有栖川伊織は、俺の世界の外にいる

文化祭本番まで残り約半月と少しになった、十月初日の木曜日。
学校中が文化祭準備モードに入り、どこのクラスでも段ボールや絵の具などが散らかっている。
俺たちの劇用衣装も、ようやく仮縫いまでこぎつけた。
「カオリン(シンデレラ)は初期衣装、ボロ衣装、舞踏会ドレスの三着もあって大変だ」
放課後。仮縫いを終えた俺と伊織は、そろって家庭科室を出た。
「東雲は主役だからな。教室戻る前に、自販機寄っていいか? ジュース買いたい」
「いいよ。僕も何か買おうかな」
伊織と他愛ない会話をしながら、俺は今日これからの予定を、頭の中で整理する。
まず大道具と小道具と衣装の進捗確認をして、それを担任に伝える。次に佐和田と劇で使う物の申請書類を書いて、その次は——あぁもう! 今日はえらく忙しいな! 学級委員って面倒臭ぇ!
俺は心の中でため息をつき、次の角を曲がれば自動販売機がある食堂前、というところで「ギャハハ!」とうるさい笑い声がし——
「山本ってさぁ、仕切りたがりだよな。学級委員だからってとこ差し引いても」
たぶんこの声は同じクラスの渡辺だ、と俺は立ち止まる。
俺は校舎の角に身を隠し、声がした方をそっとうかがうと、渡辺と原と小野寺が自動販売機前にいた。
「有栖川を王子役に推薦したのも山本だよな。担任に頼まれて有栖川の世話係してるから、文化祭利用してクラスに馴染ませたいんだろうけど、あんな大根役者じゃなぁ。劇、失敗すんじゃね? ヤバ!」
原がコーラ片手に、にやにやしながら言う。
「世話係の責任問題じゃーん。どう責任とってくれんのかなぁ?」
自動販売機に寄りかかる小野寺が、大袈裟に肩をすくめ、意地悪く唇の端をつり上げる。
久しぶりに、不意打ちで殴られたような衝撃を、心に受けた。
俺は人見知り陰キャから努力して養殖コミュ強になった……とはいえ、人類全員と仲良くなんてなれはしない。
俺がどれだけコミュ力をみがこうが、俺のことを気に食わない奴は絶対に存在する。
これは俺に限らずの話で、人類全員から好かれることなんて、絶対に誰にも無理ということは、昔から知っている。
だけど、やっぱり……陰口を言われて嘲笑されるのはショックでヘコむし、ずっと慣れない。
天然コミュ強の東雲なら、こんな場面でも上手く立ち回るのかもしれないが、俺は所詮養殖。聞かなかったことにして立ち去る選択しか、思いつけない。ジュースは昇降口のとこの自動販売機で買おう。
俺は無言で隣に立つ伊織の上着を引っぱり、回れ右しようとしたのだが——伊織に俺の手をふり払われた。
「え?」
何で? と動揺する俺を無視し、伊織はスタスタと自動販売機の方へと、早足で歩いていく。
伊織は自動販売機数メートル手前で足を止め、凛としたよく通る声で言った。
「じゃあ陰口言ってないで、お前らが仕切れよ」
「あっ、有栖川!?」
渡辺たちがビクッと身体を震わせ、一斉に伊織を見た。
「学校行事って、誰かが仕切らないと進まないことくらい、分かるよな?」
伊織は俺に背を向けているので、彼が今どんな表情をしているのか見えないが、とても冷たく低い声だった。
「学級委員だからってことで、嫌々でも仕切ってくれてる颯太に感謝することはあっても、こんなところでダベって油売ってる奴に、陰口言う権利があると思ってんの?」
「いや、オレらは別に……」
渡辺たち三人はきまり悪そうに、互いの顔を見あわせる。
「僕のことを大根役者だと言ってたが、昨日監督の佐和田に『どんどん上手くなってる』と褒められたぞ。本番で僕は、完璧に王子役を演じてみせる。というか、サボって自分の仕事から逃げてるくせに、ちゃんとやってる人間を影で非難するって、フナムシ以下だな」
軽蔑を隠さず、容赦のない伊織の言葉に、渡辺たちは明らかに気圧されていた。
「確か、お前らって大道具担当だったよな?」
急に伊織の声から刺々しさが消えたので、不思議に思った俺は目をしばたたかせる。
「だったら何だよ?」
「大道具取りまとめてる酒井が昨日、『予定より進みが遅くて困る』と言ってたけど、お前らのせいだったんだな。報告しとくわ」
語尾に音符マークでもついていそうなはずんだ声で、伊織が更に続けて言う。
「あと担任にも伝えとくから。いやー、楽しみだなぁ。あの熱血教師が、係サボって悪口言ってるお前らのこと知ったら、最低でも三時間は生徒指導受けることになるだろうなぁ〜〜」
「ちょ、酒井はともかく、担任(田安)はマジダメだって!」
「全部冗談だし!」
「ごめんって! これから背景の色塗り行くから!」
渡辺たちは顔を青くし、慌てて逃げるように廊下を走りだす。
伊織が走り去る三人に、「三下どもが、なめとったらおえんぞ!」と、任侠映画に出てきそうなセリフと迫力で怒鳴った。
怖……と俺が思っていると、伊織がくるりと俺へふり返った。
「くだらん奴らだ」
フンと鼻を鳴らす伊織を見て、校舎の角から進み出た俺は、思わず笑ってしまった。
「何故笑う?」
「ほっとしたら、笑えてきて」
「何かムカつくんだが」
「ごめん。本当にそれ以外の理由はないから許して。——俺のかわりに言い返してくれて、ありがと」
「別に……僕が言いたいことを言っただけだし」
不機嫌を装うことで照れを隠し、伊織がぷいと横を向く。
「そうかもしれないけど、俺は嬉しかったし、ありがとうって思ってる」
人間関係が面倒臭くなるのが嫌で、聞かなかったことにする選択肢しか選べなかった俺だけど、本当は言い返したかった。
そして、もし仮に渡辺たちに言い返す選択肢を選んだとしても、日和ってる俺じゃ、あそこまでスパッと言い返すことはできなかったと思うし。
「俺が言いたかったこと全部言ってくれたから、スカッとした。グッジョブ!」
俺がぐっと親指を立てて言うと、伊織が仁王立ちでニッと笑った。
「颯太に注意されてばかりの僕だけど、たまには役に立つこともあるんだぞ」
「頼もしすぎて、伊織様のこと拝みそう」
「調子のいい世話係だな」
伊織と軽口を叩いていると、渡辺たちに陰口を言われていたことが、どうでもよく思えてきた。
伊織って何だかんだいっても、いい奴なんだよな。
ワガママで、世間ズレしてて、たまに意味不明で面倒だけど、いい奴。
「そういえばさっき最後、方言出てたぞ。『おえんぞ』って」
俺の指摘に、伊織が顔を青くして固まる。
「え、出てた?……気をつけなきゃ」
「別に方言隠さなくてもよくね?」
「よくない! 田舎者ってバレたくない!」
「バレても、みんな何とも思わないと思うけど?」
「……もしバラしたら、僕は渡辺たちの味方につくからな?」
「バラさないって! ジュースおごるから信じろよ」
「買収か」
「そゆこと」
俺は自動販売機の前に行って財布を取り出し、硬貨を数枚入れる。
「カルピスソーダがいい」
「オッケー」
俺はボタンを押し、やかましい音をたてて転がり落ちてきたペットボトルを取り出し口から取り、伊織へ差し出す。
「サンキュ」
笑顔で嬉しそうにペットボトルを受け取る伊織に、俺はひそかに胸をなで下ろす。
芝居の練習相手をクビにされたから、少し嫌われてしまったかと思っていた。
でもさっき、渡辺たちにあれだけ言い返してくれたということは、そんなことはなかったっぽい。
「俺はコーヒーにしよ」
俺はパッケージには微糖と書いてあるのに、実際はかなり甘いコーヒーのボタンを押す。
俺と伊織は、世話される人間と世話係じゃなく、どんどん普通に友達になっていっている。
それはたぶんいいことだけど……俺の心のどこかが、理由不明のわずかな引っかかりを感じている。
この引っかかりは第六感の警告なのか、はたまた別の何かなのか、今の俺には分からない。