夏祭り後の登校日。俺は一人悶々としていた。
夏祭りの一件以降、陸の反応が変わった。いや、反応もと言った方が正しいだろうか。今までは俺が陸の方を見つめていることがほとんどだったが、最近はやたらと陸からの視線を強く感じる。特に俺が陸から少し離れているときが多い。そして、陸の視線に気が付いて振り向くと必ず目が合う。目が合うと陸はすかさず顔を逸らす。まるで俺のことを直視できないかのように。けれど逸らした横顔から見える耳は茹で上がったように赤く染まっている。変わったのはそれだけではない。これまで俺と接触することがあっても平然としていた陸が、少し肩がぶつかっただけで、過剰に反応をするのである。顔を真っ赤にさせ、目は泳ぎ、慌てて距離を取る。初めは、今度こそ陸に嫌われてしまったと思っていたが、もしかしたら別の可能性があるかもしれないと微かな期待もある。非常に自分都合な予想かもしれないが、もしかしたら陸は——
「なあ、打野~」
ある疑惑が浮かびかけたところで前の席に王子屋が腰かけて俺に話しかけてきた。王子屋は高校になって仲良くなったクラスメイト。俺と陸、王子屋とそれから王子屋と一緒にいる南の四人でよく一緒にいる。
「何」
「陸と喧嘩でもしたの?」
ちらりと王子屋は教室の入り口に立つ陸の方に目を向ける。
「してないけど。」
「じゃあなんで、あんなにいつも引っ付いていたのに最近は距離があるんだよ」
知るか。それは俺の方が知りたい。夏祭り以降なぜか陸は俺から距離を取るようになった。俺のことを見て来るくせに、話しかけただけでやけに驚くし、触ろうとすると躱されてしまう。
「まあ。それはお前が一番知りたいか」
「分かってんなら聞くなよ」
「ごめんって。そんな睨むなって」
少し困ったような笑顔を見せる王子屋。
「わりぃ。俺らのこと心配してくれてんなら、ありがとう。でも多分嫌われたとかではないと、思う…」
尻すぼみになっていく声に王子屋が笑う。すると、廊下から王子屋を呼ぶ声がした。友人の南だ。
「じゃあな。お前ら大会も近いんだからあんま拗らせんなよ。」
そう言い残して王子屋は南のもとへと向かっていった。
「…拗らせるなって言われてもな…」
嫌われているわけではなさそうなんだが、そうでないなら陸は何故態度が変わったんだ?陸の方に目をやると、やはり目が合った。そしてやはり顔ごと逸らされてしまう。嫌われているというより…
「照れてる?…なんてな…」
そんなわけがあるかと自分に突っ込みを入れる。陸が俺に照れるなんてそんなのあまりにも都合がよすぎる。仮に照れていたとしてもそれはキスをしてしまったからであって、きっと一時的なものだ。そう考えないと俺は、勘違いをしてしまう。次から次へと浮かんでくる疑惑も期待も願望も打ち消すように頭を振った。
とはいえ、色恋ごとに現を抜かすわけにはいかない。夏祭りを終えたこれからは、大会に向けての練習により一層力を入れなくてはならない時期へ突入したのだ。練習はさらに実践的に、そしてハードになっていく。ありがたいことに俺たちは今年本選を見事に勝ち進め、準決勝の大会が目前に迫っている。試合形式の練習ができない代わりに特定の場面を切り取った緊張感の高い練習を繰り返した。部員たちは、初めての準決勝に期待と不安を抱きつつも、手前まで来た優勝の二文字により一層気合いが入っている。そして、他の部員たちと比べ物にならないくらい、誰よりも残りの試合に特別な思いを持っている奴…。そうキャプテンの陸だ。この野球部に入ってから、いやこの高校に行くことを決めた時からあるいはそれよりも前から、甲子園に優勝に人一倍憧れているのを俺は知っている。だから、俺は陸を勝たせてあげたい。これからの試合に思うことの一番はそれだが、俺はもう一つ別でこの試合に懸ける思いがある。
——優勝したら、陸に思いを伝える。
俺はそう決めてここまで来た。この夏の甲子園で、泣いても笑っても陸と野球ができるのは最後になるだろう。だから、俺も甲子園優勝を一つの気持ちの区切りとして陸に告白すると決めたのだ。振られても気持ちにある程度区切りがつけられるだろうと信じて。だからこそ、中途半端な結果で終わらせるわけにはいかない。陸のため、そして自分のためにこの甲子園絶対優勝で終わりたい。そんな強い思いを胸に抱いて準決勝を一週間後に控えた試合のない日。いつも通りバッティング練習をしていた時のこと。頬にぽつりと水滴が落ちて来た。それから間髪入れずにザッと雨が勢いよく降りだした。皆慌ててベンチに集まり、雨空を見上げる。
「これは止みそうにないな…」
雨の轟音の中、監督の呟く声がなぜかやけにはっきり聞こえた。遠くでは雷鳴も聞こえる。気のせいかもしれないが、妙に胸騒ぎがする。雨はやまないだろうからとこの日の練習はここで終わりになった。
帰るために着替えていると、肩に電気が走るようない痛みが走った。思わず小さく声が漏れる。その声に気が付いた陸が俺の方を見る。
「どうした?どっか痛いのか?」
陸は眉を下げて心配そうに俺の目を見る。最近はまともに目すら合わなかったのに、こういう時はちゃんと見るんだな…。陸のまっすぐな視線が心に刺さる。言えない、言えるわけがない。甲子園優勝に誰よりも強い思いを持って取り組んでいる陸に、痛いだなんて言いたくない。それにきっとこれはただの偶然だ。
「大丈夫だ。ちょっと服に引っかかって、首が締まりかけたんだ。」
咄嗟に出た嘘。俺はちゃんと取り繕えているだろうか。
「なんだ…良かった…。」
陸がほっと息を吐く。その安心した顔に今度は心に針で刺されたような痛みが走る。安堵して再び着替え始めた陸とは反対に、俺の心臓はバクバクと音を立て、肩にはまだ不気味な違和感が残っていた。
あの日、感じた痛みは日を追うごとに強くなっている。バットを振るたびに肩に痛みが走る。いくらアイシングをしてもテーピングをしても消えない。自分も周りにも騙し騙し誤魔化してきたが、陸には通用しなかった。
「海。本当に何もないのか?本当はどこか痛いんじゃないか」
練習終わりの帰り道、棒アイスを食べながら隣を歩く陸が口を開いた。
「何のことだ?」
「だって、海、最近バット振るたびになんか険しい顔してるから…」
陸は俯く。
「まあ、準決勝が近いからな。本当は緊張してるのかもな」
適当な理由で受け流す。
「海でも、緊張することあるんだな」
顔をあげて陸が笑う。良かった、疑われてはいないみたいだ。違和感の残る肩を陸に気付かれないようにそっと摩った。
そして迎えた、準決勝当日。いまだに残る肩の痛みと不安を抱きながらも俺はバッターボックスに立つ。試合が始まってからずっと肩の痛みは尋常じゃないがなんとかここまで耐えてきている。ここで迎えたチャンスの場面。相手のピッチャーは陸と並ぶくらいの肩の強さを持つ。蝉の声を掻き消すほどのブラスバンドの音と、両チームから聞こえてくるのは激励の声。
「海!がんばれ!」
ベンチからの陸の言葉に背中を押される。
相手のピッチャーが構える。俺もバットをぎゅっと握りなおす。大丈夫だ、俺なら打てる。しかし、相手もこの試合に勝ちたいのは一緒だ。俺がインコースを窮屈そうにしているのを決して見逃さなかった。相手は容赦なく胸元への厳しいストレートを投げる。
——逃げるわけには、いかない!
痛む肩を無視して俺は強引にフルスイングをした。
瞬間、ゴキッとバットが折れるような音と同時に鈍い衝撃が走る。あまりの激痛に声も出ず、その場に崩れ落ちる。動かそうと思ってもピクリとも動かない。全身に冷や汗が噴き出る。俺は震えるもう片方の手で必死に肩を抑えた。すべての痛みが集まったような形容しがたい痛みがずっとする。異変を察した監督が救護を呼ぶ声が遠く聞こえる。蝉の声だけががんがんと頭に響く。担架に乗せられ、ベンチ横を通り過ぎた時、一瞬陸と目が合った。陸はショックを受け、ひどく泣きそうな顔をしていた、ような気がする。
そのまま俺は病院へと連れられ、そこで肩の痛みの正体を知る。
告げられた診断は「肩腱板不全断裂」。医師が言うには、腱板が完全に断裂しているらしい。さらに、手術をしても元のパフォーマンスに戻る保証はないのだという。ほとんど、通院でのリハビリしか選択肢がないようなものだった。同時に俺はもうバッターとして陸の隣に居ることはできないと言われたも同然だった。その日の試合は、無事に勝つことができたらしい。らしいというのは陸からメッセージが届いていたからだ。勝利の報告と一緒に、みんな心配してるから顔を出してほしい旨も書かれていた。正直、顔を出したくはなかったが、陸に言われた以上は断れなかった。次の日の練習の前に部室に顔を出した。部室に入ると制服姿で片腕を吊った状態の俺を見た部員たちからどよめきの声が上がる。
「…どうだった?お医者さんはなんて?」
どよめく部員たちを掻き分けて陸が俺の元まで駆け寄る。
「…肩腱板不全断裂」
俺の言葉にさらにどよめきが起こる。無理もないよな…。陸の顔は見るのが怖くて見られず、俺は俯く。
「じゃあ、打野先輩はこれからの試合に出られないんですか?」
不安そうな後輩の声に、俺は頷く。陸は無言のままだ。
「これからの試合どころか、もうバッターとしてはおしまいなんだってよ。」
これ以上空気が重くならないように無理に明るく言い放った。
「でも、練習には裏方として参加するから、まだよろしくな」
俺の言葉に一番に反応したのは陸だ。
「もちろん!裏方は俺たちにとっても大事な存在だからな!まだまだ頼むぞ!絶対甲子園優勝しような!」
明るい言葉とは裏腹にその横顔は悲しげだった。
宣言通り、俺はこの日の練習からグラウンドに立つことはなく、ベンチで仲間の頑張る姿を見守った。本来は自分もそこにいるはずなのに…そう思うたび、唇を嚙み締めた。
練習終わり、部室の前を通りかけた時ふとある会話が聞こえた。
「なあ、ぶっちゃけどう思う?」
「どう思うって何が?」
「これからだよ。勝てると思うか?」
「あー…打野が怪我しちまったもんな…」
「さすがに投山の力だけじゃ厳しいと思うんだよな…」
「打野と投山が強いだけで他はあんまりだもんな…正直決勝負けるとおもうわ…」
黙って聞いていたが、我慢の限界だった。俺は部室のドアを勢いよく開け、そのまま部員の胸倉を掴んだ。
「負けるとか、簡単に言うんじゃねぇよ」
胸倉を掴まれた部員が俺を睨み返す。
「だってそうだろう?俺らがここまでこれたのはほとんどお前と投山のおかげだろうが。そのうちのお前が出られないんじゃ、優勝なんてほぼ不可能だろ」
「陸がこれまでどんな思いでここまでやってきたと思ってるんだ!陸は、練習が始まる前の朝早くから、練習後の夜遅くまで一人でひたすら努力をしてきたんだ、甲子園で優勝するために!それを知っているのか?!それを知ってもなお、負けるだなんて——」
「ストップストップ!」
陸が俺と部員を引きはがす。
「どうしたんだ?決勝前に喧嘩は良くないぞ…?」
「俺らで話してたら、打野が怒って入ってきて、それから口論になった」
「海は、なんで怒ってるんだよ?」
陸が俺の顔を覗き込む。
「こいつが、甲子園優勝は無理だとか言うから…」
おさまらない怒りで震える手を握りしめ、俺は吐き出すように呟く。
「だって、そうだろ?強力バッターがいないんじゃ、強豪校には勝てないだろ」
「なんだとお前!」
胸倉を掴もうとした俺をすかさず陸は止める。
「まあ、そうだよな…」
陸から発せられた言葉に俺は陸の胸倉を掴む。
「そうだよな?なんでそんなこと言うんだよ…そんなこと本当は思ってないくせに!お前だってこの甲子園のために頑張ってきたじゃないか!それなのに負けると言われてなんで平気そうにしてるんだよ!こんな時まで我慢するのか?!」
陸がピクリと反応した。そして俺を睨むと静かに言い放つ。
「我慢?それ、お前が言う?」
「は?」
「じゃあ、お前はなんで肩のこと言わなかったんだよ」
つうっと冷や汗が背中を伝う。
「俺には我慢するなとか偉そうに説教する癖に自分のことは、なんも言わないで、俺に嘘ついて、練習できなくなったやつに言われたくねぇよ。それに俺はお前と違って部員のことも考えて言ってんだよ。自分勝手な奴に何が分かんだよ。お前に俺の何が分かるんだよ。幼馴染だからって知った気になってんじゃねぇよ。」
陸の言葉にぐうの音も出なかった。だけど謝る気はなかった。俺は陸の胸倉から手を離すとそのまま部室を後にした。
それからの俺たちは険悪で、俺は練習に顔を出さなくなった。甲子園の話題は見たくないから、テレビのコンセントを抜いた。スマホも電源を切った。陸の連絡先も消そうとしたが、それだけはできなかった。
陸との関係が悪いままで迎える、甲子園決勝戦の日。監督からどうしてもきてほしいと言われ渋々球場へ向かった。監督はベンチに居てほしいと言ったが俺は断り、ホーム側スタンドの最善、一番ベンチに近い場所に腰かける。
照りつける太陽、いつにもまして大きな蝉の合唱とブラスバンドの音がグラウンドにこだまする。けたたましいサイレンの音が開始を告げた。
——最後の試合が始まる
