閉鎖生態系ver.2.0

 ミツは俺を見ていた。

「……えっ?」
 瞬きもしない目が、静かに俺を見つめている。
 表情は、機械人形のように無機質。
 ミツは父親の言葉に傷ついている……はずだろ?
 どういうことだ。
 ハル。ハルに聞こう。
 左隣を見た。

 ハルも俺を見ていた。

 ソファの背もたれに片肘をつきながら、俺を見ている。
 すっと目を細めると、口角を上げた。
 ゾッとして俺は前を向くと、唇を噛み両膝を握り締める。

 怖い。

 右からミツに観察され、左からハルに鑑賞されている。

 左右から壁に押し潰されるような錯覚に身体を縮めた。
 自分の心臓の音がうるさいくらい頭の中で反響し、浅い呼吸しかできなくなる。
 何で二人とも俺を見ているんだ?
『なぁ、京本。俺はいつも死んでいるようなものなんだ。お前といるときだけ、俺は生き返ることができる。お願いだ、一人で死にたくない』
 縋るように、甘えるように、父に語りかける綺麗な男が目の前にいる。父はぎゅっと目をつむっている。
 頭がくらくらしてきた。
 右も左も前も、見たくない。
 身体がふらつき、滑り落ちないよう両手でソファの端を掴んだ。
 家に帰りたい。
 帰ったら、父さんが廊下の奥から走ってきて、明るい笑顔で俺を迎えてくれる。
 そうに違いない。
 あの男は父さんじゃないんだ。
 震える男は、隣に座る男を見上げた。
『ふ……不安なんだ。優希が何か巻き込まれるんじゃないかって。嫌な予感がして……。怖い。怖くて怖くて堪らない。どうしよう。取り返しのつかない事になったら。俺のせいで……。なあ。頼むから、優希だけは、あの子だけは』

 ミツとハルの父親が、父さんにキスをした。

「えっ?」

 目の前の光景が理解できなかった。

「えっ?」
 
『大丈夫だ。俺がいるから』
『でも』
『そのときはそのときだ。考えたところで、どうしようもないだろ』
『分かってはいるけど……』
『俺に任せろ』
 父が力なく頷くと、彼らの父親は心底愛おしそうに微笑んだ。
『嫌なこと、全部俺が忘れさせてやるからな』
 父のシャツのボタンに手をかけ、上から順番に外し始める。

 そして――。

「えっ……あっ……う、ぁ……うわああああっ‼」
 嫌だ嫌だ嫌だ!
 何で? 父さん、何で?
 次から次へと涙が溢れ始め、俺の頬を濡らしていく。
「あははっ。これは想像以上に見応えがあるね」
 隣でハルが笑いながら、賞賛するかのように手を叩いた。
 両手で耳を塞いでも、音は完全には消えない。
 いつも俺に優しく話しかけるのと同じ声が、途切れず耳に入ってくる。
「止めろっっ。今すぐ止めてくれっっ」
 丸くなり俺は叫んだが、すぐ隣のパソコンから流れる音声は一向に止まりそうにない。
「何で止めねぇんだよっ。嫌だっ。もう聞きたくないっっ」
 ぎゅっと両耳を押さえつけるも、頭の中に流れ込んでくる。
 父が一際甲高い声で鳴いた。
「だから止めろって言ってんだろっっ」
 俺は弾かれたように、ミツに掴みかかろうとした。
「わっ」
「おっと。そうはいかない」
 しかし、後ろからハルに羽交い締めにされ、パソコンを取り上げる事はできなかった。
「私の可愛いミツに暴力を振るおうだなんて、許さないよ」
「離せっっ。離せよっ」
 その隙に、ミツはぎゅっと大事そうにパソコンを抱き締めると、ソファから立ち上がりハルの近くに移動した。
「逃げんなっ。ミツっ」
 必死に首を後ろに回し怒鳴りつけると、ミツはビクッと身体を縮め、隠れるようにハルの後ろに回る。そして、そろりと顔を覗かせ、じっと俺を見つめてきた。
「ミツ。加勢」
「うん」
 コクリと頷くと、パソコンをベッドの上に置き、ソファの上で暴れる俺の近くに寄ってきた。
「来るなっ」
「えっと……脚を持てばいいのかな」
「上に乗ってしまえ」
「そっか」
 ミツが俺の上に乗ろうとするので、めちゃくちゃに脚を振り回す。
「ハル。難しいよ」
「大縄跳びみたいにタイミングを測ればいい」
「えー」
「来るなっ」
 蹴り上げようとした脚をひょいと躱され、腹を押された。呻んだ隙にミツが乗ってくる。
「降りろっ」
 ミツは静かに俺を見下ろす。
「今日は、どれくらいやっているのかな」
「さぁね。久しぶりの逢瀬だから、相当長いんじゃないか」
「それまで、僕こうしてないとダメなの?」
「それは彼次第かな」
「何お前ら呑気に喋ってんだよっ。自分たちが何してるのか分かってんのかっ⁉」
 ミツはきょとんとし、俺から視線を少し横に逸らした。おそらく、ハルと目を合わせているのだろう。
 数秒の沈黙が訪れた後、二人同時に笑い出した。
 泣き叫ぶ俺を二人がかりで押さえつけながら、ないしょ話をする子供みたいに笑っている。
「何、笑ってんだよ……」
「ふふっ、すまないね。分かりきった事を聞くものだから」
「僕たち、今年で十七歳だよ。そのくらい分かってるって」
「互いの父親同士の不倫現場を見せ、聞かせている。これで満足かな」
「なっ……」
「僕はもう見飽きたけどね」
「私は未だに新鮮な気持ちで観ているよ。まぁ、確かに毎回画角は同じだし、内容も変わり映えしないがね」
 退屈そうに言いやがる。
「けれど、今回は違う」
 突然熱のこもった声と共に顔を覗かれ、俺の口から情けなくも小さな悲鳴が漏れた。
「君という最高の主役がいる。ミツから最初に話を聞いたときはあまり唆られなかったが、まさかこんなにも素晴らしいだなんて……。もっと見せてくれないか?」
「はあ?」
 ハルの目が見たことない程に輝いている。
 主役?
 見せろ?
 こいつは何を言ってるんだ?
「ハル、楽しそう」
「当たり前だろう? 敬愛する父の裏切り。崩壊する世界。枯れるまで涙を流す主人公……。しかも作り物じゃなく、本物! 私自身が演出して鑑賞もできる」
 恍惚として話し続ける姿は、狂っているとしか言いようがなかった。
「ミツ。お前はどうなんだ」
「僕? うーん」
 ミツは可愛らしく人差し指を唇に当て、ぼんやり斜め上を見る。隣室から父たちの艷やかな声が流れ続け、俺は二人がかりで押さえつけられているのに、いつもと同じ幼い表情をしている。
「満足してる」
 憑き物が落ちたような笑顔だった。
「父さんは先生しか見ないし、それで母さんはおかしくなっちゃった。それなのにユウは幸せそうで、僕、許せなかった」
 身に覚えのない罪を挙げられ、心臓が忙しなくなる。
 そんなこと言われても、俺にはどうしようもないだろ。
 お前が父親に傷つけられたツケを、どうして俺が払うんだ。
 そう言いたかった。
 けれども、ミツの静かな怒りを前に言葉が出ない。
「でも、これでもう、ユウは僕たちと同じ。やっと、あるべき状態になった」
 俺の頬にそっと優しく手を添えた。
「ミツ……?」
「ユウは優しいし、僕のこと見てくれるから、好き。だから、こっち側に来てくれて嬉しい」
 無邪気に笑うものだから、俺の身体から力が抜けていった。
 ああ、俺が泣こうが暴れようが、隣の部屋にいる父さんにも、今目の前にいるコイツらにも届かないんだな。
「あれっ。おとなしくなった」
「油断するんじゃないぞ、ミツ。突然噛みついてくるかもしれない」
「怖いね」
「ああ。だから、もう少し待とう。きっと今、彼の中で何かが変化しているだろうからね」
「変化?」
「ちょっと一気にショックを与えすぎてしまったようだ。『気持ちの整理』って奴だよ」
「へぇ。それまで暇だね。何して待つ?」
「そうだね……。では、ここまでのあらすじなんてどうだろう。きっと、彼は気になっているだろうから」
「ちゃんと頭に入るのかな」
 ミツは親指で俺の涙を拭うと、瞳を覗き込んできた。
「聞いてそう」
「じゃあ、語るとするか。真相を暴くときは、『さて』と始めに言うのがマナーだよ」
「ふーん」
「さて、我らが主人公、京本優希くんは現在恐慌状態にあるわけだが、その運命は、この世に生を受けた瞬間から定められていた……」
「おー。確かにそれっぽいかも」
 ミツが俺の上でぱちぱちと拍手する。
「あるところに愛し合う二人の男がいた。しかし、二人とも悲しき家制度の奴隷。結ばれる事は許されなかった。そこで彼らは運命に抗うことにしたのだ、そうっ! 妻をもらった後も幾度となく逢瀬を重ね、互いを求め合った」
「ただの不倫じゃん」
「やがて子が生まれるが、それを二人の子にしようとした。生物の限界、家族という社会、これらを捻じ曲げ世界を創造する禁忌。そして、自分たちの名前からとったのさ。加賀美悠星と、京本洋紀。ゆうせい、ひろき」
 ゆうき、だ。
 全身の毛穴が開くような気がした。
『優希にはな、優しくて、希望に満ち溢れた人生を送ってほしいから、父さんはそう名付けたんだぞ』
 あれ、嘘だったんだ。
「君はあの二人の子供だ」
 俺は、あの二人の。
「僕たちは分裂していたから助かったよ。どっちも名前の最後に『き』が入ってるし、悠星の『星』にちなんで太陽と月が入れられてるけど、ゆうきよりはマシだよね」
「だから、私たちは互いを『ハル』『ミツ』と呼ぶのさ。最後の『き』の部分が気色悪いからね」
 マシ……。
 気色悪い……。
「ユウ、ごめんね。ユウの名前はどう足掻いてもどっちかの名前が入っちゃうから。でも、僕はユウのこと仲間だと思っているから、『ユウ』って呼ぶことにしたんだ」
「ミツは何て心優しいのだろうね」
 弟の発言に感激したようなハルの声がどこか遠く聞こえる。俺にとっては絶望でしかないのに、コイツらにとっては優しさらしい。
 知りたくもない事を無理やり知らされ、その上、感謝まで求められる。こんなの、暴力以外の何でもない。
「いつから……」
「あっ。ユウが喋った」
「いつから……俺のこと……」
「一年のときだよ」
「一年……」
「うん。京本優希って名前と、あと何となく京本先生に似ていたから」
「京本先生……」
「ミツ。情報量が多くて、今のユウには処理できない」
 指摘され、ミツは「あっ、そっか」ととぼけた声を上げた。
「えっと、一年のときにユウを見つけて、どうしたら父さんたちの不倫現場を見せられるか考えた。それで、同じクラスになって友達になればいいって思いついたんだ」
「そのため、私たちは文系に進んだのさ。君は二年から文系に進むと風の噂で聞いてね」
「文系クラスは三つ。僕たち双子は別々にされる傾向にあるから、賭けにでた」
「幸運の女神は私たちに微笑んだのさ」
 俺は見捨てられたのか。
「じゃあ……最初から」
「そうだよ」
 ミツがにっこりと笑った。
 その姿がぐにゃりと歪んでいく。
 俺は、最初から騙されていたんだ。
 たった二、三か月。
 それでも楽しかった。
 思い出が、全部泥で塗り潰されていく。
 友達ができたと喜んでいた自分が、どうしようもなく馬鹿に思えた。
「でもでも、段々ユウのこと、本当に友達だと思うようになったんだ。本当だよ! 最初は復讐してやるって意気込んでいたけど、同じ苦しみを背負ったら、僕たちはもっとお互いを分かり合って、仲良くなれるんじゃないかなって」
 俺の両手をミツがぎゅっと掴んだ。
「今は苦しいかもしれないけど、頑張って耐えてね。僕、応援してるから」
 その柔らかい笑みと温かな手が気持ち悪い。
 俺は靄がかった頭でミツの綺麗な顔を眺める。
 その目には純粋な慈愛が浮かんでいて、今から手術をするペットに向けるそれを思わせた。
「君の父親は、私たちに生け花を教えに来ていたんだ」
 頃合いを見計らっていたのか、ハルが話し始めた。
「母さんが刃物を振り回して、僕たちと心中しようとしてから来なくなっちゃったけどね」
「し……」
 その先の言葉を続けることはできなかった。
 何でそんな軽く口にできるんだ。
 父親には疎まれ、母親には殺されかけ。
 コイツらにはお互いしかいなかったのか。
「何とか私たちは無傷で済んだけどね。母さんは病院に幽閉されているよ」
 内容とあまりにもかけ離れた明るい声が背後から聞こえてきた。
「終身刑さ」
 ハルは、歌うように言う。
「あんな男を愛してしまった罰だ」
 自分の全身が、カッと燃えるように熱くなった。
「……それ、俺の母さんにも言ってるのか」
「そんなつもりはなかったが、確かにそうなるか」
「ふざけんなっ」
 俺は腕を振り払うと同時に脚を蹴り上げる。上に乗っていたミツがソファの下に転がり落ちていった。
「わっ」
「ミツっ。お前」
 俺は身体を反転させハルに掴みかかると、そのままソファの肘掛けに押し倒した。ハルの顔が痛みで歪む。
「俺の母さんはな、毎日家の事やって、父さんの仕事相手への挨拶や土産選びだってやってる。体調を崩したらつきっきりで看病するし、良い事があれば自分の事みたいに喜ぶ。父さんを大切にしてるんだっ」
 ハルの胸倉を掴みながら、俺は一方的にまくし立てる。
「それのどこがいけないんだっ」
「そこまでした結果が、これか」
「あっ……」
 温度のないその声に、俺の腕から力が抜けた。
 ハルは俺から目を逸らし、隣室の父たちを気怠げに見た。
「生々しくて、気持ち悪いね」
 ぽつりと呟く。
「『愛』と言うらしい」
 俺の中で何かが割れた気がした。
「初めて見たのは小学四年のときだ。私はこの通り賢いからね、一目で理解した。同時に、家庭が壊れている理由にも納得したよ」
 朧気な輪郭を見定めるように、目を細める。
「私たちを壊したあれが何か、知りたい」
「あんなの……あんなの、愛なんかじゃない。愛って、もっと温かくて、柔らかくて、守るものだろ。真逆だ」
「それが君の答えか。でも、私はあれこそが愛だと思う」
 俺を見下すわけでもなく、咎めるわけでもなく、ただ自分の考えを述べたハルの目は吸い込まれるように隣室の光景を見つめている。俺は何も言い返せなくなって同じように隣室へと目をやったが、すぐに視線を床へ落とした。
「ミツ。私の上から彼を退かしてくれ」
「うん」
「……いや、いい。自分で動くから」
 俺はハルの上から移動すると、ソファの中央に座った。近くで突っ立っていたミツはしばらく俺を観察していたが、隣にちょこんと腰掛けた。俺がおとなしく座った理由が分からないのか、不思議そうな顔をしている。
「俺の父さんは、どんな人だった?」
 ミツの顔がパァッと輝いた。
「すごく優しかったよ。毎月一回来てくれていたけど、僕たちのこと褒めてくれたし、お菓子くれたし、頭撫でてくれた」
 ……俺の父さんなのに。
 余所の子にも同じような事してたんだ。
「まぁ、呼びだす口実だったけどね」
 ふわふわと話すミツに釘を差すように、ハルが冷たく言い放つ。
「でも、僕は好きだったよ、ユウのお父さん。先生だけが、僕たちを可愛がってくれたから。だから、来なくなっちゃって寂しい」
「……はん。あんな淫乱な男、いなくなってせいせいする」
「嘘だ。だって、ハルの方が僕より先生、大好きだったじゃん」
「ミツっ」
「あの人が父親だったらいいのにって」
「ミツ」
「はーい」
 悪戯っぽくミツは小さく舌を出した。
「……そっか」
 身体が重くなると同時に、すっと思考が回り始める。
 父さんは、色んな人たちを傷つけている。
 けれども同時に救ってもいた。
 俺たち家族を大切にしてきたのも、裏切っているのも、コイツらの父親に囲われているのも、二人を壊したのも。
 全部、同じ男。
 京本洋紀。
 俺が知らなかっただけで、彼は「俺の父親」なだけではなかった。
 そんなの、当たり前だ。
 それでも、俺の中の父と目の前の男を一人の人間として重ねることはできなかった。
 胸が詰まり、項垂れる。
 両隣に座るコイツらは、俺から平穏な幸福を身勝手にも奪い去った。
 ハルは相変わらず何を考えているのか分からない無表情で俺を見つめ、ミツは俺が隣に座っているのが嬉しいのか、長い脚をぶらぶらと揺らしている。
 そんな楽しげなミツを横目で見た後、俺は顔を両手で覆い、深い溜息をついた。
 これから先、俺はどうしたらいいんだろう。
 父さんに言うべきだろうか。
 言うとしてもどこまで?
 不倫していること。
 相手が男であること。
 現場を見たこと。
 何を言っても、青褪めて凍りつく父の顔しか想像できない。父との関係は決定的に壊れてしまう。
 ベッド上に置き去りにされたパソコンからは、相変わらず耳を塞ぎたくなる音声が垂れ流され続けている。
 そんな中、その息子三人が並んでソファに座っている。
 異常だ。
「ユウ、どうしちゃったんだろう」
「まあ、待っていな」
 両隣から聞こえてくる呑気な会話は、全くこの場にそぐわず、夢の中にいるみたいな気にさせてくる。いっそ全部夢だったらいいのに。
 ああ、でも、これが俺の現実だったんだな。
 枯れ果てたはずの涙が、再び俺の目から流れ始めた。
「また泣いちゃった。どうしよう」
「どうしようもないさ。余計な手出しをしたら、綺麗に羽化できない」
「そういえば、僕が育てていたカブトムシ、心配で何回も瓶を持ち上げて覗いていたら羽根が歪んじゃったな。あれ、可哀想だった」
「だから、待つことが大事なんだよ」
「そうだね」
 黙れ。誰がカブトムシだ。
 自分の口から嗚咽が漏れ、顔も頭も心もぐちゃぐちゃ。
 今まで幸せだったツケを、突然強制的に支払わされたようなものだ。それも、法外な利息つき。
 ふざけんな。
 何で、よりにもよって俺なんだよ。
 俺、何か悪いことしたか?
 はーっと震える息を吐き出し、ゆっくり深く息を吸い込む。
 正直言って、父が気持ち悪い。
 俺たちを裏切っていた事も憎くて仕方ない。

 でも、俺、父さんのこと嫌いになれない……。

 だって、父さんの俺への愛情は本物。
 コイツらの父親に対しても、俺だけは何とか守ろうと抵抗していた。俺のことで一喜一憂して、仕事の合間にも遊んでくれた。学校で何があったか毎日聞きたがって、いつだって応援してくれた。
 俺は顔を上げると、真っ直ぐに前を見た。
 京本洋紀は、恍惚とした顔で男の背に腕を回している。熱っぽく潤んだ瞳にはその男しか映っておらず、譫言のようにその男の名前を口にしている。
 息子も、妻も、綺麗さっぱり忘れてしまっているようだ。
 これが本当の「彼」?
 その男に抱かれる事こそが幸福とでも言うような姿に、敗北感を覚えた。
 あの男への愛情も、きっと本物。
 吐き気が込み上げてきた。
「ぅ゙っ」
 俺は咄嗟に手を自分の口に当てた。
「あっ」
 ミツが素早くズボンのポケットからビニール袋を取り出して広げ、俺に渡してきた。俺は袋を受け取ると、中に嘔吐した。酸っぱい味と臭いが広がり、袋に顔を突っ込んだまま荒い息を繰り返す。惨めな気分だった。
「持っておいてよかった。きっと吐いちゃうと思ったんだよね」
「意外と持ち堪えていて驚いたよ。でも、やっぱダメだったか。あははっ。このソファは私のお気に入りなんだ。汚れずに済んだ」
 嘲笑う声に腸が煮えくりかえる思いがした。
 今すぐにでも殴りつけてやりたいが、そんな元気はもうなかった。
 胃の中を空っぽにしたくて、俺は前のめりになり再度嘔吐を試みる。けれども、喉の奥あたりまで上ってくるのに最後の一線を越える事ができず、徒に喉が酸で焼かれて苦しい。
「手伝ってあげよう」
 ハルは俺の後頭部を掴むと、口の中に指を突っ込んできた。
 頭を振って拒絶するも、喉奥まで差し込まれる。
 強烈な嘔吐反射に、胃の中のものが一気に込み上げた。
「ぁ゙」
「おっと」
 ハルが指を引き抜くと、俺は盛大に嘔吐した。一度吐いても止まらず、二度、三度と繰り返す。頭がくらくらして、もう何が何だか分からない。
 胃の中のものを吐ききった俺はしばらくぼんやりしていたが、やがて袋から顔を離すと、手が自動的に袋の両端を結び処理をし始めた。
「換気するか」
 立ち上がったハルはベッドに向かい、パソコンの音声を消した。部屋が突然静かになり、俺は自分の身体を少し揺する。ハルは窓辺に向かい、窓を開けた。
 雨上がりの冷たい空気が入り込み、髪を揺らす。
 澄んだ空気を吸い込んだ。
 空には、少し欠けた月が浮かんでいる。
 綺麗だと思った。
「今日はもうお家に帰りな」
「えっ?」
「体調が悪くなったと言えばいい。でも、駅までは自分の足で帰るのが賢明だね」
「何で……」
「おや、予定通り今日も泊まるつもりだったのかい。親子揃って朝帰りなんてふしだらだね」
「……」
「それに、お家の方にここまで迎えに来てもらうと、気づかれてしまうかもしれないからね。今日、君の父親はうちに来るとご家族に言っていたのかな」

『今日は遠方で講習会があるから、近くのホテルにでも泊まってくるよ』

「あっ……」
 父さんは、そう言ったとき、普通の顔をしていた。
 今までも、そうやって嘘をついて逢ってたんだ。
 動かなくなってしまった俺を見てハルは薄っすら微笑むと、窓辺からこちらに歩み寄ってきた。そして、俺の肩にぽんと片手を置く。
「一階の洗面所に行こう。口をゆすいだ方がいい。ミツ、彼の荷物を」
「うん」
 ミツはソファから立ち上がると、部屋の隅に置かれていた俺のバッグを手に戻ってきた。ハルが「行こうか」と俺の腕を掴んで引っ張り上げようとしてくる。
「これ……」
 俺は自分の吐瀉物が入った袋を掴んで持ち上げると、恐る恐るハルを見た。
「ああ。床に置いといていいよ。後で私が処理しておくから」
「……分かった」
 袋を床にそっと置くと、ハルは頷いた。
「よし。バレないようにしなければ。二人とも、足音を立てないように」
「はーい」
「……ああ」
 人差し指を唇に当てたハルの仕草も、小声で元気よく手を上げ返事をするミツの仕草も、どこか子供っぽくて、俺はこんな奴らに壊されてしまったのかと悲しくなった。
 ハルはそっと扉を開くと、俺の腕を掴んだまま廊下へ出た。とぼとぼ項垂れて歩く俺の後ろを、鞄を持ったミツがついてくる。階段を三階から二階、二階から一階へと降りていく度に、自分が底に沈んでいくような気がした。一階につくと、ハルは俺を洗面所へと連れていく。
「ゆすぎな。コップは使うかな?」
「……いや、いい」
「そうかい」
 俺はハルの申し出を断ると、水道の水を両手で受け止め、口に含んでゆすいだ。水を口から出すと、同じ行動を繰り返す。口の中は幾分かマシになったが、気分はまったく晴れなかった。腕で口を拭くと、洗面所の外で待っていたミツから無言でバッグをひったくった。ミツは驚いたように目をぱちぱちさせ、どこかへ行った。
 玄関の靴箱から自分の靴を取り出して履き、扉を開けた。
「ユウ」
 振り向くと、ミツが手に何かを持って立っていた。
「はい、これ」
 笑顔で手渡されたそれを反射的に受け取ると、高そうなクッキー缶だった。
「お土産。家で食べてね」
「は?」
 思わずミツの顔を見上げた。
「夕食全部吐いちゃったでしょ。お腹空いていると思うし、ちょうどよかった。ここのクッキー美味しいから、ユウも気に入ると思う」
「え? 何で……」
 泣いている俺を押さえつけて、吐かせたのに?
 ミツは笑顔を浮かべている。
 そっか。俺の気持ち、分からないんだな。
「いや……ありがと……」
 俺が礼を言うと、ミツはにっこりと笑った。
「これだから、この子は怖いねぇ」
 隣に立つハルが、にやにやと俺を見た。こいつはミツの保護者面をするくせに、肝心の事は何も教えていないのだろう。
「……じゃあ」
「主人公くん、今日はありがとう。楽しかったよ」
「ユウ、また学校でね」
 二人が手を振った。
 俺は手を振り返さず、扉を閉めた。
 外に出ると、空はすっかり暗くなっていて、瞬く星が綺麗だった。丁寧に舗装された石畳の上を、門へと真っ直ぐ歩く。歩きながら、ミツにもらったクッキー缶をバッグに押し込んだ。重厚な門を押し開き道路に出ると、俺は電話をかける。
「もしもし、松下さん? うん。ちょっと体調悪くなっちゃってさ。いいよ、ここまで迎えに来なくても。電車乗ったら、三、四十分くらいでそっち着くと思うから。うん。ありがとう」
 通話を切ると、溜息をついた。
 イヤホンを耳に押し込み、いつものプレイリストを流すと、何度も聴いた歌詞とメロディーを必死になぞる。今日の事が浮かびそうになる度、SNSを開いて興味もない投稿を眺めた。気づけば電車に乗っていた。
 身体に染み付いた動作。
 土曜の夜にもかかわらず端の席が空いていたので、座って隅に押し込めるように身体を小さくする。
 ひたすら、自分の靴を見つめた。
 駅に着き出口に向かうと、松下さんの車が止まっていた。俺の姿を認めるとウインドウが下がる。
「坊っちゃん。お身体は大丈夫ですか?」
「……ああ、うん。ちょっと横になればよくなると思うから」
「皆様、ご心配なさっておりますよ」
「うん……」
 俺は後部座席に乗り込みシートベルトを着けると、目を閉じた。着けっぱなしのイヤホンからは歌が鳴り続けている。車が発進する振動を感じた。
 それから数分もすると家に着いた。玄関に上がると、母さんが慌てて駆けつけてくる。
「どうしたの? 優希」
「母さん……」
 心配そうな姿に胸が苦しくなる。
「熱はある?」
「ない……。ちょっと気分悪いだけ……」
「ご飯食べてきたんだっけ?」
「うん……」
「お風呂入れる?」
「うん……」
「じゃあ、お風呂から上がったら、栄養ドリンクとお薬飲んで寝ちゃいなさい」
「うん……。ごめん……」
「何言ってんの、この子ったら。病人が謝る必要なんてないの」
「……」
 母さんの優しさが辛くて仕方ない。もう、まともに母さんを見られないかもしれない。それもこれも全部あいつらのせいだ。
 バッグを握る手に力が入った。
「あっ、そうだ」
 クッキー……。
 うっかりもらってきてしまったが、こんな記念品を自分の部屋に持ち込みたくはなかった。
「これ……」
 俺はバッグの中からクッキー缶を取り出すと、母さんに手渡した。
「あら。これ、どうしたの?」
「……お土産にって」
「まぁ。加賀美さんの所の子が? ここのクッキー、一時間は並ばないと買えないのよ。申し訳ないわ、ちゃんとお礼言ったの?」
「うん……」
「もともとうちが泊めてもらう予定だったのに、こんな良いお土産なんて貰っちゃって。次遊びに行くときは、何か持って行かなくっちゃね」
「そうだね……」
「本当に体調悪そうね。ほら、鞄置いてとっととお風呂入ってきちゃいなさい。シャワーだけでいいから」
「うん……」
 自室へ向かう途中、俺は振り向いた。
「……今日、父さんは?」
「え? 今日は講習会に行ってそのまま泊まってくるって言っていたでしょう。忘れちゃったの?」
 やっぱり、母さんは何も知らないんだ。
「……そっか。……そうだった、忘れてた」
「着替え、後で持っていくから」
 
「ごめん……」

 母さん。俺、どうすればいい?