あと1点の俺たちは。


マウンドへ向かう陸の背中に声をかけようとして大きく息を吸い込む。だけど、今更何を言っていいか分からずに俺はそのまま息を吐いて俯き両手を握りしめる。
「海!」
 マウンドから飛んできた俺の名前を呼ぶ陸の声にハッと顔を上げると、陸が満面の笑みでこちらに拳を突き出す。陸は大きく息を吸うとよく届く声で叫ぶ。
「絶対優勝するから!」
自信満々の頼もしい顔。もう俺と喧嘩したことなんてすっかり忘れたような清々とした顔をしている。
……嗚呼。そうだ。喧嘩したあとはいつもお前から動いてくれたよな。だから、これまで一緒にいられてるんだよな。
……優勝、か。俺は、優勝とか本当はそこまでこだわっていない。だけど、陸が、お前が言うのなら。今日まで努力を怠らなかったお前なら、きっと。
「お前ならできる!俺が一番よく知ってる!思いっきりかましてこい!」
俺はそう答えて、陸へ拳を突き出した。ニッと嬉しそうに笑うと、陸は踵を返しピッチャーマウンドへ向かう。晴れ渡る夏空が、とても良く似合う。
陸、大丈夫だ。お前ならきっとできる。このチームを優勝に導いていける。
あの日の喧嘩以降、一緒に帰ることはなくなっていたが、俺は陸にバレないように陸のことをずっと見てきた。変わらず夜遅くまでピッチングの練習をしてきたのを知っている。大丈夫だ。
おれはマウンドに立つ陸を見つめる。
 試合は両者譲らず、点を取っては取られの繰り返しで3対3の同点。ここまでかなりの球数を投げてきた陸に疲れが見え始める。徐々に表情が固くなってきているのが分かる。
「陸!」
俺は陸の名前を呼ぶ。俺の方を見た陸に、笑顔!とジェスチャーを送る。それを見た陸は、いつもの明るく可愛らしい笑顔を再び見せた。
 その後チームが一点を取り、試合は4対3。一点リードで迎える最終回。両チームとも体力も限界に近い。皆滝のような汗をかき、ユニホームは土で塗れている。真夏の照りつける日差し熱狂する空気、両チーム譲れない緊張感。
 最終回、ピッチャーマウンドに立つのはやはり陸。先程の笑顔が消え、相当緊張しているのがわかる。夢にまで見た甲子園の決勝。今日までたゆまぬ努力と数え切れない悔しさを乗り越えてきたんだ、誰よりもこの最終回に対して思いが強い。陸と共にマウンドに立てなくなった俺に今出来ることなんてひとつしかない。だから、俺は大きく息を吸ってマウンドに立った陸へ叫ぶ。
「陸!お前なら大丈夫だから!自信持て!お前の強さは俺が1番知ってるし、俺が保証するから!悔いなく投げろ!」
俺の声に陸は小さく頷き、滴る汗をグイっと袖で拭う。ランナーはひとり。だが、ここを守り切れば俺たちは勝つ。ブラスバンドの演奏も応援の声もこれまでにない盛り上がりを見せる。心臓が破裂しそうなほど激しく動く。試合に出られなくなったとき、吐くほど泣いた。何より、陸ともう一緒に試合に出ることができなくなったのがショックでしかなかった。だけど、今のこの心臓の音と感じたことのない緊張と高揚感が気付かせてくれた。一緒に試合に出ることがそれだけがすべてではないと。これまでの時間が何よりも代えがたいものであったと。ここまでの陸の努力が汗が涙がそのすべてが報われるこの瞬間を共に分かち合いたい。
 陸がひとつ深呼吸をする。額から落ちる汗が夏の日差しで煌めく。陸はまっすぐにキャッチャーミットを見据える。すべての音が一斉に大きく鳴る。
 陸が大きく振りかぶる。何度も見てきた陸のフォームだ。小学性も中学生も高校に入っても陸が貫いてきたフォーム。始めたころは、顔よりも大きかったグローブもすっかり手に馴染んでいる。手にいくつもマメを作りながら見つけた、陸が一番球を速く投げることのできる最高で最強のフォーム。陸にしかできない唯一無二。
 陸は、これまでのすべてをこの一球に込めている。
「陸。行け…」
俺が小さく零したのとほぼ同時、陸は大きく腕を振りぬく。陸の投げた球が会場の熱気を含んだ空気を切り裂いていく。これまで見てきた陸の投球で一番綺麗だ。
 次の瞬間、バットの乾いた金属音が大きく鳴り響く。球は夏の空に吸い込まれていくように大きな放物線を描いてスタンドに飛んでいく。今までで一番の歓声が上がっているはずなのに、すべての音が遠くに聞こえる。スタンドに飛んでいく球がスローモーションになる。相手チームのランナーとバッターが容赦なくホームへと帰る。試合終了の笛が鳴る。呆然と立ち尽くす陸の横を相手のメンバーたちが通り越していき、勝利を喜びあう。チームの仲間が一斉に陸のもとへ駆け寄り思い思いに陸の頭をなでたり背中をさすったりしている。無理に笑顔を作って励ます奴。ぐしゃぐしゃに泣きながら感謝を伝える奴。涙で何も言えなくなってしまった奴。泣きすぎて陸に背中をさすられてる奴。ああ。本当に俺たちの夏は終わってしまったのだと思い知らされて、目の前の景色が滲む。陸はというと、自分が一番悔しくて悲しくて仕方ないだろうにいつも本心を隠すときにする取ってつけたような笑顔で部員たちに何度も「ごめんな」と「ありがとう」を繰り返している。自分が一番泣きたいはずなのに、部員の前では泣かないようにしているんだ。…じゃあ、お前はいつ泣くんだよ…。陸にとってただ一人、隠すことなくありのままで涙を見せれるような存在になりたい。いいや、なるんだ俺が。本当は優勝したら伝えようと思っていた。優勝できなかったら伝えるのはやめようと考えていた。だけどそれはきっと振られるのが怖くて自分に保険をかけていただけだ。もう隠すのはやめにしよう。陸が何も隠さずにいられる相手になるためにも。
 片付けのために控室へ戻る陸たちを見送り俺も帰り支度を始める。他の部員と会うのも気まずくて、顔を出すのを控えていたが、最後だしこの前胸倉を掴んでしまった奴にも謝りたい。足は自然と陸たちが待つ選手控室へ向かう。
部室に入ると、泣きながら帰る準備をしている最中だった。来たはいいが、試合に出られなかった俺は所在がなくなりそうだ。
「あ!打野!」
すすり泣く声を切り裂いて声を掛けてきたのは、胸倉を掴んでしまった山田だ。山田の目の周りが赤くなっているのに気が付いた。こいつも悔しかったんだ。
「この前はごめん…」
絞り出すように謝った俺の背中を山田はバシバシと力強く叩く。
「もう怒ってねぇよ!それにお前の気持ちが俺もわかったし!俺の方こそ、無神経なこと言ってごめんな」
「俺ももう怒ってない」
 「そっか!じゃあ、仲直りっちゅうことで!」
 わははと豪快に笑うと山田は鞄を持って帰って行った。その直後、後輩たちがわっと俺を囲む。
 「打野せんぱ~い!来年こそ!来年こそ優勝します!俺たち、打野先輩と投山先輩みたいに、いいえ!それ以上に強くなって必ず甲子園優勝します!」
涙を必死に拭いながら次期キャプテン候補の2年が言う。その言葉にほかの後輩たちがぐしゃぐしゃに泣きながら力強く頷く。
「お~?言ったな?言っとくけど俺たちに勝つのは100年早いと思うぞ?でも、期待しとくわ 」
後輩たちの頭をくしゃくしゃと撫でると、彼らは泣きながら嬉しそうに笑う。
その後も部員たちと話していたらすっかり日が暮れて部員も最後の一人となってしまった。
「そういえば、陸…投山は知らないか?」
最後になった後輩に尋ねると「僕がここに来た時にはもう着替えも片付けも終わっていて、どこかへ行ってしまいました。」と返ってきた。後輩に礼を言って俺は陸を探しに行く。相手チームの控室、トイレ…色々探したが見つからない。最後に残るのは——
 夕日が照らす静かになったピッチャーマウンドの上。陸は遠くを見つめて立っている。
「陸。」
ベンチから陸の名前を呼ぶ。やけに声が響く。気が付いた陸がゆっくり俺に顔を向ける。目が合うと陸はどこか悲しげな笑顔になる。
「見てたか?」
吹き抜ける風に陸の髪が夕日に照らされながら靡く。
「見てたよ。ちゃんと。」
真っすぐ陸を見つめる。陸は一瞬俯くとすぐ顔をあげて俺を見る。
「負けちゃった……あと1点だったのになぁ…」
陸は一瞬顔を歪ませたが、すぐに笑顔で取り繕う。その顔に耐えられなくなって俺は陸のもとへ駆け寄り、力強く陸を抱き締める。すると陸がぽつりぽつりと話し始めた。
「……勝ちたかった…」
「うん」
「…海を優勝まで連れて行きたかった…」
「うん 」
「…本当は、海と試合に出て勝ちたかった…」
「…それは…ごめん…」
「…でも、海が、俺に心配かけたくないから、言いたくなかったんだって、後になって気が付いた…」
「うん」
陸の背中を優しく擦ると陸がぎゅっと俺の服を両手で掴む。
「今日の陸、今までで一番かっこよかったぞ。まぶしかった。お前は頑張ったよ。今日も、これまでも。お前がキャプテンだったからチームもここまでこれたじゃないか。俺も、決勝に来ることができて嬉しかったよ。」
俺の言葉に、堰を切ったように陸は声を出して泣き始めた。「ごめん」を繰り返しながら泣く陸の頭を優しく撫で、俺はその「ごめん」のたびに「謝らなくていい」と返し、こみあげてくる涙をこらえる。あんなに騒がしかった蝉の声はいつの間にか穏やかな蜩に鳴き声に変わっていた。野球にすべてをかけた夏が終わった。

 すっかり泣き終わってすっきりした陸と久しぶりに二人で帰る夏の夕暮れの川沿い。この道も何回も歩いてきたな…。少し前を歩く陸の背中をじっと見つめる。言うなら、今だ。俺は足を止めた。深呼吸をして目の前の背中に声を掛ける。
「なあ、陸。」
「ん? 」
陸が振り向く。夕日に照らされて一層綺麗だ。
「こんなこと言ったら、お前が怒るし、悲しむと思って今まで言えないでいたけど…」
陸は表情を変えずに俺をじっと見つめて続く言葉を待っている。
「俺、本当は、県大会出場とか、甲子園とか、どうだって良かったんだ。」
陸の表情が一瞬曇る。
「俺は、俺はただ…」
 これまで積み重ねてきた陸と野球をした思い出が一気に蘇って視界がぼやける。
「俺はただっ…お前と野球がしたかっただけなんだ…お前とやる野球が何よりも特別だったんだ。試合に勝つとかよりもずっと、お前と野球をすることの方がよっぽど大事だったよ。それくらいお前が俺にとっては特別で大事な存在なんだ。」
俺を見つめる陸の目から涙が零れた。ぽろぽろと零れては夕日に照らされて落ちていく。涙まで愛おしい。
「あともう一つ、お前に言いたいことがある。」
すうっと息を吸う。カナカナと蜩が遠くで鳴く。
「陸が好きだ。」
陸の目が大きく見開かれてさらに大粒の涙を零す。
「ずっと前から、お前のことが好きで好きでたまらないんだ。お前が可愛くて、愛しくて仕方ないんだ…。お前と、恋人になりたい。幼馴染として、親友としてじゃなく恋人として、お前の隣に居たい。お前が泣きたいときにいつでも胸を貸せるように、その涙を一番近くで拭えるように。それだけじゃない。お前にもっと触れたい。手だって繋ぎたいし、キスもその先だってしたいよ。」
 そこまで一気に言ってハッとして俯いた。
「ごめ…俺また、自分勝手に…」
「自分勝手じゃないよ…」
俺の謝罪の言葉を遮った陸の静かな声に顔をあげる。
「俺も好き。海が好き。」
ぽろぽろと綺麗な涙を零しながらも陸は柔らかに微笑む。
「でも…陸の好きは…」
陸は俺の手を取り自らの頬に触れさせる。柔らかな肌の感触にどくどくと心臓が脈打つ。
「俺の涙を一番近くで、隣で、拭いてくれるんでしょう?」
陸が俺の手に頬を擦り寄せる。
「俺も、海にもっと触れてみたい。幼馴染、親友としてじゃなくて、恋人として。それに海には恋人として俺に触ってほしいよ。恋人として手を繋ごうよ。キスもしよう。」
陸の瞬きとともに一粒涙が落ちて俺の指に落ちる。
「だいすき」
そう言って微笑んだ陸の瞳からぽろぽろと絶え間なく涙が溢れてくる。睫毛に幾つもの水滴ができては落ちていく。俺は恐る恐るその綺麗な俺のために流れた涙を掌で包み込むように優しく拭う。視界がぼやけて涙が零れる。
「お前も泣くのかよ」
泣きながら笑って陸は言うと、両手で俺の顔を包み込んで俺と同じように涙を拭った。お互い涙を拭きあって、ふと目線を上げると陸と目が合った。至近距離でしばらく見つめあっていたが、どちらからともなくゆっくりと顔を近づけていく。そして、陸が瞼を閉じる。互いの唇が優しく重なった。初めて触れた陸の唇は少し乾いていてざらついていたけれど、想像していたよりずっと柔らかかった。
ゆっくりと顔を離すと、陸が「キス…しちゃったな」とはにかんだ。可愛い、愛しい。思わず陸を抱き締める。陸の心臓の音がはっきり聞こえる。
「あはは。海の心臓の音うるせ~!」
抱き締めた耳元で陸が笑う。
「お前のもうるさいぞ」
言い返すと、陸は俺の背中に腕を回してぎゅっと抱きしめ返す。
「だって…ずっと海にこうしてほしかったから… 」
耳元で小さな声がして擽ったい。
「俺もずっとお前にこうしたかった。」 
「ずっと我慢させてごめんな」
「いい。その分これからいっぱい触るから。」
「ひぇ~…そこはお手柔らかにお願いします…」
「無理かも」
陸の耳が一気に赤く染まる。そんなわかりやすいところも可愛くて仕方ないな…。
「陸、可愛い。好きだ。大好きだ。愛してる。世界で一番。」
ぎゅうぎゅうと陸を抱き締めると陸は「…分かったから…もうそろそろ離して…色々で茹で上がりそう…」と恥ずかしそうにもぞもぞと動いた。もう少し抱きしめていたかったけど、仕方なく体を離した。
俺の抱擁から解放された陸は熱そうに手で顔を一通り扇ぐと俺に手を差し出して言う。
「一緒に帰ろう」
初めて俺に話しかけてくれたあの時と同じ言葉を。
俺は差し出された陸の手を握る。すると陸は口を尖らせた。
「え。なんか違ったか?」
慌てて話した俺の手を、陸は指を絡ませる形に握りなおした。
「恋人になったんだから、こっちがいい…」
 照れながらも正直に話した陸が可愛くて俺は陸の頬にキスを落とす。
 「そうだな、俺たちはもう恋人だもんな」
 つないだ手に少しだけ力を入れると、陸は嬉しそうに目を細めて笑った。ああ、この顔を俺は前に見たことがある。二人で勉強会をした日、夏祭りのあの日にも——。もしかしたら陸もちょっと前から俺のことが好きだったんだろうか。
「なあ、陸」
「なに? 」
「お前はいつから俺のこと好きになったんだ?」
「ないしょ。」
そのうち教えるよ。そう言って陸は今までで一番柔らかく微笑んだ。