「ルイ、お前は紘弥と玲奈と一緒に、学園内の他の教師や生徒からサラについて何か噂がないか探ってみてくれないか。手分けした方がいい」
「承知しました。私たちの方も、可能な限り情報を集めてみます」
ルイが真剣な表情で頷いた。
「ただ、一つだけ確認しておきたいのですが」
ルイが続ける。
「もし本当に、クロイツさん本人の意思による退学だったとしたら――その時は、どうされるおつもりですか」
「……」
テーブルが、一瞬静まり返った。
誰もが考えないようにしていたことを、ルイは静かに口にした。
「その時は、本人の口から直接聞く」
俺は迷わず答えた。
「メッセージでも、書類でもない。あいつ自身の言葉でな」
「……ええ。それでこそです」
ルイが小さく笑って頷いた。
午後の授業は、まるで頭に入ってこなかった。
教科書を開いていても、視界の端にはずっとあの空席があった。
誰も座っていない椅子。
誰も使っていない机。
昨日までは「そのうち戻ってくる」と思えていた場所が、今は永久に埋まらない穴のように見える。
放課後。
俺と橘は教室を出て、学園長室がある棟へと足を向けた。
長い廊下を歩きながら、俺はずっと考えていた。
母さんは、何を知っているのか。
あるいは――何を知らないのか。
重厚な木製の扉が、廊下の突き当たりに見えてくる。
いつもなら緊張などしないはずの場所だが、今日ばかりは妙に心臓の音がうるさかった。
その声には、いつもの気怠さがなかった。
朝のホームルーム。
教壇に立つ烏廻さんの表情は、普段とは明らかに違っていた。
俺は無意識に、教室の後ろへ視線を向ける。
窓際の後ろから二番目。
今日も、サラの席は空いたままだ。
始業式の日から、もう何日も学校に来ていない。
風邪だと聞いていた。
本人からも、『まだ治ってないんだよね〜』『みんなは気にせず学校楽しんでて!』と、いつも通りの明るいメッセージが届いていた。
だから、心配ではあったけれど――もう少しすれば戻ってくる。
そう思っていた。
「サラ・クロイツは――」
嫌な予感がした。
理由なんてない。
ただ、烏廻さんの声を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
「学園を辞めることになった」
「…………え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
教室から音が消えたように感じる。
玲奈も、紘弥も、言葉を失っていた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
気づけば、俺は勢いよく立ち上がっていた。
「サラが……学園を辞める?」
「ああ」
「なんでですか?」
自分でも分かるくらい、声が上ずっていた。
烏廻さんは、すぐには答えなかった。
しばらく俺を見つめたあと、僅かに目を伏せる。
「……詳しいことは、俺からは話せん」
「でも、サラは風邪で休んでるって……」
「ああ」
「昨日だって普通に連絡が来てたんですよ?」
玲奈も椅子から立ち上がった。
「『もう少ししたら戻る』って言ってたのよ。それなのに、急に退学なんて……どういうことなんですか?」
「……」
烏廻さんは答えない。
「烏廻さん!」
思わず声を荒げる。
「お前たちが納得できないのは分かる」
低い声が返ってきた。
「だが、これはすでに決まったことだ。学園長も了承している」
「母さんが……?」
「ああ」
さらに問い詰めようとした。
けれど、烏廻さんの表情を見て、言葉が止まる。
何も知らない顔じゃない。
知っていて、話せない。
そんな顔だった。
「俺から言えるのはそれだけだ」
そう言って、烏廻さんは名簿を閉じた。
「……今は、首を突っ込むな。桐宮、九条、西園寺」
「っ……!」
「それだけだ」
烏廻さんは教壇を離れ、教室の扉へ向かう。
「待ってください!」
俺が呼び止めた、その時だった。
ガンッ!
隣から大きな音が響く。
紘弥が、自分の机を蹴り飛ばすようにして立ち上がっていた。
「納得できるわけねえだろ!」
普段の明るさはどこにもなかった。
握り締めた拳が、小さく震えている。
「あいつが……サラが、俺たちに何も言わずに勝手にいなくなるなんて、そんなことあるわけねえ!」
「……」
烏廻さんは扉の前で足を止めた。
けれど、振り返らない。
「……だから言った。今は首を突っ込むな」
バタン。
扉が閉まる。
誰も答えてくれなかった。
重苦しい沈黙だけが教室を支配していた。
俺は立ったまま、ただ誰もいないサラの空席を見つめる。
春の陽射しが差し込んでいる。
窓から吹き込んだ風に、カーテンが静かに揺れた。
昨日まで、戻ってくると思っていた。
風邪が治れば、またここに座る。
いつものように笑って、くだらない話をして。
そう思っていたのに。
今日になって突然、サラは学園を辞めたと告げられた。
「……隼人」
玲奈の震える声に顔を上げる。
彼女はスマホを握ったまま、青ざめた顔で画面を見ていた。
「どうした?」
「今、サラにメッセージ送ったんだけど……」
玲奈がゆっくりこちらへ画面を向ける。
「……『このアカウントは現在使われていません』って」
「は……?」
スマホを受け取る。
つい昨日まで続いていたはずのトーク履歴。
その先にあるのは、無機質なシステムメッセージだけだった。
通話ボタンを押してみる。
繋がらない。
もう一度。
やはり駄目だ。
「昨日まで、普通に繋がってたのに……」
玲奈が唇を噛む。
俺は画面を遡る。
『まだ治ってないんだよね〜』
『みんなは気にせず学校楽しんでて!』
いつもと変わらない文面だ。
その言葉を送ってきたのは、たった昨日。
それが今日になって、退学。
そして、連絡手段まで消えた。
一晩で何があった?
どうしてサラは何も言わなかった?
「……おかしいだろ」
口から、自然と声が漏れる。
「ああ」
紘弥が低く答えた。
「絶対なんかある」
俺もそう思う。
春休みだって、サラはいつも通りだった。
何度かみんなで顔を合わせた。
最後に会ったのは、学園近くの公園だった。
紘弥がどこからか買ってきた手持ち花火を囲んで、夜になるまでくだらない話をしていた。
サラは誰よりもはしゃいでいた。
線香花火を持ったまま動こうとして玲奈に怒られて、それでも笑っていた。
あの時、これから学園を辞める人間には見えなかった。
少なくとも、俺には。
「紘弥、玲奈」
二人がこちらを見る。
「このまま大人しく引き下がるなんて、無理だ」
「当然だ」
紘弥が即答する。
「辰巳さんが何て言おうが関係ねえ。理由くらい聞かねえと納得できるかよ」
「ええ」
玲奈も強く頷いた。
「サラを見捨てるなんて選択肢、最初からないわ」
俺はもう一度、空席を見る。
春の光に照らされた机。
そこにいるはずの奴だけがいない。
何が起きているのかは分からない。
でも――。
このまま何も知らずに終わらせるつもりはなかった。
一限目が終わった直後の休み時間。
教室の後ろの扉から、慌ただしく駆け込んでくる人影があった。
「桐宮君!」
橘だった。
いつも落ち着いている彼女が、息を切らして俺の席へ真っ直ぐ向かってくる。
「サラちゃんのアカウント、消えてるの」
開口一番、橘はそう言った。
「……」
「昨日の夜まで普通にやり取りしてたのに、今朝メッセージを送ろうとしたら、使われていませんって表示が出て……」
橘の手の中で、スマホの画面が震えている。
「電話も繋がらないの。桐宮君、何か知らない?サラちゃん、風邪はもう治ったの?」
言葉が、途切れなかった。
いつもの橘なら、まず一呼吸置いてから話す。
それだけ、動揺しているのだろう。
だが、俺の顔を見て、橘はようやく口をつぐんだ。
「……桐宮君?」
俺は、どう伝えるべきか迷った。
迷って――結局、そのまま伝えるしかなかった。
「サラが、学園を辞めた」
「え?」
橘の表情が固まる。
「今朝のホームルームで、烏廻さんから聞かされた。もう決まったことだって」
「……そんな」
橘の手から、スマホが滑り落ちそうになった。
慌てて握り直した指先が、白くなっている。
「昨日まで、普通に話してたのよ? 『新学期になったら、また一緒にお昼食べようね』って……」
「……」
橘の声が、微かに震えていた。
一年生の頃から、サラと一番よく仲良くしていたのは橘だった。
休み時間になれば必ずどちらかが相手の教室に顔を出していたし、二人でいる時のサラは、俺たちの前とはまた違う顔で笑っていた。
その橘にすら、何も告げずに消えた。
その事実が、何よりも重い。
「……橘」
「ごめんなさい、少し取り乱したね」
橘は一度深く息を吸い、それからゆっくりと顔を上げた。
その目には、もう動揺の色はなかった。
「桐宮君。私にも、手伝わせて」
「もちろんだ」
俺は即答した。
「昼休み、学食に集まろう。ルイにも声をかけてくれ」
「うん」
その直後だった。
「……桐宮君」
声をかけてきたのは京子だった。その後ろには涼子と雨宮も立っている。
「あなたたち、クロイツさんと仲が良かったのよね」
「ああ」
「あの様子だと、何も聞かされてなかったってこと?」
「……そうだ」
俺が短く答えると、京子は僅かに眉を寄せた。
「そう……」
「まったく、朝から騒々しいですこと」
涼子が腕を組みながら言う。
「机を蹴り飛ばすなんて、はしたないですわね」
「んだと!?」
紘弥が食ってかかろうとするのを、雨宮が手で制した。
「まあまあ、落ち着けって。涼子様も、今のは言葉が過ぎます」
「……分かっていますわよ」
涼子は珍しく素直に引き下がり、それから小さく息を吐いた。
「わたくしとて、あのような形で去られるのは……納得がいきませんもの」
「……涼子」
玲奈が意外そうに目を見開く。
「勘違いしないでくださる? 同じクラスになったばかりですのよ。挨拶のひとつも交わさないうちにいなくなられては、据わりが悪いというだけの話ですわ」
そう言って、涼子はつんと顔を背けた。
相変わらず素直じゃない。
だが、その言葉に含まれたものは、俺にも伝わった。
「もし何か手伝えることがあれば、言ってちょうだい」
京子が静かに言う。
「同じクラスなんだから、それくらいはするわ」
「……ああ。ありがとう」
俺が頷くと、三人は自分の席へ戻っていった。
去年の魔闘祭では、俺たちの前に立ちはだかった相手だ。
それが今は、同じ教室で同じ空席を見ている。
この一年で、確かに何かが変わったのだと思う。
昼休み。
学食の隅のテーブルに、俺たちは集まっていた。
橘の隣には、話を聞かされたばかりのルイが座っている。
「そんな……クロイツさんが、退学」
ルイは信じられないという顔で呟いた。
「昨日まで、連絡は取れていたのですよね」
「ああ」
「それが一夜にして退学、しかもアカウントまで消えている……穏やかではありませんね」
ルイが顎に手を当てる。
「本当に、何の前触れもなかったのですか?」
「強いて言うなら、始業式に来てなかったことくらいだ」
「……そう」
橘の表情が、僅かに曇る。
「春休みは、普通だったのにね」
「……ああ」
その言葉に、全員が黙り込んだ。
春休みの間、俺たちは何度も顔を合わせていた。
最後に会ったのは、学園近くの公園。誰が言い出したのか、紘弥がどこからか手持ち花火を買ってきて、みんなで火をつけた夜だ。
サラは真っ先にはしゃいで、線香花火を持ったまま走り回って玲奈に怒られていた。
最後の一本が落ちるまで、あいつはずっと笑っていた。
あの時、何か言いかけていた気もする。
――いや。
考えすぎか。
もしそんな素振りがあったなら、気づかなかった俺たちが間抜けなだけだ。
「……あの時のサラ、どこかおかしかったか?」
俺が尋ねると、玲奈は首を横に振った。
「ううん。いつも通りだったわ」
「だよなあ」
紘弥も頭を掻く。
「うるさいくらい元気だったぜ」
だからこそ、分からない。
あの数週間で、いったい何があったというんだ。
「そんなの、直接聞くしかねえだろ!」
紘弥が苛立ったように拳を握りしめる。
「今すぐ全員で学園長室に乗り込んで、どういうことか吐かせるしかねえ!」
「ちょっと九条、落ち着きなさいよ。そんなことして、素直に話してくれるわけないじゃない!」
「じゃあ西園寺はどうしろってんだよ! 黙って待ってろってのか!?」
「そんなこと言ってないでしょ!」
玲奈も声を張り上げる。
「私だって悔しいわよ! でも、闇雲に動いて余計に話を聞けなくなったら、それこそ終わりじゃない!」
「っ……」
紘弥が拳を握ったまま、黙り込んだ。
しばらくして、乱暴に頭を掻く。
「……悪い。頭に血が上ってた」
「……いいわよ。私も、言い過ぎたわ」
「……玲奈の言う通りだ」
俺は重い口を開いた。
「相手は学園長――俺の母さんだ。烏廻さんと同じで、そう簡単に口を割るとは思えない」
「じゃあ、どうするんだよ」
「俺が行く。身内である俺になら、少しは話を引き出せるかもしれない」
俺がそう言うと、橘が一歩前に出た。
「私も一緒に行っていい?」
「橘?」
「お願い」
橘の静かな、けれど確かな意志の籠もった瞳。
サラと一番仲が良かった彼女なら、当然のことだった。
「……分かった。放課後、二人で行こう」
「うん、ありがとう」
「ルイ、お前は紘弥と玲奈と一緒に、学園内の他の教師や生徒からサラについて何か噂がないか探ってみてくれないか。手分けした方がいい」
「承知しました。私たちの方も、可能な限り情報を集めてみます」
ルイが真剣な表情で頷いた。
「ただ、一つだけ確認しておきたいのですが」
ルイが続ける。
「もし本当に、クロイツさん本人の意思による退学だったとしたら――その時は、どうされるおつもりですか」
「……」
テーブルが、一瞬静まり返った。
誰もが考えないようにしていたことを、ルイは静かに口にした。
「その時は、本人の口から直接聞く」
俺は迷わず答えた。
「メッセージでも、書類でもない。あいつ自身の言葉でな」
「……ええ。それでこそです」
ルイが小さく笑って頷いた。
午後の授業は、まるで頭に入ってこなかった。
教科書を開いていても、視界の端にはずっとあの空席があった。
誰も座っていない椅子。
誰も使っていない机。
昨日までは「そのうち戻ってくる」と思えていた場所が、今は永久に埋まらない穴のように見える。
放課後。
俺と橘は教室を出て、学園長室がある棟へと足を向けた。
長い廊下を歩きながら、俺はずっと考えていた。
母さんは、何を知っているのか。
あるいは――何を知らないのか。
重厚な木製の扉が、廊下の突き当たりに見えてくる。
いつもなら緊張などしないはずの場所だが、今日ばかりは妙に心臓の音がうるさかった。

